河陽の攻防
 
 乾元二年(759)四月、史思明が大燕皇帝と自称し順天と改元する。
 その妻の辛氏を皇后に冊立し、子息の朝義を懐王、周摯を宰相、李帰仁を将軍とする。
 范陽を燕京と改称し、諸州を郡とする。 

 同月庚子、澤路(「水/路」)節度使王思禮が、路城東にて、史思明の将楊旻を破った。 甲辰、陳、鄭、亳節度使を設置し、トウ州刺史魯Qを任命した。徐州刺史尚衡を青、密七州節度使とする。興平軍節度使李奐へ豫、許、汝三州節度使を兼任させる。
 各々、境上にて防禦を固めさせた。
 相州にて九節度使が潰れた時、魯Qの部隊の兵士達が、一番激しく掠奪を行った。郭子儀は退いて河上を確保し、李光弼は太原にて布陣していると聞き、Qは慚懼し、毒を飲んで死んだ。
 戊申、鴻臚卿李抱玉を鄭、陳、穎、亳節度使とした。
 抱玉は安興貴の子孫である。李光弼の裨将となり、屡々戦功を建てる。安禄山と同姓なのが恥ずかしいと、自ら陳情したので、李氏の姓を賜った。
 壬午、滑、濮節度使許叔冀をベン州刺史として、滑、ベン等七州節度使に充てた。試汝州刺史劉展を滑州刺史として、副使に充てた。
 六月丁巳、朔方を分けて、分(「分/里」)、寧等九州節度使を設置した。 

 観軍容使魚朝恩は郭子儀を憎んでいたので、今回の敗戦に関して、上へ譏った。
 七月、上は子儀を京師へ呼び戻した。代わりに李光弼を朔方節度使、兵馬元帥とする。
 士卒は涕泣し、中使の行く手を遮って、子儀の留任を請うた。子儀は、彼等を宥めて言った。
「いや、中使を見送りに行くだけだ。まだ出発しない。」
 そして、馬を踊らせて去った。
 李光弼は、親王を頭に据えて、自分はその副になることを請願した。辛巳、趙王係を天下兵馬元帥とし、光弼をその副官とした。光弼の知諸節度行営は従前通り。
 光弼は、河東の五百騎を率いて東都へ赴き、夜、軍へ入る。光弼は軍へ対して厳格な態度で臨んだ。到着した時にすぐに号令を下し、士卒、壁塁、旌旗、精采は一変した。これまで、朔方の将士は子儀の寛大さを楽しんでいたので、光弼の厳格さを憚った。
 河陽に駐屯している左廂兵馬使張用済を、光弼が檄で呼び寄せた。
 用済は言った。
「朔方は、造反軍ではない。それなのに、夜に乗じて入軍する。なんと深く疑っているのか!」
 そして、精騎で東京へ入り、光弼を追い出して子儀を請うことを、諸将と謀った。士へ武装して乗馬させ、枚を銜えて待たせた。都知兵馬使僕固懐恩が言った。
「ギョウ城で潰れた時、郭公が先に退却した。朝廷は、敗戦責任を問うて兵柄をやめさせたのだ。今、李公を放逐して強請すれば、それは造反だ。いいのか!」
 右武鋒使康元寶が言った。
「君が兵を動かして郭公を請えば、朝廷は絶対に、郭公が君を風諭して起こさせたと疑うぞ。これは、郭公の家を破ることだ。郭公の一族が、君にどんな悪行をしたのか!」
 用済は、やめた。
 光弼は、数千騎で東進して水へ出た。用済は、単騎でやって来て面会した。光弼は、召集された時にすぐに来なかったことを責めてこれを斬り、部将の辛京杲へ彼の士卒を指揮させた。
 続いて僕固懐恩がやって来ると、光弼は彼を座らせて共に語った。すると、すぐに取次の者が言った。
「蕃、渾が五百騎やって来ました!」
 光弼は顔色を変えた。懐恩は走り出ると麾下の将を呼んで上辺は叱責して言った。
「お前達には来るなと言っていたのに、何で命令に背いたのだ!」
 光弼は言った。
「士卒が将に随従するのだ。何の罪があるか!」
 そして、酒と牛肉を振る舞うよう部下へ命じた。 

 史思明は、子息の朝清へ范陽を守らせ、諸郡の太守へは各々将兵三千を率いて自分に従い河南へ向かうよう命じた。全軍を四道に分ける。令狐彰へは五千を与えて黎陽から河を渡って滑州を取らせ、思明は僕陽から、史朝義は白皋から、周摯は胡良から河を渡り、ベン州にて合流した。
 李光弼は、河上の諸営を巡っている時にこれを聞いたので、ベン州へ帰って、許叔冀へ言った。
「大夫がベン州を十五日守りきったなら、吾は兵を率いて救援に来る。」
 叔冀が許諾したので、光弼は東京へ帰った。
 思明がベン州へ到着すると、叔冀はこれと戦ったが、勝てなかった。遂に、僕州刺史董秦及びその将梁浦、劉従諫、田神功等と共に降伏した。
 思明は、叔冀を中書令として、麾下の将李詳と共にベン州を守らせた。董秦を厚遇したが、その妻子は人質として長蘆へ置いた。麾下の将南徳信と梁浦、劉従諫、田神功等数十人を、江、淮攻略に派遣する。
 神功は、南宮の人間である。思明は、彼を平盧兵馬使とした。神功は徳信を襲撃して、これを斬る。従諫は、単身脱出した。神功は、全ての兵卒を率いて唐へ降伏した。
 思明は、勝ちに乗じて西方の鄭州を攻撃した。光弼は、衆を整えて静かに進軍し、洛陽へ到着すると留守の韋陟へ言った。
「賊は勝ちに乗じて来た。だからこちらは持久戦が有利で、速戦は不利だ。そうなると、洛城では守れない。公の計略はどうか?」
 陟は、兵を陜に留め、退いて潼関を守り、険阻な地形を占拠して敵方の鋭気を挫くよう請うた。光弼は言う。
「両敵が対峙したら、進軍を貴び退却を忌む。今、理由もなく五百里も棄てたら、賊は益々図に乗るぞ。軍を河陽へ移動し、北方の沢路(「水/路」)と連携した方がいい。戦況が有利になったら進んで取り、不利になったら退いて守る。表裏一体となって、賊軍の西進を阻む。これは猿臂の勢いだ。朝廷での儀礼を論じたら、光弼は公に敵わないが、軍旅の事では公は光弼に敵わないな。」
 陟は返答しなかった。
 判官の韋損が言った。
「東京は帝の邸宅とも言える都です。侍中はどうしてこれを守らないのですか?」
 光弼は言った。
「これを守る為には、巳(「水/巳」)水、ガク嶺、龍門の全てに兵を配置しなければならない。お前は兵馬判官だが、それで守れるのか?」
 遂に牒を移して、留守韋陟へは東京の官属を率いて西行して関へ入らせ、河南尹李若幽へは賊から避難する為、吏民を率いて城を出させた。こうして、城は空となった。
 光弼は、軍士を率いて油、鉄などの諸物を河陽へ運んで守備をした。この時、光弼は五百騎で殿となった。
 遊兵は既に石橋へ到着していたので、諸将は請うた。
「今、洛城から北行するのです。石橋へ向かって進むべきではありませんか?」
 光弼はこれに従った。
 日が暮れると、光弼は松明を持って静かに進んだ。部曲は隙がなく、賊軍が兵を率いて追跡したが、敢えて近づかなかった。光弼は、夜に河陽へ到着した。その兵力は二万。(胡三省、曰く。郭子儀が河陽へ退却したとき、数万の兵力だったが、今はわずか二万。張用済を殺した為、畏れて逃げ出した兵卒が大勢いたのだ。)兵糧はわずか十日分しかなかった。光弼が守備を点検すると、厳重でないところはなかった。
 庚寅、思明は洛陽へ入ったが、城は空っぽで、何も手に入らなかった。光弼から背後を塞がれるのを畏れ、宮殿へは入らずに、白馬寺の南まで退いて屯営した。河陽の南へ月城を築き、光弼を拒む。
 この頃、鄭、滑は相継いで陥落しており、韋陟、李若幽は皆陜へ逃げ込んだ。
 十月丁酉、史思明を親征すると制が下った。群臣が上表して諫めたので、やめた。
 史思明は、兵を率いて河陽を攻めた。驍将劉龍仙を城下へ差し向けて挑戦させる。
 龍仙は勇を恃み、右足を馬の鬣の上に上げて光弼を慢罵した。光弼は諸将を顧みて、言った。
「誰か、奴を倒せる者はいないか?」
 僕固懐恩が名乗りを挙げると、光弼は言った。
「これは大将の仕事ではない。」
 すると左右は言った。
「裨将白孝徳ならやれます。」
 光弼は呼び出して問うた。孝徳は戦いを請うた。光弼は問う。
「兵は何人必要か?」
「一人で十分です。」
 光弼は、その志を壮としたが、固く選ばせた。すると、答えた。
「願わくば、五十騎を選んで塁門へ出して後続とし、大軍が軍鼓を盛大に鳴らして志気を高めさせてください。」
 光弼は、その背を撫でて遣った。
 孝徳は二本の矛を差し挟み、馬を操って流れを横切り進む。
 半ばまで渡った時、懐恩が祝賀して言った。
「克ちました。」
「まだ鋒を交えてもいないのに、どうして判る?」
「彼の轡の執り方が悠然としているのを見て、万全だと知ったのです。」
 龍仙は一人しか来ないのを見て、与し易しと見た。近づいて動こうとした時、孝徳は手を振って見せた。まるで相手にしていない風情だ。龍仙は相手の力量を測りかねて、止まった。
 十歩ほど離れた所で、これと言葉を交わす。龍仙は、初めのように慢罵した。孝徳は、馬の息を落ち着かせてから、目を怒らせて言った。
「賊は、我が名を知っているか?」
「誰だ?」
「吾こそは、白孝徳なり。」
「何の犬ッコロ!」
 孝徳は大声で叫ぶと矛を持って馬を躍らせ、これを打った。城上では軍鼓が鳴り響き、五十騎が続いて進む。龍仙は矢を放ちもしないで踵を返して逃げ出した。孝徳は追いついて首を斬り、これを携えて帰った。賊衆は大いに動揺した。
 孝徳は、もと安西の胡人である。
 思明は、良馬を千余匹持っていた。毎日、河南の渚に出して水浴びをさせる。馬を取り替え取り替え、休まずに、さも多くに見せかけた。光弼は、軍中で牝馬を探させ、五百匹を得た。その駒を城内に繋ぐ。史思明の馬が水際に来るのを待って、これを全て出した。馬はいなないて止まない。思明の馬は悉く河を渡り、アッという間に城へ駆け入ってしまった。
 思明は怒り、戦船数百艘を並べ、火をつけた畝を先頭に浮かべて進め、流れに乗じて浮き橋を焼き払おうとした。光弼は、予め百尺の長竿数百枚を蓄えており、巨木をその根本にくくりつけていた。先端には鉄の叉を置き、火船を迎えて突き刺した。船は前進できず、やがて勝手に燃え尽きてしまった。又、叉で戦船を拒み、橋の上から投石機で石を投げてこれを撃つ。当たった船は皆、沈没した。賊は勝てずに退却する。
 思明は、清河へ兵を出し、光弼の糧道を絶とうとした。光弼は野水渡に布陣して、これに備える。夕方になると、河陽へ帰ったが、千人の兵を留め、部将のヨウ希景(「景/頁」)にその柵を守らせて、言った。
「賊将の高庭暉、李日越、喩文景は、皆、万人力だ。思明は必ずこの中の一人を派遣して、我と戦わせる。我はしばらく去るので、お前はここで待て。もしも賊が来ても戦ってはならない。そして、彼等が降伏したら連れてこい。」
 諸将は、誰もその意味が分からず、密かに笑った。
 思明は、果たして李日越へ言った。
「李光弼は、城を守るのは巧い。今は城から出て野にいる。もう捕らえたも同然だ。汝は、鉄騎を率いて宵のうちに渡り、我が為に奴を捕らえろ。捕らえられなければ、帰ってくるな!」
 日越は五百騎を率いて晨に柵下へ到着した。希景は壕で阻んで兵卒を休め、嘆き声を立てながら対峙した。日越はこれを怪しんで、問うた。
「司空はどこにいる?」
「夜中に去った。」
「兵は何人だ?」
「千人だ。」
「将は誰だ?」
「ヨウ希景だ。」
 日越は黙ってしばらく考え込んだ後、部下へ言った。
「今、李光弼もなしに希景だけを捕虜にして帰っても、我は必ず殺される。降伏する方がいい。」
 遂に、降伏を請うた。
 希景は彼と共に光弼へ謁見した。光弼は彼を厚く遇して、腹心とした。高庭暉はこれを聞くと、やはり降伏した。
 ある者が、光弼へ尋ねた。
「二将が、どうしてこんなに容易に降伏したのですか?」
「これは人情だ。思明はいつも、野戦ができないことを恨んでいた。我が外に出たと聞けば、必ず擒にしようとする。日越が我を捕虜にできなければ、帰りようがない。暉の才勇は日越以上だ。日越が寵遇されていると聞けば、必ずそれ以上になろうと欲する。」
 暉は、この時五台府果毅となった。己亥、暉を右武衞大将軍とした。
 思明は再び河陽を攻めた。光弼は、鄭陳節度使李抱玉へ言った。
「将軍は、我のために南城を二日守れるか?」
 抱玉は言った。
「期限を過ぎたらどうしますか?」
「期限を過ぎて救援が来なければ、城を棄てても構わない。」
 抱玉は許諾して、兵を率いて拒守した。それでも城が陥ちかかったので、抱玉は敵方へ言った。
「我等は兵糧が尽きた。明日の朝に降伏する。」
 賊軍は喜んで、軍を撤収して待った。だが、抱玉は城壁を修復すると、翌日、再び戦いを請うた。賊は怒り、急攻する。抱玉は奇兵を出し、表裏から挟撃して、大勢の敵を殺傷した。
 董秦は思明に随従して河陽を攻撃していた。夜、麾下の兵五百人を率いて柵を抜いて包囲を突破し、光弼へ降伏した。
 この時、光弼は自ら将として中単(「水/単」)に屯営していた。城外に柵を設置し、柵の外には深さも幅も二丈の塹を掘る。
 乙巳、賊将周摯は南城を捨てて総力を挙げて中単を攻撃した。光弼は、剽悍な兵を率いて羊馬城(城外に築いた、肩くらいの高さの垣のこと)にて賊を拒むよう、茘非元禮へ命じた。そして光弼自身は、城の東北の隅に小さい朱旗を建てて賊を望んだ。賊は数を恃み、直進して城へ迫る。攻具は車に載せて持ってきて、衆を指揮して塹を埋めさせる。三面に各々八道から塹を通過した。また、柵を開いて門とした。光弼はこの有様を見ると、使者を出して元禮へ問うた。
「中丞は賊が塹を埋め柵を開いて兵を通過させるのを見ながら、安然として動かない。何故か?」
 元禮は言った。
「司空は守りたいのか戦いたいのか?」
「戦いたい。」
「戦いたいのなら、敵が我等のために塹を埋めてくれているのに、どうして禁じるのか?」
「善し。我の及ぶところではない。頑張れ!」
 元禮は、柵が開くのを待ち、決死隊を率いて出撃して賊を数百歩後退させた。元禮は、賊軍の布陣が堅く、簡単には崩せないと判断すると、退いた。そして、少しでも敵が怠けたらすぐに攻撃する。
 光弼は、元禮が退却するのを望み、怒って、これを斬ろうと左右を派遣して呼び出した。元禮は言った。
「戦いのたけなわで、何を呼び出すのか?」
 そして退いて柵の中へ入った。賊は敢えて近づかない。しばらくして、軍鼓を鳴らしながら柵門を出て、奮撃してこれを破った。
 摯は、兵をかき集めて北城へ迫った。光弼は衆を率いて北城へ入り、登城して賊軍を望み、言った。
「賊軍は多いが、ざわついていて整然としていない。畏れるに足らないぞ。諸君の為に、日中を過ぎぬ内に破って見せよう。」
 そして、諸将へ出戦を命じた。
 期限になっても、勝敗が決しなかったので諸将を呼んで問うた。
「賊陣の中で、一番堅固なのはどこだ?」
「西北の隅です。」
 光弼は、その将カク延玉へ攻撃を命じた。延玉は精騎五百を要請したが、三百しか与えなかった。そして、その次に堅固な場所を問うた。すると諸将は答えた。
「東南の隅です。」
 光弼は、その将論惟貞へ攻撃を命じた。惟貞が鉄騎三百を請うたので二百を与えた。
 光弼は、諸将へ命じた。
「お前達は、我が旗を見て戦え。我が旗を緩やかに翻したら、各々戦況を見て戦え。急いで三度翻し地につけたら、総攻撃だ。これに生死が懸かる。少しでも退いたら斬る!」
 又、短刀を近くへ置いて言った。
「戦は危事だ。我は国の三公だから、賊の手に掛かるわけにはいかん。万一利がなければ、諸君は前にて敵と戦って死ね。我はここで自刎する。諸君だけを死なせはしない。」
 諸将が出戦すると、しばらくして延玉が逃げ帰った。光弼はこれを見て、驚いて言った。
「延玉が退いたら、我が事は危ない。」
 そして、延玉の首を斬るよう左右に命じた。延玉は言った。
「馬が矢に当たっただけです。退いたのではありません。」
 伝令がこれを伝えると、光弼は換え馬を与えた。
 僕固懐恩とその子息の開府儀同三司場(本当は、王編)は戦っていて、少し退いた。光弼は、また、その首を斬るよう命じた。懐恩親子は、使者が刀を携えて駆けつけるのを見て、更に前進して決戦した。
 光弼が何度も旗を翻すと、諸将は一斉に死地へと進む。怒声は天地を揺るがした。賊衆は大きく潰れる。千余級の首を斬り、五百人を捕虜とする。溺死した賊兵は千余人。周摯は数騎で逃げ去り、その大将徐黄(「王/黄」)玉、李秦授を捕らえる。賊の河南節度使安太清は、懐州へ逃げ込んで、これを保った。
 思明は摯の敗北を知らず、なおも南城を攻撃していたが、駆けつけて来た光弼が河へ臨んで捕虜を示すと、逃げた。
 丁巳、李日越を右金吾大将軍とした。 

 史思明が、その将李帰仁へ鉄騎五千を与えて陜州へ派遣した。神策兵馬使衞伯玉が数百騎で、キョウ子阪にてこれを撃破し、馬六百匹を得る。帰仁は逃げる。伯玉を鎮西、四鎮行営節度使とする。
 永寧と沙(「草/沙」)柵の間で、李忠臣が帰仁等と戦い、しばしばこれを破る。 

 上元元年(760)二月、李光弼が懐州を攻め、史思明が救援する。
 癸卯、光弼が沁水の上にて迎撃し、これを破る。三千余級を斬首する。
 三月庚寅、李光弼が、懐州城下で安太清を破った。
 四月壬辰、河陽西の渚で史思明を破る。千五百余級を斬首する。
 閏月己卯、史思明が東京へ入る。
 六月乙酉、平盧兵馬使田神功が、鄭州にて史思明軍を破ったと上奏した。
 十一月、李光弼が懐州を攻めた。百余日でこれを抜き、安太清を生け捕りとする。 

 史思明は麾下の将田承嗣へ五千の兵を与えて淮西へ、王同芝へ三千の兵を与えて陳へ、許敬江へ二千の兵を与えてコン軍(「軍/里」)へ、薛鄂へ五千の兵を与えて曹州へ向かわせる。
 コン軍節度使能元皓が史思明の兵を撃ち、これを破る。 

史思明即位 

乱の終焉 

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