乱の終焉
 
上元二年(761)正月癸卯、史思明が應天と改元した。
 ある者が言った。
「洛中の将士は皆燕の人です。長い間守備をしているので、故郷へ帰りたがり、上下の心が離間しています。破れます。」
 陜州観軍容使魚朝恩は、これを信じ、屡々上言した。上は、李光弼等へ東京を進取するよう敕した。
 光弼は奏称した。
「賊鋒はなお戦意鋭く、まだ軽々しく進めません。」
 朔方節度使僕固懐恩は勇敢で強情。麾下は皆蕃、漢の悍兵で、功を恃んで不法なふるまいが多かった。郭子儀は、寛大にこれを容認しており、敵へ臨む度に頼みとしていた。だが、李光弼は厳格な性分で、全てを法で裁き、功績で帳消しするようなことはなかった。懐恩は、光弼を憚りながらも心中憎んでいたので朝恩へ附き、東都は取れると言った。
 これによって中使が相継いでやってきて、光弼へ出陣を督促した。光弼はやむを得ず、鄭陳節度使李抱玉へ河陽を守らせ、懐恩と共に兵を率いて朝恩及び神策節度使衞伯玉と合流し、洛陽を攻めた。
 戊寅、亡(「亡/里」)山に布陣する。光弼は険に依って布陣するよう命じたが、懐恩は平原に布陣した。光弼は言った。
「険に依れば、進退が自由だが、平原に布陣したら、戦って不利になると全滅してしまう。思明を軽く見てはいけない。」
 そして、険へ移るよう命じたが、懐恩は聞かなかった。
 史思明は、その陣が完成していないのに乗じて、兵を進めてこれへ迫った。官軍は大敗し、数千人の死者を出した。軍資器械は全て捨て去る。
 光弼と懐恩は、河を渡って退却し、聞喜を保つ。朝恩、伯玉は陜へ逃げ帰り、抱玉は河陽を棄てて逃げる。河陽、懐州は全て賊の手に落ちた。
 朝廷はこれを聞いて大いに懼れ、陜へ増兵した。 

 史思明は、猜疑心が強く残忍で、殺人を好んだ。群下が少しでも気に入らないと、ややもすれば一族を誅殺したので、人々は不安でならなかった。
 朝義は、彼の長男である。いつも思明に随従して兵を率い、非常に謙謹で士卒を愛し、将士の多くが懐いていたが、思明から寵愛されていなかった。思明は末子の朝清を愛し、范陽を守らせていた。そして、朝義を殺して朝清を太子に立てようと常に思っていたが、その謀略は左右に漏れていた。
 思明は光弼を破ると、勝ちに乗じて西進し、関を入ろうと思った。朝義を前鋒として北道から陜白を襲撃させ、思明は南道から大軍を率いて後続となる。
 三月甲午、朝義の兵が彊(ほんとうは石偏)子嶺へ到着すると、衞伯玉が迎撃して、これを破った。朝義は屡々進軍したが、全て陜兵に敗北した。
 思明は退いて永寧に屯営し、朝義を怯と為して言った。
「これでは、我が事は成就しないぞ!」
 そして、軍法に照らして朝義及び諸将を斬ろうと欲した。
 戊戌、軍糧を貯蔵する為、朝義へ三隅城を築くよう命じた。期限は一日。朝義は城を築いたが、まだ泥を塗っていなかった。そこへ思明がやってきて、怒鳴りつけると、馬監泥を塗るよう左右に命じ、それはすぐに完了した。思明は、又、言った。
「陜州に勝ったら、この賊を斬れ。」
 朝義は憂懼して、為す術を知らなかった。
 思明は鹿橋駅にて、腹心の曹将軍に兵を与えて宿衞させた。朝義は逆旅に宿営する。麾下の部将の駱悦と蔡文景が、朝義へ説いて言った。
「悦等も、王と共にすぐにでも殺されます。昔から、廃立はありました。曹将軍を呼んで、これを謀ってください。」
 朝義はうなだれたままで答えなかった。
 悦等は言った。
「王が許さないのなら、悦等は今から李氏へ帰順します。そうすると、王も又無事では済みません。」
 朝義は泣いて言った。
「諸君は巧くやってくれ。聖人を驚かせてはならないぞ!」
 悦等は許叔冀の子息の李常を、曹将軍を呼びに行かせた。やってくると、彼へ謀略を告げる。曹将軍は、諸将の怨みが深く、禍が己に及ぶことを知り、敢えて逆らわなかった。
 この日の夕方、悦等は朝義の手勢三百を武装させて駅へ向かった。宿衞は怪しんだが、曹将軍を畏れ、敢えて動かない。
 悦等は兵を率いて思明の寝所へ入った。ちょうど思明は廁へ行っていたので、左右へ場所を問い、返答も待たずに数人を殺す。左右は場所を示した。思明は、変事があったことを聞き、垣を乗り越えて逃げ、自分の馬へ乗った。悦の奴隷の周子俊がこれを射る。それが臂に当たって、思明は落馬した。遂に、これを捕らえる。
 思明は問うた。
「乱を起こしたのは誰だ?」
 悦は言った。
「懐王の命令を奉じました。」
「我の朝の失言のせいで、こうなったのか。だが、我を殺すのが早すぎたぞ。どうして、我が長安に勝つ日まで待たなかったのだ!これで、事は成らない。」
 悦等は思明を柳泉駅へ送り、幽閉した。
 帰って、朝義へ報告する。
「事は成就しました。」
 朝義は言った。
「聖人を驚かせなかったか?」
「そんなことはありません。」
 この時、周摯、許叔冀は後軍を率いて福昌に居た。悦等は、許季常を使者として、これを告げた。 摯は驚いて昏倒する。
 朝義は軍を率いて帰る。摯と叔冀は出迎えた。悦等は摯を捕らえるよう朝義へ勧め、これを殺す。
 賊軍が柳泉へ到着すると、悦等は衆心が一つにならないことを恐れ、遂に思明を縊り殺した。その死体は毛氈でくるみ、駱駝へ背負わせて洛陽へ帰した。
 朝義は皇帝位へ即き、顕聖と改元する。范陽へ密かに使者を派遣し、朝清及び朝清の母辛氏と、自分に懐かない数十人を殺すよう、散騎常侍張通儒等へ敕を下す。これによって范陽は二分して戦い合い、数千人の死者を出して、数ヶ月後にようやく落ち着いた。
 朝義は麾下の将の柳城の李懐仙を范陽尹、燕京留守とした。
 この頃、洛陽の四面数百里の州県は、皆、廃墟となっていた。朝義の麾下の節度使は、皆、安禄山の旧将で、思明とは同格の連中だった。だから、朝義が召集しても、大半はやって来ないで、動静を伺うだけ。とても使えそうになかった。
 乙亥、青密節度使尚衡が史朝義の兵を破り、五千余級の首を斬る。
 丁丑、コン軍節度使能元皓が史朝義の兵を破る。 

 初め、史思明は麾下の博州刺史令狐彰を滑、鄭、ベン節度使とし、数千の兵で滑台を守らせていた。
 彰は、中使楊萬定を通して、密かに降伏を請い、軍を杏園度へ移した。思明はこれを疑い、麾下の将薛岌を派遣して包囲する。彰は岌と戦い、これを大いに破る。そして、萬定に従って入朝した。
 五月甲午、彰を滑、衞等六州節度使とする。
 戊戌、平盧節度使侯希逸が史朝義の范陽の兵を撃ち、これを破る。 

 六月甲寅、能元皓が史朝義の将李元遇を破る。
 七月癸未朔、皆既日食が起こる。大星が皆見える。 
 八月己巳、李光弼が、河南行営へ赴いた。 

 十一月神策節度使衞伯玉が史朝義を攻めた。永寧を抜き、縄(ほんとうはさんずいへん)池、福昌、長水等の県を破る。 

 侯希逸は、范陽と連年戦っていた。救援は既に絶え、又、奚からも侵略された。そこで、二万余人を総動員して李懐仙を襲撃して破り、兵を率いて南下する。
 寶應元年(762)正月戊申、侯希逸は青州にて河を亘って北進し、コン州にて田神功、能元皓と合流する。 

 同月、李光弼が許州を抜いた。史朝義から任命された穎川太守李春を捕らえる。
 朝義の将史参が救援に来た。丙午、城下にて戦い、又破る。 

 二月戊辰、淮西節度使王仲昇が史朝義の将謝欽譲と申州城下で戦い、賊の捕虜になった。淮西は震駭する。だが、侯希逸、田神功、能元皓がベン州を攻撃したので、朝義は救援の為に欽譲を呼び寄せた。 

 四月庚戌朔、沢州刺史李抱玉が城下にて史朝義を破った。 

 同月、蕭宗が崩御した。代宗が即位する。 

 五月甲申、平盧節度使侯希逸を平盧、青・シ等六州節度使とした。これによって青州節度に平盧の号が付いた。 

 史朝義が宋州を包囲して数カ月、城中は兵糧が尽きて陥落寸前。刺史の李岑は為す術を知らなかった。遂城果毅の開封の劉昌が言った。
「藏の中には、まだ数千斤の麹があります。これを屑にして食べましょう。二十日もしない内に、李太尉が必ず我等を救援に来ます。城の東南の隅は最も危ういので、昌へこれを守らせてください。」
 李光弼が臨淮へ到着すると、諸将は朝義軍の強さを訴え、南下して揚州を保つよう請うた。光弼は言った。
「朝廷の安危は我等に依る。我が退縮したら、朝廷は何を望むのか!それに、我等は敵の不意を衝いて進軍した。奴等がどうして我等の衆寡を知ろうか!」
 遂に、徐州へ赴いた。コン軍節度使田神功へ朝義を進撃させ、これを大いに破る。
 話は遡るが、田神功は、劉展に勝ってからずっと揚州へ留まって帰らなかった。太子賓客尚衡と左羽林大将軍殷仲卿はコン、軍にて相戦っていた。光弼が到着したと聞くと、その威名を憚り、神功は速やかに河南へ戻り、衡、仲卿は相継いで入朝した。
 光弼は徐州にいて、ただ軍旅のことだけ自分で決裁し、その他の事は全て判官の張参(「人/参」)へ任せた。参の吏事は精敏で、流れるように決断する。光弼は、諸将の言うことの多くを参と協議したので、諸将は、まるで光弼へ仕えるように参へ仕えた。これによって軍中は粛然とし、東寧は静まった。
 話は前後するが、田神功は偏裨から節度使となった。前の使判官劉位等を幕府へ留めたが、神功は彼等の拝礼を立ったまま受けた。光弼が参を礼遇する有様を見て、大いに驚いて位等へ言った。
「神功は兵卒から出世した叩き上げだから、礼儀を知らなかった。どうして諸君は何も言わずに、神功の過失を助長させたのか!」 

 九月、上は旧好を修め、かつ、徴兵して史朝義を討たせる為、中使の劉清淡を回乞へ派遣した。
 清淡が到着した時、回乞の登里可汗は既に史朝義から誘われていた。彼等は言った。
「唐室はたてつづけに大喪があり、今、中原に主人はいない。可汗は速やかにやって来い。共に府庫を掠奪しよう。」
 可汗はこれを信じていた。
 清淡は、敕書を渡して言った。
「先帝は崩御なさいましたが、今上が即位しました。それに、昔日、廣平王は葉護と共に両京を回復したではありませんか。」
 回乞は既に兵を起こして三城を過ぎており、その間、州県が皆、廃墟となっているのを見て、唐を軽視する心が生まれていた。だから、清淡を困辱する。
 清淡は京師へ使者を派遣して書状を送り、かつ、言った。
「回乞が挙国して十万で来襲します!」
 京師はパニックになった。
 上は、殿中監薬子昴を忻州南へ派遣して、回乞を労わせる。
 ところで、以前、毘伽闕可汗が登里の為に通婚を求めた時、粛宗は僕固懐恩の娘を娶せた。これが登里可敦である。そうゆう訳で、可汗は懐恩との会見を望んだ。懐恩はこの時汾州にいたが、上は会見に行くよう命じた。
 懐恩は、可汗と会見すると、”唐皇室の御恩に背いてはならない。”と言った。可汗は悦び、使者を派遣して上表し、国を助けて朝義を討つことを請うた。
 可汗は、蒲関から入り、沙苑を経由して潼関の東へ出ようとしたが、薬子昴が、彼へ説いて言った。
「漢中は、しばしば兵乱に遭い、州県は荒れ果てており、兵糧の供給もできませんので、可汗を失望させるでしょう。賊兵は全て洛陽にいます。土門からケイ、名(「水/名」)、懐、衞を通って南下し、その資材を得て軍装に充てましょう。」
 可汗は従わなかった。そこで、また請うた。
「太行から南下して河陰に據り、賊の喉元を掴みましょう。」
 また従わない。
「それなら、陜州の大陽津から河を渡り、太原倉で兵糧を補給し、諸道と共に進軍しましょう。」
 これに従う。 

 十月、ヨウ王舌を天下兵馬元帥とする。
 辛酉、上へ挨拶して出立する。兼御史中丞薬子昴、魏居(「王/居」)を左右廂兵馬使、中書舎人韋少華を判官、給事中李進を行軍司馬として、諸道の節度使及び回乞と陜州にて合流し、進軍して史朝義を討つ。
 上は、郭子儀を舌の副にしたがったが、程元振、魚朝恩等がこれを阻んだので、実現しなかった。
 朔方節度使僕固懐恩へ同平章事兼絳州刺史を加え、領諸軍節度行営として舌の副官にする。
 丙寅、上は僕固懐恩へ、母と妻を連れて行営へ行くよう命じた。
 ヨウ王舌が陜州へ到着した時、回乞可汗は河北へ屯営していた。舌は僚属と共に数十騎を従えてこれへ行って会見した。
 可汗は、舌が拝舞しないことを責めた。対して薬子昴が、それは礼ではないと反駁した。すると、回乞の将軍車鼻が言った。
「唐の天子と回乞の可汗は兄弟の約束をした。可汗は、ヨウ王の叔父である。なんで拝舞しないのか?」
 子昴は言った。
「ヨウ王は、天子の長男であり、今は元帥だ。中国の儲君が、外国の可汗へ拝舞するなどとんでも無い!それに、今は両宮がもがりしている。舞踏には相応しくない。」
 力争して引かない。車鼻は、遂に子昴、魏居、韋少華、李進を引きだして、各々を百回鞭打った。舌は年少で何も判らないとして、宮へ帰した。
 居、少華は、翌夕方に卒した。(代宗実録などでは、可汗を叱りつけたことになっているが、これは史官の虚飾である。今、旧回乞伝に従う。)
 戊辰、諸軍が陜州を出発した。僕固懐恩と回乞の左殺が前鋒とし、陜西節度使郭英乂、神策観軍容使魚朝恩を殿として、縄(ほんとうはサンズイベン)池から入る。路沢節度使李抱玉は河陽から入る。河南等道副元帥李光弼は陳留から入る。ヨウ王は陜州へ留まる。
 辛未、懐恩等は同軌へ駐屯する。
 史朝義は、官軍の進軍を聞くと、諸将と謀った。阿史那承慶が言った。
「唐がもしも漢兵だけで進軍してきたのなら、総動員して戦いましょう。しかし、回乞と共に来たのなら、まともに戦えません。退いて河陽を守り、これを避けましょう。」
 朝義は従わない。
 壬申、官軍が洛陽の北郊へ到着する。別働隊を出して懐州を攻撃、癸酉、これを抜く。乙亥、官軍は横水に駐屯した。
 賊軍は数万。柵を立てて守備を固めた。懐恩は西原に布陣して、これに当たった。驍騎及び回乞を南山へ遣り、柵の東北へ出させた。表裏一体となって攻撃し、これを大いに破る。
 朝義は、これを救おうと、精兵十万を総動員して、昭覚寺に布陣した。官軍も総力を挙げてこれを攻撃した。大勢の兵卒を殺傷したが、賊陣は動かない。魚朝恩は射撃兵五百人を派遣して力戦させた。賊は大勢戦死したけれども、陣は初めの通りだった。
 鎮西節度使馬リンが言った。
「事は急だ!」
 遂に単騎で奮戦し、賊の牌を二つも奪い、万余の群の中へ突入した。賊軍は左右になぎ倒された。大軍がこれに乗じて突入し、賊軍は大敗する。
 石榴園、老君廟と転戦し、賊軍はまたも敗北する。人馬は蹂躙しあい、尚書谷が死骸で埋まる。斬首は六万級、捕虜は二万人。朝義は軽騎数百を率いて東へ逃げた。
 懐恩は進軍して東京及び河陽城で勝つ。敵の中書令許叔冀、王由(「人/由」)等を捕らえたが、制を承って、これを赦す。
 懐恩は回乞可汗を留めて河陽へ屯営させる。その子息の右廂兵馬使場及び朔方兵馬使高輔成に歩騎万余を与え、勝ちに乗じて朝義を追撃する。鄭州へ至り、再戦してどちらも勝った。
 朝義はベン州へ逃げた。麾下の陳留節度使張献誠は、城門を閉めてこれを拒む。朝義が濮州へ逃げると、献誠は城門を開いて降伏した。
 回乞は東京に入り、大いに掠奪を行う。使者は一万人を数え、火事は累日消えなかった。朔方、神策軍も又、東京、鄭、ベン、汝州を賊軍との国境とし、通過する賊領内では掠奪の限りを尽くす。三ヶ月してようやく収まった。(胡三省、曰く。郭、李を帥としたら、どうしてこんなことが起きただろうか!)家屋敷はすっかり燃え尽きてしまい、士民は皆、衣の代わりに紙を纏う有様だった。回乞は略奪品を全て河陽へ置き、麾下の将安恪を留めて守らせた。
 十一月丁丑、勝利の知らせが京師へ到着した。
 朝義は濮州から北行して河を渡る。懐恩は滑州へ進攻して、これを抜いた。朝義を追撃して、衞州にて破る。
 朝義の雎陽節度使田承嗣は四万余の兵を率いて朝義と合流し、拒戦する。僕固場は、これを撃破し、長躯して昌楽へ至る。朝義は魏州軍を率いて来戦したが、また敗走した。
 ここにおいて、バョウ郡節度使薛嵩は、相、衞、名(「水/名」)、ケイの四州を以て李抱玉へ降伏し、恒陽節度使張忠志は趙、恒、深、定、易の五州を以て河東節度使辛雲京へ降伏する。 嵩は楚玉の子息である。 抱玉等は進軍してその陣営へ入ると、部隊を押収し、嵩等は代わりの兵卒を受けた。
 落ち着くとすぐに、僕固懐恩は彼等の官位を全て元に戻した。それによって抱玉と雲京は、懐恩に二心があることを疑い、各々上表して告訴した。朝廷では、密かにこれに備えた。懐恩が上疏して弁明すると、上は慰撫した。
 辛巳、制が降りる。
「東京及び河南、北で偽官を受けた者も、一切罪に問わない。」
 丁酉、張忠志を成徳軍節度使として、恒、趙、深、定、易五州を統治させ、李寶臣の姓名を賜下する。
 辛雲京が兵を率いて井ケイへ出た時、常山裨将王武俊が寶臣へ説いた。
「今、河東の兵は精鋭で、敵地深く入って戦っています。これには勝てません。それに、我等は寡で衆と戦い、曲で直と戦うのです。戦えば必ずや将兵の心が離間し、守れば必ず潰れます。公、よくよくお考えください。」
 だから寶臣は守備を撤廃し、五州を挙げて来降したのだ。
 節度使に復帰するに及んで、武俊の献策が善かったとして、彼を先鋒兵馬使に抜擢する。武俊は、もと契丹人で、初めの名を没諾と言った。
 郭子儀は、僕固懐恩に河朔平定の功績があるとして、副元帥の職を譲ることを請うた。己亥、懐恩を河北副元帥として、左僕射兼中書令、単于、鎮北大都護、朔方節度使を加えた。
 逃走した史朝義は、貝州にて麾下の大将薛忠義等両節度と合流する。
 僕固場はこれを追って臨清へ至る。朝義は衡水から兵三万を率いて、取って返してこれを攻める。場は伏兵を設けて撃ち、これを敗走させた。
 回乞も到着して官軍は益々振るい、遂にこれを追撃した。下博の東南にて大いに戦う。
賊は大敗し、多くの屍が川に流された。
 朝義は莫州へ逃げる。
 懐恩の都知兵馬使薛兼訓、兵馬使カク庭玉と田神功、辛雲京は下博にて合流し、進軍して莫州にて朝義を包囲した。侯希逸も、遅れて到着した。
 廣徳元年(763)、史朝義はしばしば出て戦ったが、皆、敗北した。田承嗣は、朝義自らが幽州へ行って兵を徴発し、莫州を救援に戻ってくるよう勧め、かつ、自分が莫州の留守を預かることを請うた。朝義はこれに従い、精騎五千を率い、輔九紋から包囲を突破した。
 朝義が去ると、承嗣は城を以て降伏し、朝義の母、妻、子を官軍へ送る。
 ここに於いて、僕固場、侯希逸、薛兼訓等は三万を率いて追撃する。帰義にて賊軍と戦い、朝義は敗走する。
 この時、朝義の范陽節度使李懐仙は中使駱奉仙へ降伏を請願し、兵馬使李抱忠へ三千の兵を与えて范陽県を鎮守させていた。朝義は范陽へ到着したが、入れなかった。官軍が迫ってきたので、朝義は抱忠へ使者を派遣し、大軍を莫州へ留めていることと、軽騎で救援を求めてやってきた意向を伝え、君臣の義を以て彼を責めた。すると、抱忠は言った。
「天が燕へ味方せず、唐室を再興させたのだ。今、既に唐へ帰順した。どうして反覆して我一人三軍へ恥じようか!大丈夫は、詭計で謀ることを恥じるから、だまし討ちはしない。どうか早く去って、身の保全を謀りなさい。それに、田承嗣は絶対、既に背いている。そうでなければ、官軍がどうしてこんなに早くここへ到着できようか!」
 朝義は大いに懼れ、言った。
「我は、朝やって来て、まだ食事もしていない。一杯の飯も振る舞ってくれぬのか!」
 抱忠は城東にて、麾下の者へ食事の準備をさせた。
 ここにおいて、朝義の麾下にいた范陽の人間は、挨拶して去っていった。朝義はただ涙を零すだけ。胡騎数百と共に、食事を終えて去る。
 東進して廣陽へ逃げるが、廣陽でも受け入れない。北行して奚、契丹へ入ろうとしたが、温泉柵にて李懐仙の兵卒に追いつかれた。朝義は切羽詰まり、林の中で首を吊った。
 懐仙は、その首を取って献上する。僕固懐恩と諸軍は、皆、帰る。
 甲辰、朝義の首が京師へ到着した。
 閏月癸亥、史朝義からの降将薛嵩を相、衞、ケイ、名、貝、磁六州節度使に、田承嗣を魏、博、徳、倉(「水/倉」)、瀛五州都防禦使に、李懐仙を本領通り幽州、盧龍節度使とした。
 この頃、河北の諸州は皆降伏しており、嵩等は僕固懐恩を迎えて、馬首にて拝礼し、自ら入朝を請うた。だが懐恩は、賊が平定したら武官が軽視されてしまうのではないかと恐れた。そこで嵩等を留め李寶臣等と河北の軍団を分割統帥するよう上奏し、これを自分の党援としたのだ。朝廷も又、戦乱に厭苦し、目先の安寧を冀って、これを授けた。
 六月庚寅、魏博都防禦使田承嗣を節度使とする。
 承嗣は管轄内の戸口を挙げ、壮年の者は皆兵士とした。耕作は老弱だけにやらせる。数年のうちに十万の軍隊になった。また、驍健な者一万人を選んで衛兵とした。これを牙兵と言う。
 七月僕固懐恩を朔方行営節度使とした。 

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