不香の花 <五>

― 玉屑 ―




朝賀のために、一時中つ国へと帰国をしたいという千尋に、アシュヴィンはあまり色よい返事をしなかった。
理由を聞いても常ならば理詰めで説くアシュヴィンには珍しく、歯切れ悪く言いよどむ。


「……しかたあるまいな。常世とて暇を持て余すわけではない。早々に切り上げて戻ってくるならば、認めよう」

ようやくその譲歩の言葉を引き出せたのは、千尋が食い下がった結果だ。
反対する理由も明かさずのらりくらりと言い逃れを見せたアシュヴィンに、千尋もあまり気分の良い状態ではいられず、乱暴に踵を返す。

「わかったわよ!それじゃあ私は執務に戻るから!」

どん、とやや大きな音をたてて閉じられた扉に、アシュヴィンはため息を零す。





常世に来たばかりの頃に比べれば千尋はずいぶんと昔の面影を取り戻している。
彼に対等の目線で楯突く気丈さも、陽光が照らすような暖かみのある笑顔も、まっすぐに国を見据える理知的な瞳の輝きも。
アシュヴィンの求めてやまぬあのころの彼女が戻りつつあることは、喜ばしいことではある。

―――先日の、一線を引いた彼女の言葉さえなければ。



かたり、と机の引出しを開けると、そこには小さな小箱が入っている。
小箱を手に取り、手のひらで玩ぶ。

「………俺も愚かだな。光り物ひとつで彼女の歓心が買えるわけもあるまいに」

彼女の瞳をとかしたような、美しい瑠璃をあしらった耳飾り。
鮮やかな彼女の金色の髪と白い肌によく映えるだろうと手ずから渡しにいった先で、決定的な隔絶の言葉を拝領するはめになろうとは。

「いまさら、だな」

ふ、と自嘲の笑みを深くしてアシュヴィンはゆっくりと首を横に振る。

彼女らしさが戻りつつあることを素直に喜ぶには、かすかな期待に揺れた自身の心が邪魔をする。
そっと引出しに小箱をしまうと引出しを閉じ、再びそれは机の奥に眠った。

「最初からわかっていたことだと言うのに、存外俺も未練がましい男だったということか」






「さて、それにしてもこの時期に中つ国か……どうしたものか」

別に中つ国に行くことそのものに不都合があるわけではない。
戦時と違って今は中つ国は信のおける友好国だ。
中つ国の王、そして常世の皇妃としての千尋が健在である今、彼の国がこちらに不利益をもたらす可能性は低い。
特に朝賀という大がかりな舞台、国の復興を知らしめるこの絶好の機会。
不穏な動きが国内(くにうち)にあろうとも国としての威信にかけてあの老獪な女怪殿が収めるはずだ。

―――むしろ問題は我が国のほうだ。




アシュヴィンは、手元の竹簡に視線を戻す。
そこには、届けられたばかりの中つ国からの親書があった。


中つ国からの書簡でありながら、千尋の元ではなくアシュヴィンのもとに直接届けられたそれは、先日常世を訪れた王族―――那岐の名で綴られたものだ。
良く言えば率直、悪く言えば無遠慮な、歯に衣着せぬ文面がつらつらと綴られたそれは、先日の訪問の帰りの出来事にも触れてあった。

権力争いは国の暗部。多かれ少なかれどこの国でも撲滅しきれぬ身中の虫だ。
自ら進んで王族扱いされることを好まぬ那岐が、王族の名義と権限を全力で活用して親書をよこした。
そして千尋に知らせず自分にだけに知らせてきたということは、アシュヴィンの権限の及ぶ範疇で片をつけろということだろう。

―――責任もって千尋を守れ。

この竹簡の意味を一言で要約するとそういうことだ。


「守ってみせるとも。俺の目の届く範囲で勝手はさせるものか」

竹簡を握り締めて見据えたその燃える瞳は、恋に揺れる男のものではなく、皇としての覇気に満ちたものだった。






資料を捲り書簡を綴り、采配をふるうさなか、アシュヴィンはふと考え込むように顎に手を当てて何かを思案する。

「―――いでよ、我が盟友」

次の瞬間、虚空に向かって黒麒麟を呼び出した。
招請に応え、ふわりと重さを感じさせぬ仕草で、漆黒の聖獣が宙に浮かぶ。



「黒麒麟、今この時よりわが妃の警護につけ」

アシュヴィンは黒麒麟の首を撫でるとその双眸を見据えながら命じた。

「俺が命を解くまで、俺の目の届かぬ地にあっても常にそばに在れ。その身を襲うすべての災厄から守れ。―――頼む」

その漆黒の毛並みをもう一度撫で、ぽんと首筋を叩いて告げる。
命じるというよりは託すようなその言葉に応えるかのように、黒麒麟は一声嘶くと溶けるように闇に消えた。


黒麒麟が消えたその虚空を、アシュヴィンはしばらくの間無言で見据え続けていた。










―――なによ、アシュヴィンの馬鹿!

ぷりぷりと怒りながら、千尋は廊下を歩く。
アシュヴィンが、理由もなしに公的な催事への参画を反対するような男でないことは百も承知だ。
だとしたら、千尋が中つ国へと朝賀に帰ることに何かしら問題があるか、もしくは引っかかりを覚えているのだろう。

―――理由があるのなら、言ってくれればいいのに。


千尋の行動に反対することを怒っているのではない。
千尋になにも話してくれないことを、腹立たしく思うのだ。

自分がアシュヴィンに信用されていないのだとは、思いたくない。
形ばかりの関係とはいえ、うぬぼれが許されるならそのくらいの信頼関係は自分たちの間にも培われているはずだ。
かつて刃を切り結び共に戦場を駆けたというのに、アシュヴィンにとって千尋は守られるべきか弱い存在なのだろうか。
それとも、本当にアシュヴィンに信用されていないのだろうか。それだけはないと、信じたいけれど。



「―――っ!?」


千尋は、突然自身を襲った感覚に足を止める。

―――なんだろう、今の。

一瞬だけ身体を通り抜けて行ったなんとも形容のしづらい感覚に、千尋は戸惑う。
うまく言葉にはできないが、あえて言うのであれば、自らの纏う空気が変化したような……不思議な違和感。

龍の神子と呼ばれる中つ国の王族として生まれついていながら、力のない姫として育った千尋は、こういった超感覚的な出来事には圧倒的に知識も経験も足りない。
けれど、荒魂や禍日神など、戦時にそういった存在と否応なく接触した経験だけはある。
実戦で磨かれた千尋の感覚は、慣れぬ違和感に困惑しながらも、これを「悪いもの」とは捉えなかった。
戸惑いながらも、自らのその感覚をとりあえずは信じることにして、千尋は再び歩みを進めだした。


千尋がこのときの感覚の意味を知るのは、もう少し後のことになる。












「……え、アシュヴィンはもう部屋に戻っているの?」

千尋が中つ国へと出立する日。
一応挨拶と報告を兼ねて執務室を訪れた千尋は、まだ太陽は南中したばかりの時刻の部屋の主の不在に、驚きの声を零した。
リブが申し訳なさそうに頭を掻いて謝罪した。

「や、申し訳ありません。せっかくおいでいただいたというのに。
午後に謁見が入る予定だったのですが、到着が遅れるとかで少し繰り下がりまして。
陛下はあいた時間も他の仕事をするおつもりだったのですが、最近少々お疲れのようにお見受けしておりましたので、少し休息を取られてはとお勧めしたのです。
皇妃様がおいでになるとは思わず、差し出た真似を」


「いいのよ、この時間に来るって言っていなかった私も悪いのだもの。
とりあえず、部屋に行ってみるわ」

笑顔で手を振ると、千尋はアシュヴィンの執務室を後にする。

「……アシュヴィンの部屋、かぁ…」

アシュヴィンの私室の場所は心得ているが、日中の用事は執務室で事足り、夜は彼が千尋の自室を訪れる。
千尋が自らアシュヴィンの部屋へと足を運ぶのは初めてだ。
そう思いいたって、千尋はくすりと苦笑を零す。

―――ほんと、なんて他人行儀な夫婦だろう。

夜の訪いと言えば艶めいて聞こえるが、そこに色ごとは何もないのだ。
よき友であれるよう努めようと心に決めてからは、夜の訪問の時間も心に警戒をもたらすものではなくなった。
千尋が心の整理をつけてから、かえってアシュヴィンの表情が固くなっているように見えるのだけが気がかりではあったが、むしろそこかしこに人目のある昼ではできない、本音での話をできる時間として、千尋の中でも位置を確実なものとしつつある。

なんにせよ、とりあえずは行ってみないことには話にならない、と千尋はアシュヴィンの部屋へと足を向けた。





「―――アシュヴィン、いる?」

数度ノックしてみても、応えは返らない。
休息のために戻ったと聞いたし、もしかして眠っているのかもしれないとも思うが、ためしに扉の握り手を掴んでみれば鍵は掛かっておらず、あっさりと扉は開かれる。
許しもなくアシュヴィンの部屋に入ることに少し逡巡したが、とにかく不在かどうかだけ確かめよう、と思い切って千尋は部屋の内に足を踏み入れた。




皇の部屋というからには豪奢で煌びやかなものを想像していたが、思いのほかその部屋は落ち着いた雰囲気を持っていた。
簡素や質素という言葉も相応しくはないだろう。
調度が高価なものであるのは間違いあるまいが、華美に過ぎず、むしろ感性の良さを漂わせるそれは、かえって皇としての品位を窺わせた。
アシュヴィン自身の趣味もさることながら、その前にこの部屋の持ち主の面影を色濃く残しているのだろう。

前皇スーリヤ―――彼の父の実像を、こんな時に垣間見る。
千尋は荒魂となったあとのスーリヤしか知らない。それとてろくに知っていると言えるものではない。
けれど、アシュヴィンやシャニが時折語る思い出の端々や、常世の歴史を紐解く過程で垣間見えるスーリヤの姿から、本当によき皇よき父であったのだと知ることはできる。

思い出の詰まるこの部屋でひとりで過ごすアシュヴィンを思うと、自分にも覚えのある感覚に千尋は胸が締め付けられる。




「アシュヴィン?アシュ――――あ。」

きょろきょろと部屋を見回すと続き部屋になっている奥の寝所の寝台がほんの少しだけ垣間見え、見慣れた赤い三つ編みが視界に入る。
そろりと足音を殺して寝所のそばに近付けば、広い寝台に横になって眠るアシュヴィンの姿があった。


「………いたんだ」

寝室にそっと足を踏み入れても、部屋に敷かれたやわらかな緞子が千尋の靴の音を消してくれる。
そっと寝台に腰をおろせばギシリとかすかに軋む音をたてたが、アシュヴィンはいまだ夢の世界の住人だ。

―――そういえば、アシュヴィンの寝顔見るのも、初めてね。

千尋の部屋に来てもいまだ長椅子を寝台がわりにする彼は、千尋が目を覚ましたときにはもう部屋を出ていることがほとんどで、目の前の光景がやけに希少もののように映る。
鍵をかけずに休むなどという彼らしからぬ不用心さに千尋は眉根を顰めたが、初めて見る彼の寝姿に、文句もどこかに消えてしまった。

「……けっこう、かわいいかも」

本人が起きてるときにはけして言えないだろうそんな言葉もするりと口をついて出てくる。
他者を威圧する炎がともるような瞳も閉じられた瞼に隠され、彼の表情を少しだけ幼く見せる。

彼の頬に張り付いた一筋の髪をそっと白い指ではらうと、閉じられた瞳が、ゆっくりと開かれた。



「………千尋?」


アシュヴィンは完全には覚醒していないようで、ぼんやりとした視線を彷徨わせ、そこにいるはずのなかった人物の上で留まる。
起こすつもりなどなかったのに、結果として起こしてしまった千尋はあわてた。
いやそれ以上に彼の私室に無断で入ってしまっているのだということに今更のように気づき、どう取り繕ったものかと狼狽する。



どう言い訳をしようかと思案する千尋を、アシュヴィンはいまだ覚醒しきらない思考で見やった。



中つ国の女王としての装束に身を包んだ千尋。
美しく凛々しく、けれど常世のものとは確実に趣を異にする華やかなそれは、まるで常世の色には染まらぬと告げているかのようで。


アシュヴィンの顔が、苦渋の色に染まる。
あの決定的な一言を聞いてから、ぐずぐずと胸のうちで燻っているものがある。


―――幾月、幾年そばに留め置こうとも、彼女の心がこちらを向くことがないのなら。


常ならば理性のもとで押さえこまれる黒い感情に、未だおぼろな思考が浸食されていく。




「ごめん、起こすつもりなんてな――――っ!?」

謝罪の言葉を紡ごうとした千尋は、突然腕をつかまれ寝台に引き倒される。
四肢で檻を作るかのようにアシュヴィンに覆いかぶさられ、ようやく彼に押し倒される格好になっているのだと気づく。

「まだ日の高いうちから夜這いとは、ずいぶんと大胆な奥方だ」

「な―――違、ちょっと、やめて!」

「夫の寝所に訪っておいて何を言う。――同衾での貞操は保証しないと、以前言ったはずだが?」

「同衾って!」

寝台に腰を掛けていただけでそんないかがわしい行為に結び付けられてはたまらない。
千尋は全力で抗うが、男の力でやすやすと封じ込まれてしまう。

全身で自身を拒む千尋に、アシュヴィンの胸はどんどんと黒く染まっていく。


「いつになったら、お前は俺を見る?俺はこんなにも、お前に触れたいと渇望しているのに」


千尋の両手を片手で捉えて彼女の頭上で拘束して顔を近づければ、口付けを拒むように顔を逸らされる。
顔ごと背けられるその視線を、もう片方の手で顎を掴み無理やり合わせる。

「千尋、俺を見ろ。お前の視界に映るのは誰だ?」

「…………っ」

「言え、千尋。お前の目の前にいるのは誰だ」

零れるほどに眦に涙をためて、それでも気丈に唇を引き結ぶ。
常ならば美しいと見惚れるであろうその強いまなざしも、今はアシュヴィンを拒むものでしかない。

胸の内を黒いものに蝕まれ、アシュヴィンは衝動に任せて千尋の着物の袷を無理やりに押し開いてその白い首筋に歯をたてた。







「いやぁぁぁぁ―――――――――っ!!!」


「――――っっ!!」


堪え切れぬ恐怖でこぼれた絹を裂くような悲鳴に、アシュヴィンの思考が水をかぶせられたように一気に冷える。
どこかうつろだった思考がまわりはじめ、理性を取り戻すと、現状を把握し青褪める。



腕を押えて今自分の身体の下で千尋は、誰におびえている。

千尋を組み敷き、自由を奪い、望まぬものを暴こうとしているのは誰だ。



「あ―――」

腕を拘束する力が緩んだその瞬間、全力で振りほどき自由になった腕で千尋はアシュヴィンを突き飛ばした。
天蓋を支える柱に身体を打ち付けたアシュヴィンがようやく理性を取り戻した瞳で千尋を見やれば、千尋は乱れた服ごと身体をかき抱いて後ずさった。


「…………千尋」

恐る恐るかけた言葉に、千尋はびくりと身を震わせた。
次の瞬間、寝台から飛び降り、呆然とするアシュヴィンを一瞥もせず、開け放たれたままの扉から飛び出し、駆け去っていった。

ぱたぱたと軽やかな足音だけが耳に届く。


アシュヴィンは虚脱したように天蓋を見上げた。




逃げ去る直前の、千尋の表情が目に焼き付いて離れない。
アシュヴィンを見る瞳は、驚愕と恐怖に彩られ、そこにはアシュヴィンを肯定する感情はひとかけらも見当たらなかった。


そこに恋情がないにしても、同盟者としてまた戦友として少なからず培われていたはずの信頼は、たったいま音をたてて砕け散ったのだ。


「は…………はは………」



乾いた笑いが響く。
自らを嘲るような笑い声だけが、いつまでも虚ろに部屋に響き続けた。


 


アシュヴィン、ずっとがんばって理性を保ってたのに、うっかり寝ぼけて大失態★(いやそんな軽く言われても)
話としては折り返し地点です。ようやく二人の間に変化が訪れます。はい。折り返し地点ということはこっから先もちょっと長いです(笑)
一応今回は副題を潜ませることができました。砕け散った信頼を玉屑に見立てて。というか説明しないとわからん。

そーろそろ雪の異称のストックが尽きてきましたよー(笑)連載終わるのが早いか、名前のストックが尽きるのが早いか(笑)