不香の花 <三>

― 鵝毛 ―




根宮には、皇にはもちろん、皇妃にも宛がわれた正式な執務室がある。
千尋にとっては常世での生活の場ともなりつつあるその部屋は、時折には執務室とは別の姿を見せることもある。
たとえば、中つ国からの客人を迎える、私的な謁見の場へと。


細かい彫り細工が施されたテーブルに銀の茶器が3つ並べられ、満たされた茶の芳しい香りが温かな湯気とともに漂っている。



中つ国の使者として風早と那岐がそろって常世を訪れたのは、一年の終わりも近くなった冬のさなか、千尋が常世に后妃として嫁してからまだ一月あまりしかたたぬころ。
先触れを出し正式に返書を待ち、やけに堅苦しい手順を踏んでやっとかなった会見は、それ以上に千尋にとっては久方ぶりの家族同然の仲間との再会でもあった。



「―――朝賀?」

まず先にと用向きを尋ねた千尋に、風早が答えたのがそれだった。


「はい。新年の儀式ですね。そのために千尋に一度中つ国におもどり頂きたい、と。
千尋が登極して初めての新年ですから、地方の豪族たちの代表も数多くやってくるでしょう」

「まあ、朝拝の名目は建前で、ほとんどの連中は新しく立った王と、復興されたばかりの国を値踏みにやってくるようなものだろうけどね」

混ぜっ返す那岐を視線で窘めるが否定はしない風早に、それが事実なのだと千尋にもわかる。

「……まあ、だからなおのこと豊葦原に中つ国の再建の事実と新王の威信を広く知らしめるためにも朝賀に王がいてくださらなくては、と狭井君の意向はそういうことのようです。
狭井君の思惑はともかく、民に中つ国再興を再認識してもらういい機会だと思いますので、千尋に戻っていただくのは俺も賛成ですよ」

「―――そう、わかった。アシュヴィンに相談して、帰国の日を調整してもらうわ」

「はい。予定が決まりましたらまたお迎えに参じます」

「そうね。じゃあ日程に余裕があるようなら詳しい内容とかもそのときに教えてもらえるかしら」


そのほか、二つ三つ双方の国情を確認しあっていると、那岐が口を挟んできた。


「千尋、ちょっと顔色悪いよ。寝てないんじゃないの」

「そんなことないわ。むしろこちらにきてからぐっすり眠れる事のほうが増えたもの」

それは事実であったので、千尋ははっきりと言い切った。
少なくともこのひと月あまり、夢に魘され目を覚ました夜はない。

―――あくまで千尋の覚えている限り、ではあったが。


「じゃあ疲労ってことかな。―――ちょっといい?」

那岐は身を乗り出すと、千尋の前髪をかきあげるとこつん、と額を合わせた。
きょん、と丸くした千尋の目と、那岐の視線がかち合う。
数秒の沈黙ののち、そっとその額は離された。

「………熱はないみたいだね」

「でしょ?那岐は心配症なのよ」

「千尋が無茶の常習犯なのが悪い」

「今はそんなに無茶ばかりしてないわよ。……でも、心配してくれたのよね。ありがとう」

「……別に、なんでもないならそれでいいんだ。礼を言われる筋合いのことじゃないよ」

ぷい、とそむけた顔は、照れくさそうというよりは、拗ねているように見えた。




リブが茶のお代わりを淹れに入室したことを契機に公的な話が途切れ、内向きの話にしばらく花を咲かせる。
慈しむようなまなざしで優しく千尋を見ていた風早が、ふとその問いを口の端に乗せたのは、何がきっかけだったか。



「……千尋。今、しあわせですか?」



「なあに、風早……突然に」

「千尋と彼との結婚話が持ち上がったときに比べれば、唐突な質問だとは思いませんが。
黒雷は、千尋にとっていい夫ですか?彼といて、千尋は今、幸せですか?」

「………アシュヴィンは、誠実よ?」

「この状態で聞く夫の評価としては、ずいぶんと微妙な言い方をするね」

混ぜっ返した那岐の言葉に、千尋は肩をすくめて困ったような表情を浮かべた。
かちゃり、と銀の茶器を持ち上げその湯気を顎に当て、波紋を産むお茶の水面を見つめながら、なんと説明したものかと思案する。


「………私ね、この国に輿入れのために来た時に、美しく甦った常世の国土に感動したの」

そして、あの光景は千尋にもあることを教えてくれた。
恵みが戻っただけでは説明がつかない速さでのあの復興は、アシュヴィンの尽力を証明するものだ。
后として常世の政治中枢に近づき、采配をふるう彼の隣に立つ立場となって、それは確信となった。

常世におけるアシュヴィンの存在は、今では戦時中と比べ物にならぬほど揺るぎないものだろう。
おそらくは、降るような縁談や戦後処理の煩雑さ、実現する可能性などないに等しい再戦の不安など、瑣末事として切り捨ててしまえるほどに。

―――あの秋の終わり、彼が言ったことは、私の輿入れを求める本当の理由ではない。

その疑問は千尋の心に今も感じているけれど、彼の提案が千尋にも都合のよいものであったことは事実だ。
矛盾を突いて婚姻が取り消されることになれば、千尋は今度こそ意に沿わぬ相手と娶わせられるだろう。それは千尋にとっても歓迎したい事態ではない。
だからこそ、それについて問いただすこともするつもりはなかった。

真実の夫婦でない自分たちには、隠し事があるくらいが似合いかもしれない。


瞳を閉じて茶の香りにしばし思考を委ねていた千尋は、ゆっくりとその瞼を開く。


「―――アシュヴィンは立派な皇だし、私の立場は少しくらいは彼の助けになれると思う。
私たちはそれなりに上手くやっていけると思うわ。
……だから、心配しないで?」

論拠をざっくり省略してそう結び言葉を切ると、那岐はやや納得のいかない顔で頬杖をついた。

「……それなり、ねぇ。
ま、千尋がそれでいいって言うんなら、僕が口出しすることでもないけどさ」

那岐はそれ以上は言わず、言葉をおさめた。


ちらりと視線を投げれば、こくりと無言で茶を嚥下する千尋が視界に収まる。


確かにあの国にいたときよりは、穏やかに笑えるようになった。
―――けして、幸せそうだなどとは、言えないけれど。








その姿が見えなくなるまで見送ってくれた千尋に手を振り返し、二人が根宮を辞したのは、陽が傾き地の果てに眠ろうとするころ。
西の端は天に昇る白い日が熟した棗のような色に染まり、中天は藍に覆われる。


根宮を後にして、比良坂への道を連れだって歩く。
積もった雪が、ぎゅ、ぎゅ、と足元で独特の音を立てる。
時折こぼされる長い息が白い霞となって浮かんでは瞬きの間で消え去る。



大地を覆う雪と、迫りくる夜闇に包まれる静寂の中、ぼそりと那岐は呟いた。


「………アシュヴィンのやつ、千尋を抱いてないんじゃないかな」

「なぜ……そう思うんです?」

「あんだけ顔を近づけても、千尋がちっとも警戒しなかったから」


もしも無理やり身体の関係を強要されていたとしたら、「男」の括りに分類される者はたとえ那岐でも警戒されるだろう。
拒むか、怯えるか。あるいは理性で平静を装う可能性はあるが、少なくともあそこまでの無反応はありえない。

「千尋がもとからあいつを好きでしたって話なら、別だよ。
………でも、そうじゃないだろ。
なのに千尋の反応に一切の変化はない。だったら答えは決まってる」

千尋が忍人に特別な感情を持っていたことは、あの戦に参加したもののほとんどが知っている。もちろん、アシュヴィンもだ。
その上で千尋と結婚の話が持ち上がった時の理不尽さと黒雷の無神経さに激怒したものだが、こういうことが互いの間で取り決められていたのだとしたら得心がいく。

「この結婚は打算と妥協の賜物か。仮面夫婦もいいとこだね」



「千尋にとって、それがよくないことだと思いますか」

風早の問いに、那岐は次第に進めていた足の速度を落とし、ややあって完全に歩を止めた。

「………わからない。だけど」

握りこんだ拳の爪が、自らの掌にきつく突き刺さる。


ありがとう、と笑った千尋の笑顔が脳裏によみがえる。
労わりに笑顔が返ってきたのはどのくらいぶりだっただろう。
いつしか泣くことをやめ、大丈夫よと強がるばかりで、作られた笑顔の仮面の下に感情を押し殺すようになった彼女に気が付いたころには、那岐たちにはもうなにもできなくなっていた。



忍人が命を落としたのは、橿原宮。千尋の住まう場所そのものだ。
毎日のようにその場所に関わりを持たざるを得ない千尋は、那岐の目から見てももう限界に近かった。
張りつめた精神の糸が、いつ切れたとしても不思議ではなかった。

だというのに、かぶった仮面の下で心が血を流していることを知りながら、けれど彼女の心を癒すすべが彼らにはない。
かつて赤く染まった廊の片隅を見つめるその白い横顔がどんどん凍てついていくことを知りながら、中つ国から千尋を引き離すには、彼らは千尋自身にも中つ国にも近すぎた。


「あのまま中つ国にいたら、千尋は壊れていた、と思う」



国と民に安寧をもたらすことは、亡き忍人の悲願でもあった。
そのことを知っているからこそ、千尋が中つ国を捨てることは彼女自身が承服しないだろうことは容易に察せられた。
国を捨てさせず、周囲に納得させ、千尋の意思を踏みにじらず。
半ば詭弁ではあるが、アシュヴィンの与えた選択肢は、確かに一つの別の道を示した。


―――最善であるかはわからない。

けれど、八方ふさがりの現状で、中つ国から千尋を攫ってみせたアシュヴィンは、確かに変化を呼んだのだ。
これが千尋の凍てついた心に波紋をもたらしうるものであるならば。

「今は……あいつに預けておくよ」












「………で」

一瞬に声の抑揚を変え、纏う空気が鋭いものになる。
那岐は袖口から勾玉を連ねた御統を掌に滑らせた。

「夜盗、じゃあないよね。何人?」


構えた御統の勾玉が丸玉と触れ合い、チャッと軽い音を響かせる。
那岐の問いに、風早も剣の柄に手を当て、腰を落として構えたまま答えた。

「8人……いえ9人でしょうか。気配を消そうとしている努力は認めますが、まだ甘い。
正規兵じゃなさそうですね。どこかの豪族の私兵あたりといったところですか」

「ふぅん、常世の皇陛下も、それなりにまだいろいろと問題抱えてるみたいだね。
じゃあこれは皇と懇意な使者を抹殺して、関係が強固になりそうな中つ国と常世の軋轢広げようってやつ?
ま、よくあるパターンといえばパターンだけど。陳腐極まりないね」

「身も蓋もないですねぇ、那岐。
効果があるからこそ使い古される、って言い方もできるでしょうに」

「別にヨイショしてやっても、こっちに得があるわけじゃないしね。むしろ面倒事もちこんでくるんだし」

「どうしますか。逃げ切れない人数ではないですけど」

「逃げる?冗談。こちとらいろいろと鬱憤たまってるんだ。
僕たちに目を付けたのが運のつきと思って、憂さ晴らしに付き合ってもらうよ。
あんたこそ、お得意の平和主義掲げて逃げるか?」

「ただの夜盗ならそうしてもいいんですが、あいにくと、今回はそれをやると千尋に害が及びますからね。
今後のためにも、降りかかる火の粉は掃っておきますよ」

「わかってんなら、僕にも訊くな、よッ!」

その声を合図に、那岐と風早は雪に覆われた大地を蹴る。



積もった白い雪が舞い上がり、鵝毛のようにあたりに散った。








 


中つ国駐在サイド。別名保護者たちのたそがれ。(なんじゃそら)あ、別に戦闘シーンそのものは次回に続きません。まあ、那岐たちの圧勝です。省きましたが、こういう輩の燻りだしも兼ねて王族なのに護衛が風早1人だけとかいう超簡素な訪問したとかいう設定があったり(文中で書けという話ですね、ごもっともです)。
タイトル、サブタイトルともに雪の異称で統一しているわけですが、そろそろ取ってつけた感が強くなってきた。最終話のサブタイトルだけ先に考えてつけたからなぁ(笑)
そして物語はまだ折り返し地点にすら到達してないですね…。ほんとに終わるんだろうかこれ。