不香の花 <一>

― 青女 ―





白い、どこまでも白い世界の中。
千尋はただ一人を追いかけてひた走る。


黒い点が小さな人影となり、やがて見紛うはずもないあの後姿を形作る。


「お、しひと、さ――!」

張り裂けんばかりに叫んでいるはずの喉が掠れるような声しか出さないことを恨めしく思いながら、全力で走っているのにちっとも追いつけないその後ろ姿を追いかける。
もどかしいほどにゆっくりとしか近づけないその背に、白い手を伸ばす。


後姿しか見せないその影が、ゆっくりと振り返り、千尋にその手を伸ばす。
逆光で顔も見えないが、その伸ばされた手の先をつかもうと、千尋も懸命に手を伸ばし、
その指先が触れ合おうとするその瞬間――――






その人影は、桜吹雪となって散り消えた。












「――――ッ!」

声にならない叫びをあげながら、千尋は寝台で目を覚ます。
いまだ夢と現実が曖昧なまま、呆然と木造りの天井を見つめ―――いや、視線はそこにあっても、意識はいまだ幻の中をたゆたっている。


数十秒かそれとも数分か。自分でも測りかねる自失の時間を経て、ようやく千尋の意識が完全に覚醒する。
気だるさに重く感じる身体を寝台の上に起こした。


半蔀を開けてみればまだ外は東の空が漆黒から薄紺へと変わりだしたころ。朝というにはまだ早く、宮で活動する気配はごく少ない。
かといって今一度眠る気にはとてもなれず、千尋は寝台から身を起こすと、夜着を脱ぎ捨てた。
女王になる前の、戦時に着ていた簡素な衣装を櫃から引っ張り出して、手早く纏う。

扉に手をかけると、ゆっくりと押し開き、ギッ…と耳障りな軋みの音が響く。
それでも極力音を立てぬよう注意を払いながらそっと自室の扉を開け、人ひとりが通れるほどの隙間を作ると、その扉を抜け出した。

ひゅう、と吹きすぎて行った外気が肌を突き刺す。
秋とはいえ夜明け前は冷え込むが、身を引き締めるような冴えた空気が今の千尋にはいっそありがたかった。


警備の兵の目を盗んで、いまだ周囲に気づかれていないことを理由に補修を命じないままになっている壁の穴をくぐり宮の外へと抜けだした。



東の空が白みだすにはもう暫し。けれども幾度も通った道に不案内はない。
道すがら見る花も季節ごとに様変わりをしているが、畦に盛りを過ぎた花が数本まだ花を残しているのを見つけて摘み取った。
束ねただけの簡素な花束を腕に抱いて、歩きなれてしまった道を行く。





千尋の世界から色が失われたのは、春の盛り。
中つ国の新たな門出を祝うかのように桜の花びらが美しく舞っていた、あの日。
抱えていたなにもかもを終えて、あとはみなで手を携えて幸せになるのだと、信じて疑っていなかった。
すべてを埋め尽くすような桜吹雪の中、薄紅の花びらを赤く染めあげた中に眠る、あの人の姿を見るまでは。
晴れがましいはずの即位式の日は、千尋にとっては忘れられぬ悲しみの日となった。


泣き暮らした春が終わり、喪失に嘆いた夏が過ぎ、そして虚ろに秋が去ろうとしている。
思い出に涙を伴わなくなれてから、いくらもたっていない。
涙が出なくなったとはいえ、傷が癒えたというよりは感情が疲弊したのだろう。心にぼっかりと開いてしまった穴は、いまだ空虚なまま。





歩いているうちに空はゆっくりと白さを帯びてくる。
目的の場所にたどり着いたその瞬間、東の山の峰から一条の光が注ぎ始めた。


朝日に染まる宮を見下ろせる小高い丘の上。
そこに、忍人の墓はあった。






墓前に花を添え、手を合わせる。

「ごめんなさい……あんまり、これなくて」

自由な時間など無いに等しい王の身では墓参もままならず、こうして早朝に目を覚ましたときなどにしか訪れることもできない。
それもあの抜け道が他の人間に見つかってしまうまでの話だ。
いずれは今以上に墓参できなくなるであろうことは想像に難くない。

いや、たぶんその前に―――



考えたくない可能性に、千尋はぶるぶると頭を振った。



「……それでも、抜け出してこれるよう、がんばりますから」

墓石にそう語りかければ、むしろ怒られそうだな、と戦時にともにいたころの彼の仏頂面が脳裏に蘇る。
あのころも軽はずみな行動を何度も忍人に怒られたものだ。

もう、二度と聞けないあの声が、耳に蘇る。

『―――君は本当に軽率だな。もう少し自分の立場を自覚してくれ、警戒心がなさすぎる』




「共もつけずに独り歩きとは、お前の不用心さは女王となっても変わらないと見える」


「―――ッ!」

思い出に没頭していた千尋の耳に突然質感を持って届いた声に、びくりと身体を震わせた。
とっさに身構え振り向くが、視界には何人も見えない。
………いや、不自然に足元に影がさしているだろうか、とあたりを警戒したその次の瞬間、居場所を示すかのように、獣の嘶きが響いた。

フォ――ゥ

どこか透明感のある空気を震わせるようなその音に思わず空を振り仰げば、黒い獣が空を舞っている。
こちらへ向って高度を落としてくるそれは、戦時に幾度か見た黒麒麟に他ならなかった。



「橿原宮近くに見えた見覚えのありそうな人影が気になって訪ってみれば、予想以上に重要人物のお出ましだな」

ふわり、と重さを感じさせない仕草で、黒麒麟が大地に降り立った。
その背に騎乗する人影は外套を翻して飛び降りる。
黒麒麟の艶のある毛並みを労うように撫でてから首筋をぽんと叩いた。



「久しいな、ニノ姫……いや、今はもう姫ではないのであったな。女王陛下」

「そうね。半年ぶりかしら。あなたの神出鬼没さも相変わらずよ。―――アシュヴィン」





常世と中つ国、両国を統べる国主同士の久方ぶりの謁見は、居並ぶ文官も、護衛の武官もいない、冴えわたる秋空の下。











千尋の背の向こうにあるものに視線をやれば、そこにあるものに軽く眉根をあげた。
こまめに世話に訪れるものがいるのだろう、このような辺鄙な場所にありながら綺麗に磨きあげられている。
碑銘もなにもないが、その前に花が供えられているどっしりしとしたその石が何であるのかわからぬほどアシュヴィンは愚鈍ではない。

―――なるほど、ニノ姫がこのような場所へと一人抜け出してきた理由はこれか。

理由に得心がいけば、自分がなんとも無粋な真似をしたことに思い当ってばつが悪そうに視線をそらした。

「……邪魔を、したようだな。すまない」

アシュヴィンの謝罪に、千尋は力なく首を横に振る。


「………そろそろ、宮を抜け出したことがばれちゃうころだもの。もう、帰らなくてはいけなかったから」






アシュヴィンは、目の前の墓石を前に膝をつくと、しばし無言のままそれを見つめる。



黒麒麟を駆けさせればさほどの時間を必要とはしないとは言え、常世と中つ国の間にかかる時間はけして短くもない。
属する国の違いと隔てられた距離も相まって、いまだにこの男の訃報に実感が付いて来ぬのだが。


訃報どころか、即位式に臨席していた彼には即座に知さられることとなった出来事ではあった。
赤く染まった凄惨な現場も、その場所に横たわっていた遺骸もこの目で見た。

―――それは本当に眠るように。今にも目を覚ましそうなほど穏やかに。

あまりに大きすぎる喪失に、それがどれほどの効力をもつものだかはわからない。
だがそれでも死出の誘いは彼に苦痛を齎すものではなかったのであろうことだけが、大いなる悲しみの中での唯一の慰めだった。

―――あのような形で喪うには惜しい男だった。

共に過ごした時間が少ないアシュヴィンですら、そう思うほどの人物。
移り変わる季節を共に過ごし、肩を並べて戦場を駆け、それなりの情愛を持っていたであろうニノ姫の心の傷はいかばかりか。

それを、面と向かって問うほど、アシュヴィンも無神経ではないが。



結局、墓碑に対して一言の言葉をかけることもなく、アシュヴィンはその場に立ち上がり、近くに留めおいたままの黒麒麟を呼び戻した。


「それでは俺も橿原宮を訪なうついでだ。
宮までの道のり、女王陛下の護衛を務めさせてもらうとしようか」

そう言ってことさら芝居がかった仕草で、千尋の前に手を差し出す。
突然の展開に千尋はぱちくりと目を瞬かせた。

「え―――」

「宮に帰るのだろう?」

「そうだけど……」


戸惑っている千尋の手首をお構いなしに掴んで腕に抱きあげると、黒麒麟に飛び乗り空を駆ける。

驚愕の瞬間が過ぎればおとなしくアシュヴィンの腕に収まった千尋は、まるで人形のように感情の動きがみえない。
墓石に向かって語りかけていたあのひとときだけは少女の横顔を取り戻していたが、意識がそこから離れれば無機物のような硬質さのなかに閉じこもる。

―――彼女の心を動かすことが叶うのは、あくまで俺ではないということか。


自嘲のようにこぼれたため息は、黒麒麟が空を切る音にまぎれ、千尋の耳に届くことはなかった。











千尋は宮の傍近くで黒麒麟から降りることを望み、アシュヴィンも異論を唱えることなくそれに従った。
そもそもこんな早朝に常世の皇が自国の王をつれたまま正面から入れば、大騒ぎになる。
今回の用向きを考えればいっそそうしてみても面白いな、とちらりと悪戯心がわかぬでもないが、あとが面倒なのもたしかだ。




岩と茂みに隠された壁の穴近くで黒麒麟から降ろされた千尋は、一言謝辞を述べたあとは未練のかけらも見せずにアシュヴィンに背を向けた。
アシュヴィンを振り返ることもなく宮へと足を進めていく頑として他者を拒むかのようなその背に、アシュヴィンは我知らず焦燥を覚え、その背を追いかけ千尋の手首をつかんだ。

手首をつかまれ振り向いた千尋は、まだ何かあるのかと瞳で問いかける。

一歩あの地を離れれば、冷静な王族の顔を取り戻してしまった千尋。
今一度手を離せば、背を向けた瞬間に再びこの少女の意識からアシュヴィンの存在は消え去るに違いない。

あの男のことにしか心を動かさなくなったこの娘に、今日の訪いの理由を告げたら、どんなふうにこの表情は変わるだろう。

その誘惑に突き動かされるように、アシュヴィンは千尋にその言葉を告げた。



「お前、常世へこないか」

「………は?」

何を言われているのかとぽかんとした千尋に、アシュヴィンはたたみ掛けるように言葉を継いだ。

「皇子のころは身軽でも許されたのだが、最近は俺の周りも、身を固めろとうるさくてな。
一国を統べる皇に、皇妃がおらぬのはいろいろと不都合がある。
とはいえ、そこらの女を適当に据えることのできる地位でもない。
―――だがお前ならうってつけだ」

「私に……皇妃になれ、と?」

「嫌か」

「嫌とかいいとかそういう問題じゃ……」


顔ごと視線を逸らした千尋の横顔に、更なる言葉を投げかける。

「……お前、いずれ適当な身分の男のもとに娶わせられるんだろう」

その問いに、千尋はぐっと押し黙った。



―――そう、いずれは来る話だ。

王家の血の存続は、義務。
那岐が王族のひとりであることが判明している今、彼の血筋にも望みはあるだろうが、那岐はあくまで傍流だ。
優先されるべき正嫡であり、唯一正統な血筋の後継を産みうる千尋が子を生す務めを放棄することは許されない。
彼女が目を逸らしているかいないかにかかわらず、周囲はいずれそれを千尋に強要してくるだろう。


―――けれど、あの人と結ばれることは、もはや叶わないのだ。

一縷の望みすら持つことも許さない無慈悲な現実。
生きて諦めに胸を千切れさせるほうがどれほど幸せだっただろう。

「……あの人でないのなら、誰だって同じことだわ」

そう呟く千尋の横顔は硬質で、表情を失っていた。


「同じことだと言うのなら、それが俺で不都合があるか?」

千尋は聞きたくないとでも言うように、両手で耳を押えて頭を強く振った。

「お願い、その話は、今はやめて…!だって……私は……っ」

「……あいつが好きだったんだろう?心配するな。無理に抱こうとは思っていない。
心に他の男を住まわせてる女に無理強いするほど、落ちぶれてはおらん」

抱くつもりはない、という言葉に、千尋は戸惑いを隠せない。
本気で言っているのかと探るような千尋の視線にも、アシュヴィンは平然としている。

「……子も産む気のない妃を望むというの?」

「後継ならシャニがいるさ。あいつは聡い男だからな。資質に不足はあるまい」

「貴方に利点があるとは思えないのだけど」

「あるさ。形だけでも妃を据えれば、皇妃を娶れという老臣どものうるさい口を噤ませられるし、いらん側女を押し付けて、繋ぎを取ろうとする厄介な輩を断る恰好の理由にもなる。
それが中つ国の女王であれば、常世と豊葦原の間での戦後処理に大幅な効率化も見込める。それに………」

「………それに?」

滔々と利点を挙げていながら突然口を噤んだ目の前の男に、訝しげな千尋の声がかかる。

「―――……未だ民は常世と中つ国との戦の再発を恐れ、怯えている。
終焉が目に見える形になれば、双方の民の不安を取り除くという意味でも有効だな」


別の理由にすり替えてそう言えば、千尋もとりあえずは納得したようだった。

言いかけた言葉は、呑み込んだ。
自身の胸の奥の中だけに収めておけばいいことだ。

告げたところではっきりと千尋の心がただ一人に向いている以上、重荷以外の何にもならぬ。



「……今日橿原宮を訪った目的は、それについてお前の意向を確認するためだ。
正式に使者を交わすと、成立しようがしまいが、おおごとになるだろう?
その気がないのに周りにお膳立てされるのも、お前の本意ではあるまい。
常世の皇が求婚を袖にされたと噂が広まるのも、勘弁してほしいところだしな」

「………そう。でも私一人の意見で決められることでも―――」

「それについては問題ないな。内々にだが、そちらのお目付けどもにはもう話を通してある。
お前の意思を無視してまで押し通す気はないが、逆にお前さえ受諾するのならこの話は本決まりになる。よく考えて返答するのだな」

一応そう言い添えれば、千尋は驚いたように目を瞠る。
意思を尊重すると言っている割には、なんという手回しの良さか。

「……あきれた。なんて根回しが早いの」

「外堀を先に埋めるのは、常道だろう?」

それでも、最後の一手は千尋の手の中にある。







「………いいわ」

「即答か。考える時間がほしければ、もう少し待ってもよいのだぞ」

「言ったでしょう。―――あの人でないのなら誰だって同じことだわ。
顔も知らない人に引き合わせられるよりはずっとマシだといえばその通りだし。
しかも形ばかりの結婚でいいと言うのなら、私にも願ったりだもの」


その千尋の返答に、アシュヴィンが自嘲気味に笑みを刻んだことを、視線をそらしたままの千尋は気付かない。






季節はいまだ秋。
けれど千尋の纏う空気も、その表情すらもすでに凍てついている。



異国では、凍てつく冬、雪を呼び霜を降ろす女神を青女(せいじょ)と呼ぶという。
今アシュヴィンの目の前の少女を形容するとしたら、それが相応しい気がした。
春の日差しを思わせる比売神のようなあの暖かな笑顔は、もはやどこにもない。
そして心はすでに他の男のものと痛いほど理解している。
形式ばかり妻の座に収めたとしても、この娘は真実アシュヴィンのものではない。



―――それでも俺は……俺の心は、この女を求めることを、未だ止めぬのだ。









それより数刻ののち、武官や文官の居並ぶ謁見の間。
不躾な視線を意にも介さずアシュヴィンは、壇上の玉座に座る千尋に対し、慇懃でありながら堂々とした礼をとる。
礼節は守りながらも、膝はつかない。それは千尋個人に対する感情に左右されるべきものではなく、皇としての立場がそうさせた。
もはや常世と中つ国は、どちらかがどちらかに従属する属国ではなく、対等の国であるのだ。


「中つ国の女王、千尋姫を、常世の皇妃として我が国にお迎えいたしたく、まかりこした。
両国の縁は真の絆となり、両国の永らくの平和の礎となろう」

重鎮どもには内々に確約をとっているとはいえ、末端にまでそれが行き渡っているはずもなく、謁見の間はどよめきに満たされる。
玉座の千尋は、表情を変えず厳かに落ち着いた答えを返した。

「―――受けましょう、皇アシュヴィン陛下」





そして豊葦原も常世も雪によって真白に染まるころ、両国の王の婚儀が行われることになる。






雪に冷たく閉ざされるのは大地か。それとも―――白き花嫁の心か。


静かに降る雪は、何も答えはしない。





 


なんつーか、いろいろとやっちまった感があるですよ。
忍人死亡EDを経た上での政略結婚。あんまりにも救いがないこの運命に救いを書いてみたくて。
最終的にアシュ千になる予定なので、話の展開上千尋が心変わりするのがヤな人はお勧めできないです。