李林甫と楊国忠  (天寶年間)  その3
 
 
 十一載二月丙午、官庫の粟や帛及び銭数十万緡を放出して、両市にて悪銭を回収するよう命じた。
 以前は、江淮には悪銭が多かった。そこで貴戚や大商人は江淮へ行き、良銭一枚と悪銭五枚を両替して長安へ持ち込んだ。その弊害は、市井へ大きくのしかかってきた。
 李林甫はこれの使用を禁止するよう請願した。悪銭は官にて交換し、一ヶ月の期限を切り、納付しない者は罰する。
 商人達は利便ではないと大騒ぎした。大勢の人間が楊国忠の馬を遮り、訴えかけた。国忠はこれを上言する。そこで命令は変更され、鉛や錫以外で、鋳造されて穴さえ空いていれば、旧来通り銭として流通させる事を許した。 

 ヘの権寵は日毎に盛んとなり、 二十余の役職を兼任するようになった。自宅の傍らへ使院を造り、文案が山積みになる。吏は一文字の署名を求めるために何日も並ばなければならなかった。賜下品を届ける中使はひっきりなしに彼の門をくぐる。李林甫さえも彼を畏避した。
 林甫の子息の岫は将作監となり、ヘの子息の準は衞尉少卿で、共に禁中に供奉した。準はを凌侮し、はいつもへりくだっていた。しかし、ヘは林甫へ対して謹んでいたので、林甫は彼の寵遇を忌んではいたが、害するに忍びなかった。
 準はかつて、取り巻き達を引き連れてフ馬都尉王ヨウとすれ違った。ヨウは塵を見たら伏し拝んだが、準は弾き玉をヨウの冠に当ててその玉簪を折って戯れに笑った。それでもヨウは酒を準備して準を招いた。ヨウが娶った永穆公主は上の愛娘だが、彼女自ら準へお酌をして持てなした。準が帰ると、ある者がヨウへ言った。
「鼠が父親の権力を後ろ盾にしているとは言え、公主へお酌させてことが上の耳に入ったら、まずくはありませんか?」
 ヨウは言った。
「上が怒っても実害はない。七郎に至っては、命が懸かる。気を使わずにいられない。」
 ヘの弟の戸部郎中カンは、凶悪な無法者。術士の任海川を呼び付けて聞いた。
「我に王者の相はあるか?」
 海川は懼れ、逃げ隠れた。ヘは事がばれるのを恐れ、捕まえると他の事にかこつけて杖で打ち殺した。
 王の府司馬韋會は、定安公主の子息で、王ヨウと同母兄弟である。(定安公主は中宗の娘で、王同皎へ嫁いでヨウを産み、また、韋濯へ嫁いで會を産んだ。)彼はこの事件を私庭にて話した。ヘは、長安尉賈季隣へ命じて會を捕まえて牢獄へぶち込み、絞殺した。ヨウは、何も言わなかった。
 カンはケイ縡と仲が良く、龍武萬騎と共に龍武将軍を殺して兵乱を起こし、李林甫、陳希烈、楊国忠を殺そうと謀った。だが、期日の二日前に告発する者がいた。
 四月乙酉、上は朝廷へ臨んで、告発状をヘへ突きつけ、彼等を捕らえさせた。ヘは、カンは縡の所にいると当たりを付け、まず人を派遣して彼を呼び寄せた。そして日が遅くなってから、縡を捕らえるよう賈季隣へ命じた。
 縡は金城坊に居た。季隣等が門へやってくると、縡は仲間達数十人と共に弓や刀を持ち出して格闘し、飛び出した。ヘが楊国忠と共に兵を率いて到着すると、縡は仲間へ言った。
「大夫の部下を傷つけるな。」
 国忠の間諜が国忠へ言った。
「賊徒は合い言葉を決めています。戦ってはなりません。」
 縡は戦いつつ逃げ、皇城の西南の隅へ至った。そこへ高力士が飛龍禁軍四百を率いて到着し、縡を攻撃して斬り、仲間達を全員捕らえた。
 国忠はこの有様を上へ報告し、言った。
「ヘは絶対、この陰謀へ加担しています。」
 上は、ヘは任遇が深いので、叛逆に応じる筈がないと考えた。李林甫もまた、彼の為に弁明した。
 上は、特命にてカンを不問とした。だが、本心ではヘがカンの処罰を請願してくれることを望んでいた。そこで、国忠にそれとなく諭させたが、ヘは請願するに忍びなかった。上は怒る。
 陳希烈が、ヘも大逆として誅さなければならないと口を極めるに及び、上の心も決まった。
 戊子、この件について、希烈と国忠が詮議するよう敕が降りた。また、国忠へは京兆尹を兼任させる。
 ここに於いて、任海川や韋會等の事件が皆、暴露された。疑獄は成立し、ヘは自殺を命じられ、カンは朝堂にて杖で打ち殺される。ヘの子息の準とショウは嶺南へ流し、ついで殺す。
 役人が彼の屋敷の財産を記録したが、数日かけても終わらなかった。ヘの賓佐は、敢えてその門を窺おうとしなかったが、ただ采訪判官の裴免(「日/免」)だけが、彼の屍を受け取って埋葬した。
 丙辰、京兆尹楊国忠へ御史大夫、京畿・関内采訪等使の官職を加える。およそ、王ヘの持っていた役職は、全て国忠へ与えられた。
 当初、李林甫は、国忠が微才で貴妃の一族だったので、これを善遇していた。
 国忠と王ヘは共に中丞となったが、ヘは林甫の推薦のおかげで大夫となった。だから国忠は気分を害し、遂にケイ縡の疑獄を深く探求し、林甫がヘ兄弟や阿布思と私的に交際していたことを突き止めた。陳希烈や哥舒翰も証言した。これによって、上は林甫を疎むようになった。
 国忠の貴は天下を震わせ、始めて林甫と仇敵になった。 

 もともと李林甫は、陳希烈が扱いやすいから宰相としたのである。政事はいつも林甫の近習達が動かしていたが、晩年になり、ついに林甫と敵対した。林甫は懼れた。
 この年の三月に李献忠が造反する(詳細は、「安史の乱」に記載)や、林甫は朔方節制の解任を請願し、後釜には河西節度使安思順を推薦した。
 庚子、思順を朔方節度使とする。 

 五月戊申、慶王jが卒した。靖徳太子の諡を贈る。 

 八月乙丑、上が再び左藏へ御幸し、群臣へ帛を賜下する。
 癸巳、鳳凰が左藏庫屋に顕れたと楊国忠が上奏し、庫西の通訓門に法王が集まったと出納判官魏仲犀が上言した。 

 六月甲子に、楊国忠が上奏した。
「吐蕃の兵六十万が南詔を救援に来たけれども、剣南の兵が、雲南にて撃破しました。もとの隰州等三城に勝ち、六千三百人を捕虜としました。ただ、道が遠いので、体力のある千余人と降伏した酋長のみ献上いたします。」
 しかし、現実には、南詔の掠奪は止まない。南詔が屡々辺境へ入寇するので、蜀の人間は、楊国忠が鎮へ赴くよう請願した。左僕射兼右相李林甫が、これを派遣するよう上奏する。
 国忠は出立しようとする時、泣いて別れを告げ、必ず林甫から害される、と上言した。貴妃もまた、彼の為に請願した。上は、国忠へ言った。
「卿はゆっくりと蜀へ向かい、軍事の処理をしておきなさい。朕は日を指折り数えて卿を待ち、呼び返して宰相にしよう。」
 この時、林甫は病気となり、憂いに満ちたが、為す術もなかった。巫師は、”一度でもご尊顔を拝したら、少しは病状が癒える。”と言う。上は、見舞いに行こうとしたが、左右が固く諫めた。そこで上は庭中へ出るよう林甫へ命じて、自身は降聖閣へ登って遙かに望んだ。林甫は拝礼することさえできず、他の者へ拝礼させた。
 国忠が蜀へ着くとすぐに、上は中使を派遣して召還した。国忠は昭應(林甫の私第)まで来ると林甫へ謁見し、ベッドの下で拝礼した。林甫は涙を零して言った。
「林甫が死んだら公はきっと宰相になる。後事は公へ託すぞ!」
 国忠は謝して”自分はそんな器ではない”と答えた。その顔面は、汗びっしょりだった。
 十一月丁卯、林甫が卒した。
 上は、晩年になると自ら泰平を恃み、天下には何の憂いもないと思い、遂に禁中の奥に引っ込んで声色の娯楽に専念するようになり、政事は全て林甫へ委ねた。
 林甫は近習へ媚び、上意へ迎合し、その寵を確固たるものとした。上言の道を閉ざし、聡明を覆い隠し、権威を以て姦を為した。賢人を妬き有能な人間を憎み、自分以上の者を排斥してその地位を保つ。屡々大獄を起こし貴臣を誅逐して権勢を張った。だから、皇太子以下、彼を畏れて足をそばめていた。
 宰相に在位すること十九年。天下の乱を養成したが、上はこれを悟らなかった。
 庚申、楊国忠を右相兼文部尚書とした。その判官は従来通り。
 国忠の為人は、口達者で軽薄。そして威儀がなかった。宰相になると、天下の裁量こそ自分の任務と思いこみ、裁決機務を深慮なく果敢に行った。朝廷にいれば、袖を払い腕を振るう。公卿以下、動作一つにも気を配り、震え上がらない者は居なかった。侍御史から宰相に至るまで、およそ四十余りの役職を兼務する。台省の官吏で才覚や行動が称されている者でも、自分の役に立たない者は全員追い出した。
 ある者が、陜郡の進士張彖へ、国忠に謁見するよう勧めて言った。
「彼へ謁見すれば、即座に富貴が押し寄せて来るぞ。」
 彖は言った。
「君達は、楊右相へ寄りかかって、泰山のように思っている。だが、我から見れば、氷山だ。もしも太陽が照りつければ、君達は頼みの綱をなくしてしまうぞ。」
 遂に、祟山へ隠居した。
 国忠は、司勲員外郎崔圓を剣南留後とし、魏郡太守吉温を御史中丞、充京畿、関内採訪等使とした。
 温は范陽へ出向いて、安禄山へ別れを告げた。禄山は、子息慶緒へ境まで見送らせた。温の為に控え馬を駅から数十歩出す。温は長安へ着くと、朝廷の動静を即座に禄山へ知らせた。彼等は、二晩で范楊まで到着した。
 十二月、楊国忠は人望を収めようと、建議した。
「文部の人選では、賢不肖を問わず、長く働いたものを進級させる。」
 長い間出世しなかった者達は、大喜びした。
 国忠の措置は、皆、人の欲望に阿っていたので、すぐに大勢の人間から褒めちぎられた。 

 棣王炎(「王/炎」)には二人の夫人がおり、寵愛を争っていた。その片方が、巫を使い、符を書いて炎の靴の中へ入れ、媚びを求めた。
 さて、炎と監院宦者とは反目しあっていたが、宦者がこれを知って、炎が上を呪詛していると密奏した。上がその靴を探らせてみると、果たして符があったので、大いに怒った。炎は頓首して謝り、言った。
「臣は、実際、符があることなど知らなかったのです。」
 上がこれを糾明させると、果たして、夫人の仕業だと判明した。
 しかし、上は尚も炎がこれを知っていたのではないかと疑い、鷹狗坊へ幽閉し、朝請も許さなかった。
 炎は、憂憤して死んだ。 

 故事では、兵、吏部尚書知政事は、人事を全て侍郎以下へ委ね、三回見直してから門下省の審査へ下げ渡すことになっており、春から夏までにこの手順は完了させていた。楊国忠が宰相領文部尚書となると、自分の精緻さを示そうと、令史はまず私第にて密かに定めるようになった。 

  十二載正月壬戌、国忠が左相陳希烈及び給事中、諸司長官を皆、尚書都堂へ集めて、人事を行い、たった一日で終わらせ、言った。
「今の左相や給事中もこの場に同席したのだから、このまま門下へ渡せばよい。」
 その間、不適当なことも多々あったが、敢えて異議を唱える者は居なかった。ここにおいて、門下もそのまま承認し、侍郎はただ手を拱いているだけだった。
 侍郎の韋見素と張倚は、門庭を小走りに駆けるだけで、主事と変わらなかった。見素は、湊の子息である。
 京兆尹鮮于仲通は、選人達へ風諭して、国忠の為に頌を刻むよう請願させた。これは省門へ立てて、仲通へその言葉を選ばせた。上は、数文字改定する。
 仲通は、刻んだ文字へ金を流し込んで満たした。 

 十一載九月に、阿布思が入寇し、永清柵を包囲した。柵使張元軌が、拒んでこれを撃退する。
 十二載正月、楊国忠は安禄山のもとへ使者を派遣し、李林甫と阿布思が手を結んで造反を謀っていたと告発するよう説得した。禄山は、阿布思の部落から降伏してきた者を闕へ詣でさせ、林甫と阿布思が義理の親子になっていたと誣告させた。
 上はこれを信じ、役人へ調べさせた。林甫の婿の諫議大夫楊斉宣は我が身に累が及ぶことを懼れ、国忠へすり寄って証人となった。
 二月、癸未、制が降りた。林甫の官職を削り、子孫に官がある者は除名。彼等は嶺南及び黔中へ流し、身につけた衣服と食糧以外の財産は全て没収。近親や党類とみなされて連座させられた者は、五十余人になった。
 この時、林甫はまだ埋葬されていなかったが、林甫の棺桶は開けられ、口に含んだ珠や着せられていた金紫は取り上げられ、もっと小さい棺桶へ収めて、まるで庶民のような礼で埋葬された。
 己亥、陳希烈へ爵許国公、楊国忠へ爵魏国公を賜った。彼等が林甫の獄を治めたことを賞したのである。
 五月己酉、魏、周、隋の末裔を復し、三恪とした。楊国忠が、李林甫の業績を攻めたかったからだ。衞包は、邪を助けたとして夜郎尉へ、崔昌は烏雷尉へ降格となった。 

 安禄山は、李林甫の狡猾さが自分以上だったので、彼へ畏服していたのだ。楊国忠が宰相となると、禄山は彼を蔑視した。これによって、彼等は仲が悪くなった。国忠は屡々禄山が造反の準備をしていると上言したが、上は聞かなかった。
 隴右節度使哥舒翰が吐蕃を攻撃して、洪済、大漠門等の城を抜き、九曲部落を悉く収めた。
 初め、高麗人の王思禮と翰は共に押牙となって王忠嗣へ仕えていた。翰が節度使となると、思禮は兵馬使兼河源軍使となった。
 翰が九曲を攻撃する時、思禮は、期日に遅れてしまった。翰はこれを斬ろうとしたが、再び呼び出して釈放してやった。
 思禮は静かに言った。
「斬るのなら、さっさと斬ればよい。なんでわざわざもう一度呼び出したりしたのだ!」
 楊国忠は、翰と厚く結んで共に安禄山を排斥しようと、翰へ河西節度使を兼任させるよう上奏した。
 八月戊戌、翰へ爵西平郡王を賜る。翰の表侍御史裴免を河西行軍司馬とする。
  この頃、中国は盛強で、安遠門から西は全て唐の領土だった。一万二千里には家が建ち並び桑や麻が生い茂った。中でも、隴右は天下第一と称されるほど富があった。翰が入奏の為に派遣する使者は白駱駝に乗っていたが、これは一日五百里を駆けた。 

 十月戊寅、上が華清宮へ御幸した。
 楊国忠とカク国夫人の第は隣同士だったので、昼夜、際限もなく行き来しており、ある時は轡を並べて馬を走らせて入朝した。夫人が出歩くときには、必ず障幕を張って自分の姿を人から見られないようにするのに、カク国夫人はそんなことをしなかったので、道行く人が自分の目を覆った。
 三夫人は車駕に随従して華清宮へ行こうとして、国忠の第で落ち合った。車馬や従僕は、数坊へ溢れ返り、錦繍珠玉は鮮やかで、目を奪った。
 国忠は客へ言った。
「我はもともと微賎な出身。一旦、女性の縁でここまで出世した。まだ政事とゆうものを知らない。ただ、最後に令名が得られないことを考えるなら、今楽しみを極めた方が増した。」
 楊氏の五家は、それぞれに違う色で衣を統一していた。五家が隊を組んで進むと、まるで雲錦のようだった。国忠は、剣南の旌節を先頭に掲げていた。
 国忠の子息の喧は、明経を受けたが、学業は荒廃しており、合格には程遠かった。禮部侍郎達奚cは、国忠の権勢を畏れ、息子の昭應尉撫を派遣して、先に報告した。国忠が入朝しようと馬に乗っているのを見て、撫は下馬して小走りに駆け寄った。国忠は、息子は絶対合格すると思っていたので、喜んでいた。撫は言った。
「大人から相公への伝言です。郎君の試験は、良い成績ではありませんでした。しかし、まだ落第と決まったわけではありません。」
 国忠は怒って言った。
「我が子が富貴になれぬことを心配する筈がないだろうか!お前達のような鼠達へ何をしろというのだ!」
 馬を操ったまま、顧みもしないで去っていった。
 撫は恐れおののいて父親へ言った。
「彼は貴勢を恃んで人をなみしています。どうして曲直を論じられましょうか!」
 遂に、喧を上第へ置いた。
 喧が吏部侍郎となると、cは始めて禮部から吏部へ映り、喧と親しく語るようになったが、そのたびに冷や汗が出て、病気になってしまった。
 国忠が要職に就くと、中外からの届け物が相継ぎ、ケン帛は三千万匹にも及んだ。 

 上は華清宮にいたが、夜遊びがしたくなった。すると、龍武大将軍陳玄禮が諫めて言った。
「宮外は荒野です。どうして満足な警備ができましょうか!陛下が夜遊びをなさりたいのでしたら、城闕に帰ってからにしてくださいませ!」
 おかげで、上は引き返した。 

 中書舎人宋立(「日/立」)が選事を任命された。前の進士廣平の劉迺は、選挙の方法に不備があるとして、立へ上書して言った。
「舜の朝廷には、禹、稷、皋陶のような賢人達がおりましたが、それでも九徳を見てから実際の行いを見ましたし、考課は九年間の業績を見ました。最近の主司は、一幅の文書で言葉を察し、たかが一礼の間に行いを見ます。その丁寧さは、古今で何と隔たっているものでしょうか!今の吏部の人選ならば、周公や孔子でさえも、言葉から人格を推すことでは徐陵やユ信に及ばず、実績を見ることでは稟夫に及びません。どうして聖賢の事業を論じることができましょうか!」 

 十三載正月甲辰、太清宮が上奏した。
「学士李hが、紫雲に乗っている玄元皇帝を見て、国祚がますます繁栄するとのお告げを賜りました。」
 二月壬申、上が太清宮にて朝献した。聖祖へ大聖祖高上大道金闕玄元大皇太帝の尊号を献上する。
 癸酉、太廟に享し、高祖を神堯大聖光孝皇帝、太宗を文武大聖大廣孝皇帝、高宗を天皇大聖大弘孝皇帝、中宗を孝和大聖大昭孝皇帝、睿宗を玄真大聖大興孝皇帝と諡した。漢の諸帝は全員、諡に「孝」の文字が入っていた故事に倣ったのだ。
 甲戌、群臣が上へ、開元天地大寶聖文神武證道孝徳皇帝の尊号を献上する。天下へ恩赦を下した。 

 丁丑、楊国忠が司空へ進位した。甲申、軒に臨んで冊命する。 

 十二載、北庭都護程千里が阿布思を磧西まで追撃した。ここで、書を遣って葛邏禄を呼応させた。阿布思は切羽詰まって葛邏禄へ降伏した。葛邏禄葉護はこれを捕らえ、その妻子、麾下数千人と共に唐へ送ってきた。(阿布思は、突厥の元西葉護。天寶元年に唐へ帰順していた。詳細は、「突厥」に記載)
 甲寅、葛邏禄葉護頓毘伽へ開府儀同三司を加え、金山王の爵位を賜った。
 十三載、程千里が阿布思を闕下へ献上して斬る。
 三月甲子、千里を金吾大将軍、封常清を権北庭都護、伊西節度使とした。 

 六月、侍御史、剣南留後李必(「宀/必」)が七万を率いて南詔を撃った。必は捕らえられ、軍は全滅した。詳細は、「南詔」へ記載する。
 楊国忠は、その敗戦を隠し、戦勝と上奏した。そして中国の兵を益々徴発してこれを討つ。死者は前後して二十万人。だが、敢えて上言する者はいなかった。
 上がかつて高力士へ言った。
「朕は今や老いているが、朝廷のことは宰相に任せ、辺事は諸将へ任せている。また、何の憂いが有ろうか!」
 力士は対して言った。
「雲南では屡々軍が全滅していると聞きます。また、辺将は大軍を擁しています。陛下はこれをどうやって制御なさるのですか!一旦禍が発したら救いようがなくなることを心配しています。どうして憂いがないなどと言われるのか!」
 上は言った。
「卿よ、もう言うな。朕は静かに考えてみる。」 

 七月癸丑、哥舒翰が上奏した。
「九曲の開発した土地へ兆(「水/兆」)陽、堯(「水/堯」)河二郡及び神策軍を設置し、臨兆太守成如繆(本当は、王偏)へ兆陽太守を兼任させて神策軍使としましょう。」 

 楊国忠が陳希烈を嫌ったので、希烈はしばしば辞表を出した。上は、武部侍郎吉温を後任にしようと思ったが、温は安禄山のへ諂っているので、楊国忠はこれを不可と上奏した。文部侍郎韋見素は人当たりが良く操縦しやすいので、これを推薦する。
 八月丙戌、陳希烈を太子太師として、政事をやめさせる。見素を武部尚書、同平章事とする。 

 去年から、水害、旱害が相継いで、関中が大いに餓えた。
 楊国忠は、京兆尹李見(「山/見」)が自分に靡かないので憎んでおり、災害の責任を見へ押しつけた。九月、長沙太守へ降格する。見は、韋(「示/韋」)の子息である。
 長雨で穀物が駄目になることを上が憂えたので、国忠はよく稔った稲穂を献上して言った。
「雨は多いのですが、稔りに害はありません。」
 上は得心した。
 扶風太守房官が上言した水害の場所は、国忠が御史へ調べさせた。
 この年、敢えて災害を口にする者は、天下にいなかった。
 高力士が側に侍っていたので、上は言った。
「長雨が止まない。卿は言いたいことを忌憚なく話してくれ。」
 対して言った。
「陛下は権威を宰相へ与え、賞罰は出鱈目。それで陰陽の調和が乱れたのです。臣に何を言うことがありましょうか!」
 上は黙り込んだ。 

 河東太守兼本道采訪使韋陟は、斌の兄である。文雅の評判高かったので、楊国忠は彼が宰相となることを恐れ、彼が汚職をしたと誣告させ、御史へ下げ渡して尋問させた。陟は中丞吉温へ賄賂を贈って、安禄山へ救いを求めさせたが、これも楊国忠から告発された。
 閏月壬寅、陟を桂嶺尉、温を豊(「水/豊」)陽長史へ降格した。
 安禄山は、温の為に冤罪と、国忠の讒言を訴えた。上は、どちらも聞かなかった。 

 十四載二月、隴右、河西節度使哥舒翰が入朝した。道中風邪を引き、ついに京師に留まって外出しなかった。 

 十一月、安禄山が挙兵した。詳細は、「安史の乱」へ記載する。 

 十二月戊申、栄王宛(「王/宛」)が卒した。靖恭太子と諡する。 

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