不香の花 <七>
― 風華 ―
―――千尋……!
はっと、千尋はその瞳を見開き、寝台の上に飛び起きた。
誰かに名を呼ばれたような感覚に意識を眠りの園から引き戻された千尋は、掛布をぎゅっと握りしめてゆるりと周りを見まわす。
閉じられた半蔀の向こうからは、ゆるゆると薄明かりが漏れ始め、チチチと鳴く鳥たちが朝の訪れを告げている。
視界に移るのは常と変らぬ平穏な橿原宮の朝。
けれど、千尋の心臓は耳障りな音を奏で続け、理由のわからぬ焦燥に心が騒いで治まらない。
千尋は寝台から降りると夜着のまま部屋の扉を開ける。
とたん、あふれる光が夜闇になれた視界を染め、眩さに一瞬目を細めた。
遠く東に見える山々。その連なる峰から差し込んでくる朝日は白く闇をぬぐっていくが、千尋の心は晴れない。
瞬間、冬の冷気を纏った風が、千尋の夜着を翻しながら吹き過ぎてゆく。
ぞくりと身を震わせたのは、はたして肌を切る風の冷たさだけだろうか。
千尋は無意識に首をめぐらせ、理由もわからぬまま、北を見つめた。
その視線の先にあるのは、橿原宮を見下ろすようにどっしりと存在感を放ち、常世へと繋がる黄泉比良坂を麓に抱える畝傍山。
比良坂の先の地にいる男の面影が瞼の裏によみがえり、千尋はその影を振り切るように首を幾度も横に振った。
千尋は部屋に戻ると、留め紐をしゅるりと解いて夜着を脱ぎ捨てた。
櫃から取り出した女王の装束に袖を通すと、首筋がチリ、と熱くなり、思わず首元を掌で押さえた。
彼の唇の這った首筋は彼の熱を。彼が縛めた手首は鈍い痛みを。彼の指に掴まれた頬から顎にかけては彼の指の感触を。
もう痕すら残っていないはずなのに、彼が触れた箇所は忘れることを許さないかのように生々しい質感をもって記憶の扉を叩く。
新年はすでに明け、常世の国を空ける名目であった朝賀もとうに終えている。
だというのに、中つ国の臣たちが引き留めることを口実に、千尋はずるずると帰国を延ばしている。
戻らなくてはいけないとはわかっているのに、あの出来事を思い出すたびに、千尋の心が歯止めをかける。
憂いに染まる心のまま、千尋は黙々と帯を締め上衣を羽織り、着付けを終えた。
千尋は上衣の上にさらに肩布を羽織り、朝の澄んだ空気の中、庭先に降りた。
霜の降りる土は足の下でしゃり、という音をたて、冴える空気の中で吐かれる息は冬の朝を薄い白に彩った。
花の季節を待ち冬を耐え忍ぶ常緑樹が、千尋の傍でさらりと風に揺らされ葉擦れの音を奏でた。
冴えわたり澄んだ空に祈りを捧げるように、小さく組んだ両手を身に添えて空を見上げるように首を上向かせながら目を閉じる。
仮初めの平穏でしかないと、心のどこかでわかってはいた。いずれ破綻がくるのだと。
あの短いながらも穏やかだった時間に終りが来たのだと割り切ればいいだけの話なのに、なぜそれができないのか。
「おや、千尋。ずいぶんと早いね」
かけられた声に振り向けば、戦時と変わらず勇ましい戦装束に身を包んだ女将軍が、その姿を見せた。
けして大柄でも筋肉質でもないのだが、すたすたと歩く姿は背筋もぴんとのびていて、矍鑠とした姿は相変わらず頼もしい。
「岩長姫こそ、早いのね」
「年寄りの朝は早いもんと相場は決まってるもんだろう」
自らを年寄りと言い放ってからからと笑う姿からは年齢による老いを感じさせず、むしろ彼女を十歳は若く見せる。
微かに嗅覚がとらえた汗のにおいと、衣装にわずかに残る湿り気に、千尋はおおよそを察した。
「もしかして、朝稽古?」
「はは、わかるかい。日が昇っちまった後だと、不肖の弟子どもが我も我もと稽古をつけてもらいたがるからね。
全員をいちいち相手してたら、それだけで日が暮れちまうよ」
弟子に対する姿勢まで相変わらずな岩長姫の様子に、ふふ、と千尋は笑った。
そうして、しばらく二人で無言で早朝の風に揺れる梢を眺めていた。
長いような短いような沈黙の時間。それを破ったのは千尋のほうだった。
「………岩長姫は、なんにも訊かないのね」
千尋を引き留めようとする者も、帰国を促す者も、それとなく千尋が帰ろうとしない理由を探ろうとしていた。
前者はより確実な理由を得んがため、後者は事態を解決させようと手回ししようとするためだろう。
けれど目の前のこの女将軍は、何も言わず、何も聞かず、ただ「そうかい」と言っただけだ。
「言いたかないことを無理に暴く趣味はないだけさ」
千尋の頭に手を置いて、岩長姫はゆっくりと撫でた。
まるで幼子にするようなその仕草だが、子供扱いに腹を立てる気持ちは生まれない。
むしろ母のようにとも言えるほどに近しく感じている彼女からの愛撫は、不思議と落ち着きさえ覚える。
千尋は額をこつんと彼女の胸につけるように預けて、しばらく優しい沈黙に浸っていた。
「何かあったことぐらいは、あんたの顔みりゃわかるさ。気にならないって言ったら嘘になる。―――だがね」
岩長姫は、千尋の前髪をくしゃりと掻き上げた。
「あんたの顔、ずいぶんとマシになった。
嫁入り前の、この世の終わりみたいなツラに比べたら、可愛いもんさ」
そういって、ピシ、と千尋の額を指弾する。
「あのばーさんにも何にも言ってないってことは、国の問題じゃないんだろ。だったら、あたしらの出る幕じゃない。
悩みたいだけ悩むといい。あんたにだって、そういう人並みの苦悩の時間を持つ時間も必要なんだ。
とりあえずは久しぶりの里帰りと思って、ゆっくりしていきな。
だいたい、悩むにしたって時間もとれなさすぎだろう。少しくらいは仕事も放り出して、自分の時間をお持ちよ」
「そんな、みんなに迷惑をかけるわけには」
「あんたはちょっと周りに気を遣いすぎさ。
王が周りに遠慮してどうするんだい。王が臣下にへいこらするようになったら終わりだよ。
もともと王の不在にゃ慣れてる連中なんだ、一日二日王が使い物にならなくたって何とかするだけの技量はあると思って、こき使っておやり。
それが当たり前になっちまったら考えものだが、あんたはそれくらいしてちょうどいいのさ」
「岩長姫…」
「やれやれ、そうは言っても、あんたの性分じゃ無理かねぇ。
ま、あんまり仕事ばっかりして身体壊すんじゃないよ」
「あ、待って岩長姫」
苦笑しながら踵を返そうとする岩長姫の服の裾を、千尋が掴んで引き留める。
千尋は自分の行動に少しだけ驚いたように服を掴んだままの自らの手を見つめ、ややあって意を決したように言った。
「―――だったら、さっそく迷惑をかけてもいいかしら。
ちょっと、一緒に付き合ってほしいの。………忍人さんのところへ」
「………そうだね。久々に行くとしようかね」
岩長姫と連れだって、千尋は忍人の眠る地までの道を歩く。
岩長姫なら随従としても護衛としても申し分なく、門番に堂々と行き先を告げて正門を出てきた。
今までのようなお忍びではないことが、後ろめたくはないのに妙に違和感を覚える。
岩長姫はどこからもってきたのか、いつのまにか徳利を大きくしたような土器を一提げ肩にかけ、洋々と千尋の数歩先を歩く。
ちゃぷちゃぷと時折聞こえる音から、その徳利もどきの中身は想像通りのものらしい。
それなりの重量のあるだろうそれを肩にかけながらも、千尋の三倍以上の年齢を重ねているはずの岩長姫は足腰も年齢を感じさせないほどに元気で、手ぶらであるのに千尋はついていくのがやっとだ。
そして、朝日が昇り切り薄靄もすっかり晴れるころ、二人は忍人の墓のある丘の上にたどり着いた。
橿原宮を見下ろせる小高い丘の上。今も、忍人はここで静かに眠っている。
岩長姫は、肩に担いだ土器の栓を抜くと、ぞんざいに墓石にかけた。
ぷんと漂うその匂いは、予想にたがわず酒精のものだ。
手向けられたその酒の最後の一滴がぽたりと石に弾け、注がれた酒は石の上で小さな清流を産む。
「いつかはあの子とも、酒を酌み交わしてみたかったね」
岩長姫が零したその言葉に、そういえば忍人はあの星祭りの夜も宴に興じてはいなかったことを思い出す。
生真面目な忍人のことだ、常からそうであったのは想像に難くない。
特に苦難を耐え忍んできたこの五年が、忍人にとって心楽しいものであったはずもなく、酒に溺れることを自らに許すほど心弱い人でもない。
すべてを終えて、ようやくその先に光を信じることができた矢先に……彼は斃れたのだ。
酒を注ぎ終えた岩長姫は、墓石をぴんと指で弾いた。
「馬鹿な弟子だったよ。……あれだけ、師匠より先に死ぬなと言っておいたのに」
師君と呼んで岩長姫に心からの敬意を向けていたあの青年は、喪うにはあまりに若かった。
岩長姫は片膝を折って瞑目し、千尋は両ひざを地につけて手を合わせる。
しばらくの間ささやかな祈りの時間があたりを包み込んだ。
―――そういえば、あのときも。
アシュヴィンが千尋に、常世で形ばかりの皇妃となることを求めたあの日も、こんな風に早朝に目が覚めてしまった日だった。
再び床に就く気にはとてもなれなくて、宮を抜け出て忍人の墓参りにきたことまで、あの日と同じ。
―――ただ、私の心だけが違う。
岩長姫を供にこの地に向かいながら、千尋はそれをはっきりと自覚した。
以前の千尋であれば、こんなにも長い間忍人の墓に来ないでいただなんて考えられなかった。
忙しさは理由にならない。常世に輿入れする前は、執務に追われる中それでも時間を割いてきていたのだ。
岩長姫という供を連れることでようやく彼の墓前に来る踏ん切りがついた。
裏を返せばそれは、今の千尋にはひとりで彼に会う勇気がないということなのだと、認めざるを得なかった。
アシュヴィンに身体を奪われそうになったこと対する怒りは、千尋の中にはすでにない。
驚愕と困惑の時間が過ぎてしまえば、あの時のことをいくらか冷静に思い出すことができる。
アシュヴィンの、あの起き抜けでどこかぼやけた双眸。
そしてその瞳に理性の光が灯ってからの彼の反応を思えば、理性の元で起こされた行動でないことくらいは察しがつく。
年齢以上に達観している一面のある男だが、彼とて若い男だ。情欲に駆り立てられることもあるだろう。
アシュヴィンが、千尋のために気を使ってくれていることは、わかりすぎるほどわかっていた。
けれど千尋を見つめるその瞳に優しさ以外のものが潜んでいたことに、気付かないでいた自分の愚かさが苦しい。
形ばかりの妃という約束で嫁いだ常世。
その気になればいつでも力づくで覆せるその約束を、ずっと守ってくれたアシュヴィン。
もし、あのままアシュヴィンが無理に千尋を抱いてしまっていたとしても、最終的には千尋はアシュヴィンを許しただろう。
千尋がアシュヴィンに返せるものなど、この手のひらの上にはいくらもない。
困惑したのはそう考えてしまった自分自身だ。
それほどまでにアシュヴィンに心を許してしまったことは、忍人への裏切りではないのか。
忍人に操を立てて彼を拒みきるには、千尋の心の中でのアシュヴィンの存在は、もはや無視できないほどに大きい。
かといって、アシュヴィンとの間に愛があるかと問われても、今の千尋には頷くことはできない。
彼の行動が衝動的なものか情愛の添ったものであるかもわからぬまま常世を飛び出してきてしまった。
それでも今の千尋は常世の皇妃であり、どんな言い訳や理屈を並べたとしても、自分の心を軽くするためにアシュヴィンの妻という地位に納まったのだという事実は変えようがない。
忍人に対しても、アシュヴィンに対しても、今の千尋が誠実であるとは言えない。
「――――私は、どうしたらいいの……?」
自らの心が見えない千尋は、未だにそれに答えが出せない。
今のままではいけないことだけはわかっていても。
「千尋」
優しく落ち着いた声が、千尋の名を呼んだ。
振りかえる暇もなく、後ろからぎゅっと抱きしめられた。
両ひざを地に着いた姿勢であった千尋は、岩長姫の胸に抱きこまれるような形になる。
「岩長姫……」
「あんた、黒雷のこと好きなんだね?」
「そんなの、わかんない……」
「愛か情かじゃない、好きか嫌いかさ」
「それは………好き、だけど」
「なら、よかった。あんたは、まだ幸せになる道が残されてる」
岩長姫はほんの一瞬だけ、ひと際強く千尋を抱きしめて、そしてそっとその腕をほどいた。
ぽん、とその背を叩くてのひらは、とても温かく。
「………常世にお帰りよ。きっと、それが一番いい」
「―――でも!」
勢いよく振り返った千尋に、狙ったかのような拍子で岩長姫の指が千尋の額を弾く。
「少なくとも、あんたはここに留まると後悔する。それだけは断言してもいいね」
呆然とした千尋の横をすり抜けるようにして、岩長姫はもう一度忍人の墓前に膝をつく。
「―――ねえ、千尋。会いたいやつにいつでも会えるとは限らないってこと、あんたはよく知ってるだろう」
岩長姫の言葉に、千尋ははっと息をのむ。
「あたしだって、いつ大立ち回りを演じて命を落とすかしれない。事故だってあるかもしれない。
もういい歳だし、ある日突然ぽっくり逝っちまう可能性だってある。
―――明日の保証がないのは、みんな同じことだろう?」
岩長姫は再び立ち上がると、千尋を振り返った。
その相貌には年齢による皺だけでなく、彼女の人生そのものが刻まれている。
四道将軍の一人に数えられる彼女は、戦場に身を置きながらいったい何人の弟子や同朋を喪ってきたのだろう。
こうやって、死について思い出として話すことができるようになるまで、どれほどの涙と悲しみを乗り越えてきたのだろう。
「千尋。もしこのままこの国に留まって……黒雷かあんたか、どっちかが突然おっ死んじまったら?
あんた、今のままで後悔しないのかい」
「それは…………」
千尋は掌をぎゅっと握りこむ。
「私……どうしたら……」
「あんたは、もうその答えを持ってるはずだ。深く悩む必要なんて、どこにもないんだよ。
ただ、今あんたが黒雷に会ったら言いたいこと、してやりたいことを、ひとつずつ片づけていきゃあいい。
今の感情が恋だとか情だとか、そんな話はあとから考えればいいこった。
言いたいことややりたいことを全部片付けて……その上で、別れたほうがいいって思うんだったらそうすればいいさ。
全部やり直して、黒雷との間に愛情を育てることができると思うなら、今からだって遅かない」
「……でも……そんなの、忍人さんに、申し訳な…」
「千尋が幸せになれる道があるのなら、その道を忍人が阻むはずがないよ。
あんたが好きになったのは、そんな狭量な男なのかい?」
「………岩長姫」
「黒雷を選んだことを恨みに思うような度量の狭い男なら、『そっちこそ何で置いて逝ったのよ』とくらい恨み事の一つでも言っておやり。
そのくらい言ったって罰は当たらないだろうよ。
―――ま、忍人がそこまで小さい男だとは思わないけどね」
「私……私は……」
「忍人のことを思うならこそ、あいつを重荷にしちゃいけないよ。あいつを言い訳にしてあんたが幸せから逃げることを、忍人は望まない。
―――忍人が文字通り命をかけて守り通した千尋の今生だ。それを悔いのあるものにだけはするんじゃないよ」
ぽろぽろと、千尋は大粒の涙を零す。
「……わたし……もう一度、幸せになろうと思っても……いいの……?」
「ばかだねえ。誰が不幸を抱えて生きろなんて言ったんだい」
千尋は必死に堪えようとするが、その努力を裏切るようにぼろぼろと止め処なく涙はこぼれる。
岩長姫は千尋のその華奢な肩を抱き寄せて、自分の胸に押しつけた。
「―――胸ぐらい貸してやるよ。思い切り泣くといい」
千尋は感極まったように抱きつくと、今までこらえてたものが溢れたように、わあわあと叫びながら泣いた。
―――忍人さん、忍人さん、忍人さん―――!
忍人のために泣くのは、これが最後になるだろう。
彼のためにこそ、自分は幸せの道を歩まなくてはいけない。
いつか、遠い将来に自分が命を閉じたときに、彼が残してくれたこの命を精一杯幸せに生きたのだと胸を張って言えるように。
抜けるように高く、透けるように蒼い蒼穹の空に、少女の涙は吸い込まれるように溶けていった。
岩長姫独壇場。気風のいい人物なので、彼女の台詞は書いてて楽しかったです。千尋だけで心の整理つけさすのは無理そうだったんで、彼女に千尋の後押しをしてもらいました。
いっそ岩長姫くらい年食ってたほうが言うことに重みがでるかなというのもあったんですが、実際、遙か4メンツで一番忍人と付き合いが長いのは、同門たちをぶっちぎって、岩長姫だと思うのですよ。羽張彦は一の姫と失踪、柊は常世へ鞍替え、風早は千尋と那岐を連れて現代へ、道臣は別行動期間が長かったみたいですし。部下の狗奴たちは当然軍籍に入ってからの付き合いだろうし。
そんなこんなでようやく千尋に心の準備が出来始めてきました。アシュヴィンをどん底に突き落としたまんまだけどね!はっはっは。もうしばらくお付き合いくださいませ(笑)