造反
 

至徳元載(756)  永王リンが造反する。 

 至徳二載(757)正月、丙寅、剣南兵の賈秀等五千人が造反した。将軍席元慶、臨工(「工/里」)太守柳奕が討って、これを誅した。 

 同月、河西兵馬使蓋庭倫と武威九姓の商胡安門物等が節度使周泌を殺し、六万人の群衆をかき集めた。武威は大城の中に、小城が七つあった。胡はその五つまで占拠したが、残る二つは堅守した。
 支度判官崔称と中使劉日新が二城の兵で攻め、十七日で平定した。 

 六月、南充の土豪何滔が乱を作り、本部防禦使楊斉魯を捕らえる。剣南節度使盧元裕が兵を発して、これを討平した。 

 七月戊申夜、蜀郡の兵郭千仞等が造反した。六軍兵馬使陳玄禮、剣南節度使李亘がこれを討って誅する。 

 乾元元年(758)三月、鎮西、北庭行営節度使李嗣業が河内へ屯営する。癸巳、北庭兵馬使王惟良が造反を謀った。嗣業と裨将茘非元禮が、これを討って誅する。
 六月、開府儀同三司李嗣業を懐州刺史として、鎮西、北庭行営節度使に充てた。 

 二年四月、史思明が大燕皇帝と自称する。 

 八月乙巳、襄州の将康楚元、張嘉延が州にて兵乱を起こした。 

 上元元年(760)三月、襄州の将張維謹(本当は王偏)、曹介(「王/介」)が、節度使の歳(「歳/羽」)を殺し、州に據って造反した。
 制を下して隴州刺史韋倫を山南東道節度使とする。
 この時、李輔国が専横し、節度使は皆、彼の門下から出ていた。しかし倫は、朝廷で叙任されても、輔国へ謁見しなかった。それで、秦州防禦使に改められる。代わりに陜西節度使来眞(「王/眞」)を山南東道節度使とする。
 眞が襄州へ到着すると、張維謹等は、皆、降伏した。
 十二月、賊帥郭音(「心/音」)等が諸キョウ、胡を率いて秦隴節度使韋倫を破り、監軍使を殺す。(これ以後の続報は、記載されていません。) 

  同年、劉展が乱を起こした。 

 二年四月壬午、梓州刺史段子璋が造反する。
子璋は驍勇で、上皇に随従して蜀にて功績を建てた。東川節度使李奐がこれを替えるよう奏したので、子璋は挙兵して綿州にて奐を襲撃しようとした。
 途中、遂州を通過すると、カク王巨が郡の官吏を正装させてこれを迎えた。子璋は、これを殺す。
 李奐は戦って敗れ、成都へ逃げる。
 子璋は梁王と自称し、黄龍と改元する。綿州を龍安府と改称し、百官を設置する。また、剣州を落とす。
五月乙未、西川節度使崔光遠と東川節度使李奐が、共に綿州を攻めた。
 庚子、これを抜き、段子璋を斬る。 

 寶應元年(762)二月、河東節度使の将兵達が乱を起こした。 

 二月乙丑、絳州にて王元振が乱を作った。

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