鄭の昭公とレイ公
 
(春秋左氏伝) 

 当初、斉侯は、娘の文姜を鄭の太子忽と結婚させようとした。しかし、忽は辞退した。ある人がその理由を聞いたところ、忽は言った。
「斉は大国だから、そこの娘と結婚してはいけない。詩経にも言うではないか。『我から福は得る物ぞ。』と。だから、禍福は自分の努力にこそあるものだ。例え嫁の実家が大国だろうが、そんなことを頼ってはいけない。」
 魯の桓公の六年、戎が斉を伐った。鄭の太子忽が、軍を率いて斉を救い、戎を大いに破った。
 この時、斉侯は、再び縁談を持ち込んだ。しかし、忽は固辞した。すると、祭仲が言った。
「お受けなさい。我が主君(荘公)には内寵が多うございます。子に大きな後ろ盾がなければ、即位できません。」
 しかし、忽はこれに従わなかった。
 戎が撃退された後、諸侯の大夫が斉を護った。斉の人は、彼等の為に家畜や穀物を贈り、魯の人へその順序づけをさせたところ、魯の人は鄭を後回しにした。忽は、自分の戦功に驕っていたのでこれに立腹した。 この為、鄭は衛侯、斉侯と共に魯を攻撃する事となる。四年後のことである。 

 十一年、鄭の荘公が死んだ。祭仲は忽を立てた。これが昭公である。
 ところで、宋の擁(正しくは、にんべんがない。)氏が、一族の娘を荘公へ娶せており、彼女は突を生んでいた。そこで、擁氏は祭仲を誘き寄せて捕らえ、突を立てるように脅迫した。祭仲はこれを承諾し、突を立てた。これが「れい公」である。昭公は、衛へ逃げた。 

 桓公の十五年、鄭では祭仲が専横を極めた。鄭伯(れい公)はこれを憎み、擁糺に、祭仲殺害を命じた。この擁糺は、祭仲の娘婿である。命令を受けた擁糺は宴会を催して祭仲を招いた。ところが、彼の妻がそれに気がつき、母へ尋ねた。
「父と夫と、どちらを大切にするべきでしょうか?」
 すると、母は答えた。
「この世に父はただ一人。しかし、夫など、どこにでも代わりが居ます。」
 そこで、彼女は父へ密告し、擁糺は殺された。祭仲がその屍をさらしものとすると、レイ公はその亡骸を車へ乗せて逃げた。
 その時、レイ公は言った。
「謀略を婦人へ洩らすようなら、殺されたとて仕方がない。」
 祭仲は、再び昭公を立てた。 

 ところで、昔、突は高渠弥を推挙した。忽は彼を嫌っていたので固く諫めたが、荘公は聞かなかった。そんな経緯があったので、昭公が立つと、渠弥はころされるのではないかと不安になった。
 十七年、渠弥は昭公を弑逆して、公子ビを立てた。
 君子は評した。
「昭公は、憎い者をよく見分けていた。」 

 桓公の十八年。斉が衛へ軍隊を動かした。そこで、鄭はビと高渠弥が兵を率いて従軍したが、斉軍は彼等を捕らえて殺した。この出陣の時、祭仲は斉の謀略に気がついて、仮病を使って従軍しなかった。祭仲は昭公の弟の子儀を陳から迎えて立てた。 

 さて、祭仲暗殺に失敗してから逃げ出していた鄭のレイ公は、魯の荘公の十四年、檪から鄭へ入ろうとし、途中で鄭の大夫の傅瑕を捕まえた。すると、傅瑕は言った。
「私を赦して下されば、国へ入れるようにして見せます。」
 そして誓いを立てて釈放された。
 六月、傅瑕は鄭の当主の子儀とその二人の公子を殺してレイ公を引き入れた。
 レイ公は、鄭へ入るとすぐに傅瑕を殺し、更に上大夫の原繁のもとへ使者を派遣して伝えた。
「傅瑕は主君へ対する不忠者だったので、既に罪に伏した。さて、前回寡人が国を出る時、
伯父上は何もしてはくれなかったし、今回寡人が戻ってきたというのに、未だに何もない。非常に残念なことである。」
 すると、原繁は言った。
「いやしくも、社稷の主となった人間へ対しては、国内の民は皆、その臣下です。臣下として、どうして主君を裏切れましょうか。子儀がこの国を治めて、既に十四年になりますのに、他の人間を入れようと考えることこそ不忠ではありませんか。
 それに、荘公様には八人のご子息がおりました。もし、彼等が各々官職をチラつかせて党類を作り、自分を即位させるよう画策したとしましたら、陛下はどうなさるおつもりですか?
 ともあれ、陛下の言われることは判りました。」
 そして、原繁は首をくくった。    

(東莱博議) 

魯、班を為して鄭を後にす 

鄭の太子忽、婚を辞す。 

祭仲、れい(「厂/萬」)公を立つ。'99 8/16更新 

鄭のレイ公、傅瑕と原繁を殺す。