劉展
 

 御史中丞李銑、宋州刺史劉展を、共に淮西節度副使とする。
 銑は貪欲暴虐な無法者。展は強情で自分を曲げなかったから、大半の上司から憎まれていた。節度使王仲昇は、まず銑の罪状を上奏して、これを誅殺した。
 この頃、童謡が流行った。その一節に、
「手に金刀を執り、東方に起つ。(手執金刀起東方)」
 とあった。
 仲昇は、監軍使内左常侍ケイ延恩を派遣して、入奏した。
「展は偏屈者で命令を聞かず、姓名は、流行歌に符合してます。これを除かせてください。」
 延恩は、更に上へ説いて言った。
銑と展は一体です。今、銑を誅殺しました。展は不安になっています。これを早く去らなければ、乱を起こしかねません。しかし、展は強兵を握っていますから、計略を以て去るべきです。まず、展を江淮都統へ任命し、李亘(「山/亘」)と交代させてください。彼が鎮へ赴く途中で捕らえれば、これは一夫の力でできます。」
 上は、これに従う。展を都統淮南東、江南西、浙西三道節度使とする。
 延恩を使者として、制書を展へ授けた。展は、これを疑って、言った。
「展は陳留参軍から、数年で刺史となった。これでも異例の出世だ。江、淮は租賦の出所で、今の重要な地方。展には勲労もなく、親賢でもない。それなのに、恩寵を蒙ってここまで抜擢されるとは、これは讒言する人間のしわざではないか。」
 そして、泣き崩れた。延恩は懼れ、言った。
「公にはもともと才望があった。主上は江淮を憂えていたので、公を用いるのだ。それなのに、公は却って疑う。どうしてだ?」
「これが謀略でなかったら、印節を先に貰えますか?」
「宜しい。」
 こうして延恩は廣陵へ駆けつけて、亘と謀略を練り、亘の印節を解いて展へ授けた。展は印節を得ると、上表して聖恩へ感謝し、江、淮の親旧へ牒を回して自分の腹心とし、三道の官属を派遣して迎賀させ、図籍を申して道筋にズラリと並べさせた。その上で、展は宋州兵七千を挙げて廣陵へ赴いた。
 延恩は、展へ計略がばれたと悟り、廣陵へ逃げ帰ると、亘、トウ景山と共に兵を発してこれを拒んだ。州県へ檄を飛ばし、展が造反したと言う。展もまた、檄を飛ばして、亘が造反したと言った。州県は、どちらに従えばよいか判らなかった。
 亘は兵を率いて江を渡り、副使の潤州刺史韋カン、浙西節度使侯令儀と京口へ屯営し、トウ景山は万人を率いて徐城へ屯営した。
 展にはもともと威名があり、軍の指揮は厳整だった。江、淮の人々は、風聞に畏れた。
 展は道を急いで先に到着し、使者を出して景山へ問うた。
「我は、詔書を奉じて鎮へ赴いたのだ。この兵はどういうつもりか?」
 景山は答えなかった。
 展は、陣の前で、部下へ叫ばせた。
「お前達は、皆、我が民だ。我が旗鼓を犯すな。」
 そして麾下の将孫待封、張法雷にこれを攻撃させた。景山の衆は潰れ、延恩と共に壽州へ逃げた。
 展は兵を率いて廣陵へ入り、麾下の将屈突孝標へ三千の兵を与えて濠、楚を巡回させ、王恒(「口/恒」)へ四世の兵を与えて淮西を攻略させた。
 李亘は、北固を拓いて兵場とし、木を植えて江口を塞ぐ。展は白沙に布陣した。そして、瓜洲へ疑兵を設け、そこに連日篝火や軍鼓を多数置いて、そちらから北固へ向かうように見せかけた。
 亘は、精鋭兵を総動員して京口を守り、待ち受けた。対して展は上流から渡り、下蜀を襲った。亘軍は、これを聞くと自ら潰れ、亘は宣白へ逃げた。
 十一月甲午、展は潤州を落とす。
 昇州の軍士一万五千が展へ呼応して金陵城を攻め、勝てずに逃げる。
 侯令儀は懼れ、兵馬使の姜昌群へ後事を授けて城を棄てて逃げる。昌群は麾下の将宗犀を展のもとへ派遣して、降伏した。
 丙申、展は昇州を落とし、宗犀を潤州司馬、丹楊軍使とする。昌群へ昇州を領有させ、義子の伯瑛に、これを補佐させる。
 李亘が潤州を去ると、副使李藏用が亘へ言った。
「人から高い地位を貰い、人の禄を食べながら、艱難に臨んで逃げ出すのは、忠ではありません。数十州の兵食と、三江、五湖の険固がありながら、一発の矢も射ないでこれを棄てるのでは勇がありません。忠と勇を失って、何を以て主君へ仕えるのですか!藏用が敗残兵をかき集めて全力で拒戦することを許してください。」
 亘は、後事を全て藏用へ授ける。藏用は、敗残兵をかき集めて七百人を得た。東へ行き、蘇州にて募兵して、二千人を得る。そこで、柵を立てて劉展を拒んだ。
 展は、麾下の将傅子昴、宗犀へ宣州を攻めさせた。宣歙節度使鄭Q之は城を棄てて逃げる。李亘は、其(「水/其」)州へ逃げた。
 李藏用は、郁墅にて展の将張景超、孫待封と戦い、敗北して杭州へ逃げた。景超は遂に蘇州を占拠し、待封は進んで湖州を落とす。展は、麾下の将許沢(「本当は山偏」)を潤州刺史、李可封を常州刺史、楊持璧を蘇州刺史、待封を領湖州事とした。
 景超は進んで杭州へ迫る。藏用は麾下の将温晁を餘杭へ布陣させる。展は、李晃を泗州刺史、宗犀を宣州刺史とした。
 傅子昴は、南陵へ屯営し、江州へ下って江西へ向かおうとした。ここに於いて、屈突孝標は濠、楚州を落とし、王恒は舒、和、除(「水/除」)、盧(「广/盧」)等の州を落とす。向かうところは次々と降伏し、兵万人と騎馬三千を集め、江、淮の間を横行する。だが、壽州刺史崔昭が、兵を発してこれを拒んだ。これによって恒は西進できず、盧州へ留まった。
 初め、上は平盧兵馬使田神功へ、麾下の精兵五千を率いて任城へ駐屯するよう命じていた。トウ景山が敗北すると、ケイ延恩と共に神功へ敕を下して江南を救援させるよう請うた。まだ返事が来ないうちに、景山は神功のもとへ使者を派遣し、淮南の金帛子女を賄賂として贈ることを許した。神功とその麾下の兵卒は、皆、喜び、全員で南下した。彼等が彭城へ着いた時、神功へ展を討つよう敕が下った。
 展は、これを聞いて始めて懼れた。廣陵から兵八千を率いてこれを拒み、精兵二千を選んで淮を渡る。都梁山にて神功を撃ったが、敗北し、展は天長まで逃げた。ここで五百騎で橋に據り拒戦したが、また敗れた。展はただ一騎と共に逃げて淮を渡る。
 神功は廣陵へ入ろうとして楚州まで行くと、大いに掠奪する。殺した商胡は千を数えた。城中の地面はほとんど掘り返された。
 上元二年(761)正月、張景超が兵を率いて杭州を攻めた。石夷門にて李藏用の将李彊を敗る。
 孫待封は武康から南へ出る。景超と合流して杭州を攻撃しようとしたが、温晁が険に據ってこれを撃ち、敗る。待封は単身脱出し、烏程へ逃げる。李可封は、常州を以て降伏した。
 丁未、田神功は特進楊恵元等千五百人を西進させ、王恒を討たせた。
 辛亥の夜、神功はまず特進范知新等へ四千人を与えて、白沙から渡らせ、下蜀へ向かって西進させた。
 トウ景山は千人を率いて海陵から渡り、東進して常州へ向かった。
 神功とケイ延恩は三千人で瓜洲へ宿営し、壬子、江を渡る。
 展は歩騎万余を率いて 山へ布陣する。
 神功は兵を船に乗せて金山へ向かうが、大風にあって、五艘の船が金山の下へ流れ着く。展は二船を屠り、三船を沈める。神功は江を渡れずに、瓜洲まで退却する。
 展は、范知新等の兵が下蜀まで来たのを知り、これを撃ったけれども勝てなかった。
 展の弟の殷は、兵を率いて海へ逃れ、年月を引き延ばすよう勧めたが、展は言った。
「もしも事が成らないのなら、なんで大勢の父子を殺す必要があるのか!死ぬのが遅いか早いかだけではないか!」
 遂に、衆を率いて力戦した。
 将軍賈隠林が展を射ると、目に当たり、展は倒れた。遂に、これを斬る。劉殷、許沢も、この戦いで死んだ。隠林は滑州の人間である。
 楊恵元等は、淮南にて王恒を撃破した。恒は兵を率いて東へ逃げる。常熟まで逃げて、降伏した。
 孫待封は李藏用のもとへやって来て、降伏した。
 張景超は兵をかき集め、七千人の勢力となっていた。展が死んだと聞くと、全ての兵を張法雷へ与えて、杭州を攻撃させ、景超自身は海へ逃げた。法雷が杭州へ来ると、李藏用がこれを撃破し、残党は悉く平定した。
 平盧軍は、十余日も大掠奪を行った。
 安史の乱でも、江、淮へは兵乱は及ばなかったが、ここに至って、その民は始めて荼毒を蒙った。
 江淮都統李亘は、守りきれなかった罪を畏れ、浙江節度使侯令儀へその咎を押しつけた。
 六月丙子、令儀は有罪となり、除名され、康州へ長く流される。
 田神功へ開府儀同三司を加え、徐州刺史へ移す。李亘とトウ景山は京師へ呼び戻す。
 十月。江淮都統崔圓が、李藏用を楚州刺史とした。
 さて、劉展の乱によって、諸州が倉庫の物を勝手に使ったので、支度租庸使は、現物と帳簿を照会することを請うた。
 この頃、突然の募兵が起こったり、多くの物が散亡したりで、帳簿と照らして現物が不足した場合には、往々にして諸将が資産を売ってこれを賠償していた。
 藏用は、それが自分に及ぶことを恐れ、人と話した時、非常に恨み言を述べた。彼の麾下の牙将高幹は、藏用に古い怨みがあったので、廣陵へ人を派遣して、藏用が造反していると告発し、先手を打ってこれを襲った。藏用は逃げたが、幹は追いかけて、斬った。
 崔圓は遂に、帳簿の違いを全て藏用の罪状にしてしまい、将吏へ検分させた。将吏は畏れ、皆して罪状をでっちあげる。ただ、孫待封一人だけは、藏用は造反していないと言った。圓は、彼を引きだして斬るよう命じた。
 ある者が言った。
「貴方も皆と同じように振る舞って生きのびればいいのに、どうしてそうしないのだ!」
 待封は言った。
「我は、初めは劉大夫に従い、詔書を奉じて鎮へ赴いたのだ。それなのに人々は、我が造反したといった。李公は起兵して劉大夫を滅ぼしたのに、今又李公が造反したと言う。このようであれば、誰が造反者よばわりされずに済むのか。どこまで行けば収まるのか!我はたとえ死んでしまおうとも、無罪の者を誣いることはできない。」
 遂に、これを斬る。