祭仲、れい(「/萬」)公を立つ。(付、楚王子南を殺す。)
 
(春秋左氏伝) 捕捉 

 魯の襄公の二十二年。楚では、令尹の子南に専横な振る舞いがあり、楚王は彼を殺そうと思った。この時、子南の息子の棄疾は王の御士だった。それで楚王は、棄疾を見る度に涙を零した。それを見て、棄疾は言った。
「王は、私を見る度に泣かれます。それが、既に三度も続きました。私が何かしでかしましたでしょうか?」
 すると、王は言った。
「令尹が専横なのは、汝も知っているだろう。いずれ誅殺するつもりなのだ。だが、お前はこのまま仕えていて欲しい。」
 それを聞いて、棄疾は言った。
「父を殺して、その子供を使うなど、君のなさることではありません。ただ、君令を他人に洩らすなど、臣にはできません。」
 子南が殺されると、棄疾は父親の屍を貰い受け、丁寧に埋葬してから首をくくった。 

(博議) 

 君子へは理を告げればそれで事足りるが、衆人へは事実を挙げて立証する。いわゆる一般大衆という連中は、具体的な事実を述べられなければピンと来ないものだから、例証を挙げて説明しないと判らない。だから常人へは、道理だけ語ってもダメなのだ。
 かつて、孟子が言った。
「命を捨ててでも、求めたいものがある。死んでもしたくないことがある。」
 君子が生死の分かれ目に来た時、この言葉を聞けば、それだけで充分自得できる。しかし、常人はそうではない。
 常人にとって、死ぬこと以上に忌まわしいものがあるだろうか?その彼等へ、「『義』というものは、大切なものなのだ。」と言ったとしても、そもそも彼等は「義」が何物なのか知らないのだ。口に唱えて心に思ってみても、まるで清水や空気のように味気ない。その味気ない言葉を聞かせて、彼等を死の恐怖へ立ち向かわせるなど、何とも困難な話ではないか。それよりも、過去の事実を挙げて、「そのような羽目に陥りたくなかったら」と脅しつける方がよい。 

 祭仲は、宋の人間に捕らえられた時、死ぬことができなかった。それは、命よりも大切な物がなかったからだ。だから、彼は殺されるよりは、と、謀反人の名に甘んじた。
 だが、その後数年も経たないうちに、擁糺の謀略に遭遇した。もしも、彼がその運命を数年前に知っていたならば、きっと、「あの時死んでおれば」と後悔したに違いない。
 もしも宋の難に殉じていれば、彼は国に殉じた忠義者。だが、擁糺の事件で死んでしまえば、権勢を振りかざした大悪人である。その評価は天と地ほどにも違いがある。この時になって、「宋の難の時に死んでおけば」と思っても、できはしないのだ。
 その後、昭公の弑逆事件の時にも、命を捨てることができなかった。そう、命以上に大切な物がなかったからだ。だから、殺されるよりは、と弑逆の大罪人を赦してしまった。だが、それから数ヶ月後には殺されてしまうのだ。(この話は、左氏伝にも公羊伝にも記載されていない。)その運命が予知できていたならば、きっと、弑逆事件の時に、命を捨てたに違いない。
 もしも弑逆事件に殉じていれば、彼は逆賊と戦って死んだ忠義者。だが、数ヶ月後に殺されれば、彼は逆賊に媚びへつらった卑怯者である。その評価は天と地ほどにも違いがある。この時になって、「弑逆事件の時に死んであけば」と思っても、できはしないのだ。
 そもそも、一度死んだ人間は、絶対に生き返れない。だが、この時「死んでおけば良かった」と、心底思うに違いないのだから、孟子の言葉は、矯情ではなかったと、立証できる。だから、達観している者はその理を見るけれども、悟っていない者はその事件を見て納得するのである。死に対する処し方が、まだまだである。 

 ただ、祭仲が死に場所を定めるのは、そんなに難しいことではない。主君に殉じ、国に殉じるのは、その職務なのだから。
 これに対して、祭仲の娘はどうだろうか?
 擁糾が祭仲の暗殺を企んだ時、その細君へ語った。しかし、彼の妻は、祭仲の娘なのだ。このような時、娘として、妻として、どのように対処すればよいのか?子南の息子は、その父親を殺すという話を、事前に漏れ聞いていた。息子として、臣下として、どのように対処すればよいのか?
 父と君と夫。これを世間では三綱と称し、どれを大切にするか軽重付けがたいものとされている。それが、祭仲の娘のこの立場にあれば、これを全うすればあれを殺し、あれを生かしたければこれを死の淵へ追いやることとなってしまう。ああ、これこそ天下の至難、だからこそ、君子としてはまずしっかりと釈明して、この時の適宜な処置法を確執しておかねばならぬ事ではないか? 

 いいや、もしもそう言う人間が居たら、私はハッキリ「否」と答えよう。君子ならば、そのようなことは考える必要がないのだ。 

 そもそも、そのような事件に陥ったからこそ、対処しなければならないのだし、対処する為に明確な理が居るのだ。だから、そのような理を確立したとしても、この類の事件に巻き込まれなければ、まるで役に立たないわけだし、まるっきり無用の長物ではないか。
 君子ならば、祭仲の娘のような羽目には、絶対に陥らない。
「国を伐つような事件に関しては、仁人には相談しない。」とゆう言葉があるように、孝行息子へ対してその父親を殺そうと広言する人間など、この世のどこにいるものか!
 容貌穏和で慈愛深く、その空気に触れるだけでも、彼の親を詰ることを心に恥じさせるようになってこそ、君子といえる。ましてや、「お前の親を殺すぞ」という言葉が、どうして口から出せようか。だから、君子が親の危難へ赴いて命を落とすことはあっても、その親を殺そうという陰謀を聞かされることはあり得ないのだ。 

 そもそも、村里で噂話をしている時に、謗っている人間と親しい相手が通りかかったら、たいがい口を塞いでしまうではないか。ましてや親子ならば、これ以上に親しいつき合いなどあるはずがない。だれが好んでこれを告げようか?
 擁糺は、自分の妻を忌むべき相手と考えず、彼女へ相談した。楚王は棄疾を懼れず、彼へ父親暗殺を告げた。楚王は、棄疾の人格に憚るところがなかったので、この言葉を告げたのである。この事態へ陥ったというだけで、彼等の為人が明白である。
 平日の立ち居振る舞いに誠意がなかったので、人の心を動かせなかった。そして禍が起こってしまった時、これを告発すると夫を殺し、告発しなければ父を殺すことになってしまう。右へ行ったら針の山。左へ行っても血の池地獄。 

 君子は、絶対にこのような言葉を聞かない。そして、この言葉を聞かされるような人間は、君子ではない。だから、そんな杞憂に煩う必要はないのだ。
 私が憂うるのは、君子になれないことだけだ。既に君子になってしまえば、このような事態に直面しない。それなのに、今、人々は君子になろうという努力をお座なりにして、この二人の得失を論じ、この事態を未然に防ぐための努力を考えようともしないで、起こった時にどう対処しようかと口角泡を飛ばしている。そんなことは、些末事だ。
 だからこそ、言える。擁姫や棄疾の事は、君子が論じる必要もないことなのだ。 

  

(訳者、曰) 

 擁姫はともかく、棄疾はそんなに非難されるような人間に思えない。それでも非難の対象になるのだろうか?
 棄疾の言葉と行動だけでも君子としては十分だと思える。だからこそ、楚王も胸を痛め、顔に現れたのである。棄疾の仕え方が、日頃忠誠であったからこそ、楚王も平然とはできなかったのではないだろうか?そう考えるなら、この言葉を聞いたことこそが、彼の人格が忠良であることを示している。
 もちろん、もっと君子然とした為人となっていれば、楚王としても、彼の身柄を遠ざけるなどの処置で、事前に洩れないように気を遣っただろう。つまり、一言で言えば「憚らなかった」のである。とはいえ、そこまでの君子となるのは、非常に難しい。 

 儒教では、「礼は身を守る」と言っている。しかし、それはここまで徹底した実践を必要としているのだ。その証拠に、彼等は言っているではないか。「百の礼節を実践しても、一の怠惰が禍を招く。」と。
 例えば身を守る為に無理して礼節を実践しようと考えた人間がいるとしよう。その場合彼は、毎日の些細な事にも気を抜けずに、礼節でがんじがらめにされてしまうことになる。一つでも礼節を実践しなければ、それが原因で禍は招かれるのだから。そうした場合、一生を恙なく暮らせたとしても、その努力を考えるなら、割があったといえるだろうか?
「礼が身を守る」というのが正しいのならば、棄疾は非難されなければならない。だが、そこまで求めるのならば、身を守る為に礼節を遵守するというのは、実に割に合わない努力である。 

 そう考えるならば、儒教というものは、やむにやまざれぬ気持ちに突き動かされて精進し、その結果として禍を逃れられる類のものだ。
 孟子などは、仁義の効能について論説を振りかざしていたが、これらはすべて、「努力していたらそうなった。」というもので、最初からその利益を求めて修養に励んだら、きっと努力したほどの成果が挙がらず、中途で挫折することとなってしまうだろう。