魯、班を為して鄭を後にす |
天下には、為さなければならないことがあり、やってはならないことがある。凡そ、為さなければならない事というのは、全て「常」である。やってはならない事は、全て「過」である。
是と言い、正と言い、善と言う。これらは皆、やらなければならない事である。非と言い、邪と言い、悪と言う。これらは皆、やってはならない事である。事象はごまんとあり、同じ物は一つもないが、この両端から外れる物があるだろうか。 古今より、驕矜を以て通患と為す。そして驕矜になるのは、前述の事を思わないからだ。彼等は、どうして我が身に反観しないのだろうか。 我が行った事は、やってはならない事か? もしもそうならば、愧懼するに暇ない筈だ。どうして他人に誇れようか。 それとも、やらなければならない事か? もしもそうならば、飢えたときに食べ、喉が渇いたときに飲むようなもの。どうして他人へ誇れることだろうか。 他人へ誇るべき事など天下にありはしないのだ。それが判れば、驕矜の心がどうして生まれようか。 もしも、目が見えず耳が聞こえないのならば、それは病人だ。よく目が見えるし耳も聞こえて、普通の人間と言えるのだが、それがどうして誇れるだろうか。 舜の孝、禹の功、皐陶の謨(はかりごと) 、稷契の忠、伯夷叔斉の清、孔孟の学、これらは全て万世に冠して傑出しているが、その実、皆、人が当然為すべき事を行っただけなのだ。それに対して世の中の人は、わずか毛髪のわうな一善があっただけで忽ち自得して、他人に過ぎる行為だと自負するが、これは惑いである。 ごく普通に為すべき事をごく普通に行うとゆうことは、聖人でもない限り、なかなかできない。人は人であることを尽くしきれないのである。 人と同じ姿形をしていながら、自ら「人に過ぎる」と吹聴している人間がいる。しかし、まさか翼をはやして空を飛んだり、麒麟のように速く走れるわけではあるまい。惑いの、なんと甚だしいことか。 鄭の太子忽が斉を救った。これは功績ではあるが、その実、災いを救い隣国を憐れむとゆう、諸侯として当然行うべき事を行っただけだ。それなのに、たちまち得意の絶頂になってその功績に誇り、周室の爵禄を軽んじてこれを越えようと望み、怒りに任せて兵を挙げ魯へ攻め込んだ。
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