不香の花 <四>
― 天花 ―
風早と那岐の後姿が見えなくなるまで見送って、千尋は根宮の扉の前でひとりため息をつく。
―――心配をかけ通しだな。……あたりまえだけど。
忍人を失ってから腫物を触るかのように気遣われる中、あんな形で突然結婚を決めてしまえば、周りが戸惑わないはずもない。
びゅう、と吹き抜ける風が裳を翻させる。
乱れる髪と衣装を抑え、扉の奥に戻れば、途端、静寂が身を包んだ。
千尋は肩布を羽織りなおすと、ひとり物思いにふけりながら自室へ向かい歩を進めた。
こつ、こつ、と履物の奏でる音が石造りの根宮の廊下に響く。
那岐や風早に言ったことに嘘はない。
アシュヴィンは確かに千尋に対して誠実で、皇としての評価も自賛に違わぬものだ。
思い返せば千尋が常世に皇妃として嫁いでから、忍人の死に心を囚われ嘆きに浸った回数は数えるほど。
心に凝った堅い氷は少しずつ融けだして、今では不思議なほど穏やかに忍人のことに想いを馳せることができる。
―――無論、彼に想い馳せれば、再び胸に切ない痛みと喪失感は変わらず覚えるけれども。
この異国の地にあっては彼に所縁ある人と会うことも激減し、たまに今回のように使者や客分として訪れるかつての仲間との交流にその欠片を見るのみだ。
まだ常世、中つ国、両国ともに復興のさなか。
故国以上に政務に追われる身では、自分に課せられた責務を果たすこと以外に心を割く余裕などなかなかとれるものではない。
そしてなによりアシュヴィンは、あたたかく優しくそして真摯に千尋に接してくれていた。
ずっと、アシュヴィンは約束を守ってくれている。すなわち、千尋を抱かぬことを。
ひとたび妃という立場になった以上、口約束を翻し夫という立場や世継ぎを理由に身体の関係を強要したとしたら、千尋に抗う術はない。
彼さえその気になれば、どんなに千尋が足掻こうとも易々と組み敷いてしまえるだろう。
けれど妻としてもっとも基本的と言ってもいい役目を果たしていない不完全な皇妃に、アシュヴィンはどこまでも優しい。
不遜で傲慢とも言える言動は相変わらずだが、それらも私的な場ではなりをひそめ、優しく寄り添ってくれる。
―――作り物の張りぼてでしかない関係でも、信頼が育たないわけじゃない。
ただ、彼の真意が見えない。
男女の関係を結ばぬ后妃。
夫ではない男を想う妻。
感傷と称されても否定できない哀しみに心奪われたままの女王。
どこをとっても、自分を必要とする理由など見つけられない。
理に依って自らの指針とする彼にとっては、マイナス要因にこそなれ、価値あるものではないだろう。
中つ国の王としての立場はそれなりに利用価値があるだろうが、逆にいえばそれだけだ。
王としても伴侶としても不完全な千尋が、自分の数倍先をいく彼の援けになれることなど、いかほどあるものか。
皇妃に据えるほどの価値が、自分にあるとは思えない。
彼は、自分をこの至高の地位に就けて、何を望んでいるのだろう。
抱かぬという言葉が、この婚姻を了承する大きな理由になったことは事実だ。
王族としての務めを強要される近い将来の問題から、彼の提案の尻馬に乗って逃げ出したのだ。
彼の言葉に甘えて、居心地のいい逃げ場所に浸っているのだという自覚は、千尋に少なからぬ引け目を覚えさせる。
けれど秋の終わりに告げられたあの言葉の裏に隠された真意を探ることは、この穏やかな時間の終わりを意味することに思えて、どうしても今一歩を踏み出すことができない。
「―――……あら?」
ふと我に返ってあたりを見回せば、自らの執務室に向かってたはずの自分が、見慣れぬ……いや、見慣れてはいるが自室のそばとは違和感を感じる風景のただなかにいることに気がつく。
「……どうしよう……迷っちゃった?」
物思いにふけりすぎて道を間違えたことは察しが付くが、ここに至るまでどこでどう間違えたかも覚えがなく、今自分がどのあたりにいるのかすら見当がつかない。
このようなとき、無駄に広い宮は困りものだ。
心は踏み出せないが現実の足は踏み出しすぎたなど、笑い話にしかならない。
とりあえずは周囲に目印になるものがないかときょろきょろ首をめぐらせば、ほど近いところに扉を見つける。
近づいて扉に手を当て力を入れてみるが、重く堅い手ごたえに阻まれ、扉は開かない。
永く閉じられたままになっているにしては、使い込まれた形跡が握り手や番いの部分に見受けられる。
「………これ……」
「あ、ちょっと!そこは入っちゃ駄目だって―――って、義姉様?」
扉の前で立ち尽くす人影を見とがめた少年の声に、千尋は振り向いた。
振り向いたその視線の先には、見慣れた人懐こい皇弟の姿がある。
「シャニ?……よかった、このまま迷子になってしまうかと思ったわ」
千尋は思わず安堵に胸を撫で下ろす。
少なくとも、これで嫁ぎ先の宮で行方知れずなどという前代未聞の事態は避けられる。
心底ほっとした声を出した義姉に、シャニも咎めた声を出したことにばつの悪そうな表情で頭を掻いた。
「義姉様、ここがどこだか知らずに来たの?」
「ええ……迷ってしまって。執務室に帰ろうと思っただけだったんだけど……。
根宮に来てひと月以上経つのに、情けないわね。決まった道しか知らないんだってことがよくわかったわ」
「そっか。このへん人はほとんど来ないはずなのに人影見えて変だと思ったんだ。
そういえば中つ国の人たちが来てたんだっけ?見送りの帰り?
正門側から来たんなら、義姉様の執務室へ着く渡り廊下はこの廊下に入る一本前だよ。曲がるとこ間違えたんだね。……部屋まで送ろうか?」
千尋は数秒逡巡したが、ここは素直に少年の好意に甘えることにした。
年上の義姉を導けることがあるのが嬉しいのかほんの少し得意げに手を差し伸べたシャニに、自分の手を重ねる。
「そうね、お願いするわ。ところでシャニ、ここは……?」
「―――ここは、ナーサティヤ兄様の私室だよ」
一瞬の沈黙を挟んで返されたその言葉に、千尋ははっと扉を見上げる。
見上げなければ全貌が見えないほどに、大きく、重厚な扉。
煌びやかな宝飾こそないが、全体に彫りこまれた緻密で繊細な装飾が、むしろその威厳を引き立たせている。
なのにどこか寂しい印象を与えるのは、部屋の主が訪れなくなって久しいからか。
重く、固く閉ざされた扉。
新しきものを拒むかのように。
それは滅びゆく常世に殉じたもう一人の皇子の名残をとどめる、象徴に見えた。
「最後にこの部屋を出られたときの、そのままにしてって頼んであるんだ。
……兄様が、戻られるまで」
「でも…ナーサティヤは」
言いかけて、口を噤んだ。
橿原宮奪還の戦を境に、ナーサティヤはその姿を消した。
常世に攻め込み、禍日神を墜とし、豊葦原に凱旋したそのときには、もはや彼の行方を知る者は誰もいなかった。
ナーサティヤが陣を構えていた宮の一画は―――炎に落ちて。
口にするのはあまりに無神経と思い言葉にすることを控えたが、千尋の表情から考えを悟ったのか、シャニは少し悲しげな微笑みを浮かべた。
「うん、聞いてる。サティ兄様が生きてるなら、国に戻れるだけの時間はとうに過ぎてることも。
……でも、いつか戻ってくるって……生きてるって信じたい。だから、僕はこの部屋を片付けさせることができないんだ。
アシュ兄様もこのくらいのわがままは許してくれると思う。……少なくともやめさせられてはいないから。
もしかしたら……少しくらいは、僕と同じように思ってくれてるのかもね」
行こう、と促され千尋はシャニに手を引かれながら来た道を戻る。
千尋の手を引きながら少しだけ千尋の先を歩くシャニのその背は、出雲で出会ったときのそれより少し大人びている。
ほんの少しアシュヴィンに甘えたり、ちょっとだけこんなわがままを通したりするところにだけ、時折年相応の幼さが垣間見える。
そして、無邪気に振舞っては見せているけれど、そこには彼の哀しみや痛みを覆い隠した強さがあった。
不意に、その背にアシュヴィンの面影が被る。
―――そうだ。アシュヴィンも、あの戦で父と兄を喪っている。
兄と対峙し、父に刃を向け、かつての獅子王が闇に呑まれる様を、その目で見届けている。
愛する家族を喪った彼に、想い人を亡くした千尋と比べてその悲しみが軽いものだなどと放言することは、誰にもできまい。
「―――そう……なのね」
千尋は、今まで胸の中で燻っていた疑念に答えを見つけた気がした。
アシュヴィンは常世のために戦い、常世のために皇に逆らい、常世のために父に刃を向けた。
けれど表面的なことだけしか知らぬ輩から、父皇を廃して皇位を奪った反逆の皇子と言われていることも、千尋の耳に届いている。
少しでも彼自身を知るものには一笑に付されるそれは、逆に言えば知らぬ者には彼の真実の姿を理解し得ないことも意味する。
アシュヴィンが、喪った者を悼みその喪失に心を囚われている己を他者に見せることをよしとする性質でないことくらいは、千尋にもわかる。
否応なく内面に触れる、彼の妃というその微妙な一線に立てる存在など、こうなってしまってはそうそういはしない。
―――わたしが彼の皇妃にうってつけって……こういうことでもあったのね。
一国に強い影響を及ぼす女王であること。
彼との間に少なからず信頼関係があり同盟に信が置けること。
結ばれた同盟により、互いの国に益が見込まれること。
それらは確かに大きな要因のひとつであっただろう。だがそれ以上に。
あの戦に隠された真実を知り、彼が失ったものを知るものでなければ、彼を理解することはできない。
―――彼が私をそばに置くのは同情と……共感?
同じ傷を負った者であればこそ、同じものを見ることも、立ち入らぬ気遣いをすることも可能だろう。
あの戦のすべてを知る千尋であればこそ。
彼と自分との距離をつかみかねていた千尋は、ようやく彼との距離の答えを見つけた気がした。
「千尋―――……いないのか?」
アシュヴィンは千尋の執務室の扉の前で訝しげに眉根を寄せた。
風早らが帰ってそれなりに時間が経ったというのに、あの真面目な千尋がいまだ自室に戻らぬとは珍しい。
扉を叩いてみても応答はなく、出直すかと踵を返しかけた時、自らがやってきた方角とは逆の方向から、弟に手を引かれた千尋の姿を認めた。
「―――……シャニ?」
義姉と談笑しながらも小さな声で呼ばれたそれに気づいたシャニがアシュヴィンに軽く手を振った。
「あ、兄様」
「え―――」
一拍遅れて千尋が目の前のアシュヴィンの存在に気づく。
「アシュヴィン、どうしたの。わざわざ私の部屋までくるなんて、なにかあった?」
首をかしげる千尋に答えず、アシュヴィンはじっと視線を一点に注いでいる。千尋の手元へと。
その視線の意味に気づいたのは、千尋でなくシャニのほうであった。
夫という立場にあるくせになんでこうも大人げないのか、と夫婦の微妙な関係を知らぬシャニは兄に対してため息をひとつ落とすと繋いでいた手を離した。
「もう大丈夫だよね、義姉様?」
「ええ。ありがとう、シャニ」
ぱたぱたと走り去っていくシャニの後姿を見送ってから、千尋は傍らの男に向き直る。
「それで、何かあったの?」
「別段たいした用があったわけではない。それより、なぜシャニと?」
「え?ああ、道に迷ってしまったのを、連れてきてくれたのよ」
「………軽々しく皇妃が他の男と手を取り合うような事態は、感心できないな」
シャニがその場に留まっていれば、どこからどう聞いても嫉妬だと口を挟んでくれたのだろうが、あいにくとすでに遠く角の向こうに立ち去った後。
自分なりの答えを見つけたことでますますアシュヴィンが自分に対し理に依らぬ感情を向けてる可能性をすっぽり頭から抜け落とした千尋は良かれ悪しかれその言葉に感情的になることはなかった。
「そうね、皇妃が根宮で迷子だなんて、あなたの体面に傷をつけてしまうわね。
近いうちに、間取りをもう一度頭に叩き込むわ」
「またこれ以上詰め込むつもりか」
「大丈夫よ、私には頼りになる先生がついてるじゃない。……でしょ?アシュヴィン」
にこりと自分を見上げて微笑む千尋に、アシュヴィンはどきりと心の臓を鳴らした。
感情を凍らせていた彼女が自分にこのような穏やかな微笑みを向けたのはどのくらいぶりか。
かすかな期待に舞い上がりかけた心は、続く言葉に叩き落とされた。
「形式だけの妃でも、あなたに恥をかかせることだけはしないから」
千尋は、アシュヴィンの瞳をまっすぐに見る。
その蒼い瞳には、恋の焔もなければ不安に揺らぐ水面もない。
―――私は、アシュヴィンのよき友である努力をしよう。きっと、なれるわ。
人は納得のいく答えを導き出してしまうと、それが真実であると感じてしまうものだ。
このとき千尋は、曖昧であった自分とアシュヴィンとの間に、明確に一線を引いてしまったのだった。
本人はそれなりに歩み寄れたつもりなんだけど、斜め37度くらいに微妙に逸れたところを歩いちゃってる千尋。
シャニを千尋の事情しらない設定にしたのでとても使いやすいキャラになってくれました(笑)
本当は千尋が納得するシーンで切る予定だったのですが、そうすると2話連続でアシュの出番なしであることに気が付き急遽アシュの出番まで延長(笑)
出番が増えたからって幸せじゃないのがアレですけれども。
本文中にサブタイトルを潜ませるのはもう諦めました。や、可能であれば今後の話にも入れますけれど、今回は頑張ったのですが挫折です(涙)