銀月
![]()
月は中天をすぎ、既に西の空へ傾きを見せている。
聞えるものは、窓から漏れ聴こえる風に揺れる葉擦れの音と、見回りのために廊下を巡る近衛兵の軍靴の響き。
普段ならばすでに部屋の灯りは落とされ、寝台へとその身を休めているはずの時刻。
その部屋の主の少女は、夜着にも着替えず、家具や机に仕舞われていた品物の数々を手にとって眺めていた。
「いつのまにか、手放したくないものが、たくさん増えてしまいましたわね……」
離宮からこちらへ移ってきたのは、さほど昔の話ではなかったのに。
たくさんの人と知り合った。
身分を越えて友と呼べる掛け替えのない友人も出来た。
こころの『特別』の場所を占めてしまった人にも巡り合ったのもすべてこの王都。
「……………楽しかった、ですわ」
ぎゅ、と思い出の品を持つ手に力を入れる。
その手の上に、ぽたり、と熱い雫が静かに零れた。
目を閉じると、交わした言葉がすぐそこに聞こえるような気さえする。
「ガゼル、わたくしの名前を呼んでくださる?」
「なんだよ?いつだってディアーナって呼んでるじゃん」
「……そうですわね。ええ、いつも呼んでくださいますわね」
―――いつまでも、呼んでくださる?
少女は、頬に流れた雫を拭うと、頭を一つ振って、思い出の品をビロードの袋にそっとしまった。
ギィ、と重い音を響かせて開かれた王宮の正面扉から、大正門まで敷かれた赤絨毯の上を、近衛兵が一糸乱れぬ姿勢で道脇を固める中、少女がゆっくりと歩く。
白を基調にしたその衣装は、華美よりも清楚さを前面に押し出し、歳若い美貌の王女をいっそう愛らしく彩っている。
お転婆で周囲を騒がせた王女らしからぬ、晴れがましいはずの場に不似合いなほど無機質なその表情は、顔を覆う薄紗のヴェールの下に封じ込められ、他者には窺い知れない。
王宮らしく大きさだけは立派な門扉の脇に、見慣れた二人の青年が、沈痛な面持ちで少女を待っていた。
「……ディアーナ」
「―――姫さん。」
自分よりもよっぽど泣きそうに眉根を歪めた彼らに、ディアーナは微笑む。
「お兄様、今までわたくしを愛し慈しんでくださって、ありがとうございました」
「―――何が、愛だ。妹を、こんな、道具のように使って」
セイリオスは息継ぎすらも苦しそうに、嗚咽をこらえて絞り出すような声で呟く。
「姫さん、すまな……」
「シオン」
謝罪の言葉をつむごうとする青年を、ディアーナの落ち着いた声が遮る。
「わたくしにしかできないことを、わたくしの意思でするだけですわ。
あなたにもお兄様にも、謝っていただくことは、何一つされてませんもの。
―――誰に責められようと、謝ってはいけませんわ」
シオンは、痛ましげに表情を曇らせる。
いつのまに、この少女はこんなに大人びてしまったのだろう。
無垢で無邪気で世間知らずの『姫さん』は、姿を潜めてしまった。
ほんとうなら、もっと違った形で、ゆっくりと大人になれたはずだったのに。
シオンは、数瞬の瞑目ののちに跪く。ディアーナの白い手をとるとその甲へと口付けた。
彼が初めて、心からの敬愛を持って、王女ディアーナに対して膝を屈した瞬間だった。
「姫さん―――いや、ディアーナ姫。貴女の尽力、けして無駄にしないと、我が名にかけて誓う。
言えた立場でないことは重々承知しているけれど……貴女の幸せを、祈っている」
ディアーナは、衣装をそっと抓むと、二人の青年に対して頭(こうべ)をたれる。
「この婚姻が、両国の平和への礎とならんことを―――」
―――嘘だ、嘘だ、嘘だっ!!
自分の耳で聞いたことが信じられず、少年は街道をひた走る。
街の顔なじみの店で、いつものようにバイトに勤しんでいたガゼルの耳に飛び込んできた、人の噂話。
店長と談笑しているのは、王宮に荷を納めてもいる大店の旦那。
『そうなんだよ。いつもは女性用の宝飾品の注文なんてほとんどなかったんだよ。
王妃様が身罷られて、セレーネさまも嫁がれて、ディアーナさまはさほど宝飾に興味を持たれなかったからね』
『それが突然、最高級のものを揃えろとのお達しでねぇ。それも大至急。
いや、そりゃあ、こちらもそれが商売だからね。
店の名と誇りにかけて最高の逸品を揃えてみせたけど、おかげで在庫がすっからかんさ。
うん、今日の注文は、宝飾用の座金と、絹布と、ああそれから―――』
『それにしても、この慌しさは、セレーネ様のご結婚のときを思い出すね。
もしかして、ディアーナさまの輿入れ先でも決まったのかねぇ―――』
いつもなら、聞き流していたであろうその言葉。
けれど、ガゼルはここしばらくディアーナの様子がおかしいことが引っかかっていた。
どこか寂しげな表情で逢いにきたのを最後に、近頃は姿を見せることも途絶えて。
まさか、とその二つを繋げた瞬間、ガゼルは店を飛び出していた。
―――きっと、誤解だって笑って言ってくれる!
額に流れる汗を拭うことすら忘れ駆け続け、息を切らしながら王宮への道へと続く路地を曲がったガゼルが見たものは、豪奢な馬車に、美しく着飾った桜色の髪の少女が御者に手を引かれ乗り込む姿。
「ディアーナ……!」
その声が聞こえたのか否か。
馬車のステップに着いた足を一瞬止めたようにも見えたが、少女が振り向くことはなく、無慈悲に扉は閉ざされた。
大仰な隊列の中ほどに陣取ったその馬車は、数多くの騎馬に囲まれながら走り去っていく。
門扉の前には、近衛に護られるながら馬車を見送る、皇太子と筆頭魔導師。
「ディアーナ!」
走りながら叫ぶガゼルを阻むように、近衛兵が目前に立ちはだかった。
ディアーナとの交流を知る者はごく一部の人間に限られ、王宮詰めの近衛がそれを知る葦も無い。
ガゼルには、王宮に入ることはもちろん、本来王族の傍近くへ近づくことも公には許される地位はない。
ものの数秒で、有無を言わさず取り押さえられる。
「―――ッ!」
舗装された石畳の上に押し付けられ、頬に痛みが走る。
口の端から赤い筋がひとすじ零れ落ちた。
「ディアーナさまの御名を呼び捨てるとは、何事か!」
ガゼルを押さえつける兵士を、静かなふたつの声が仲裁する。
「離してやれ」
「しかし、殿下……」
「かまわん。ディアーナさまが個人的に友誼を持っていた少年だ。別に不審人物じゃねーよ」
「はっ、シオン様」
押さえつける腕から解放されたガゼルは、安堵するよりも先に目の前の青年の言動に違和感を感じる。
―――シオン様は、ディアーナのこと、『ディアーナさま』なんて呼んでなかった。
自分に向けられる訝しげな視線に、シオンはため息一つで応えるとガゼルの腕を掴んで引っ張り挙げた。
ひとつ手を降って近衛を下がらせ、ガゼルの身体に付いた土を適当に掃ってやる。
されるがままに立ち尽くしていたガゼルは、シオンの様子を伺う。
いつも飄々としていた彼の姿はそこになく、かわりにどこか重苦しい空気を纏っていた。
「シオン様、ディアーナは……いや、えっと、ディアーナ姫は……」
「……いない。ディアーナ『姫』は……もう、どこにもおられない」
俯いたまま視線を合わせぬシオンが絞り出した声音の重さと、その内容にガゼルはぎくりと息を止める。
必死に嘘だと思い込もうとしていた、その事実を無慈悲に突きつけられ、絶望の淵へと意識が引きずり込まれそうになる。
「今日より、ディアーナさまはクライン王女でなく、ダリス王妃となられる」
公式に、ディアーナ姫の婚儀が発表されたのは、翌日のこと。
ダンッ!とひときわ大きな音を机に響かせて、メイは目の前の青年―――セイリオスを睨みつけた。
親しい周囲すらに漏らすことなく、王宮の人間以外には極秘裏に進められたディアーナの輿入れ。
その公式発表から間をろくにおかずしてセイリオスの執務室に飛び込んできた、琥珀の瞳と枯葉色の髪、この国には珍しい丈の短い装いのその少女は、異邦人であることよりも、くるくると回る表情と快活な性格で周囲によく知られた存在だった。
その喉から出たのは、いつもの彼女らしからぬ、低く絞り出すような声。
「………どういうことよ」
目の前の青年は臆することなく、少女のその琥珀の瞳を受け止めた。
「……謝ることはできない。それは国の判断と、なによりディアーナの意思を否定することになる」
「殿下!」
直談判にくることは予想の範疇だった。
身分の垣根をものともせず妹姫をただの友として見る―――見てくれる、とても稀少な存在。
彼女の怒りの深さは、そのままディアーナへの友誼の深さだ。
嬉しいと思うのに、それが今は自分を苛む棘になる。
口を閉ざした皇太子に代わり、執務室に居合わせた筆頭魔導師が答える。
「表向きは、ダリス王に見初められたディアーナ姫が、申し込まれた結婚話を受諾した形になってる。
――実態は、攻め込まれたくなかったら王女との婚姻によってクラインの服従を寄越せということさ」
「これ以上ないってくらいカンペキな政略結婚じゃない!なんだってそんなの受けたのよ!
あたし、ダリスに迎合するような殿下たちだとは思ってなかったんだけど!?」
メイの詰問に対するシオンの返答はいたって簡潔だった。
「拒否したら攻め込まれるからさ」
「この際はっきり言っちまうけど、クラインは小国だ。その上、ダリスはありえねぇ速度で国力を高めている。
警備の強化も、軍の増強も、クライン1国で出来ることには限界がある。
一戦交えることになる覚悟はある……が、今はダメだ。今攻め込まれたら、待ってるのはクライン滅亡さ」
セイリオスが、シオンの言葉を継いだ。
「周辺の国々とも同盟を募ってるが、まだそれも磐石じゃない。
近隣国に使いを出してはいるが、返事をもらうだけでも数ヶ月単位で時間がかかるだろう。
下手をすると年単位で下準備が必要になる可能性もある。
―――とにかく時間が足りない。今のクラインには、砂時計の砂一粒が黄金の粒より貴重だ。
そして今、ダリス相手にそれがあがなえるのは………ただひとりだった」
メイはその指摘に黙り込む。
ディアーナの選択を手放しで認めることはできないが、非難することもできなかった。
何より、自らに言い聞かせるように言葉を紡ぐ目の前の青年が、血が滲むほどに拳を握り締めているのを見てしまっては。
「……あたま、冷やしてくる」
抑揚の無い声でそれだけを告げた少女は談判しに来たときとは別人のように静かに踵を返す。
何も言えずに見送るセイリオスの前で、ぱたん、と力無く扉は閉じられた。
閉じた扉に力なく寄りかかり、メイは悔しげに天井を見上げる。
「……メイ」
心配そうにかけられた声に振り向くと、金糸の髪の親友が、気遣わしげに立っていた。
「シルフィス……」
メイの脳裏に、この場にいないもうひとりの親友の、桜が綻ぶような笑顔が鮮やかに浮かぶ。
闊達で奔放なメイを、うらやましい、と笑った少女。
そっと肩に触れぬくもりを与えるシルフィスのその指は、とうに分化を終えすでに『女性』のもの。
魔法研究院に所属するメイも、騎士団に所属するシルフィスも、女であることは『公』にはさして意味を持たない。
否定されない代わりに求められもしない。それを言い訳にするなと窘められるだけだ。
だが、ディアーナは否応なしに強要される。
女であれと。
王族であれと。
―――政(まつりごと)の道具であれ、と。
あの子は、自分よりも年下なのに。
「……ガゼルが、いなくなりました」
静かに、だがはっきりと告げられた言葉に、メイは思考の海から現実に引き戻される。
弾かれたように凭れていた扉から身体を剥がすと、傍らの友人の顔を見上げた。
「早朝鍛錬に顔を見せなかったので、寮の部屋を訪ねたのですが、もぬけの殻で」
何があったのだと気を揉んだ時間はさして長くなく、王室が発表したディアーナの輿入れが、シルフィスに事情を雄弁に語った。
「似た背格好の人物が、今朝の開門がされるやいなや王都の門を抜けたのを、門の張り番の人が見かけたそうです。
北への道を、単騎で馬を走らせていった、と」
―――北。
「―――シルフィス」
ぎゅっと拳を握りこんで、メイは声を絞り出す。
まっすぐシルフィスを見返すメイのその瞳には先ほどまでの悔しさは消え去り、いつもの生気に溢れた力を取り戻していた。
「あたし、ちょっと無茶やるわ。巻き込んだら勘弁してね」
シルフィスは肩を竦めて困ったように笑う。
知らず寄っていたメイの眉根をぴんとその細い指で弾いた。
「何言ってるんです。いまさら、蚊帳の外はなしですよ、メイ」