李林甫と楊国忠  (天寶年間)  その1
 
 天寶元年(742年)正月丁未朔、上が勧政楼へ御幸し、朝賀を受けた。天下へ恩赦を下し、改元する。 

 三月、長安令韋堅を陜郡太守、領江、淮庸転運使とする。
 開元十八年に宇文融が敗れると、利益を口にする者は少なくなった。だが、楊慎矜が上から気に入られると(同二十一年)、韋堅、王ヘのような連中が、競って利益を進めるようになった。遂には、利権のある百司へは別に使を置いてこれを裁量させ、旧来の官吏はただ位に就いているだけとなった。
 堅は太子の妃兄である。官吏となると敏腕と称された。上が彼へ江、淮の租運を都督させると、歳入は巨万の増収となった。上は彼を有能と認め、抜擢したのだ。
 ヘは方翼の曾孫である。彼も又、租賦をよく治めたので、戸部員外郎兼侍御史となった。 

 李林甫が相となると、およそ才望功業が自分を凌いで上から厚く遇されて勢位が自分に迫るようになった者は、必ず百計を設けて除き去った。特に文学の士をもっとも忌み嫌い、あるいは上辺は仲良くして甘言でつりながら、密かに陥れた。人々は、彼を称して言った。「口に蜜有り、腹に剣有り。」
 上はかつて勧政楼にて音楽会を催し、御簾を垂らしてこれを御覧になった。兵部侍郎盧旬(「糸/旬」)が、上は既にお立ちになったと言い、鞭を垂らし轡を抑えて、横を通り過ぎて楼を降りた。旬は風采が立派だった。上は御簾越しにこれを見て、深く感嘆した。林甫は、いつも上の近習達へ金帛を厚く贈っていたので、上の挙動はすぐに耳へ入る。そこで旬の子弟を呼び出して言った。
「尊君はもともと清廉と評判だ。今、交、廣州の方に欠員があるが、聖上は尊君を刺史として派遣しようと思っておられる。どうかな?もしも遠すぎて嫌だとゆうのなら、左遷だぞ。そうでなければ、太子賓客か・事になって、東都の職務を分掌するか。それもまた、賢者の優遇だからな。どうしよう?」
 旬は懼れ、賓客か・事を請うた。林甫は、衆望に違うのを懼れて、ひとまず華州刺史へ任命したが、それからすぐに”発病して州の治政ができなくなった。”と誣いて、・事、員外郎とした。
 上は又、ある時李林甫へ問うた。
「厳挺之は、今何処にいる?あいつは使える男だ。」
 この時、挺之は絳州刺史だった。林甫は退出すると、挺之の弟の損之を呼んで、言った。
「上は尊兄のことを気に掛けている。謁見する手段として、通風と称し、帰京して医者にかかることを請願したらどうかね?」
 挺之は、これに従った。林甫はこれを上奏して、言った。
「挺之は老衰して通風になりました。名目だけの役職を与えて医者にかからせるのが宜しいでしょう。」
 上は長い間嘆息して残念がった。
 四月壬寅、挺之を・事とした。又、ベン州刺史、河南采訪使斉瀚も少・事となった。どちらも員外同正で、姚興にて療養させた。瀚もまた、朝廷で宿望されていたので、これを忌んだのである。 

 七月辛未、左相牛仙客が卒した。八月丁丑、刑部尚書李適之を左相とする。 

 李林甫は領吏部尚書で毎日政事堂へ出勤しており、人事は侍郎の宋遙と苗晋卿へ全て委ねていた。
 御史中丞張倚が上から気に入られ始めたので、遙も晋卿も彼と近づきになりたくなった。この時、登用を望む者は一万人も居たのに、採用されたのは六十四人しかいなかった。倚の子息の爽はその首席だったので、群議が沸騰した。前の薊令蘇孝ウンが安禄山へ告げると、禄山は入って上言した。上は、採用された人間を全員召集してこれを面前で試験した。爽は試験用紙を手にしたまま、終日一文字も書けなかった。時の人はこれを「曳白」と言った。
 二年二月癸亥、遙は武當太守へ、晋卿は安康太守へ、倚は淮陽太守へ降格された。この人選に関与した禮部郎中裴出等は皆、嶺南官へ落とされる。
 晋卿は、壺関の人である。 

 三月壬子、玄元皇帝の父の周上御大夫を先天太皇と追尊する。又、皋ヨウを尊んで徳明皇帝、涼の武昭王を興聖皇帝とする。 

 江、淮南租庸等使韋堅が産(「水/産」)水の水を引き込んで望春楼の下に沢を造ろうとした。そこで江淮の運船をかき集め、人夫や匠を使って運河を掘らせた。徴発された役夫は、まるで丘を為すように大勢。江淮から京城へ至るまで、民間は労役に苦しめられて愁い怨んだ。
 工事は、二年掛けて完成した。
 丙寅、上は望春楼へ御幸して、新しい沢を観た。堅は、新船数百艘を漕ぎ出した。各々の船には平べったい板に郡名が書かれており、郡中の珍貨を船背に載せていた。
 陜尉の崔成甫はきらびやかな錦の半袖、緑色のシャツで肌脱ぎになり、紅のスカーフを首に巻き、船の先頭で得寶歌を歌った。飾り立てた百人の美人に唱和させ、船の列は数里も連なった。堅は跪いて諸郡の軽貨を献上し、上は百牙の盤にて食した。
 上の宴会は終日終わらず、見物人は山積みとなった。
 夏、四月、堅へ左散騎常侍を加え、その僚属吏卒も各々の地位に合わせて褒賞を賜下された。その沢は、廣運と名付けられる。
 この時、京兆尹の韓朝宗も渭水から水を引いて西街へ沢を造り、材木の貯蔵所とした。 

 上は、右贊善大夫楊慎矜を知御史中丞事とした。
 この頃、李林甫が専横を振るっていて、公卿が出世しても彼の門下から出た者でなければ、必ず罪を着せられて失脚した。だから慎矜は、これを固辞して敢えて受けなかった。
 五月辛丑、慎矜を諫議大夫とする。
 翌年九月、李林甫は慎矜を御史中丞として諸道鋳銭使に充てた。彼が林甫に懐いていたからである。 

 三載正月丙申朔、年を載と改める。
 二月辛卯、太子が亨と改名した。翌年七月壬午、韋昭訓の娘を壽王妃に冊立した。 

 十二月癸巳、温泉宮の下に會昌県を置く。
 癸卯、宗女を和義公主として、寧遠奉化王阿悉爛達干へ嫁がせた。 

 戸部尚書裴寛は、もともと上から重んじられていた。李林甫は、彼が宰相となることを恐れ、彼を忌んでいた。
 刑部尚書裴敦復が海賊を撃って帰ってくると、寛へ金品を送って軍功を吹聴するよう頼んだが、寛は過小報告しかしなかった。林甫がこれを敦復へ告げると、敦復は言った。
「寛はもともと私と親しかったから、いろいろ都合をつけてやっていたのに。」
 林甫は言った。
「君はすぐに上奏しろ。遅れたら、逆に何を言われるか判らないぞ。」
 そこで敦復は女官楊太眞の姉へ五百金を贈り、この事実を上言して貰った。
 甲午、寛は有罪となり、隹(「目/隹」)陽太守へ降格となった。
 話は前後するが、武惠妃が卒した後、上は哀悼の想いがなくならなかった。後宮には数千人の女性が居たが、意に叶う女性はいなかった。するとある者が言った。
「寿王の妃の楊氏の美貌は、絶世無双です。」
 上は、彼女を見て大いに気に入り、妃へ自発的に女官となるよう命じた。彼女を太眞と号する。寿王の為には左衞郎将韋昭訓の娘を娶ってやる。そして太眞は密かに宮中へ入れた。
 太眞の肌態は豊満で、音律に精通していた。気が利く質で、上の意に迎合することが巧かった。一年も経たないうちに、かつての惠妃と同じような寵遇を受けるようになった。宮中では「娘子」と呼ばれ、その待遇は皇后並だった。 

 かつて上が東都から帰った時、李林補は、上が巡幸に嫌気が差していると気が付いた。そこで牛仙客と謀って、近道からの粟賦を増やしてこれを関中へ運び込んだ。数年経つと、備蓄された穀物が溢れ返った。
 上はくつろいだ時に高力士へ言った。
「朕は長安を出なくなって十年近くなるが、天下は無事だ。政事は全て林甫へ委任して、朕は高居無為の生活を送ろうと思うが、どうかな?」
 対して、力士は言った。
「天子の巡狩は古来からの制度です。それに、天下の大柄は人へ貸してはいけません。彼の勢いは既に確固としているのです。彼と敢えて議論する者などおりましょうか!」
 上は不機嫌になった。すると力士は頓首して自ら言った。
「臣は愚かにも考えなしに妄言を吐きました。その罪は死罪にあたります。」
 上は、力士へ酒を賜った。左右は皆、万歳を称する。
 力士は、これ以来天下の事へ深い口出しはしなくなった。 

 四載正月庚午、上が宰相へ言った。
「朕は、去る甲子の日、宮中に壇を造り百姓のために福を祈った。朕自ら文章を書き、案の上に置いたところ、誓紙はたちまち天へ飛び上がった。そして空中から声が聞こえた。『聖寿が延長するぞ。』と。又、朕は祟山にて薬を造り、これを壇の上に置いた。夜になって、近習がこれをしまおうとしたら、又、空中で声がした。『薬はまだしまってはいけない。これが聖身を守るのだ。』そこで、その薬は暁になってからしまったのだ。」
 太子や諸王、宰相は、皆、上表して祝賀した。 

 李適之と李林甫が権力を争って仲が悪くなった。適之は兵部尚書で、フ馬の張自(「土/自」)は侍郎だったが、林甫は彼も又憎んでいた。そこで、兵部銓曹の悪事を告発させ、役人六十余人を摘発して京兆と御史に詮議させたが、ついに実証できなかった。
 京兆尹蕭Qは、法曹の吉温に詮議させた。温は院へ入ると、兵部の役人を外へ出し、まず、別の囚人達を尋問したが、その方法は杖で打ったり押し潰したりする拷問で、泣き叫ぶ声は聞くに忍びなかった。皆は言った。
「命さえ有るならば、何でも白状いたします。」
 兵部の役人は、もともと温の残酷さを知っていたので、引き入れられると皆が自ら白状し、温の意向に逆らおうとする者はいなかった。
 僅かの間に疑獄は成立し、尋問された囚人達には拷問の跡一つなかった。
 六月辛亥。敕が降りて前後の知銓侍郎及び判南曹郎官が譴責し、これを宥めた。
 自は均の兄、温は頁(「王/頁」)の弟の子である。
 温は新豊丞となった時、太子文学の薛嶷が彼の才覚を推薦したが、上はこれを召見して言った。
「これは不良人だ。朕は用いない。」
 蕭Qは河南尹だった頃、ある事件に関与した。西台は温を派遣して詮議させたが、温は容赦なくQを詮議した。後、温は萬年丞となったが、それからすぐにQは京兆尹となった。
 温はもともと高力士と結託していた。温は、Qは必ず任官の謝礼に力士の自宅へ出向くと考え、力士が禁中から自宅へ帰る日に、先回りして彼を訪ねた。そして歓談して手を取り合って楽しんでいるところへ、Qがやって来た。温は、上辺は驚いたふりをして隠れようとしたが、力士は呼びかけた。
「吉七、逃げることはない。」
 又、Qへ言った。
「これは、我の旧友だ。」
 そして、Qと同席させた。Qは彼へ対して非常に恭しく、かつての怨みを態度に見せたりしなかった。
 他日、温はQへ会って、言った。
「あの時は、国家の法を壊せなかったのです。これからは、心を改めて公へ仕えます。」
 Qは遂に歓びを尽くし、彼を引き上げて法曹とした。
 やがて李林甫が、自分に従わない者を排斥しようとし始めると、獄吏を求めた。Qは林甫へ温を推薦した。林甫は彼を得て、大いに喜んだ。
 温はいつも言っていた。
「もしも知己に会ったなら、南山の白額虎でも縛り上げて見せましょう。」
 この頃、又、杭州の人羅希颯爽も酷吏として評判だった。林甫は彼を派閥に組み入れ、御史台主簿から何度も出世させて殿中御史とした。
 二人は林甫に従って、その意向の深浅に従い罪をでっち上げ、逃れられる者は居なかった。時の人々は、彼等を、「羅鉗吉網」と呼んだ。 

 八月壬寅、楊太眞を貴妃に冊立し、その父の玄炎(「王/炎」)を兵部尚書、叔父の玄珪を光禄卿、従兄の銛を殿中少監、をフ馬都尉とした。
 癸卯、武惠妃の娘を太華公主に冊立し、奇へ娶るよう命じた。
 貴妃の三人の姉も、皆、京師へ第を賜り、非常に寵遇された。
 楊サは貴妃の従祖兄である。学問もしない無頼漢で、一族の鼻つまみだった。蜀にて従軍して新都尉となった。従軍期間が満ちたが、家が貧しいので帰郷できなかった。すると、新政の鮮于仲通とゆう金持ちが、何かと面倒を見て遣った。
 楊玄炎が蜀へやって来ると、サはその家へ往来し、中女と密通した。
 鮮于仲通は、名を「向」と言うが、字の方が有名である。読書を好み材智があったので、剣南節度使章仇兼瓊が引き立てて采訪支使とし、腹心とした。
 ある時、兼瓊はくつろいだ有様で仲通へ言った。
「今、我は一人上からの厚遇を受けているが、朝廷で助けてくれる者が居ない。李林甫は、絶対陥れようとする。時に、楊妃が寵愛を受け始めたが、まだ彼女とよしみを結んだ者はいない。我が長安へ行ったとき、子がその家とよしみを通じさせることができたなら、我に患いは及ぶまいが。」
 仲通は言った。
「仲通は蜀の人間で、上国へは行ったこともありませんので、公事を達成できません。でも、公の為に役に立つ人間を紹介しましょう。」
 そして、サとの事を語った。
 兼瓊がサと会ってみると、押し出しが立派で、弁も立った。兼瓊は大いに喜び、すぐに官吏に推挙し、往来して親密になった。サが朝貢の使者として上京する折、別れの時に言った。
「卑(「卑/里」)に、ちょっとした物を用意した。一日の食糧にはなるだろう。通り過ぎるとき、立ち寄ってみてくれ。」
 サが卑県へ行くと、兼瓊の言いつけでたくさんの宝物が準備しされていた。値にしたら一万緡の価値はあっただろう。サは大いに喜び、昼夜兼行して長安へ向かい、諸妹の第を訪ねては蜀貨をふるまい、言った。
「これは兼瓊からの賜です。」
 その頃、中女は夫を亡くしたばかりだった。サは彼女の館へ泊まり込み、蜀貨を二分して与えた。
 ここにおいて、諸楊は日夜兼瓊のことを褒めそやかした。また、サがチョボ(サイコロ投げ。博打の一種)が巧いことも吹聴し、上へ見物するよう勧めた。こうしてサは供奉官へ随伴して禁中に出入りできるようになり、金吾兵曹参軍となった。 

 九月、癸未、陜郡太守、江淮租庸転運使韋堅を刑部尚書として、その諸使をやめさせ、御史中丞楊慎矜と交代させた。
 堅の妻の姜氏は、皎の娘で、林甫の舅の子である。だから、林甫は彼と昵懇だった。堅が通漕のことで上から寵遇されると、彼は朝廷へ入って宰相になろうと思った。また、李適之とも仲が良かったので、林甫は彼を憎み始めた。だから、美官を与えて、その実、実権を奪ったのである。 

 上は、戸部郎中王ヘを戸部色役使として、百姓を出身地へ戻すよう敕を賜った。ヘは、その輦運の費用がかさむことや、以後の物流に大きな労力がいることを奏上したので、沙汰やみとなった。
 旧制では、辺境の守備兵は租庸が免除され、六年で交代することになっていた。ところが、この頃の辺境の将軍達は、敗戦を恥としており、戦死した士卒を過小報告したので、彼等は戸籍上生きていることになっていた。
 王は、租税を山ほどかき集めるつもりだったので、戸籍があっても人が居ない者は皆、税金のがれの誤魔化しと決めつけ、戸籍を調べて六年間の兵役以外の租庸を全て徴収した。合計して三十年分も徴収される者も居たが、民は訴える場所もなかった。
 上は在位して久しく、生活は日々豪奢になり、後宮への賜下も無節操に行った。それでも左藏や右藏からしばしば宝物を取り出すのは厭がっていた。は、その上の心を知り、百億万もの租税を内庫へ蓄えて宮中での宴会や賜下品に供出し、言った。
「これは皆、租庸調以外の収入ですから、経費に回す必要はありません。」
 上は、に富国の才能があると思い、益々厚遇した。は、税をむしり取ることに励んで媚びを求めたので、中外は怨嗟した。
 丙子、を御史中丞、京畿采訪使とした。
 楊サは禁中の宴会に侍り、チョボや文簿(博打の一種)ばかりやったが、計算がきっちりしていた。上はその強明を褒め、言った。
「よい度支郎(天下の租税の多少を掌握する官職)だ。」
 諸楊は彼を登用するよう屡々上言した。また、彼はヘの麾下にあった。そこでヘは上奏して判官とした。
 なお、章仇兼瓊は、五載五月に戸部尚書となった。諸楊の引き立てである。 

 五載正月乙丑、隴右節度使皇甫惟明へ河西節度使を兼務させた。
 李適之は軽率な人間。李林甫は、かつて適之へ言った。
「華山に金鉱がある。これを採れば国が富むが、主上は未だ知らないのだ。」
 他日、適之は上奏する時に、これを言った。上が林甫へ問うと、対して答えた。
「臣は前から知っていましたが、ただ華山は陛下の本命で王気がある場所です。これを荒らすのは良くありません。だから敢えて言わなかったのです。」
 上は、林甫が自分を愛していると思い、適之が深く考えないことを軽蔑し、言った。
「今後、上奏する時には、その前に林甫と協議せよ。軽々しく進言してはならぬ。」
 以来、適之はただ手を拱いているだけとなった。
 適之が上から疎外され、韋堅が権力を失うと、この二人は益々親密になった。林甫はますますこれを憎んだ。
 ところで、太子が立ったのは、林甫の意向ではなかった。林甫は、後日自分へ禍が降りかかるのを恐れ、東宮を廃立しようといつも狙っていた。そして堅は太子の妃兄である。
 皇甫惟明は、かつて忠王の友だった。吐蕃を破って戦勝報告のため入朝した時、林甫の専横を見て心中非常に不満だった。上に謁見した時、折を見て林甫を斥けるよう勧めた。これを知った林甫は、密かにその所動を伺うよう楊慎矜へ命じた。
 正月の十五夜に、太子が外出して遊び、堅と会った。堅はまた、景龍観の道士の室にて惟明と会った。慎矜はそのことを告げ、堅は太子の親戚なのだから辺将と狎れ親しむのは宜しくないとした。そこで林甫は、堅が惟明と陰謀を結んで太子を立てようとしていると上奏した。堅と惟明は獄へ下された。
 林甫は、慎矜と御史中丞王ヘ、京兆府法曹吉温に、これを詮議させた。上も又、堅と惟明が陰謀を巡らせたかと疑いはしたが、その罪はまだ顕れていなかった。
 癸酉、制を下し、干進をやめないと堅を責めて縉雲太守へ降格し、惟明は君臣を離間したとして、播州太守へ降格した。また、別に制を下して百官の戒めとした。
 韋堅等が降格させられてから、左相の李適之は懼れ、自ら窓際を求めた。
 四月庚寅、適之を太子少保とし、政事をやめさせる。
 その子の衞尉少卿言(「雲/言」)が、ある時盛大に饌(祀の一種)を行って客を招いたが、客は林甫を畏れ、その日は誰一人訪れなかった。
 将作少匠韋蘭と兵部員外郎韋芝は、彼等の兄の堅の件は冤罪であると訴え、太子を証人として引っ張ってきた。上は益々怒る。太子は懼れ、親しい相手でも法律を曲げないことを示す為に、妃と離縁させて欲しいと上表した。
 九月丙子、堅を再び降格して江夏の別駕とし、蘭と芝は嶺南へ飛ばされた。ただ、太子が孝謹な事を上は知っていたので、譴怒は太子へは及ばなかった。
 李林甫は、この事件に乗じて、堅と李適之等が朋党を造っていたと言った。
 数日後、堅は臨封へ長流され、適之は宣春太守、太常少卿韋斌は巴陵太守、嗣薛王絹(本当は、王偏)は夷陵別駕、隹陽太守裴寛は安陸別駕、河南尹李斉物は意陵太守へ、それぞれ降格された。
 およそ、堅と親しくしていた人間で連座で流罪や降格となった者は、数十人にも及んだ。
 斌は安石の子息、絹は業の子息で堅の甥である。絹の母親もまた、絹と共に赴任地へ追いやった。 

 五載四月、門下侍郎、祟玄館大学士陳希烈を同平章事とする。
 希烈は宋州の人。老荘を講義して出世した。専ら神仙符瑞の話で上へ媚びた。李林甫は、希烈が上から愛され、その性格が柔佞で操りやすかったので、これを引き立てて相としたのである。およそ、政事は林甫だけが決定し、希烈はただ承諾するだけだった。
 故事では、宰相は午後六刻に退出することになっていたが、林甫は、「ただいまは太平無事です。」とだけ上奏して第へ戻り、軍国の機務は皆、私家にて決定した。主書は、成立した案件を抱えて希烈のもとへ行き、ただ署名して貰うだけだった。 

 七月丙辰、敕が降りた。
「流貶された人の多くは途中で逗留している。今後、降格した官人は、一日十駅以上進め。」 

 楊貴妃がすこぶる寵愛された。馬に乗るごとに高力士が轡を執って鞭を振るう。貴妃院専従の織工は七百人もおり、中外は争って器服珍玩を献上した。嶺南経略使張九章や廣陵長史王翼は、献上物が精緻で美しかったので、九章には三品が加えられ、翼は朝廷にて戸部侍郎となった。天下は、風に靡くように従った。
 民間では、歌にまで歌われた。
「男を産んでも喜ぶな。女を産んでも悲しむな。主君は今、女を見て出世させるぞ。」
 妃が生茘支(南方産出の果物)を欲しがると、嶺南から駅伝で届けるよう命じた。長安へ届いた時には、色も味も劣化していなかった。
 そこまで愛されたので、妃は不遜になり嫉妬や悍気を発するようになった。とうとう、上は怒り兄の銛の屋敷へ送り返すよう命じた。
 その日、上は不機嫌で、一日中食事も摂らず、近習が少しでも気に入らないと、容赦なく鞭でぶっ叩いた。高力士は玄宗の想いを知り、院中の官女全員が、車百台で貴妃を迎えに行くよう請うた。上は喜び、自ら膳を賜った。
 夜になって、貴妃が院へ帰ってきたと、高力史が上奏した。ついに、禁門を開いて貴妃を入れる。
 この一件で、寵恩はますます隆くなり、後宮の女性は誰も相手にされなくなった。 

 贊善大夫杜有隣は、娘を太子の良テイ(側室の一人、正三品)としていた。良テイの妹は、左驍衞兵曹柳勣の妻となっていた。
 柳勣は軽薄で功名を好み、豪俊と交友を結ぶことを喜んでいた。シ水太守裴敦復が北海にて太守李ユウを推薦し、彼と交を結んだ。勣が京師へやって来ると、著作郎王曾等と友となる。皆、当時の名士だった。
 勣は、妻の一族と仲が悪く、これを陥れようと思って、噂話を流し、“有隣が妄りに図讖を称し、東宮と結託して乗輿を退位させようとしている”と告発した。李林甫が、京兆士曹吉温へこれを詮議させたところ、勣が首謀者とされた。温は、勣へ曾等を連引して入台させた。
 十二月甲戌、有隣、勣及び曾等は、皆、杖で打ち殺され、屍は大理に積み上げられた。妻子は遠方へ流される。中外は震駭した。
 嗣カク王巨は、義陽司馬へ降格される。巨は、邑の子息である。これとは別に監察御史羅希爽を派遣して李邑を詮議させる。太子は、良テイを東宮から出して庶人とした。
 乙亥、ギョウ郡太守王居(「王/居」)は公金流用の罪で江華司馬へ降格された。居は豪侈で、李邑と共に上の旧臣を自認していたが長い間地方に飛ばされていたので、怏々としていた。李林甫は、その憤懣を憎み、理由をこじつけて左遷したのだ。 

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