永王リンの乱 |
永王リンは玄宗の子息である。幼くして母を失ったので、上(蕭宗)から大事に育てられ、いつも抱かれて眠っていた。至徳元載(756)安史の乱で潼関が陥落すると、上皇に従って入蜀する。
上皇は、諸子へ天下を分掌させようとした。諫議大夫高適が不可と諫めたが、上皇は聞かない。リンは領四道節度都使として、江陵を鎮守した。 この頃、江、淮の租賦は江陵へ山積みされていた。リンは勇士数万人を募集し、その費用は日に巨万を要した。 リンは深宮に育ち人事に疎かったが、彼の子息の襄城王ヨウは勇力があり、兵を好んでいた。薛鏐等が彼の為に謀った。 「今、天下は大乱ですが、南方だけは平和で豊かです。リンは四道の兵を握り、数千里の領土に封じられているのですから、金陵に據って、江表を保有するべきです。東晋の故事に倣うのです。」 上はこれを聞いて、蜀へ帰るようリンへ敕を下した。リンは従わない。 江陵長史李見(「山/見」)は病気を理由に辞任して、行在所へ赴いた。上は彼を呼び出して、高適と共にリンの一件を謀らせた。適は江東の利害を陳述し、リンは必ず敗北する根拠も語った。 十二月、淮南節度使を設置し、廣陵等十二軍を領有させ、適をこれに任命した。淮南西道節度使を設置し、汝南等五郡を領有させ、来填をこれに任命した。そして彼等と江東節度使韋陟へ、共にリンを図らせる。 甲辰、永王リンが勝手に兵を率いて東巡した。江へ沿って下り、その軍用は甚だ盛ん。しかし、まだ割拠の陰謀は顕わにしなかった。 呉郡太守兼江南東路采訪使李希言がリンへ書面を送って、勝手に兵を率いて東下した心意を詰った。リンは怒り、兵を分けてその将渾惟明を派遣し、呉郡にて希言を襲撃した。季廣シンは廣陵にて廣陵長史、淮南采訪使李成式を襲撃する。 リンは當塗まで進軍する。希言はその将元景曜及び丹徒太守閻敬之へ兵を与えて派遣し、これを拒む。李成式もまた、その将李承慶を派遣してこれを拒んだ。リンはこれを攻撃し、敬之を斬って血祭りとした。景曜も承慶もリンへ降伏した。江、淮は、震駭する。 高適と来填、韋陟は安陸に結集し、結盟してこれの討伐を衆へ誓った。 二年二月、李成式は河北招討使李銑と兵を合わせてリンを討った。リンは数千の兵力で、揚子へ布陣する。成式は判官裴茂へ三千の兵力で瓜歩へ布陣させ、旗幟を盛大に張らせて江津へ並べた。リンとその子のヨウは城へ登ってこれを望み、始めて懼れた。
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