李林甫と楊国忠  (天寶年間)  その2
 
 六載正月辛己。李邑と裴敦復が共に杖で打ち殺された。
 邑の才能は人並み外れていた。盧蔵用はいつも言っていた。
「君は、干将や莫邪のようなものだ。君と先を争っても、勝ちがたい。しかし、ついには自分自身を傷つけるぞ。」
 邑は用いることができなかった。
 林甫は、また、皇甫惟明や韋堅兄弟の配所へ御史を派遣して、彼等へ死を賜うよう上奏した。羅希爽は、青州から嶺南へ行き,行く先々で人を殺したので、郡県の役人達は驚愕した。
 希爽の前触れが宜春へ到着すると、李適之は憂えの余り薬を飲んで自殺した。江華へ到着すると、王居は薬を飲んだが死ねなかった。希爽が到着したと聞くと、首をくくって死んだ。 
 希爽は、裴寛を自殺させてとやろうと思い、道を迂回して安陸へ行った。すると、裴寛は希爽へ向かって土下座して生き延びられるよう願った。希爽は宿泊しないで過ぎ去り、裴寛は死なずにすんだ。
 李適之の子息の言(「雨/言」)は父の喪を迎えに東京へ行った。すると李林甫は言を誣告させた。言は河南府にて杖で打ち殺された。
 給事中の房官(「王/官」)は、適之と仲が良かったので、宜春太守へ降格となった。官は融の子息である。
 林甫は、韋堅が自分の子分にならなかった事を恨み、使者を河と江・淮の州県へ巡回させ、堅の罪を探させた。厳しく追求したので、連座するものが後を絶たず、牢獄があふれてしまった。そこで、船を縄でつないでその中へ収容した。拷問も凄しく、大勢の人間が公府にて裸のまま殺された。これは、林甫が死ぬまで続けられた。 

 丁亥、上が太廟で享した。
 戊子、南郊にて天地を合祭し、天下へ恩赦を下す。制を降ろして、百姓の今年の田祖を免除する。また、絞首刑や斬罪を削る。
 上は、命を大切にするとゆう評判をほしがった。だから、死刑となるべき罪人は、皆、重い杖刑や嶺南への流罪へ減刑するよう命じた。だが、その実役人が杖で打ち殺すのである。また、妻の母の為にも三年の喪に服すよう、天下へ命じた。
 上は、天下の士を広く求めようと、一芸以上持つものは皆、京師へ来るよう命じた。李林甫は、草野の士が彼の姦悪へ対して排斥するよう上言することを恐れて、建言した。
「挙人には卑賎な人間が多く、俗語で聖聴を汚すかもしれません。」
 そして、郡県の長官へ厳格に試験させ、それで超絶した成績を取ったものは、名前を省へ送って尚書へ覆試を行わせ、御史中丞が監督し、名声と実力を兼ね備えている者だけ聞奏させることとした。実際に行ってみると、全員へ詩・賦・論の試験を行わせて、ついに一人も及第しなかった。林甫は、上表して野に遺賢がないことを祝賀した。 

 楊慎矜が上から気に入られたので、李林甫は次第に彼を忌むようになった。
 慎矜と王ヘの父の晋は従兄弟にあたる。幼い頃、彼はヘと狎れており、ヘが入台したのも、慎矜の引き立てが大きかった。ヘが中丞へ出世しても、なお、慎矜は彼のことを名前で呼んだ。ヘは林甫から目をかけられていることを恃んでいたので、次第に不満になってきた。対して慎矜は、ヘの職田を奪った。また、ヘの母親はもともと賤しい身分だったが、慎矜はそれを他人へ語った。それらの事を、ヘは深く怨んだ。だが、慎矜はなおも昔のままにつき合い、彼と私的に讖言を語ったりした。
 慎矜と術士の史敬忠は仲が善かった。敬忠は天下が乱れようとしていると言い、臨汝山中へ別荘を買って避難所とするよう慎矜へ勧めた。そんな折、慎矜の父の墓田の中の草木が全て流血するとゆう事件が起こった。慎矜はこれを不気味がり、敬忠へ問うた。すると敬忠はお祓いをすることを請い、後園へ道場を設けた。慎矜は朝廷から帰ってくると、裸になって結界の中へ坐った。旬日後には流血が止まったので、慎矜は、敬忠の法力のおかげだと思った。
 さて、慎矜は明珠とゆう名の美しい婢を持っていた。敬忠はしばしば彼女を見遣っていたので、慎矜は、これを敬忠へ贈った。明珠を載せた車が楊貴妃の妹の柳氏の楼下を通りかかると、柳氏は敬忠を楼へ登らせて車中の美人を求めた。敬忠はこれを敢えて拒まなかった。翌日、妹が入宮した時、明珠も連れていった。上は彼女を見て不思議がり、入宮した経緯を尋ねた。すると明珠はありのままを答えた。上は、慎矜が術士とつるんで妖法を使っていると思いこれを憎んだが、怒りを内心に抑えたままで、表に出さなかった。
 楊サがこれをヘへ告げると、ヘは心底喜び、慎矜を馬鹿にした。慎矜は怒る。これによって林甫は慎矜とヘが仲違いしたことを知り、ヘを密かに誘って慎矜を図った。
 ヘは、人を使って噂を流させた。
「慎矜は隋の煬帝の孫だ。いかがわしい人間とつき合い、家には書がある。これは、隋を復興しようとしているのだ。」
 上は激怒して、慎矜を獄へ繋ぎ、刑部、大理と侍御史楊サ、殿中侍御史盧鉉へ詮議させた。
 太府少卿張宣(「王/宣」)は、慎矜が推薦した人間である。盧鉉は、彼が慎矜と譏書を論じたと誣告し、百叩きにしたけれども、宣は白状しなかった。そこで、足を木に縛り付け、人夫へ身体を前へ引っ張らせた。宣の身体は数尺も伸び、腰はちぎれるほどに細くなって目や鼻から出血したが、宣はついに答えなかった。
 また、吉温へ史敬忠を捕らえるよう命じたところ、温は汝州にてこれを捕まえた。もともと、敬忠と温の父は仲が善く、温が幼い頃、敬忠はいつも彼を抱き上げて撫でていた。だが、捕まえた時には、温は敬忠と話もせず、首を鎖に繋ぎ、首へ布をかぶせて馬の前を駆けさせた。戯水までくると、温の命令で、吏が敬忠を誘った。
「楊慎矜は既に白状している。ただ、御身の一言でもしも上様の怒りが和らいだなら、生き延びることもできよう。そうでなければ殺されるだけだ。温泉宮まで行ったなら、首を繋げたくても出来はしないぞ。」
 敬忠は温を顧みて、言った。
「七郎、紙を一枚くれ。」
 温はわざと拒否した。温泉宮まで十余里までくると、敬忠は伏し拝んで哀願したので、桑下にて三枚の自白書を書かせたが、その内容は温の意のままだった。温は静かに言った。
「丈人(お年寄りへの敬称)、もう大丈夫だ。」
 そして、立ち上がって彼を拝礼した。
 會昌(天寶元年に、驪山を會昌山と改称した)へ到着して、始めて慎矜の詮議を行ったが、敬忠の自白書がその証拠となった。慎矜は全部引服したが、ただ書だけは探しても見つからなかった。林甫はこれに危機を感じ、長安の慎矜の家を捜索するよう盧鉉へ命じた。鉉は袖の中に讖書を隠して行き、これを見つけ出したふりをして言った。
「逆賊は、秘記を深く隠していたぞ。」
 會昌へ戻ってきて、慎矜へ見せた。慎矜は嘆いて言った。
「我は、書など持っていなかったのに、どうして我が家にあったのか!もう、命はない。」
 丁酉、慎矜及び兄の少府少監慎餘、洛陽令慎名へ自殺するよう命じられた。敬忠は杖百の上、妻子とも嶺南へ流す。宣は杖六十で臨封へ流す。だが、會昌にて死んだ。
 嗣カク王巨は、この事件に関与しなかったけれども、敬忠と交遊していた罪で官職を解任され、南賓へ軟禁された。他に連座した者は数十人。慎名は敕を聞いても顔色も変えず、妹への別れの手紙を書いた。慎餘は合掌して天を指さし、首を括った。 

 李林甫が屡々大獄を起こしたので、長安へ推事院を別に設置した。
 楊サは、後宮との縁で禁中にも出入りし、彼の言うことの多くは聞き入れられた。そこで林甫は彼を仲間へ引き入れ、御史へ抜擢した。東宮へ少しでも絡んだ事件は、全て奏劾するよう示唆し、羅希爽、吉温へ詮議させた。
 これによってサは野心が大きくなっていった。数百家が陥れられて一族皆殺しとなったが、それらは全部、サが摘発したのである。ただ、幸いにも太子は仁孝謹静で、上の前では張自と高力士がいつも保護していたので、林甫もついに親子の間へひびを入れることができなかった。 

 十二月壬戌、馮翊、華陰の民を徴発して、會昌城を築き、百司を置いた。王公へは各々第舎を置き、その土畝は千金もかかった。
 癸亥、上が宮殿へ帰った。 

 丙寅、尚書省にて天下の一年の貢物が帳簿どおりに揃ったかどうか検分するよう、百官へ命じた。だが、調査が済むと、全て車へ積んで李林甫の家へ運び込まれた。
 上が朝廷へ出ない日などは、百司は全て林甫の第門へ集まり、台省は空っぽになる。陳希烈だけが府に坐っていたが、入謁する者は一人もいなかった。
 林甫の子息の岫は将作監となっていたが、収奪し尽くすことを恐れていた。ある時、林甫と共に後園を散策していたが、役夫を指さして林甫へ言った。
「大人はかき集めすぎて、天下に怨仇が満ちています。一旦禍が至れば、これを得ることができましょうか!」
 林甫は不愉快になって言った。
「ここまで来たのだ。もう戻れぬわ!」
 以前の宰相達は、徳望を恃みとして横暴なふるまいをしなかったので、随従する者も数人に過ぎなかった。林甫は、大勢の人間から怨まれていることを自覚していたので、いつも刺客を恐れ、出歩くときには常に百余人の歩騎を左右翼に展開していた。金吾は露払いをして町人達を追い払い、前触れは数百歩も先に進んだので公卿も走ってこれを避けた。住まいは壁を二重にし、砂利を敷き詰め、ひめがきの中には板を置き、まるで大敵を防ぐような厳重さ。一夜のうちに居場所を何度も変えるので、家人といえども居場所を知らない有様だった。
 宰相でさえコソコソと動き回るような権勢は、林甫から始まった。
(訳者、曰く)平静からこのような用心をしなければならないとはご苦労なことだ。こんな生活で楽しいのだろうか?

 とはいえ、他人を見下すのが楽しいとゆうことは、否定しない。自分の能力を誇示しようと思ったら、他人を虐げるのが一番である。これ以上に自分の実力を実感できることはない。もしも李林甫の求める悦びが、自分の能力を実感することにあったとしたら、ここまでしなければならないのだろう。少なくとも、暴虐を振るいながら警備を軽視する人間と比べるならば、さすがに李林甫は物の道理が判っていると評価できる。
 もっとも、そのような遊びは、私如きでは実践もできないし、それ以前に強いてやりたいとも思わない。ましてやここまでするくらいなら、別の悦楽を見つけた方が手軽で気楽とゆうものだ。
 嗚呼、私の如き燕雀には、鴻鵠の志など判らない。 

 唐が建国して以来、辺境の将軍は、皆、忠厚い名臣を選んでおり、長期留任や広い領土、節度使の兼任などはなく、功名が高い者は往々にして朝廷へ入り宰相となった。中国人以外の将軍は、阿史那社爾や奚必何力のように才略のある人間でも、大将の任は任せられず、皆、大臣を元帥としてその下に置いていた。
 開元年間、天子には四夷を併呑する志があり、辺将となったものは十余年変わらず、ここに始めて長期留任が起こった。皇子慶、忠などの諸王や宰相の蕭嵩、牛仙客から広い領地を統治させるようになった。蓋嘉運や王忠嗣が数道を専制した時から兼統が始まった。
 李林甫は、辺帥が宰相となる経路を閉ざしたかった。そこで、書を知らない胡人なら宰相にされないと考え、上奏した。
「文臣を将としたら、矢石に当たることを怯えます。下賤な胡人を用いるべきです。胡人は勇敢で決断力があり、戦争ならお手の物。下賤な民なら孤立無党ですから、陛下が引き立てたなら感謝して、命懸けで朝廷につくしましょう。」
 上はその言葉に悦び、始めて安禄山を用いた。
 ここに至って、諸道の節度使はことごとく胡人を用いるようになり、精兵は北辺の守りに配置された。天下の兵力が偏重され、ついには禄山が天下を傾覆するような事態に至ったのは、皆、林甫が寵恩を独占し地位を固めようとした謀略に端を発しているのだ。 

 七載四月辛丑、左監門大将軍、知内侍省事高力士へ驃騎大将軍を加える(知内侍省事はここから始まった)。
 力士は長い間寵用されており、中外はこれを畏れていた。太子も又、かれを兄と呼び、諸王公は翁、フ馬等は爺と呼んだ。李林甫も安禄山も、彼へ取り入って将相となった。彼の家財は数え切れないほどである。
 西京にて寶壽寺を造った。寺の鐘が完成した時、力士はこれを慶び精進料理を振る舞ったが、朝臣達はこれへ挙って集まった。この時、鐘を一つ打つたびに、銭百緡を施させたが、媚びを求める者は二十回も鐘を打ち、少ない者でも十回以上は打った。
 しかしながら、彼は和やかで慎みのある質で、過ちも少なかった。人と会うときは頭を下げ、驕慢な態度をとらなかったので、天子は終生彼を親任したし、士大夫もまた、彼を憎まなかった。 

 五月壬午、群臣が、上へ”開元天寶聖文神武應道皇帝”の尊号を献上した。天下へ恩赦を下し、百姓の来年の租庸を免除する。後魏の子孫一人を選び、三恪とする。 

 度支郎中兼侍御史楊サは、上の意向を伺って迎合するのが巧かったので多くの役職を賜り、一年で十五もの肩書きを持った。
 甲辰、給事中兼御史中丞、専判度支事とした。恩幸は、日々盛んになった。
(蘇免(「日/免」)論じて曰く、)
 官を設け職を分け、各々に長官が居る。政事は規範があれば維持しやすいし、事は大本を守っていれば失いにくい。経遠の理は、これを捨てて何に依るのか!
 姦臣が利益のことを吹聴して皇帝の心を掴み、多くの役職を独占して寵恩を誇示し、民から酷く税金を剥ぎ取って膨大な税収を主君へ報告する。こうなると主君の心は放蕩になり奢侈に走り、民の怨望が溜まって禍を成す。天子の役人はその地位を守るだけで仕事もなく、厚禄を受け取ってブラブラしている。宇文融がその端緒を開き、楊慎矜、王ヘが後を継ぎ、楊国忠がついに乱を成した。
 孔子は言った。「税金をむしり取る臣下が居るくらいなら、むしろ主君の財産を盗む臣下がいた方が良い。」この言葉は真実だ!
 前車は既に覆ったのに、後轍はまだ改まらない。政事の大本へ達することを求めるのは、なんと難しいことか! 

 十一月癸未、適氏へ嫁いだ貴妃の姉を韓国夫人、裴氏へ嫁いだ姉をカク国夫人、柳氏へ嫁いだ姉を秦国夫人とする。
 三人とも、才色兼備。上は、彼女達を姨と呼んだ。後宮へも自由に出入りし、恩沢も蒙り、その権勢は天下を傾けた。彼女達が入見するたびに、玉眞公主等は皆、席を譲った。
 三姉とリ、銛の五家の請託には、府県は制敕以上に恐々と承迎した。四方は他から後れをとることを畏れるように競い合ってその門へ贈賄の使者を送ったので、朝夕市場のような人だかりだった。十宅諸王及び百孫院の婚嫁でさえ、皆、銭千緡を韓、カク夫人へ贈らなければ、どんな請願も叶わなかった。
 上の賜下品や四方からの献上物は五家へ均等に贈られた。彼等は競って壮麗な邸宅を造営した。一堂の費用はややもすれば千萬を越える。落成した後、それ以上に壮麗な人の堂を見たら、すぐに壊して改めて造営する。
 カク国夫人がもっとも豪奢だった。ある時、工夫を率いて韋嗣立の邸宅へ突入し、屋敷を全て撤去して自分の為に新しい屋敷を造った。韋氏へ対しては、ただ隙間の土地十畝を授けただけだった。中堂が落成すると、煉瓦を敷き詰めた左官屋を集めて、銭二百万を与えた。すると彼等は、特別の技術を賞してくれと求めたので、カク国夫人は絳羅五百段で賞した。すると彼は嗤って顧みずに言った。
「蟻やトカゲを集めて、数を記録して堂の中へ入れてください。もしも一匹でも逃げ出していたら、そいつは受け取りませんぜ。」 

 十二月戊戌、元玄皇帝が朝元閣へ降臨したと、ある者が言った。制を降ろして會昌県を昭應と改称し、新豊県を廃して昭應へ編入する。
 辛酉、上が宮殿へ帰る。 

 この年、雲南應帰義が卒し、子息の閤羅鳳を後継とする。その子息の鳳迦を陽瓜州刺史とする。 

 八載二月戊申、百官を率いて左藏を観る。百官へ各々差を付けて帛を賜下する。
 この時、州県は豊かで、倉庫には粟帛が山積みされ、萬の単位で数えられた。楊サは、余った穀物を簡便な貨幣に換え、丁租や地税も全て布帛に換えて京師へ送るよう上奏して請願した。
 藏が古今未曾有なほど充満していると、楊サがしばしば上奏した為、今回、上は百官を率いて観に来たのである。サへ紫衣金魚を賜下して功績を賞した。
 国用が満ち足りたので、上は金帛を糞や土塊のように思い、貴寵の家には無尽蔵に賞賜した。 

 四月。咸寧太守趙奉璋が李林甫の罪二十余条を告発した。告発状が到着する前に、林甫はこれを知り、逮捕するよう御史へ風諭し、妖言を為したとして、杖殺した。 

 従来は、折衝府には、皆、木契と銅肴があり、朝廷では兵を徴発する時、敕書へ契、肴を添え、都督や郡府の参験は、これが符合することを確認してから派遣した。
 募兵した廣(「弓/廣」)騎を設置してからは、府兵のモラルは日々頽廃し、使者や逃亡者が出ても官吏は補充しなくなった。その軍用馬、牛や器械、兵糧などは摩耗散佚して、ほぼなくなってしまった。
 朝廷へ入って宿衞となった府兵を”侍官”と称する。これは、天子へ仕えて護衛するとゆう意味である。だが、後には本衞の多くは彼等を奴隷のようにこき使うようになった。長安の人間は彼等を見下し、馬鹿にするようになった。辺境を守る兵卒もまた、多くは辺将からこき使われた。彼等が死んだら、辺将は喜んで、彼等の財産を懐へ入れる。
 これらの理由で、府兵となった者は皆逃げ出し、戦闘要員がいなくなってしまった。
 五月癸酉、李林甫は折衝府上下の魚書を停止するよう上奏した。この後、府兵はただ名ばかりの官職になる。その折衝、果毅もまた、何年も放置され、士大夫は任命されることを恥とした。
 廣騎の法も天寶以後、次第に変廃され、応募する者は市井の貧乏人や無頼漢ばかり。軍事練習などまるで行われなかった。
 この頃、平和が続き、議論する人間も多くは中国の兵卒は削減するべきだと述べた。ここに於いて、民間での武器の保有が禁止された。子弟が武官となると、父兄は歯がみするようになった。猛将精兵は、全て西北からかき集められ、中国では武備がなくなった。 

 太白山の人李渾等が神人に会い、「金星洞に玉板石があり、聖主福需の符を期している」と言っていたと上言した。そこで御史中丞王ヘへ、仙遊谷へ入ってこれを探すよう命じたところ、見つけた。上は、符瑞が相次ぐのは祖宗のおかげだとした。
 六月戊申、聖祖へ大同元玄皇帝の号を献上し、高祖の諡を神堯大聖皇帝、太宗を文武大聖皇帝、高宗を天皇大聖皇帝、中宗を孝和大聖皇帝、睿宗を玄眞大聖皇帝とし、竇太后以下の全員へ順聖皇后の諡を加えた。
 閏月丙寅、上が太清宮へ参った。
 丁卯、群臣が、”開元天地大寶聖文神武應道皇帝”の尊号を献上した。天下へ恩赦を下す。今後テイとゴウは太清宮の聖租の前に設けて位序を正すことになった。
 九載十月、太白山の人王玄翼が、「玄元皇帝に会って、『「寶仙洞に妙寶眞符がある。』と言っていました。」と上言した。上は刑部尚書張均へ、これを探すよう命じたところ、見つけた。
 この頃、上は道教を尊び、長生を求めていた。だから、符瑞の言葉が争うように上言され、群臣は毎月祝賀する有様だった。李林甫羅は皆、聖寿を祝う為に邸宅を寄進して道観とするよう請うた。上は悦ぶ。
(訳者、曰く。似た話があったので、並べてみました。伝承される内にディテールが変わったので重複して記載されたのでしょうか?それとも、同工異曲の上言が相継いだと言いたかったのでしょうか?) 

 八載六月辛亥、刑部尚書、京兆尹蕭Qが収賄罪で汝陰太守へ左遷させられた。 

 九載二月、楊貴妃が再び逆鱗に触れ、私邸へ送り返された。
 戸部郎中吉温が宦官経由で上へ言った。
「夫人は、まことに思慮が浅く、聖心へ逆らいました。陛下はどうして宮中一席の地を惜しんで、これを死なせずに外へ追い出すような辱を忍ばれるのですか?」
 上も又、これを悔い、中使を派遣して御膳を賜うた。妃は使者へ対して涕泣して言った。
「妾の罪は死に値しますのに、陛下は幸いにも殺さずして帰れと仰せられます。ですが今こそ、掖庭を永く離れるべきでございます。せめて、今までの御恩に報いたいのですが、金玉珍玩は全部陛下からの賜り物。献上するに足りません。ただ、この髪の毛は父母から与えられたものです。これを献上して妾の誠意を見せたいのです。」
 そして、髪一房を切って献上した。
 上は、すぐに高力司を派遣して呼び戻し、寵愛は益々深くなった。
 この頃、諸貴族は競ってグルメに走った。上は、宦官の姚思藝を検校進食使に任命し、水陸の珍膳数千盤を揃えさせた。一盤の費用は、十家の資産に匹敵する。
 中書舎人竇華がかつて朝廷から提出する時、公主の食事を運ぶ一行に出会った。彼等は中衢へ行列を作り、伝令は轡を抑えてその間をくぐり抜けて行く。宮苑の小児数百人が、前にて棍棒を振り回して行列を護る。華は、身体一つでどうにか逃げ出した。 

 四月己巳、御史大夫宋渾が巨万の収賄で有罪となり、潮陽へ流された。
 はじめ、吉温は利林甫のおかげで出世していた。やがて上の兵部侍郎兼御史中丞楊サへの寵恩が深くなると、温はついに林甫を見限ってサへ走り、彼の為に林甫に代わって執政となれるような策を描いた。
 蕭Qもも、共に林甫から手厚く遇されている人間だった。そこで、彼等の罪を探して、サへ告発させて追放し、林甫の羽翼を削ごうとしたのだ。
 林甫は救うことができなかった。 

  七月乙亥、国子監へ廣文館を設置し、進士となるために学ぶ者へ教えた。 

 楊サは、張易之の甥である。彼は、易之兄弟の汚名を雪ぐよう上奏した。
 十月庚辰、易之兄弟が中宗を房陵へ迎え入れた功績(中宗の再即位に尽力した功績)を持ち出し、一子へ官を賜うよう制が降りた。
 サは図讖の中に「金刀」の字があったので、名前を変更することを請うた。上は、「国忠」の名を賜下した。 

 十載正月壬辰、上は太清宮にて献する。癸巳、太廟にて朝享する。甲子、南郊にて天地を合祀する。天下へ恩赦を下し、今年の地税を免除する。 

 丁酉、李林甫を遙領朔方節度使とし、戸部侍郎李韋(「日/韋」)を知留後事とする。 

 庚子、楊氏が五宅で夜遊ぶ。廣平公主の従者と西市門で争いが起こり、楊氏の奴隷の振るった鞭が公主の衣に当たった。公主は落馬する。フ馬の程昌裔が下馬して助け起こした。彼も亦、数鞭ぶたれる。
 公主が泣いて訴えたので、上は楊氏の奴隷を鞭で打ち殺した。
 翌日、昌裔を免官し、朝謁にも参列させなくなった。 

 楊国忠は鮮于仲通の恩を忘れず、推薦して剣南節度使とした。だが、仲通は偏狭で短気な人間だったので、蛮夷の心は離れてしまった。
 九載、南詔王閤羅鳳が造反する。十載、鮮于仲通が南詔蛮を討伐したが、大敗した。その詳細は、「南詔」へ記載する。
 楊国忠はこの敗戦を隠蔽し、戦功を報告した。
 南詔を攻撃する為、両京と河南、北にて大いに募兵した。しかし人々は、”雲南は伝染病が多く、戦争をする前に八、九割が病死する。”と聞いて、誰も応募しなかった。楊国忠は御史を派遣して人を捕らえ、枷に連ねて軍へ送った。
 旧制では、勲功のある百姓は征役を免除することになっていた。だが、当時は徴兵する人間が多くなったので、勲功高い者から先に徴発するよう国忠が上奏した。ここにおいて道行く人まで愁怨し、別れを送る父母妻子の泣き声が野を振るわせるようになった。
 十一月丙午、楊国忠を領剣南節度使とした。国忠の意向を受けた鮮于仲通が、彼を遙領剣南とするよう請願したのである。 

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