王元振の乱
 
 絳州はもともと蓄えがなかった。民間が飢饉で、租庸の徴収もできない。将士への兵糧や棒給も不十分だった。朔方邏諸道行営都統李国貞は、書状で訴えたが、朝廷からは返答がない。軍中に不満が渦巻いた。
 突将の王元振が、乱を作ろうと思い、令をでっちあげて衆へ言った。
「明日、都統の邸宅を改修する。各々工具を持って門にて命令を待て。」
 士卒は皆、怨んで言った。
「朔方の健児が、大工の真似などできるか!」
 二月乙丑、元振は彼等を率いて乱を作り、牙城門を焼いた。国貞は獄へ逃げたが、元振はこれを捕らえ、食事中の士卒の前に置いて言った。
「こいつを食べて、労役の力を付けよう。どうか!」
 国貞は言った。
「邸宅の改修など、事実無根だ。軍の兵糧については、何度も上奏しているが、まだ返答が来ないのだ。それは諸君も知っているだろう。」
 衆は、帰ろうとした。だが、元振は言った。
「今日のことは、もう問答の域ではない!都統が死ななければ、我等が死ぬぞ!」
 ついに、刃を抜いて、これを殺す。
 鎮西、北庭行営兵が、翼城に屯営していたが、彼等も又節度使茘非元禮を殺し、裨将の白孝徳を推戴して節度使とした。朝廷は、事後承諾する。
 絳州の諸軍は掠奪をやめない。朝廷は、太原の反乱軍が賊軍と連合することを憂えた。これは新進の諸将ではとても鎮定できないと考え、辛未、郭子儀を汾陽王、知朔方、河中、北庭、路(「水/路」)沢節度行営兼興平、定国邏軍副元帥とした。京師から絹四万匹、布五万端、米六万石を持ち出して、絳軍へ支給した。
 四月庚寅、子儀の出発間際に、上が不予となり、群臣は誰も謁見できなかった。子儀は請願した。
「老臣は出征命令を受け、外地で死のうとしています。陛下に謁見できなければ、安らかに死ぬことができません。」
 上は、呼び出して寝室へ入れ、言った。
「河東のことは、卿へ一任する。」
 史朝義が、兵を出して、沢州にて李抱玉を包囲した。子儀は、定国軍を動員して、これを救援し、去った。
 同月、蕭宗崩御、代宗が立つ。
 初め、李国貞は軍を厳格に治めた。朔方の将士は楽しまず、皆、郭子儀を思った。だから、王元振がそれに乗じて乱を起こしたのである。子儀の軍が到着すると、元振は、これを自分の功績としたが、子儀は言った。
「お前は賊との境に臨んでいたのに、主将を殺害した。もしも賊軍がこれに乗じたなら、絳州は奪われていたぞ。我は宰相だ。どうして一卒の私心を受けようか!」
 五月庚辰、元振を捕まえ、共謀した四十人と共に、全員を殺した。 辛雲京はこれを聞き、彼も又トウ景山を殺した者数十人を詮議して誅する。
 これによって、河東の諸鎮は皆、法を奉るようになった。
(胡三省、曰く。郭子儀が王元振を誅して、河東の諸鎮は皆法を遵守するようになり、僕固懐恩が河北諸州を分けて田承嗣へ授けて藩鎮の禍を成した。人を用いるのは、よくよく気をつけなければならない。)