史思明即位
 
  

 至徳二載(丁酉、757年)正月、安慶緒が、安禄山を殺した。
 二月、安慶緒は史思明を范陽節度使、兼領恒陽軍事とし、為(「女/為」)川王に封じた。牛廷介を領安陽軍事とする。張忠志を常山太守兼団練使として井ケイを鎮守させる。
 その他は、各々旧任へ帰し、募兵して官軍を防がせた。
 ところで、安禄山が洛陽と長安を得た時、珍貨は全て范陽へ運び出していた。思明は、強兵を擁し富資に據ったのでますます驕慢横暴となり、次第に慶緒の命令に従わなくなった。慶緒は制することができなかった。 

 九月、郭子儀が賊軍を破り、都を恢復した。詳細は、「長安恢復」へ記載する。安慶緒は北へ逃げる。その大将北兵王李帰仁及び精兵や曳落河、同羅、六州胡数万人は、皆、潰れて范陽へ帰った。通過する場所で掠奪の限りを尽くしたので、人も物も何も残らない有様だった。
 史思明は、これへ対して厳重に備えると同時に、使者を派遣して彼等を逆に范陽の境へ招いた。曳落河、六州胡は皆、降伏する。同羅は従わなかったので、思明は襲撃した。これを大いに敗り、その略奪品を全て奪う。敗残兵は母国へ帰った。
 安慶緒は、都から逃げてギョウ郡を保った。ギョウ郡を安成と改称する。従騎は三百に過ぎず、歩兵は千に過ぎない。阿史那承慶等の諸将は散り散りになって常山、趙郡、范陽へ逃げ込んだ。
 旬日すると、蔡希徳は上党から、田承嗣は穎川から、武令cは南陽から、各々麾下の兵を率いて安慶緒のもとへ集まってきた。また、河北諸郡の人を募兵し、衆は六万になる。軍勢は、また振るった。
 それでも慶緒は思明が強いのを忌み、阿史那承慶、安守忠を派遣した。彼等に道々徴兵させ、密かに思明を図る。
 対して思明の陣営では、判官狄仁智が思明を説得した。
「大夫は崇拝されており、誰も敢えて言いません。しかし、仁智は命に代えてでも、一言だけ言わせて下さい。」
「何だ?」
「大夫が安氏へ力を尽くすのは、凶威に迫られただけです。今、唐室は中興し、天子は仁聖。大夫が麾下を率いてこれへ帰順しましたら、これこそ禍を転じて福にするとゆうものです。」
 裨将烏承此(「王/此」)もまた、思明へ説いた。
「今、皇室は再興し、慶緒など葉の上の露のような物です。なんで彼と興亡を共にできましょうか!朝廷へ帰順して過去を贖罪するなど、掌を返すような物です。」
 思明も同意した。
 やがて承慶、守忠が五千騎を率いて范陽へ到着した。思明は総勢数万で出迎える。
 両軍は、一里離れて対峙した。そこで思明は、使者を派遣して承慶等へ言った。
「相公と王が遠路訪ねてこられ、将士は喜びに絶えません。しかし、辺兵は怯懦で、相公の大軍を懼れております。どうかこれ以上進軍せず、弓を緩めてくつろいでください。」
 承慶等は、これに従った。
 思明は、承慶を内へ引き入れ、音楽と酒で持てなした。その間に別の者を派遣して、武装兵を収容した。諸郡の兵は、兵糧を支給して元の郡へ帰してやる。留まりたがった者は、厚く賜を下して諸営へ分散する。
 翌日、承慶等を捕らえた。麾下の将寶子昴を使者として都へ派遣し、表を奉じた。”所領の十三郡及び、兵八万を以て降伏します。また、我等の河東節度使高秀巖もまた、麾下を以て降伏します。”と。
 乙丑、子昴が京師へ到着した。上は大いに喜び、思明を帰義王、范陽節度使とし、七人の子息も皆高官とした。内侍李思敬と烏承恩を派遣して宣慰し、麾下の軍で慶緒を討つよう命じた。
 これより少し前、慶緒は張忠志を常山太守としていた。思明は、忠志を范陽へ呼び返し、自分の麾下の将薛萼を摂恒州刺史として、井ケイから常山への通路を確保した。
 趙郡太守陸済を招き、これを降す。
 子息の朝義へ五千の兵を与え、摂冀州刺史とし、麾下の将令狐彰を博州刺史とした。
 烏承恩は、行く先々で詔旨を宣布し、滄、瀛、安、深、徳、棣等の諸州は全部降った。相州がまだ降伏していなかったが、河北は全て唐の領有となった。 

 乾元元年(758)安慶緒が北へ逃げると、その麾下の平原太守王カン、清河太守宇文寛は、共に慶緒の使者を殺して来降した。慶緒は、その将蔡希徳、安太清へ攻撃させ、これを抜く。二人を生け捕りにして帰り、ギョウ市にてさらし首とする。
 慶緒の領内で朝廷へ帰順しようと謀る者があれば、その誅殺は、種、族や部曲、州県、官属へ至り、連座で殺される者が非常に多かった。また、麾下の群臣をギョウ南へ集めて、血を啜って盟約を結ぶ。これによって、人心はますます離れた。
 二月、安慶緒麾下の北海節度使能元皓が、領地ごと来降した。鴻臚卿として、河北招討使とする。
 慶緒は、李嗣業が河内に駐屯すると聞き、四月、蔡希徳と崔乾祐へ歩騎二万を与えて、沁水を渡って攻撃させた。勝てずに帰る。 

 張鎬は簡淡な性格で、権力抗争には加わらなかったが、史思明が降伏したと聞くと、上言した。
「思明は凶険な人間です。乱が起これば位を窺い、力強い相手に靡き、弱くなったら離れるとゆう、人面獣心の典型。徳で懐けるのは難しい相手です。どうか、威権を与えないでください。」
 また、言う。
「滑州防禦使許叔冀は狡猾で偽り多い人間。難が起こったら必ず心変わりします。どうか呼び寄せて宿衞へ入れてください。」
 この頃、上は思明を寵用しようとしていた。中使が范陽及び白馬から帰ってくると、皆が思明や叔冀が忠義厚くて信頼できると報告したので、上は、鎬が事機に疎いと判断した。
 戊子、鎬を罷免して、荊州防禦使とした。禮部尚書崔光遠を河南節度使とする。 

 史思明が、まだ列将の一人として平盧軍使烏知義へ仕えていた頃、知義は彼を可愛がっていた。知義の子息の承恩は信都太守となり、安禄山が乱を起こすと、郡を以て思明へ降伏した。思明は旧恩を思い、彼を赦した。安慶緒が敗北すると、承恩は唐へ降伏するよう思明へ勧めた。
 李光弼は、思明は最後には乱を為すと思った。承恩は思明から親しまれていたので、密かに彼を目付役とした。また、彼を范陽節度副使とし、阿史那承慶には鉄券を与えて、共に思明を見張らせるよう上へ勧めた。上はこれに従う。
 承恩は、私財をはたいて部曲を募り、また、屡々婦人の服を着て諸将の営を詣で、彼等を説誘した。諸将はこれを思明へ報告する。思明は疑惑を持ったが、まだ確信してはいなかった。
 承恩が京師へ入ると、上は彼を内侍李思敬と共に范陽へ派遣して、宣慰した。承恩が旨を述べると、思明は承恩を府中の館に留める。その床に幔幕を張り、床下には二人を伏せる。
 承恩の末子は范陽に住んでいたので、思明は彼を父の元へ遣った。夜中、承恩は密かにその子へ言った。
「吾は、この逆胡を除くよう命じられて来たのだ。いずれ吾は節度使となる。」
 すると、床下に忍んでいた二人が叫びながら飛び出した。
 思明は承恩を捕らえ、その荷物を探ったところ、鉄券と光弼の牒を見つけた。牒には、こう記載されていた。
「承慶の事が成功すれば、鉄券を与えよ。そうでなければ与えてはならない。」
 また、数百紙の簿書を見つけた。皆、先に思明に従って造反した将士の名だった。
 思明はこれを責めて言った。
「吾が汝に何をした!」
 承恩は謝って言った。
「私は殺されても仕方がありませんが、これは全て李光弼が仕組んだことです。」
 思明は将佐吏民を集めて、西へ向かって大いに哭して言った。
「臣は十三万の衆で朝廷へ降伏した。陛下へ何を背いて、臣を殺そうと欲したのか!」
 遂に、承恩親子を殺した。
 二百余人が連座で殺される。承恩の弟の承此(「王/此」)は、逃げ延びた。
 思明は思敬を捕らえると、その実情を上表した。上は、中使を派遣して、思明を慰諭して言った。
「これは、朝廷と光弼の意向ではない。皆、承恩のやったことだ。彼を殺したのは非常によろしい。」
 やがて、賊へ陥った官人の罪状を三司が協議しているとゆう話が范陽へ伝わると、思明は諸将へ言った。
「陳希烈等は皆、朝廷の大臣だ。上皇は自らこれを棄てて蜀へ御幸した。その彼等でさえ、なお死刑を免れなかった。ましてや我等は、もとから安禄山に従って造反したのだぞ!」
 諸将は思明へ、上表して光弼を誅するよう求めることを請うた。思明はこれに従い、判官の狄仁智とその僚友の張不矜へ上表文を書かせた。その文に言う。
「陛下が臣の為に光弼を誅殺しなければ、臣は自ら兵を率いて太原へ赴き、これを誅殺しますぞ。」
 不矜が草稿を書いて思明へ見せた。そして函へ入れる時、仁智がその文を悉く削り取った。だが、表を写した者がそれに気が付き、思明へ告げた。思明は二人を捕らえて斬るよう命じる。
 だが、仁智は思明に長いこと仕えていたので、思明は憐れんで生かしておきたいと思い、再び呼び出して言った。
「我は、汝を使って三十年になる。今日は、我がお前を裏切ったのではない。」
 仁智は大呼した。
「人はいつか死ぬ。忠義を尽くすことができれば、最高の死に様だ。今、大夫に従って造反しても、数ヶ月生き延びられるだけ。今死んだ方が余程ましだ!」
 思明は怒り、乱打した。仁智の脳が地面に流れる。
 烏承此は太原へ逃げ込んだ。李光弼は、上表して、昌化郡王とし、石嶺郡使に充てる。 

 八月壬寅、青、登等五州節度使許叔冀を滑、濮等六州節度使とする。 

 安慶緒がギョウへ到着した時には、枝党が離反したとは言え、なお七郡六十余城を占拠しており、武装兵や兵糧も揃っていた。
 だが、慶緒は政治などそっちのけで、邸宅や楼閣、遊覧船等を盛大に造り、宴遊ばかりしている。その大臣高尚、張通儒等は権力争いをしており、綱紀がなくなった。蔡希徳は才略があり、麾下の兵は精鋭だった。しかし、彼は剛直な人間で直言を好んだので、通儒は讒言して、これを殺した。おかげで、麾下の数千人は逃散し、諸将は怨怒して言うことを聞かなくなった。そこで、崔乾祐を天下兵馬使として、中外の兵を総括させる。乾祐は暴戻で殺人が好きだったので、士卒は懐かなかった。
 庚寅、朔方の郭子儀、淮西の魯Q、興平の李奐、滑濮の許叔冀、鎮西・北庭の李嗣業、鄭蔡の李廣深、河南の崔光遠の七節度使及び平盧兵馬使董秦へ歩騎二十万を与えて慶緒を討伐させた。また、河東の李光弼、関内・澤路の王思禮二節度使へ、麾下の兵を率いてこれを助けさせた。
 上は、子儀も光弼も共に元勲なので、統治するのは難しいと考え、元帥を置かなかった。その代わり、宦官開府儀同三司魚朝恩を観軍容宣慰處置使とした。観軍容の名はここから始まった。
 郭子儀が兵を率いて杏園から河を渡り、東進して獲嘉へ到着した。安太清を破る。四千級の首を斬り、五百人を捕らえる。太清は逃げて衞州を保った。子儀は進軍してこれを包囲する。丙午、使者を派遣して、戦勝を報告する。
 魯Qは陽武済から、李廣深、崔光遠は酸棗から渡り、李嗣業の軍と共に、皆、衞州にて子儀と合流した。
 慶緒は、ギョウ中の全軍を挙げて衞州救援に向かう。総勢七万。軍を三軍に分ける。崔乾祐へ上軍、田承嗣へ下軍を率いさせ、慶緒は中軍を率いた。
 子儀は、射撃の巧い者三千人を塁垣の内へ伏せ、命令した。
「我等が退却したら、敵は必ず追撃する。お前達は塁へ登って、軍鼓を鳴らしてこれを射よ。」
 慶緒と戦うと、偽って退却する。賊がこれを追撃して塁下まで来ると、伏兵が起ってこれを射た。矢が雨のように降り注ぐ。賊は逃げ出した。子儀は兵を返してこれを追う。慶緒は大敗した。その弟の慶和を捕らえ、これを殺す。遂に、衞州を抜いた。
 慶緒は逃げた。子儀らはこれを追撃して、ギョウまで至る。許叔冀、董秦、王思禮及び河東兵馬使薛兼訓等が兵を率いてこれに続いた。
 慶緒は敗残兵をかき集めて、愁思岡にて拒戦する。又、敗れる。官軍は、前後して三万級の首を斬り、千人を捕らえた。
 慶緒は入城して固守した。子儀はこれを包囲する。慶緒は切羽詰まり、史思明へ救援を求めた。この時、帝位を譲るとまで約束した。
 思明はギョウ救援の為、十三万の兵で范陽を出発した。しかし、戦況を観望して前進しない。ただ、李帰仁へ歩騎一万を与えて釜(「水/釜」)陽へ進駐させ、慶緒の声援とした。
 崔光遠が、魏州を抜く。丙戌、前の兵部侍郎蕭華を魏州防禦使とする。
 史思明は軍を三つに分けると、一軍はケイ、名(「水/名」)へ出、一軍は冀、貝へ出、最後の一軍は亘(「水/亘」)水を越えて魏州へ向かった。郭子儀は、崔光遠を華と代えるよう上奏した。
 十二月癸卯、敕を降ろして、光遠を領魏州刺史とする。
 史思明は、崔光遠がやって来たばかりなのにつけ込んで、兵を率いて目前まで迫る。光遠は、将軍李處金(「山/金」)へ拒ませた。賊は勢い盛んで、處金は連戦不利、城へ帰った。賊は追撃して城下へ至り、大言した。
「處金が我を連れてきたのだ!なんで出てこない!」
 光遠はこれを信じ、處金を腰斬した。
 處金は驍将で、皆が恃みとする人間だった。だから、彼が死んだ後は、衆から闘志がなくなった。
胡三省、曰く。姚聳夫がもし生きていたとしても、宋の為に河南を保てたとは限らない。それでも、聳夫が死ぬと、宋の人はこれを惜しんだ。李處金がもし生きていたとしても、唐の為に魏州を守れたとは限らない。それでも、處金が死ぬと、唐の人はこれを惜しんだ。二雄が対峙している時に、自ら闘将を殺戮するのは、自分の手足を折るのと同じだ。)
 光遠は単身脱出し、ベン州へ逃げた。
 丁卯、思明は魏州を落とし、三万人を殺した。
 乾元二年(759)正月己巳朔、史思明が魏州城北へ壇を築き、大聖燕王と自称する。周摯を行軍司馬とする。
 李光弼は言った。
「思明は魏州を得てから、兵を留めて進軍しない。これは我等の志気を緩め、精鋭で不意を衝こうとの計略です。どうか、朔方軍と同時に魏城へ迫り、奴等へ決戦を求めさせてください。奴等は嘉山での敗北に懲りているので、軽々しく出てくることはない筈です。こうして時間を稼げば、ギョウ城は必ず抜けます。慶緒が死んでしまえば、奴は部下を動かす口実がなくなります。」
 だが、魚朝恩が不可としたので、実行されなかった。
 郭子儀等九節度使は、ギョウ城を包囲した。二重に塁を築き、三重に塹壕を掘り、章水の流れを引き込む。城中では井戸も泉も溢れ、溝に橋を架けて住む有様。
 この包囲中に、鎮西節度使李嗣業が流れ矢に当たった。丙申、卒する。兵馬使茘非元禮が代わって部下を率いた。
 始め、嗣業は上表して段秀実を懐州刺史、知留後事とした。当時、戦争が長引いたので、諸軍は兵糧が尽き懸かっていた。だが、秀実だけは馬草や粟を運んだ。兵を募って馬を買い、鎮西の行営へ奉じる。その輜重隊は、間断なく続いた。
 二月辛卯、茘非元禮を懐州刺史、権知鎮西、北庭行営節度使とする。元禮は、また段秀実を節度判官とした。
 安慶緒は堅守して史思明を待った。食糧が尽き、鼠一匹が銭四千となる。壁などは麦わらを土に混ぜて造っていたので、これをふやかして馬へ食べさせた。
 人々は、朝夕にでも城は落ちると思い、諸軍の規律は緩み進退も気ままになった。だが、城中の人間は、降伏しようにも水が深くて城から出られない。だから城はなかなか落ちず、軍規はますますだらけた。
 思明は魏州から兵を率いてギョウへ赴いた。諸将へは、城から五十里の所へ各々陣立てさせ、軍営毎に軍鼓を打たせた。三百の営から軍鼓が鳴り響き、遙かに官軍を脅す。また、営ごとに五百の精鋭を選び、毎日城下にて掠奪する。官軍が出陣すると、すぐに陣へ逃げ帰るのだ。諸軍の人馬牛車は日々損失を受け、薪の補給も難しい。警備兵は、二十四時間緊張を強いられた。
 当時、天下は飢饉で、兵糧の運搬は、南は江、淮から、西は并、汾から、船や車が途切れずに続いていた。思明は、壮士へ官軍の扮装をさせてあちこちへ派遣し、運搬隊へ対して期日の遅れなどを責めて妄りに殺す。運搬者は驚き懼れた。また、船や車が密集していたら、これを焼き払った。神出鬼没で集合離散も変幻自在。官軍が捕まえようとしても、なかなか見つけきれない。
 これによって諸軍は兵糧が乏しくなり、人々は戦意を無くした。それを見透かして、思明は大軍を率いて城下へ結集し、官軍と時刻を決めて決戦を挑んだ。
 三月壬申、官軍は歩騎六十万で安陽河北へ布陣し、思明は自ら精鋭五万を率いてこれに対峙する。諸軍はこれを見たけれども、友軍の一つくらいに思って気にも留めなかった。
 思明は先頭にて奮戦する。李光弼、王思禮、許叔冀、魯Qが、まずこれと戦い、互角の戦いを演じる。
 魯Qが流れ矢に当たったので、郭子儀がその後を承ったが、布陣が終わる前に突然大風が吹いた。砂を巻き上げ木を吹き倒し、天地は昼なのに薄暗くなって一尺先も判らない。両軍は大いに驚き、官軍は潰れて南へ走り、賊軍は潰れて北へ走った。棄てられた武器や輜重は道に山積みとなっていた。
 子儀は、朔方軍を動かして、河陽橋を断ち、東京を保った。
 一万匹の戦馬はただ三千四か残らず、十万の甲仗はほとんど棄ててしまった。東京の士民は驚愕して山谷へ逃げ散る。留守崔圓、河南尹蘇震等の官吏は南方の襄、トウへ逃げ、諸節度は各々潰れて本鎮へ帰った。士卒が通過するところでは掠奪が起こり、官吏も止められなかったが、旬日にしてほぼ収まった。ただ、李光弼と王思禮のみは、部隊を整然と整え、軍の損傷もなく帰還した。
 子儀は河陽へ行き、城を守ろうとした。すると人々は驚いて、缺門まで逃げた。諸将がやってくると、軍勢は数万になった。そこで軍議を開くと、諸将は東京を棄て退いて蒲、陜を保とうと言ったが、都虞候張用済が言った。
「蒲、陜では飢えます。河陽を守って、賊が来たら全力で拒むべきです。」
 子儀は、これに従った。
 都遊亦(「亦/廾」)使の霊武の韓遊壊(本当は、王偏)が五百騎を率いて河陽まで前進し、用済は歩兵五千で後続となった。摯も兵を率いて河陽へ向かっていたが、彼が到着した時には、既に官軍は河陽を占拠していたので、入城できずに引き返した。用済は、兵卒を使って南北の二城を築き、守った。
 段秀実は将士妻子及び講師の輜重を率いて野戍から河を渡り、河清の南岸にて命令を待った。茘非元禮もやって来て、宿営した。
 諸将は、各々上表して謝罪した。上はただ、崔圓の官爵を削り、蘇震を済王府長史へ降格して銀青階を削っただけで、他は全て不問とした。
 史思明は、官軍が潰走したことを知り、沙河にて兵卒をかき集め、ギョウ城南まで退却して布陣した。
 安慶緒は、子儀の陣営から六、七万石もの兵糧を獲得した。そこで、孫孝哲、崔乾祐と謀り、城門を閉じて思明を拒んだ。
 諸将は言った。
「今日、どうして史王へ背けようか!」
 思明は、安慶緒との会見を求めず、また、官軍を追撃もせずに、ただ毎日軍中で士卒を饗応していた。
 張通儒と高尚が、慶緒へ言った。
「史王は遠路はるばる来てくださったのです。臣等は皆、出迎えて感謝しとうございます。」
 慶緒は言った。
「公等が勝手に行け。」
 そこで彼等は思明の軍中へ詣でた。思明は彼等に会うと涕泣し、厚く礼遇して城内へ帰した。
 それから三日しても、まだ慶緒は思明の陣営へ出向かなかった。思明は密かに安太清を呼び出して、慶緒を誘わせた。慶緒は震え上がって為す術を知らない。とうとう、太清へ表を持たせて派遣した。その表には、思明へ対して「臣」と称し、武装解除して入城を待ち、璽綬を奉上すると記載されていた。思明は表を読むと、言った。
「どうしてそこまでするのか!」
 そして、外へ出ると将士へ表を示した。皆は万歳を唱えた。そこで、思明は自ら慶緒へ疏を書いた。それには「臣」と称さず、かつ、言った。
「願わくば、兄弟の国となって藩塀の援けとなりましょう。助け合ってこそ、存続できるのです。北面の礼など、絶対に受けません。」
 表は封をして返した。
 慶緒は大いに悦び、血を啜って盟約を結ぶことを請うた。思明はこれを許諾する。
 こうして慶緒は三百騎を率いて思明の陣営へやって来たが、思明は、これを武装兵に捕らえさせた。そして慶緒と諸弟は庭下へ引き出した。
 慶緒は再拝し、首をうなだれて言った。
「臣は無能で、両都を守りきれず、長い間包囲されていました。思いきや大王が、太常公との縁で遠方から駆けつけ、死にかけていた臣を甦らせてくれました。この御恩には、報いる術もありません。」
 思明は、たちまち怒りに体を震わせて言った。
「両都を失ったなど、些細なことだ。お前は人の子でありながら、父を殺して位を奪う。天地に容れられない大悪人だ。我は、太上皇の為に、盗賊を討つ。なんでお前の媚び諂いを受けようか!」
 即座に左右へ引き出すよう命じ、彼の四弟及び高尚、孫孝哲、崔乾祐も、皆、殺した。
 張通儒、李庭望等へは全て官を授ける。
 思明は兵を指揮してギョウ城へ入り、士馬を収めると府庫を開いて将士を賞した。これまで慶緒が領有していた州県及び兵卒は、全て思明が奪う。
 安太清へ五千の兵を与えて懐州を攻略させ、そこを鎮守させる。
 思明は、西方を攻略するために足元を固めようと、子息の朝義を留めて相州を守らせ、兵を率いて范陽へ帰った。
 四月、史思明は大燕皇帝と自称し順天と改元する。 

河陽の攻防 

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