不香の花 <二>
― 寒花 ―
常世と豊葦原を結ぶ黄泉比良坂。
息が詰まるような錯覚を覚えるほどに暗い洞穴ではあるが、思いのほか実際の穴は広い。
うんざりするほどに長く、気が滅入るほどに薄暗いその道を、豪奢な輿を囲むように、三桁はゆうに越えようかというほどの数の武官と官人が進む。
―――初めてこの道を通り抜けたときは、忍人さんも、まだ………
思い出をなぞると喪失の痛みが胸によみがえり、千尋は膝に置いた手をぎゅっと握りこんだ。
すべての思い出が彼を思い出すことに繋がってしまうことを否応なく感じながら、千尋は輿に揺られる。
儀典に相応しく金や銀、玉で飾り立てられた黒麒麟に騎乗するアシュヴィンが、手綱を操り歩調を合わせるように黒麒麟を輿に近づけた。
「もう民の目もないのだから付添いのやつらと話してもかまわんのだが、ずいぶんとおとなしいな。
……不安か?それとも不満か?」
「……別に……何も話すことが思いつかないだけよ。
輿の中だと外も見えないのだけど、まだかかるの?」
「ふむ、普段は駆け抜けるから時間はそう意識しないが、ゆっくり歩むと確かに存外長いものだな。
だが―――そら、出口が見えてきたぞ」
その言葉に輿に取り付けられている小窓を開くと、視界の先に導のように白く外界の光が見えた。
長い黄泉比良坂を抜けてもそこからまださらに長い道程を輿の中で揺られてゆく。
輿の中であることは変わらないが、閉じた輿の中にも零れる白き日の光、凍りつくような冬の寒さの中にも微かに感じ取れる樹の香り、冬にも地を去らぬ留鳥の鳴き声が、道程を彩っている。
赤黒い禍日が天を支配していたあのころとはやはり違うのだ、といまさらながらに認識を改めた。
そして根宮に着いた千尋は、輿から大地へと降り立つと目の前のその光景に息をのんだ。
目の前に広がるのは常世の大地。
清水の満ち溢れる川のせせらぎ。
真白く雪に彩られた大地と樹々。
抜けるように高く、透けるように青い蒼穹の空。
「――――………きれい」
思わず、そんな言葉が千尋の唇から零れおちた。
かつて禍日神に蝕まれていたころの荒廃は見る影もなく払拭されている。
「これが今の常世だ。女王を后として迎えるに恥じぬ国である自信はあるぞ」
アシュヴィンの自信に満ちた声が、千尋の背中に投げかけられた。
たしかにその言葉にふさわしい光景だ。
千尋は胸に引っ掛かるものがあったが、今このときはその疑問が形を取るより先にさらに自分を呼ぶ声に掻き消えた。
「―――お姉ちゃん!」
聞き覚えのある幼い声に振り返ってみれば、出雲で出会った少年が宮を飛び出し、手を振りながら駆け寄ってくる。
「………シャニ」
息を切らせながら駆け寄ってくる少年に、千尋は驚きに目を見開いた。
出雲も含めた豊葦原の地はとうに統治権を中つ国に返還されているのだから、この国の皇子である彼にここで出会うに何の不思議もないが、異国にゆくのだという意識ばかり強かったせいか、そのことがすっかり抜け落ちていた。
飛びかからんばかりに笑顔で駆け寄ってくる少年に、立ちふさがる形でアシュヴィンが間に立った。
「―――こら、もうお互い出雲の領主でも旅芸人の娘でもないんだぞ。
俺は皇妃に対して礼節も守れぬ餓鬼を弟にもった覚えはない。俺に恥をかかすな」
「あーもう、兄様は変なところでカタイんだから!お姉ちゃ……義姉様とは僕も知らない仲じゃないのに」
「シャニ」
「はいはい、わかりましたっ!」
撫すくれたように返事を返しながらも、手を重ね合わせ、流れるような所作で膝を突き、非の打ちどころのない臣下の礼をとって見せた。
「中つ国の千尋姫を、今日この日より常世の皇妃として根宮へお迎えいたします。
皇弟シャニの名において、皇と変わらぬ絶対の忠誠を御手に捧げることを、御前にてお誓い申し上げます」
口上を述べるとこれでいいでしょとばかりに再び顔をあげにっこり笑うシャニを、アシュヴィンがよし、と髪をざかざかとかき混ぜながら撫でた。
「わ!やめてよ兄様!子供じゃあるまいし」
「立場も無視してちょこまか走り回ってるうちは、十分子供だ」
「あー!それ兄様には言われたくないー!」
どこか重苦しかった空気を吹き飛ばすような兄弟の触れ合いに、千尋もつられて微笑んだ。
「――――ありがとう。
至らぬ身だけれど、常世の国に受け入れてもらえるように頑張るわ。
中つ国と常世、両国の幾久しき平和の礎となるために、非才の身の全力を尽くします」
長い衣裳の裾を摘み、千尋はゆるやかに頭を垂れる。
アシュヴィンは複雑な感情を押し殺し、表面にはいつもの不敵な笑みを浮かべて千尋の目の前に、その手を伸ばした。
「――――ようこそ、常世の国へ。願わくば、わが妃の安住の地とならんことを」
「やはり、心安らかにとはいかぬものだな」
妃となった千尋を伴い、根宮へと帰還したときのことを思い返し、アシュヴィンは軽くため息をつく。
まだ彼女がこの地に来てからひと月にも満たないはずだが、思い返すには十分な時間だ。
あの日、常世へと居住を移した初めての夜。
世間一般では初夜と見做される一晩に、共に過ごさぬのもいらぬ誤解を招くだろうと千尋に宛がわれた部屋を訪れた。
「―――さて、その場合どこからどこまでが『誤解』となるのかはわからんが」
ちらりと視線を流してみれば千尋とて何も知らぬ無垢な赤子でもないようで、警戒に身を固くした。
獣を前にした小動物のようなそれに、アシュヴィンはやや自嘲の笑みを浮かべた。
わかっていたこととはいえ、自身を露骨に拒否されることに、痛みを覚えないわけでもない。
それを承知の上で、手元に置くことを望んだ自分が、何を求めもできないが。
「警戒するな……と言っても無理かも知れんが、約束は違えんさ。
お前には何もしないし、朝になる前には部屋を出る」
そう言って、寝室からの続き部屋になっている隣の部屋に備え付けられているソファに、外套を毛布代わりにごろりと身を横たえた。
隣の部屋のソファで寝るのかと問うてきた千尋にアシュヴィンは苦笑する。
まったくこの奥方は、警戒しているのか誘惑しているのか。
「許しが得られるなら寝台を使ってもよいが、さすがに同衾での貞操は保証せんぞ」
それを告げれば千尋は即座に理解したようで、顔を強張らせ背を向けて寝台に寝転がった。
緊張の気配が伝わってきたのはほんのしばらくの間。
慣れぬ儀式とけして長くはないがそれなりに距離のある移動が重なった身体はやはり疲労していたのだろう、そのうちにすぅ、と静かな寝息が聞こえてきた。
それを確認してから、自分もやってくるまどろみに身を委ねるべく、アシュヴィンはソファに身を横たえたまま目を瞑った。
そうして、穏やかな夜が過ぎ去る―――――はずだった。
あの夜を経てから、アシュヴィンは時間が許す限り夜は後宮を訪れるようになった。
最初は千尋も訝しんでいたものの、幾晩経ってもアシュヴィンの行動に変化はない。
訪れのない夜もある。訪れがあったとしてもただ隣の部屋でソファで休んでいくだけで、目が覚めたときに不自然に着衣が乱れていたこともない。
ここでは形式だけでも妃なのだからと自分の中で理由をつけたのか、最初のうちは解かなかった警戒も、繰り返されるうちにそれは日常として受け入れたようだった。
そうするうちに考え方を切り替えたらしく、どうせ訪いがあるならと、常世について尋ねる教師の役目をお願いしてもいいかと頼んできた。
そして今アシュヴィンの目の前には、竹簡を広げたまま机に突っ伏して眠ってしまった、千尋の姿がある。
千尋の白い頬にさらりと金糸の髪がかかり、少しだけ開いた唇からこぼれる吐息が、ふわり、ふわりと金の糸を揺らしている。
アシュヴィンは頬杖をつきながらその横顔を飽くことなく眺めていた。
毎夜遅くまで机の上の燭台には灯がともっている。
中つ国から持ち込まれる王の決裁を必要とする竹簡や、常世の国情についての資料が、常に彼女の机には山積みにされていた。
忙殺されていれば余計なことは考えないで済むとばかりに仕事に精を出し、仕事の手が空けば書物を読み漁っている。
皇妃が常世についてを学ぶこと王が政務を執ることに反対するわけにもいかず、今ではこの風景も見慣れたものになりつつある。
中つ国でもこの光景にさして差などなかったであろうことは容易に想像がついた。
それでも、夢の国に旅立ってしまった千尋は意外なほど穏やかな寝息を立てている。
雪の青女と形容したあの凍てついた空気もこのときばかりは春の陽だまりを取り戻す。
―――さて、いつまでもこの状態で置くわけにもいくまい。
アシュヴィンは燭台の灯りを吹き消すと、千尋の眠りを妨げないようにそっとその身体を横抱きにする。
後宮における女性の第一位たる皇妃に与えられた部屋は広く、いくつもの部屋が連なってひとつの部屋を構成している。
その身体を抱き上げたまま続き部屋へと迷わず歩みを進めると、据え付けられているやわらかな寝台に、ふわりと下ろした。
上掛けをかけてやってから、己の指でその白い頬にかかる金の髪を払った。
抱き上げた腕に残る感触はやわらかく、微かに触れたその白い肌の感触はすべらかで。
もっと触れたいという欲を加速させる。
「…………っ」
アシュヴィンは千尋に触れていた指を無理やりひきはがし、ぶるぶると首を振った。
無意識の誘惑に負けてこれ以上肌の感触を堪能していては、一晩を過ごす前に理性が焼き切れる。
はぁっ、と深い呼吸を数度繰り返したのち、千尋の眠る寝台に身を乗せた。
寝台は広く、二人が並んでいても触れ合わずに横になれる。
大人がひとり間に入れるほどの隙間を開けて、アシュヴィンは寝台に身を横たえた。
ごろんと身を転がし千尋のほうに身体を向ければ、眠りに落ちたばかりの千尋はいまだ安らかな寝顔を浮かべている。
―――この穏やかな眠りが続けばよいのだがな。
寝顔をじっと見つめながらアシュヴィンはそう口の中で独りごちるが、それが叶わぬこともまた知っている。
どれほどの時間が経ってからか。
身体の横に無造作に放り出された千尋の細い指先が、ぴくりと震える。
「う………」
千尋の低い呻きに、きたか、とアシュヴィンは眉根を寄せる。
ぽろり、とその眦から雫が伝う。
ひとつ、ふたつと数を増し、白い頬は瞬く間に涙で濡れる。
―――これもまた、今では見慣れた光景。
「……お………ひと……さ………」
桃色の唇から零れおちる名に、アシュヴィンはぐっと奥歯を噛みしめた。
寝台の隙間をそっと詰めて、千尋の小さく華奢な身体をシーツ越しに抱きしめた。
小刻みに震える身体を優しく抱きしめて、金色に彩られた髪を優しく梳いて、丸める背を宥めるように何度も優しく撫でさする。
背を撫で髪を撫で、縋る指を絡めとって、けれどけしてそれ以上は踏み込まず。
千尋の身体の震えが徐々に収まるまで、根気よくそれは続けられた。
ようやく千尋に安らかな寝息を取り戻しても、そのまま呼吸を殺し、身動きを抑え、千尋の様子を窺う。
月光のさやけさ、薄闇を包む静寂だけが支配する夜を、ただ目の前の少女の些細な変化も見落とすまいと見つめて長い夜を過ごす。
幾刻経っても再び魘される気配は訪れないことを確認してから漸く、アシュヴィンはその身体を自分の腕から引き離した。
輿入れ後初めての夜は、魘された千尋の声に飛び起きた。
ぼろぼろと流れる涙と切ないほどに掠れる声に、どうしてやればいいのかもわからず、傍でうろたえた。
震える身体をただ抱きしめてやることしかできずに、夜明け近くにようやく落ち着いた様子が見えるようになるまでそばに付いていただけだ。
今でも、彼女のためにしてやれることはほとんどない。
ただ魘され震える千尋が少しでも早く落ち着けるように宥めてやることしか。
悪夢を防いでやることもできない。血を流す心の傷を癒してやるすべもない。
一国を我が物とし掌に掴んでいるはずのこの腕は、憎からず想う女の平穏を守ってやることすらできやしない。
後日それとなく千尋に探りを入れれば、『たまに』眠りが浅い時に夢を見るのだ、とだけ告げたが、アシュヴィンの知る限り程度の差はあれども夜毎のことだ。
それを夢として覚えている日に、目を覚ましている、ということだろう。
推測ではあったが、中つ国では独り身の女性である王の寝所に侍る者もいなかったであろうことを思えば、さほど外れた予想とは思えなかった。
人知れず涙を流す夜を、どれだけ過ごしていたのか。
改めて彼女の負ったものに思いを馳せる。
現実から解き放たれるひとときの眠りですら、彼女に安寧を約束するものではない。
絶頂で摘み取られた恋の傷は、千尋の心にあまりに深い傷を残している。
上掛けをさらに一枚千尋の体にかけて、天蓋から繋がる紗布を纏める紐をしゅるりと解いた。
寝台を覆うように降りたその紗布を潜って寝台から降りると、冬の冷気が肌を突き刺す。
火照った身体を冷ますにはちょうどよいとばかりに、上着を羽織ることもせずに窓辺の桟に腰をかけた。
見上げれば、冬の冴えわたる夜空に瞬く星と、望月を過ぎ欠けた紅の月だけが、虚空の夜空を彩っている。
今にも寒花が舞うかのような冬の夜。
欠けた紅の月の齎す淡い月光だけがほのかに眠る少女を照らしていた。
千尋ちゃんお輿入れ。文字通り輿使わせました。ゲームでは姫様ばっちり徒歩ですが、本来ならこうだろうなぁと。
全体的に暗いですね。唯一暗くないのはシャニとの会話だけかしら。
この話のシャニは、千尋と忍人の仲は知らず、単純にアシュヴィンが口説き落としてきたんだと思ってるのであんなに明るく懐いています。