不香の花 <六>

― 玉塵 ―







混乱する思考を抱えたまま、千尋は自室に飛び込んだ。
中つ国へと帰国することはとうに周知の済んだ千尋のその部屋に訪れる者もいるわけもなく、しんとした静寂が落ちている。
千尋は閉じた扉へ身体を凭れかけさせ、ずるずると座り込んだ。


あの瞬間心のうちに満ちあふれた恐怖と怒涛の勢いで迫りくる困惑とで、千尋の思考は混乱の渦に飲み込まれる。
ぎゅっと自らの身体をきつく抱きしめると、頬を透明な雫が零れおちた。


「……どうして……」

ぽつりとこぼれたその問いに、答えるものはない。









窓の外から聞こえるざわざわとした人の気配が千尋に帰国の予定を思い出させる。
アシュヴィンに出立の挨拶をしてくるからと、風早たちを根宮の前で待たせたままだ。
心に受けた衝撃に重く感じる身体を叱咤して身を起こすと、濡れた頬を袖で乱暴にぬぐい、乱れた衣装を整えた。



「―――……千尋?」

根宮の内に引き返した千尋を輿の前で待っていた風早は、てっきりアシュヴィンと連れだって来るものと思った当の千尋がひとりで戻ってくる姿を見て眉をひそめた。
彼らの間に夫婦としての事実はないことは薄々察してるとは言え、妃を蔑ろにしていると付け込まれるような隙を作ることを、あのアシュヴィンが進んでするとは思えない。

「―――待たせてごめん、風早」

固い声音で告げる千尋に、風早の疑念はさらに強くなる。
時を追うごとにやわらかくなっていた千尋の表情が、まるで輿入れ前の彼女に戻ったかのように硬質になってしまっている。
この小半時にも満たない短い時間で、いったい何があったのか。

「千尋、アシュヴィンはどうしました」

告げられた名に、千尋がびくりと身を震わせた。

「……いいのよ、行きましょう」

風早とすら視線を合わせようとはせず、足早に輿に乗り込む千尋の様子に何事かがあったことは察する。
だが、それを問いただすより先に、風早はふっと強張った表情をほんの少しだけ弛ませた。

「―――この気配は……そうか」

千尋を包む気配が、わずかに変わっている―――風早の知る、ある気配に。
アシュヴィンは千尋にずいぶんと豪勢な護衛をつけたらしい。
宮に取って返して何があったのかを首根っこをひっつかんで今すぐに問いただしたい衝動はとりあえず鞘におさめ、風早は出立の命を下した。

―――大切にしたいのだ思っているのだと、今のところは信じておきますよ。

この場にいない相手に向かって、風早は心の中でつぶやいた。








ぞろぞろと根宮から伸び、宮を離れていく行幸を、遠くの窓から眺める人影があった。

千尋が離れていく。
この国から。この宮から。―――自分の、腕の中から。

―――ガッ!

きつく握りしめた拳を桟に叩きつける。

「くそ……っ」

後悔の念が渦巻く嵐の中に、ひとりアシュヴィンは取り残される。



泣かせたいわけではなかった。
奪いたいわけではなかった。

もとより自分を見ないことは重々承知の上だ。
アシュヴィンが望んだのはたったひとつ。
そのためなら、彼女を求めるすべての心をあきらめる覚悟であったのに。

どこで歯車が狂ってしまったのか。


―――きっと、千尋は戻らない。


アシュヴィンはいつまでも伸びてゆく行幸の光景から無理矢理視線を引き剥がすと、外套をばさりと翻し窓に背を向けた。












千尋が中つ国に戻り、弓張の月が再び朔を迎えて幾日経つとも、千尋帰還の報は届かない。

「兄様、いくらなんでも義姉様の帰り遅すぎない?
新年はとっくに明けて、朝賀なんてもう終わってるんでしょ?」

慕う義姉の帰還を待ち焦がれるシャニが、あまりに長い滞在を訝しんで問うてくる。
アシュヴィンはシャニと視線を合わせず、竹簡を読む手を休めることすらなく、投げやりに返事をした。

「向こうの執務が長引いているんだろう。
もともと千尋はあちらの国の王だ。こちらにいる時より多忙になってもおかしくはない」

「そうかもしれないけど!
兄様なら帰国がいつになるのかくらい聞いてるんでしょう」


「いや……千尋は、しばらく帰らないだろう」

気まずげに視線を逸らす兄に、シャニは委細はわからぬまでも何事かがあったことを察する。

「なに?兄様たち喧嘩でもしたの?」

当たらずとも遠からずのところを突いてきたシャニの指摘にアシュヴィンは、うっ、と詰まる。
その様子に、さもありなんとばかりにシャニは大きくため息をついた。

「もう、どうせ兄様が義姉様を怒らせるようなこと言ったんでしょ!
兄様は口はうまいくせに変なとこで女のひとに無神経なんだから!」

「悪かったな」

「それ、言う相手が違うでしょ。とっとと義姉様のとこ行って謝ってきなよ、兄様」

その言葉に再び憮然と黙り込んだアシュヴィンの様子に、シャニは再度嘆息する。

「―――もういいよ!兄様が行かないんなら、僕が行ってくるから!」



ぷりぷりと怒りをあらわにして部屋を出ていくシャニを見送って、傍に控えていたリブが眉根を寄せる。

「……よろしいのですか、陛下」

「構わん、放っておけ。シャニが行ったところであれが戻ってくるとは思わんが。
……どちらにせよ、今戻ってくるのも望ましくない。
中つ国にいたほうが、シャニも安全だ」

真剣なアシュヴィンの口調に、リブも表情を改める。
いろいろと省略された会話でも、通じるものはある。

「相変わらず若雷様には過保護なことですね。
……やはり、内紛になりそうですか」

「それほどご大層な規模じゃない。だが、予想より少々しぶといな。
一度叩いておかねばならなくなりそうだ。
千尋―――龍神の神子という派手な看板があるうちはまだ大人しかったんだが」

「なるほど。皇妃様の留守に動きがあるということは、龍の加護の薄い今を狙って動く、と?」

「俺たちにとってみればお笑い草だがな。
もとより神の加護をあてにして動いたことなどありはしない」

机の上に竹簡を投げ出して、アシュヴィンは皮肉な笑みをその顔に刻む。

神なんぞあてにしたところでろくなことはない。
その神とやらが、この国を疲弊させ、父を奪っていったのだ。



アシュヴィンは椅子の背もたれに体重をかけて凭れると、そっと瞼を閉じた。



―――そう、龍神の力も、神子の名も、中つ国の王の地位すら俺には不要のものだ。

そんな余計な付随物を求めて千尋を傍に留め置いたのではない。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、この常世で共に過ごした千尋との日々。

……もう戻らない、切ないながらも穏やかな時間。


それを粉雪のように砕いてしまったのは、アシュヴィン自身だ。




断ち難い未練を振り切るように首をひとつ振ると、椅子から立ちあがった。


「龍神の神子という重石ひとつで日和見に走る輩なんぞ、恐れるに足らん。
―――だが、千尋がいないことで動きがあるというのなら、利用しない手はないな。
せいぜい盛大に膿を出させてやろうじゃないか」




その言葉に答えるかのように、慌ただしく扉を叩く者があった。

「何事だ」

「岩砦よりの急使でございます!」

扉越しに、聞きなれた文官の慌てた声が聞こえる。
傍らに控えるリブと一瞬だけ視線を見かわす。
入室を許すと、文官に続き、埃と土で薄汚れた武官がまろぶように入ってきて床に膝をついた。

「皇陛下に申し上げます!岩砦よりの伝令にて、『北が動いた』と!」


部屋に満ちる緊張を破ったのは、不敵なアシュヴィンの笑いであった。

「―――ふ、こうまで予想通りだと拍子ぬけするな。
皇位に就いて日が浅いからと高を括っているとしたら、俺もなめられたものだ」

言いながら、外套を掴んでばさりと羽織る。

「俺が出る。根宮は任せたぞ、リブ」

その反応は予測の範疇だったのか、リブはやれやれと頭を掻いた。
アシュヴィンの反応を知り尽くした宰相と違い、慌てたのは武官を連れてきた文官である。

「陛下自らおでましになると?
すでに御位におつきになっておられるのに、あまり軽々しく根宮をお離れになっては威信に関わりましょう。
たかだか地方の反乱ごとき、配下にお任せになり宮で吉報をお待ちくださればよろしいかと」

「ぞろぞろ軍を引き連れてちんたらやるよりは、俺が出て行ったほうが手っ取り早いだろう。
戦を人任せにするのは性に合わん。
………それに、いささかひと暴れしたい気分なのでな」

ぼそりと零された声が聞こえたのか否か。
説得を諦めたように微笑んで、リブが奔放な主人に釘をさす。

「では、一時根宮をお預かりいたしましょう。
ですがせめて護衛はお連れ下さい。……いつものあれは、皇妃様のために割かれていらっしゃるのでしょう?」

「ああわかっている。馬の準備を急げ。だが随従は少数でいい。―――派手にやって、とっとと終わらせてやる」









リブに根宮を任せてはや数日。
アシュヴィンは岩砦にたどり着くやいなや報告を受けることもそこそこに馬を北へと向かわせた。


「―――あそこか」

ひん、と嘶く馬の手綱を操り、高い崖の上から敵陣を見下ろす。
馬で降りることは難しそうな急峻な崖はそれだけで防壁となりうるが、偵察する側にとっても好都合だ。
ぽつぽつと灯る篝火が闇にゆらゆらと浮かぶ。

時は折りしも夜明け前のもっとも闇の深くなるころ。
ことさらにアシュヴィンが命じたわけではないが、黒雷の異称と常に連れる黒麒麟の印象の強いためか、用意される馬はたいてい青毛の黒馬だ。
アシュヴィン自身が見た目の豪奢さには興味がないこともあって馬装も簡素で目立たない。
闇にまぎれるにはおあつらえ向きだ。



「さて、ではせいぜい派手にやるとするか」

アシュヴィンは腰に佩いた剣をすらりと抜いた。
随従の武官がはっと息をのむ。



瞬間、空気が震える。
血を溶かしたようなその剣の紅の刀身が、光が纏わりつくように電撃を帯びる。
周囲に満ちる波動に揺らぎ、風もないのにざわざわと梢が鳴る。
高々と剣を掲げれば、鳴神の祝福を受けるアシュヴィンの意のままに、漆黒に染まる夜の空に天に向かって雷光が走った。



「―――黒き雷よ、刃向う者どもを討て!」



ドォンッ!!と耳を劈くような轟音と同時に視界を真白に染めるほどの光が満ち、衝撃に鳴動し大地が揺れた。
雷の落ちた陣の一角が瓦礫となって崩れおちる。
崩壊に巻き込まれた篝火の炎が辺りを燃やし、それが陣の惨状を照らしだした。


名にし負う黒雷の本領ともいえる鳴神の破壊力。
初めて間近で見たそれと眼下に広がる光景に、随従の武官たちも言葉を失う。


アシュヴィンは剣を鞘に収めると、陣を睥睨する。
突然の衝撃に狼狽し取り乱す兵たちの様子が、その場所からでも見て取れた。
物理的な被害は少なくても、敵に与えた精神的な衝撃は目に見える被害を越え大幅に戦力を削ぐはずだ。


「このまま雷で破壊しつくしてもいいが、それでは徴集されただけの兵が哀れだな。夜が明けたら降伏勧告を出せ。
大人しく投降すればよし。拒めば今度こそ完膚無きまでの殲滅が待つ、と。
容れるかどうかは敵将の器量次第だが。―――よし、岩砦に戻るぞ」


アシュヴィンの命に従い、一同は馬首を翻した。









―――ヒン、ヒヒィィン!!

山道を下りるべく馬を走らせていると、突然混乱したように馬が嘶いた。
次いで棹立ちになり暴れだす。

「―――おい、どうした?」

アシュヴィンを振り落とすかのように暴れる黒馬を御するべく手綱を引き絞るが、馬は何かに怯えるように興奮をやめない。
随従の武官たちの馬も同じ様子で、すでに幾人かは馬から振り落とされていた。

アシュヴィンは馬の制御をあきらめ、手綱を手放し自ら飛び降りる。
大地に着地するのと同時に黒馬は騎手を置き去りに走り去って行ってしまった。

「――――まずいな」

アシュヴィンは険しい表情を浮かべる。
常日頃は黒麒麟に騎乗することが多いアシュヴィンはこのような状態に陥ることを想定していなかった。
だが、馬たちのこの反応が何を意味するかわからぬわけではない。
獣は人間よりはるかに危険に対して鋭い生き物だ。
危険を感じる何かが近くにいる証明に他ならない。

訓練されたはずの軍馬すら、恐怖によって興奮に陥らせるほどの『何か』。

―――荒魂か。

その推察を証明するかのように、樹々の隙間から赤く爛々とした瞳をした大きな影がのそりと姿を現した。




禍日神が墜ちてのち、新たに生まれることはなくなったはずだが、すでに荒魂になった命がもとに戻ることはない。
―――アシュヴィンの父皇がそうであったように。
目の前の荒魂は、そういった過去の置き土産だろう。
狼を何倍にも大きくしたような体躯と、剥き出しにした白い牙を覗かせている。おそらくは人の身でなく獣が化したものだ。
あるいは千尋であれば和魂に浄化できたかも知れない。だが現状でそれはないものねだりだ。

アシュヴィンはちらりと随従の武官たちに視線を走らせる。
突然の落馬の衝撃で怪我を負った者ばかりで、中には間近でみる人外のものに驚愕と恐怖で凍りついた者もいる。
戦力としてあてにはなりそうにない。むしろ足手まといだ。


―――チッ。

アシュヴィンは舌打ちをすると剣を鞘から抜き放った。

「……俺が囮になるしかないな」

「陛下!……どうか、我らのことは、お捨て置きくださ……」

「黙れ。俺を卑怯者にするつもりか?
臣下を見捨てる皇はもはや皇ではない。お前たちが許しても、俺の矜持がそれを許さぬ」

武官の懇願を、にべもなく拒否してアシュヴィンは剣を荒魂に据えた。


別に自らが犠牲になろうなどという感傷で言ったことでもなく、勝算は充分にあった。
荒魂との戦闘は幾度も経験していたし、アシュヴィン自身は五体満足で戦力に不足はない。
目の前の荒魂の強さは未知数だが、いざとなれば鳴神で一撃すればおそらく致命傷を与えることができる。
敵陣近くで乱発するには位置を気取られる懸念があるため、それは最後の手段だろうが。


「俺の命を案ずるなら、せいぜいとっとと逃げのびろ!」

言って、大地を蹴ると荒魂に剣を振り落とす。
ガシン、と思いのほか硬質な皮膚の手ごたえに、これは油断できぬと気を引き締める。
荒魂は、がるる、と咆哮をあげ自らに攻撃を加えたアシュヴィンに向かって牙をむいた。

「そうだ、来い!」

とにかく少しでも彼らから荒魂を引き離さなくてはならない。
挑発しながらも森の中に飛び込んだアシュヴィンを追い、荒魂は樹々の中に消えていった。

「陛、下……!」

武官たちの悔しげな声が滲む。
護衛でありながら、守られているのは自分たちだなどと、なんと情けないことか。
けれど皇を追って森に入っても、満身創痍のこの身体で追いつくことはかなうまい。
追いつけたところでまさに足手まといになる。

「この身が足手まといになるのであれば、いっそ…!」

自らの太刀に手を駆ける武官を、他の武官が制する。

「よせ!陛下がなんのために危険を冒されたと思っているのだ!」

「だが…しかし!」

「我らが自らの身を処分するのは容易いが、それでは皇の命を誰がお助けする!?
とにかく、今は陛下の御力を信じ、山を降りて砦へ…!今の我らではお救いすることすらかなわぬ…!」

血を吐くような思いでそう決断した声に、悔しげな声をあげながらも反論するものはいなかった。









どれほどに駆け続けただろうか。
夜明け前の漆黒の空は少しずつ白々と明けて、赤く光る目だけでなく視界をよぎる影で動きをとらえることも可能にはなっていたが、相反するように消耗する体力によって動きが鈍くなりつつあることを認めざるを得なかった。

「ちっ……なまったものだ……!」


ザザザ、と茂みを掻き分ける音が終わり、足にかかる抵抗が突如軽くなる。
森が途切れ、崖のふちに出たのだと把握するより前に、襲い来る影に反応し剣を薙ぎ払う。
薙いだ剣は荒魂を捉え、ギャン、と耳障りな苦痛の声が響く。
幾度も切りつけた剣は、少しずつ、だが確実に皮膚を削り、荒魂の力をも削ぎ落としていく。

―――もう、少し…!


果ての見え始めたことが、油断を生んだのだろうか。

どん、と身体に鈍い衝撃が走る。



瞬間、世界が反転した。

天に吸い込まれていくような感覚は足場を失ったためだと理解するには、自らの状態を把握する時間がなさすぎた。


視界の端を横切る朱の色は、朝焼けに染まる光か、それとも。



――――千尋……!


途切れる意識の最後の瞬間、強く脳裏に浮かんだのは、最後に見た千尋の哀しい面差しだった。














 


ほとんどアシュヴィンの戦闘描写ばっかりになってしまいました。千尋出番殆どなし。
そのぶん次回は千尋が出ずっぱりになる予定です。
アシュヴィンの恋に揺れる姿ばかりじゃなくて、皇としてかっこいい姿を書いてみたかった。え?かっこよくない?