銀月
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目の前でゆっくりと倒れる人影を、人形のように立ち尽くしながら見つめていた。
「…………あ……………」
名を呼ばなくてはと思うのに、喉はひりつくように震えるばかりで、まともに声を出してはくれない。
銀色の月を見たと感じた瞬間、自分と刃との間に割って入った影。
それが人間だと認識するのに一瞬。
見知った人物と意識が判別するのにさらに半瞬。
『彼』だと、はっきり認識したのは、キン、と高いが重みの無い金属音が響いたあと、視界に紅い花が散ってからだった。
どうっ、と重い音を響かせて、大地に倒れる影。
肩口から吹き出す鮮血が、大地に赤い染みを作り出していく。
やや遅れて、弾かれたとおぼしき騎士団の剣が、大地に突き刺さった。
突然騎手を失った栗毛の馬が、戸惑ったように嘶きを繰り返す鳴き声は、耳に届いているのに意識にも残らない。
「……ガ……ゼル……ガゼル、ガゼル―――!」
漸く自分の意思に応えて声を出してくれた唇は、それ以外の言葉を忘れたように同じ言葉をただ繰り返す。
「……っ……っくしょ……熱……」
か細く耳に届いた声に、ディアーナは弾かれたように少年の傍に駆け寄った。
震える手を伸ばしてくる少女を視界の隅に捉えると、痛みと傷に走る熱をこらえ、額に汗を滲ませながらも、少年は微笑んだ。
「……ガゼル……!」
「―――っ!」
指が触れたとたん、ガゼルが痛みに身体を強張らせる。
肩にふれた指に、ぬるりとした感触が伝わり、ディアーナの白い手を鮮やかな紅に染め上げた。
ディアーナは慌てて自らのヴェールを乱暴に脱ぎすてると、細やかな透かしの細工が施された上質のそれに無造作に短剣をあてて、力任せに引き裂いた。
幾筋かの切れ端を結び合わせて、即席の包帯をつくると、ガゼルの肩をきつく縛り上げる。
見様見真似のその縛り方はけして上手くはない不恰好なものだったが、そんなことに頓着してはいられない。
「しっかり……しっかりしてくださいませ、ガゼル!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、ディアーナは訴える。
死を覚悟した王女の姿はもうそこにはなく、愛しい人を心配する少女の姿があるのみ。
「―――あのときの、少年……」
目の前に倒れる少年の、見覚えのある面差しに、アルムレディンから呟きがこぼれる。
かけられた言葉にディアーナはハッと顔を振り仰ぎ、脇に放り出した短剣を咄嗟に掴もうとするが、動揺する心と濡れた血にぬめる指先は、短剣の柄をするりと滑り落ちてしまう。
だが第二の剣戟を見舞うことも忘れ、ビリビリと痺れる利き手を抑え、アルムレディンは目の前の事態を見つめていた。
突然目の前を遮った影に、敵かと無意識に身体が反応し、体勢と剣を無理に制御しようと力を抑え込んだ。
自分が腕を痺れさせるほど剣に強いた無理な動きと、彼自身の剣で殺された力とで、かなり威力は削がれたはず。
見た目ほど、少年の傷は深くないだろう。おそらく、命に別状もない。もっとも、すぐに適切な手当てを施せば、だが。
痺れはいまだ治まらず、けれど剣を手放さぬ利き手にちらりと視線を流す。
痺れが消えれば、再び姫にこの刃を振り下ろさなくてはならない。
―――けれど、今なお生きている姫の姿に、安堵の思いが生まれているのも確かで。
ふるふると頭を振って頭をよぎったその思いを振り払おうとする。
「―――ガゼル!?無理をしてはいけませんわ!」
少女の声に視線を戻すと、少年は血に染まる右肩を抑えながら立ち上がり、大地に突き刺さった剣を引き抜いた。
呼吸はいまだ荒く、止血のために縛られた薄紗の布はじわじわと紅に染まる。
痛みと出血で震える四肢を叱咤して、ガゼルは体力よりも気力でアルムレディンに相対する。
「やめておけ。痺れた腕でも、利き腕の肩を負傷した者に負けるほど、私の技量は甘くはない」
「ディアーナがいるのに……ひけるかよ……っ!……殺させない…!」
「……そうか。―――剣の意味とやらは、見つかったようだな。少年」
その言葉に、彼の脳裏でもパズルのピースがはまったのだろう、痛苦をこらえる表情に、驚愕の色が混じる。
アルムレディンの立場から言えば、彼は使命を阻む「邪魔者」だ。
けれどディアーナをかばうように立ちはだかるその姿に、悪感情など覚えられるはずもなく。
―――なんの呵責も無く、ただ純粋に王女を護ることに命を張れる彼が、少し、妬ましくはあるが。
「だが、今私を阻んで、私から護ったとしても、それでどうなる。結局、国の楔からは逃れられない。
姫に待つ未来は、ダリス王の妃になる道だけだ」
「―――それがどうした!」
アルムレディンの揶揄に、驚くほどはっきりと、ガゼルは叫んだ。
「俺も、王都を出たときなら……違うこと言ってたろうけど」
ほんとうは、ディアーナを連れて―――さらって、何処かに逃げるつもりだった。
追われる身になることも、追い詰められたら殺されることも、いざとなれば心中すらも覚悟して。
けれど、視界に広がったディアーナが連れ去られた跡の惨状に、心に氷塊が滑り落ちた。
轍の跡を追ったその先で、刃を向ける青年と、自らの喉に短剣を宛がうディアーナの姿を見た途端、何もかもが頭から吹き飛んで、気づいたときには、二人の間に身を躍らせていた。
そして、怪我を負った自分に泣きそうな顔で駆け寄る―――生きているディアーナを見て、涙が出るほど嬉しかった。
怪我も痛苦も、なにほどのことか。世界で一番大切なひとが、こうして生きている。
「心底思い知ったよ。―――ディアーナを亡くす以上につらいことなんて、あるもんか。
……だから……俺のもののまま殺されるより、誰かのものでも……生きてて、ほしい」
ガゼルは嗚咽にゆれそうになる喉を叱咤し、剣の柄を掴む手に力を込める。
その手が小刻みに震えるのは、果たして痛苦のためだけだろうか。
「……殺させない。たとえダリスにいくしかなくても、それでも、護る……!」
少年の決意に、アルムレディンはしばし瞑目する。
見栄も体裁もかなぐり捨てたその叫びは、純粋であるがゆえに矢の如く心に突き刺さる。
「……お前が、羨ましいな。国を背負わぬからこそ、求めることが叶うものもある」
心底羨ましそうに呟かれた言葉に、ガゼルが怒りにカッと顔を紅潮させた。
「国や民を背負わない奴の言い草って言われりゃ、そのとおりだって返すしかないよ。
でも馬鹿にされても、見下されても……これが俺の真実だ。それだけは誰にも否定させない!」
激昂したガゼルの身体が、ぐらりと傾いだ。
眩暈にぐらつく身体の手綱を取ろうと脚に力を入れるが、血の抜けた身体は思うように動かない。
「無理するな。血がのぼれば出血が増えるぞ。
―――馬鹿にしているわけではないさ。……本当に、羨ましいんだ」
アルムレディンは、ガゼルが庇うように立つその肩越しに、ぼろぼろとこぼれる涙を押さえきれずに、けれどけして瞳を逸らさずいるディアーナの姿を見る。
―――昔のままでは、いられなかった。……自分も、姫も。
あれは幾月前のことだったか。
あのとき……そう、彼を庇って、彼女が自分の剣の前に立ちはだかったときから。薄々気づいてはいたのだ。
彼女には彼女自身がその手で織り上げた年月がある。
その基調を紡ぐ糸が、自分とは違う色となっても、仕方のないことだと。
この少年と、自分との、決定的な違い。
それは身分の差でも、生まれた国の違いでもなく。
「……そう、か。……結局、そういうことだな」
独りごち、アルムレディンは、ディアーナを連れ去ってから抜き放しであった剣を、はじめて鞘に収めた。
そうして、漸う穏やかな心でディアーナに微笑みを送る。
もし、ダリスの皇太子という肩書きを捨て、故郷を捨てることができたなら、最後に残った選択肢が『ディアーナ姫殺害』にはならなかったろう。
―――国より恋を選ぶことも、恋より国を選ぶことも、出来なかった。
心弱いのは自分。大儀と愛を言い訳にして、どちらを選び取ることも避けている甘さをどこかで自分に許していた。
「諦めだけで思い切るには、貴女を思い続けてきた年月は長すぎた。
けれど……ようやく心の整理がつきました。
―――我が初恋の君。今は、貴女のために姿を消すことが、私に出来るただひとつの愛の証です」
ざっと草に擦れる靴音を鳴らし、アルムレディンはふたりに背を向ける。
数歩進めた脚をとめ、振り返らぬまま告げた。
「少年―――いや、ガゼルといったか。姫をつれて、王都に戻るがいい。
この私の手から護り通したのだ、他のすべてからも護ってみせろ」
「………あんたはどうするんだ」
「……私は」
ダリス王に抗うためには確実な成功の道しか許されなかった。
ゆえにいまだ脆弱な反ダリス王の勢力は、ダリス王に力をつける同盟を阻むことで、幾許かの時間を稼ごうとした。
けれど、『成功』を考えなければ、やりようはあったはずだった。……そう、『失敗』さえしなければいい。
「戦にはさせない。ダリスは―――私の手でケリをつける」
そしてその言葉を最後に、もはや振り返ることも呼びかけに応えることもなく歩み去っていくアルムレディンを、ガゼルとディアーナは何も言えずに見送っていた。
その姿が完全に森の中へと消えるころ、ガゼルは握っていた剣の柄を取り落とした。
緊張の糸が一気に切れたように、踏ん張っていた四肢から力が抜け、大地に座り込む。
「ガゼル!―――っきゃ!?」
驚いて駆け寄ってきたディアーナの腰を、ガゼルは座り込んだまま、あがる悲鳴も意に介さず抱き込んだ。
「ガゼル……?」
ディアーナの上半身に顔を埋めるような、縋りつくような姿は、まるで頑是無い子供のよう。
問いかけるディアーナの声は届いているのか、ガゼルはその顔をディアーナの身体に摺り寄せる。
―――とくん、とくん、と少女の身の内を流れる小さな音が、心地よくガゼルの耳を打つ。
「生きてる、よな。ディアーナ、生きてるんだよな」
俯いて揺れる前髪に隠れた瞳から雫が零れ落ち、ぽた、とディアーナの衣服に無色の染みを作った。
「…………よかった……!」
ディアーナは、ぎゅっと切なく締め付けられる胸の鼓動を持て余しながら、暫しの間、少年にされるがままにただ抱きしめられていた。
我に返ったガゼルが身体を引き剥がし、二人揃って顔を羞恥に染めて、ぎくしゃくとしながらも漸く現実的な対処に意識を回したのは、日も傾き始めたころ。
ディアーナが乗っていた馬車はところどころ派手に疵が走っているものの、馬車本来の機能に支障はない。だが馬車の操舵の心得はガゼルにもなく、馬車はそこに打ち捨てていかざるを得なかった。
轅から馬を外してやり、ついてくるに任すほかないと判断し、ガゼルは自らの騎馬を呼び戻す。
怪我人が乗れいや王女が乗れとの押し問答の末、妥協案でふたりして馬の背に跨り、往路を戻る。
痛みの走る肩で手綱を捌くのはそれなりに難儀だが、そこは男の意地なのか、ガゼルが頑として譲らなかった。
来たときの数倍の時間をかけてようやく元の街道へとたどり着いたとき、見覚えのある後姿を見つけた。
振り向いたその意外な人物の姿を認めて、素っ頓狂な声を上げる。
「えっ、キール?なんであんたがここに?」
思わずこぼれたガゼルのその言葉に、亜麻色の髪の魔導師はその愁眉を寄せる。
「なんでここには俺の台詞だ。……お前、無断で騎士団飛び出てきたな」
ぐ、と押し黙ったガゼルに一瞥をくれると、キールはディアーナを馬から降ろさせる。
姫に怪我がないことの確認をとると、ガゼルも引っ張り降ろし地面に直に座らせ、肩を縛った布を解いて傷を検める。
「しかも派手に怪我しやがって。―――ま、姫に怪我はさせてないみたいだから、ぎりぎり及第点ってとこか」
傷口に手をかざして治癒魔法の呪文を唱えると、キールの掌に光が集まりだす。
やせ我慢で堪えていた痛苦が和らいでいくのを感じ、ガゼルは強張った四肢から力を抜く。
その様子を見て、ディアーナもようやく肩から力を抜いた。
「悪いが、完全に傷が塞がるまで魔力を行使するわけにはいかないぞ。怪我人はお前一人じゃないんでな」
キールのその言葉に落ち着いて周りを見回してみれば、連れ去られたときの暴風のような跡はまだ色濃く残るが、倒れ臥していた怪我人たちは、キールの手によるものだろう、応急処置が施されていた。
暴れていた馬たちも落ち着きを取り戻したのか、おとなしく休んでいる。
さながら野戦病院のような光景だったが、ガゼルとキールに連れられて戻ってきたディアーナの姿を認め、兵士たちの間に明らかな安堵が広がった。比較的傷の浅い騎士がディアーナの元に駆け寄り、跪礼する。
「姫様……!よくぞご無事で」
「みなに、心配をかけてしまいましたわね」
ガゼルの怪我の心配も一応の決着を見て安心したのか、ガゼルをよろしくおねがいしますわ、とキールに会釈とともに託け、ディアーナは他の怪我人の見舞いと看護の手伝いにまわる。
治癒魔法は使えなくても、王女の手ずからの看護は、どれだけ兵士たちの活力になるだろう。
キールは流血が止まる程度にはガゼルの傷が塞がったのを確かめ、傷に新しい包帯を巻きなおす。
処分しようと無造作に丸めた血に染まった紗布を、ガゼルが横から慌てて取り上げた。
「―――使い物にならんぞ?」
「……いいんだよ」
ガゼルは、自らの血にまみれたその襤褸を、宝物のように腕に掻き抱いた。
その日、全員の応急処置と騒ぎの収集に目途がついたのは、夜も暮れかけたころ。
街に戻ろうにもすでに視界は悪く、怪我人の大所帯を連れて街道を練り歩くのは得策でない、という進言を了承したディアーナのもと、野営が設けられた。王女に野宿を強いてしまったことに恐縮する騎士たちをよそに、当のディアーナは初めての体験を楽しんでいるようで、敷かれた絨毯にちょこんと座りながらも、自分のいる簡易テントの中を物珍しそうに眺めていた。
あらかたの雑事を終えたキールが、報告のためにディアーナの元を訪れた。
「俺が来たのは特命です。ダリス国境を越える前に、姫の身柄を保護せよと。
―――追いついて早々医者まがいのことをするはめになるとは思いませんでしたが」
封鎖された街道を通行する特別許可を与えられ、ディアーナ王女の輿入れの隊を追ってきてみれば、国境間近で死屍累々の惨状に出くわした。
しかも王女を乗せた馬車はここから離脱し、ただ一騎、銀の髪の少年騎士のみがその後を追ったという。
「俺の受けた命令は姫の身柄の保護ですから、最悪の場合、彼らを見捨ててでも追わなくてはいけないところでした。
すれ違いになる前に戻ってきてくれたのは、二重の意味で助かりましたよ」
「わたくしの身柄の保護、とおっしゃいましたわね。しかも国境を越える前にと。―――ダリスへの警護でなく?」
「そうです。反ダリスの同盟の正式締結が、近日中に現実のものとなる見込みが強くなりましたので。
議会では宣戦布告をするべきという強硬派もいますが、そちらは皇太子殿下が王都で抑えを効かせています。
―――国内の情勢は、ダリスとの同盟を拒む方向で急転を始めています」
ディアーナは、あまりの展開にぱちくりとその大きな瞳を瞬かせる。
王都を発って、まだ一月と経っていないはずなのに、その事態の急変ぶりは何事だろう。
ディアーナの困惑を読み取ったのか、キールはため息をこぼした。
「まあ、紆余曲折ありましてね。………大元締めは、メイらしいんですが」
キールの告げた名前に、ディアーナはぴくりと肩を震わせた。
大事な親友に、何も言わずに王都を発った。
緘口令が布かれたためもあったのだが、話せば止められるとわかっていたから黙っていたのも事実だ。
「……メイは、怒っているかしら」
ディアーナが不安そうにこぼした言葉に、キールは眉をひそめ、伝えるべきかとほんの少し考えるそぶりを見せる。
暫しの逡巡のあと、どうせ耳に入ることか、と小さく呟いた彼はそれを口にした。
「メイは倒れて、療養中です」
「倒れ……!?」
「―――魔力の過剰消費ですよ。
あのバカ、反ダリス同盟を最速で締結させるために、十数か国、大使を乗せて空を飛ぶなんて無茶しやがったので」
「……まさか、ホウキで!?」
メイが空中浮遊を行えるのは知っていた。『魔法少女のお約束なの』と、頑固にホウキにこだわっていたのだけがどうしてもディアーナの理解の範疇の外にあったが、制御を失って窓に飛び込んでたのは最初のうちだけで、すぐにコツを呑み込み、たびたび楽しそうに空を滑空して窓からやってくるようになったのはここ最近の話だ。
けれど降誕祭からまだ幾月も経たず、季節は真冬。ケープを纏っていても、肌を撫でる風は氷のように冷たい。
この寒空を、遮るものもなく風を切って上空を飛べば、その凍てつく風の刃はどれだけ鋭く切りつけることか。
その心の呟きを察したのだろう、キールは呆れ顔で頷いた。
「帰国後、大使殿もお風邪を召されて病床につかれたそうです。
まあメイに付き合って無茶した結果にしては、おとなしいほうだったんじゃないですか」
『空飛べば、道山川谷その他諸々オール無視でいけるもの。スピードだけなら誰にも負けないわよ。力技はお手の物だし。
………………たぶん、すっごく寒いと思うけど』
彼女らがまず行ったのは、大使の旅程を割り出し、見つけ出すこと。
初めての空中飛行に感慨を受ける余裕も無く、唐突にとっつかまって目的地まで高速で飛ばされることにあいなった大使は、二人の熱意に首肯し、真冬の寒空に凍えながらも、前代未聞の強行軍に最後まで付き合った。
何カ国も回り続け、疲労を見せ始めたメイを心配し、一度の帰国を促したときに、メイは笑っていったという。
『ちょっとやそっとの無理がなんだって言うの。
ディアーナが身体張って守った平和なんでしょ。砂時計の砂一粒が黄金一粒なんでしょ。
それが銀千粒で一万粒でも、うちらで贖う手立てがあるんなら、やってみせるわ。
倒れてる暇なんてないの。倒れるのも休むのも、やること全部やってからよ』
その言葉どおり、すべてを終え、王都へと大使を送り届けた直後、張り詰めていた糸が切れたように、メイは昏倒した。
大使を見つけたあとのシルフィスは、メイと別れ別行動をとった。
反ダリス同盟を成立させるだけでは、戦争は免れない。それではだめだ。
ディアーナは国を戦渦に巻き込まぬためにこそ、己の犠牲を決意したのだ。
以前特命を帯びて潜入したときに、わかっていた。力の大元を絶つほかに、ダリスを止める術はない。
大樹の代替わりを以って、ダリスを止める。力の源を……今の大樹を、破壊して。
―――それは、アンヘルである、自分の役目だ。
「……乗馬は苦手だけど、仕方ない」
事情が事情だけに、人の手は借りられない。不穏な情勢を見せるダリスへの公共の馬車も最近は途絶えがちだ。
騎士団の厩で、自分に割り当てられた馬に鞍をつけていたところに、じゃり、と土を踏む音が聞こえる。
振り向くと、厩の外で、不機嫌そうな顔で壁に凭れる隊長の姿があった。
「―――誰も彼も、ずいぶんと勝手な行動をしてくれるな」
予想以上に早い露見にシルフィスにも多少の焦りが生まれるが、それで翻すようなら最初から行動を起こしはしない。
メイとともに頭を下げ、頼みこんだときの大使の返答は、彼女らの決意に強い追い風となって力をくれた。
はたから見れば突拍子で無謀で無茶でしかないメイの提案を、誰より先に受け入れてくれた大使は、言ったのだ。
―――『王女一人を犠牲にすることを、けしてすべての国民が納得しているわけではない』、と。
「―――責めは負います。無事に帰国が叶ったときには、どうぞ如何様にもご処分を。
裁可を待つには、時間がないのです。姫にも―――ダリスにも」
はっきりと告げたその言葉に応えるかのように、シルフィスの傍近くに、ひとつの気配が生まれる。
咄嗟に剣の柄に手をかけながら身を引いたシルフィスのその視線の先には、金髪に碧の瞳の、幼い少女の姿があった。
「―――どこから……?」
先ほどまでは、間違いなく誰もいなかった。
厩には出入り口はひとつ。しかもそこにはレオニスがいる。彼の目を掻い潜って忍び込むなど不可能だ。
誰何の声にも怯えた様子もなく、金色の幼女はにっこりと微笑んだ。
「―――おねえちゃん、ママを………たすけにいこう」
その様子から何かを汲み取ったのか、レオニスは暫しの瞑目ののち、壁に凭れさせた身体を起こす。
厩には背を向けたまま―――視線を合わせず、言葉を継いだ。
「……まったく、ガゼルもシルフィスも、この忙しい時期に休暇とはな」
「えっ―――」
「休暇、だ。旅行にでもいくつもりか知らんが、戻って来たら、稽古を倍に増やしてやらねばな」
「―――はいっ!」
ふ、と笑みを零した音だけがかすかにシルフィスの耳に届き、レオニスはそのまま厩を後にする。
最後まで視線を合わせず―――つまりは、すべては彼の胸のうちに留めるということ。
手前勝手な行動を、信頼と信用で黙認してくれた彼のためにも、生きて、そして事を成して帰らなくては。
片膝をついて視線を合わせ、シルフィスは自分とよく似た特徴をもつ金髪の幼女に、手を差し伸べた。
「……いこう。姫と、きみのママと………ダリスを救いに」
―――その後、ダリス国内から、大樹が消えた。
他国の風聞には、切り倒されたのだとも、炎に焼かれたのだとも伝わる。
だが、王宮に囚われていたダリスの魔導師は、何年かのちに幾人かに語った。大樹は―――光に溶けたのだと。
メイとシルフィスの独断行動が、皇太子らの耳に届いたのは、彼女らがクラインを発ったのちのこと。
その後次々と舞い込む情報と、彼女らの行動による賛同国の増加、国内でも無視できない大きさになりつつある王女奪還の動き。そして届いた、ダリス国内の大樹消失の報。
それらすべてを鑑みて、皇太子は、傍らの魔導師に『仕事』の顔で問いかける。
「―――出来るか」
その問いに、魔導師はにやりと笑った。
「ここまでお膳立てされて、指くわえて見てたらあわせる顔がねぇや」
その応えに、セイリオスは力強く頷き、シオンも彼らしい不敵な笑みを取り戻す。
セイリオスは書類ごと机に手を突くと同時に立ち上がり、緊急議会の召集をかけるよう近侍に命じた。
「やるぞ、シオン。なんとしても、間に合わせる」
「おう。誓ったからな、姫さんに。―――尽力を、無駄にしないって」
そして大樹消失に数日遅れ、事態に止めを刺すかのように、驚愕の事実を告げる急使が訪れる。
―――ダリス王、崩御の報である。