康楚元
 

八月乙巳、襄州の将康楚元、張嘉延が州にて兵乱を起こした。刺史の王政は荊州へ逃げる。楚元は南楚覇王と自称した。(「南楚の覇王」は、項羽が自称した称号だ!「新唐書」では「南楚義王」と記されている。)
 戊午、将軍曹日昇を襄州へ派遣して、康楚元を慰諭した。王政を饒州長史へ降格し、司農少卿張光奇を襄州刺史とする。しかし、楚元は従わなかった。
 九月甲午、張嘉延が荊州を襲撃して、破る。荊南節度使杜鴻漸は城を棄てて逃げる。豊(「水/豊」)、朗、郢、夾(「山/夾」)、帰等の官吏は、これを聞いて争って山谷へ逃げ隠れた。
 康楚元等の衆は万余人にまで膨れ上がった。
 商州刺史充荊、襄等道租庸使の韋倫が兵を発して、これを討つ。彼は、トウの境に駐屯し、投降する者を招諭して、厚く慰撫した。そして、賊軍の志気が阻喪するのを見て、進軍して攻撃する。楚元を生け捕りにすると、その衆は遂に潰れた。彼等が掠めた租庸二百万緡を収める。荊、襄は皆平定した。
 倫は見素の従弟である。
 十二月乙巳、韋倫が康楚元を闕へ送った。これを斬る。