銀月




―――暗雲に、近づいてゆく。


時折紗幕を上げて見る窓越しの風景にディアーナが覚える感想はそれきりだ。


人質同然とはいえ、王家の婚姻。
相応の威信を保つため、豪奢な馬車を正装の騎士が一糸乱れぬ隊列で警護する。
けして小さくは無い規模のその隊列は、国境へと続く大通りを堂々と、そして整然とゆく。
普段は旅人が行き交うはずのその道は、おそらくはその道行きを阻むことのないよう規制が布かれたのだろう、道脇にすら人影は見えない。

誰もいないその道を馬車は進む。
贅を尽くした華やかな見かけがことさら道化のようににディアーナの瞳には映る。


王都を出て、幾日目だろうか。数えることすらはなからしていない。

クラインの北端に位置する、最後の大きめの宿場街で宿泊したのが昨日のこと。
今日のうちには国境を越えるだろう。
そこで、王都から随行してきた近衛騎士たちとも別たれ、ダリスの騎士だか武官だかに身柄を任されるのが慣例だ。


―――騎士。


思い出すまいとしてもふとした拍子に思い出してしまう。

彼は自分の身勝手を怒るだろうか。恨むだろうか。
いっそ黙って去ったことに愛想を尽かしてくれれば、いいと思う。少しでも、悲しまずにいてくれたら。

「―――……っ」

白い手をぎゅっと握り締めて、気を抜くと嗚咽になりそうな呼吸を、必死で整える。



「―――故国を離れられるのが、お寂しいですか」

唐突にかけられた言葉に驚いて、ディアーナは弾かれたように顔をあげる。

馬車の客室には御者との意思疎通のため、灯りとりほどの小さな小窓が付いている。
だが公式の場で王族に従者の側から声をかけることなど皆無と言ってよく、ディアーナ自身ふさぎ込んでいたことも手伝って、これだけの人数がいながら今までの道程でディアーナに声をかけてくる者などいなかった。

王女一人を送迎する道程では馬車では客室に、宿場では部屋に自然閉じこもることになるディアーナは、馬車を操る御者の顔などろくに見る機会もなかったが、それでもちらりと見た御者の姿は、経験を積んで操舵に長けていそうな壮年であったと記憶している。
だが、声をかけてきたこの御者の声は、その姿にそぐわぬ若々しさがあった。

手綱を捌きながら言葉をかけてきた御者は、違和感に訝しがるディアーナの返事を待たずに言葉を継ぐ。

「ダリスにいきたくはないのでしょう。そうとおっしゃってよいのですよ。
そうすれば―――貴女を攫ってさしあげる」


その言葉を合図にしたように、ヒュッと空を切る音に激しく馬身を鞭打つ音が続く。馬が激しく嘶いた。

「―――きゃあっ!」

ひときわ大きく揺れたキャリッジに、ディアーナの身体が宙に浮き、内壁にしたたかに身体を打ち付ける。
ディアーナの悲鳴に重なるように暴れる馬に騎士が弾き飛ばされたと思われる衝撃が伝わったかと思った次の瞬間、ディアーナの乗った馬車は怒涛の勢いで走り出した。




「ディ、アーナ……姫…っ」

外側からの奇襲は警戒しても、内側からの暴走はなかなか想定できないこと、王女の乗るキャリッジを囲むように位置していたことも災いし、随従の騎士たちはほぼ全員が、攪拌するように弧を描いて暴走した馬車にはね飛ばされた。
多くの騎士たちは地面に倒れ臥し呻き声をあげるばかりで、異常事態に興奮して、自らの騎馬すらが暴れだす。

場所も悪く、最後の宿場街を離れてかなりの距離を経ていて、伝令を飛ばすにも距離がありすぎる。
騎士騎馬ともに無事なものが一組もいないという異常事態に、混乱は収束することを知らない。



馬蹄の音を低く響かせて少年がその場に現れたのは、彼らにとって唯一の希望となった。


街道は規制により封鎖され、やむなく道をはずれ森を単騎で駆け抜けてきた少年は、突然目の前に広がった惨状に驚いたようにあたりを見回した。
慌てて馬を降り、倒れ臥す騎士の一人を抱き起こす。

「―――いったい、なにが」

抱き起こされた騎士は、少年の佩く剣に彫られた、見慣れた自国の騎士団の徽章に目を留めると安堵の息を吐く。

「姫様……が……」

力が入らない腕を必死に上げながら、真新しい轍の跡が残る地面を指差した。
次の瞬間、少年は弾かれたように自らの騎馬に飛び乗り手綱を引き絞る。
騎馬は前肢を高く上げ空を掻き、嘶きながら砂塵を巻き上げる。馬首を翻した馬上から、少年は叫んだ。

「悪い、置いてく。―――ディアーナは、俺が連れ戻す!」






間断なく続く荒々しい馬蹄の響きに混じり、馬を鞭打つ音を耳が捉え、ガラガラと馬車の車輪は激しく回り続ける。
整備もされていない道を全速力で駆けるその馬車はディアーナ自身が体験したことのないほど激しく揺れを増し、容赦なく中の乗客をもはね飛ばす。
隊列の中で4頭だての馬車はディアーナの乗るものひとつ。
しかも王族に関わるものは、人でも馬でも、鍛え上げられたもののみがその任を担う。
選りすぐられたその4頭に本気の襲歩で駆けさせれば、土地勘のない隊を振り切ることなど造作も無いことだろう。
大街道はもとより街道すら外れ、山道に入ったのだろうか、それとも森へ突入したのか、木々の枝を弾き飛ばす音を辛うじて認識したきり、ディアーナは窓から外を伺う余裕も無く、内壁に手を突っ張り身体を支え歯を食いしばり、舌をかまないように配慮することで精一杯だった。




「ディアーナ姫」

どのくらいの距離を走ったのか、ディアーナにも分からなくなるころ、ようやく馬車がその疾走を止め、聞き覚えのある声が自分の名を呼んだ。
ひとつふたつの深呼吸ののち、ぐっと腹に力を入れて、よろけそうになる身体を叱咤する。
護身用として衣装に忍ばせていた短剣をケープの上から触れて確かめると、キャリッジの扉を内側から押し開いた。

ゆっくりと、だがしっかりと足を踏みしめて馬車を降りると、眼前に広がったのは、一面の緑。
山道をどれだけ走ったのか、いつしか森は抜けて、丈の短い草が風に揺られているそれは、草原と言ったほうが似つかわしい風景だった。
馬車から少し離れた場所に佇む、彼女を連れ去った男との間に、一陣の風が吹き抜ける。



ゆっくりと、刃がディアーナへと据えられる。
無言で刃を向ける目の前の男に、臆することなく、ディアーナは毅然と立ち向かう。

フードを目深に被りその相貌は見えない。だが灰褐色の外套を纏うその男に既視感を覚える。
数瞬の後に脳裏に閃いたのは、自らが目撃した、彼が刃を構える姿。一度目は、自分に。二度目はガゼルに。



「あなたがわたくしに刃を向けるのは、三度目ですわね」

目深に被ったフードの下で、ふっと微笑む気配が伝わる。

「覚えていらしたか」


今ならば分かる。
人質として捕われたとき、ガゼルを救おうと立ちはだかったとき。
姫と呼ばれた自分に、何故目の前の男がああも動揺を見せていたのか。

降誕祭の時に交えた、刹那の邂逅。
そのとき優しく自分を包んだ腕に覚えた、既視感。

ディアーナは、確信を込めてその名を呼んだ。

「……アルムレディン殿下」

その呼びかけに、剣を握る指がぴくりと震えた。




ふわりと、灰褐色のフードが下ろされる。
その下から現れたのは、金色の髪をした美貌の青年。
変わらず向けられた剣の切っ先はディアーナを捉えたままに。



他国に嫁す王族の婚姻は、同盟と意義を同じくする。
もとより国を戦渦に巻き込まぬために取り決められた婚儀であればなおのこと、クラインはダリスに逆らえなくなっていくだろう。
ダリス王の圧政は、とどまるところを知らない。
仮初めのものであっても、一時凌ぎであっても、今のダリス王に追従する国があればどうなるか。

クライン1国ではとうていダリスに抗う国力は持たず。
反ダリスの同盟はいまだ調わず。

王子アルムレディンは、今のダリス王に、廃太子とされたという。
目の前の青年が、ダリス国内の反ダリス王の勢力を束ねているのだとしたら。


「……わたくしを、殺しにいらしたのですわね」

ひどく落ち着いた声でそう告げると、剣の柄を握る手がぎりっと強張った。


けして、他の誰にも託すことの出来ない『役目』だった。

だがそこに、縋りたい一縷の望みもあった。ダリスとクラインの婚儀を阻む、もうひとつの方法が。
構えた剣が下ろされる。
瞳を見張るディアーナに、アルムレディンの右手が差し伸べられた。

「―――ディアーナ姫。……ともに、来てはくださいませんか」



「アルムレディン殿下……」

「姫が消えさえすれば、今暫しの猶予が稼げる。それは事実です。けれど、それは死である必要はありません。
どうか……聞き入れてください。拒まれるならば、この手で貴女を殺めなくてはならなくなる。
貴女を、死なせたくなどない……!」

「………殿、下」


ダリスの国境を目前にして差し伸べられた手に、ディアーナの瞳が、涙で潤む。
この手をとれば、顔も知らない、親子ほどにも年齢の違うダリス王へと嫁がなくてすむ。

相手は初恋の王子様。
いつか出会える日を待ち望み、まどろみのような夢に浸っていられたころの思い出の君。
穏やかに愛し愛され、真綿でくるまれるようにまもられて過ごすこともできるだろう。

―――けれど。

「……できま、せん……アルムレディン殿下」

ディアーナの白磁の頬を、一筋の雫が伝う。


「あなたに殺されることも、あなたの手をとることも、わたくしにはできません……!」

ぼろぼろとこぼれる涙を隠すように、両手で顔を覆う。


「ダリス王に嫁いだとて、貴女は幸せにはなれないでしょう」

「それでも!」

アルムレディンの言葉を遮るように、はっきりと叫んだ。
こぼれる涙はそのままに、キッと顔をあげる。

「わたくしは―――クラインの第二王女ディアーナは、ダリスに行かねばなりません。それがダリスとの約定。
わたくしが消えれば、違約を口実に戦端が開かれてしまいますわ。
己が身ひとつと引き換えに国を劫火に呑みこませる道を選んで、それを幸福と呼ぶことはできません」


こぼれる涙を自らの手の甲で拭うと、ディアーナは短剣を構える。
護身用とは名ばかりの装飾過多の儀礼用の短剣だ。しかもディアーナ自身、剣の心得などありはしない。
それでも、抗わぬわけにはいかない。
最悪の場合は、喉を突き物言わぬ身体になってでも、王女の身柄はダリスにたどり着かねばならないのだ。

ディアーナは短剣を鞘から抜き掃うと、その刃を自らの喉元に宛がった。

「わたくしを、いかせてくださいませ、殿下」


おそらく本気で斬りかかられれば最後、幾合と刃を合わせず殺される。
そもそも殺しに来た男に、寄らば死ぬと迫るのも滑稽な話だ。
けれど殺したくないと言った王子の言葉を信じるのならば、この脅しは無効にならないだろうという目論見を裏付けるように、自らの命を盾にしたディアーナの行動に、アルムレディンの表情が強張る。
アルムレディンの想いを利用した、卑劣な手だ。けれどほかにディアーナには打開の術がない。

「どうか、これだけは信じてくださいませ。
わたくしにとっても………あなたは、『特別』でしたわ。
けれど、王都にいる大切な人を護るためにこそ、わたくしはダリスに赴くことを決めたのです。
あなたの手を取ることは、王女として、ディアーナとして、二重に裏切りを犯すこと。それだけは、できませんわ……!」

アルムレディンは、その答えを半ば予期していたように瞑目した。
そう、わかっていた。わかっていたのだ。
アルムレディン自身、自らを廃した故国をそれでも捨てられぬように、彼女にも護らねばならぬものがある。
そして、彼女の言葉が何を意味するかも。



アルムレディンは、降ろしていた剣を構えなおす。

「―――拒むのならば、殺さなくてはいけないと、言ったはずです」

ディアーナを連れ去ることは、大儀と私情の、ギリギリの妥協点だった。
けれど、彼女が受け入れないのならば、アルムレディンが採れる道はたったひとつしかない。
―――最も選択したくなかった道しか。

彼女自身が覚悟しているように、王女が物言わぬ身になることで、クラインとの同盟は事実上破棄される。
ダリス側に引き渡される前の不祥事である以上、クラインの責が問われることにはなるだろう。
だが犯行声明が別所から挙がれば、あの頭の切れる皇太子と魔導師なら、うまく利用して戦を回避できるはずだ。
―――ディアーナ姫の願いどおりに。



周囲は好き勝手に担ぎ上げているが、アルムレディンは自らが王位に立つことはもはや望んでいない。
王殺しを決意したときから。―――血に塗れることを、覚悟したときから。

剣の柄を、ギリッ、ときつく握り締め、唇を噛み締めた。



涙は、流さない。
涙の代わりに血を流すと決めたあのときから、自分の涙の泉は枯れたのだ。
そう、涙ではない。涙のはずはないのだ。今頬を伝うものは。自分の視界をにじませるものは。



「……すべてが終わったら、詫びにいきます。―――貴女に」

―――詫びに、逝きます。



アルムレディンの脚が大地を蹴り、剣の軌跡が月を描くように銀色に閃く。





紅い、鮮血が散った。