河東の兵乱
 
 王思禮が河東節度使となった時、兵糧資材は豊富で、軍用以外にも百万斛の米があったので、五十万斛を京師へ輸送するよう奏請した。
 思禮が死ぬと、管祟嗣が、これに代わった。政治は寛容で、左右を信任したので、数ヶ月の間に財は殆ど尽きてしまい、ただ腐った米万余斛を残すだけとなった。
 上はこれを聞くと、トウ景山と交代させた。
 寶應元年(762)二月、景山が到着すると、出入の検査を行った。将士達の多くは隠匿していたので、皆、懼れた。
 ある裨将が死罪に相当した。諸将は恩赦を請うたが、許さない。弟が、兄に代わって死ぬと申し出たが、許さない。ところが、馬一頭で死罪を贖うと申し出たら、これを許した。
 諸将は怒って言った。
「我等は、馬一頭にも及ばないのか!」
 ついに乱を起こし、癸丑、景山を殺す。
 上は、景山の失政が乱を誘発したとして、乱については糾明せず、使者を派遣して慰諭し、安心させた。
 諸将は、都知兵馬使、代州刺史辛雲京を節度使とするよう請うた。雲京は、張光晟を代州刺史とするよう上奏した。