侯景の乱   その3
 
漁夫の利 

 太清三年(549年)、正月、北徐州の封山侯正表が、東魏へ降伏した。そこで、東魏の徐州刺史高帰彦は、兵を率いて北徐州へ赴いた。
 同月、寿陽の王顕貴が東魏へ降伏した。
 三月、台城が陥落した。
 東徐州刺史湛海珍と北青州刺史王奉伯は、東魏へ降伏した。青州刺史明少遐と山陽太守蕭隣は城を棄てて逃げた。東魏は、それらの土地を占領した。
 湘談侯退と北コン州刺史定襄侯祗は東魏へ亡命した。侯景は、蕭弄璋を北コン州刺史に任命し、州民を徴発して東魏軍の侵入を防がせた。又、直閣将軍羊海を援軍として派遣したが、羊海は手勢ごと東魏へ降伏した。
 東魏は、遂に淮陰を占領した。 

  

  

人様々 

 三月、台城を占領して朝廷を専断した侯景は、菫紹先を江北行台へ任命し、南コン州刺史の南康王会理を建康へ召還した。
 菫紹先が廣陵へ到着した時、彼の手勢は二百人足らず。しかも、皆、飢えと疲労で疲れ切っている兵卒ばかりだった。対して、南康王の兵卒は、志気盛ん。南康王の幕僚達は言った。
「侯景は、既に京を陥しました。次は、諸藩を一つづつ潰し、その後に簒奪するつもりです。もしも四方の諸藩が全て奴を拒んだら、奴の政権など、すぐに転覆してしまいます。この州全部を寇へ与えるなど、とんでもない!まず菫紹先を殺し、守りを固め、魏と連合して変事が起こるのを待ちましょう。」
 だが、南康王は惰弱な性格だったので、城を明け渡してしまった。菫紹先が入城しても、誰も阻む者は居なかった。
 南康王の弟の通理は、一足先に建康へ戻り、姉へ言った。
「こんな事になってしまった。我が家が滅びることを、どうして看過できましょうか!将来埋め合わせをしようとは思っても、何ができるか判らないのです。」
 菫紹先は、廣陵の文武の部曲や武器金帛を全て接収し、南康王は乗馬のみで帰京した。 

 癸未、侯景は于子悦へ老弱兵数百を与えて、呉郡攻略を命じた。(※1)
 又、任約を南道行台として、姑孰を鎮守させた。 

 このような状況だったのに、梁の皇族達の足並みは揃わない。湘東王は、遂には河東王・岳陽王と戦火を交えた。湘東王は武帝の七男。河東王と岳陽王は昭明太子(武帝の嫡子)の子息である。(※2)
 諸王は、侯景の言うままに動かされていたが、内心は不満が高まっていた。 

  

武帝崩御 

 侯景は、宋子仙を司空にしたがったが、武帝は言った。
「司空は陰陽を調和させる大切な職務だ。宋子仙では務まらぬ!」
 又、侯景は自分の部下二人を便殿主師にするよう請うたが、武帝はこれも許さなかった。侯景は強要できなかった。心中、武帝を憚っていたのである。
 これを聞いて、太子が謁見し、泣いて諫めた。しかし、武帝は言った。
「誰の命令できたのか!もしも社稷に霊があるのなら、元のようになる。霊がないのなら、泣く必要もない!」
 侯景は、自分の軍士が直省へ出入りする時、帯刀させたり驢馬で乗り入れさせたりしていた。武帝がこれを怪しんで尋ねると、直閣将軍の周石珍が言った。
「彼等は侯丞相の兵卒です。」
 武帝は大怒し、周石珍を叱った。
「奴は侯景だ!丞相ではないぞ!」
 左右は、皆、懼れた。
 この後、武帝が求めるものは殆ど叶えられず、飲食物も制限された。武帝は、憂憤の余り発病した。
 五月、丙辰。武帝は浄居殿にて臥している時、口が苦くなり、蜂蜜を求めた。再度求め、「カ!カ!」と叫んで、崩じた。享年八十六。
 侯景は喪を秘して発せず、太子を永福省へ迎え、いつもどおり入朝した。
 王偉と陳慶が太子のもとへ侍る。太子は嗚咽流涕したが、敢えて泣き声は出さなかった。殿外の文武官は、誰もこれを知らなかった。
 辛巳、武帝の喪を発表した。(二十六日後である。)この日、太子は即位し、大赦を下した。これが、簡文帝である。
 壬午、梁で奴婢になっている北人は、皆、放免すると、詔が降りた。これによって一万人以上が庶民になった。侯景が、彼等の力を利用しようと考えて恩を売ったのである。 

 武帝の晩年、建康の士民の服や食事、器材などは競って豪華になっていった。それでいて、食糧などの蓄えは半年分もなく、全て四方から運び込んでいた。
 侯景が造反すると流通が遮断され、数ヶ月もすると人々は互いに食べあうようになり、餓死する者が相継いだ。生き残ったのは、百人に一人か二人とゆう有様。貴戚や豪族で自ら食べ物を採りに出て行き、道端で死んだ者も数え切れないほど居た。 

 癸未、侯景は儀同三司の来亮を宛陵へ派遣した。すると、宣城太守陽白華が、彼を誘い出して斬った。
 甲申、侯景は麾下の将李賢明へ宣城を攻撃させたが、勝てなかった。
 又、侯景は各地へ将を派遣したが、地方では抵抗が強く、呉郡以西、南陵以北のみだった。(ただし、八月頃には、呉の大半は鎮圧され、侯景の占領下へ入った。) 

 六月、南康王会理を侍中・司空とした。
 宣城王大器を皇太子に立てる。また、諸皇子を、それぞれ王に封じた。 

 十一月、武帝を葬った。廟号は高祖。
 この頃、百済の使者が建康へ入貢した。彼は、荒れ果ててしまった都を見て、端門にて慟哭した。侯景は怒り、彼を荘厳寺へ監禁した。 

  

  

皇族 

 話は前後するが、侯景は臨賀王へ璽綬を授けようと思っていた。ところが、その役目を太常卿劉之迷へ命じたところ、彼は髪を剃り、僧侶の格好をして逃げ出してしまった。
 劉之迷は博学で文章が巧く、かつて湘東王の長史だった。そこで江陵へ帰ろうとした。だが、湘東王は、もともと彼の才能へ嫉妬していたので、密かに毒を送って殺した。そして、自ら誌銘を書き、厚く贈り物をした。 

 臨賀王は、侯景が自分を売ったのを怨み、番陽王範へ密かに書状を与え、その兵を都へ引き入れようと企んだ。だが、この書状が途中で侯景の手に入った。侯景は、臨賀王を絞殺した。 

 侯景は、永安侯確の武勇を愛し、彼を常に身近に置いていた。邵陵王綸は、彼の元へ密かに使者を派遣し呼び寄せようとした。すると、永安侯は言った。
「侯景は軽薄な人間で、一夫の力しかありません。我は、この手で殺してやろうと思っているのですが、その機会がないのです。卿は帰って、そう伝えなさい。我のことは気にしなくても良い。」
 ある時、侯景は永安侯と鍾山で遊び、鳥を射た。永安侯は、侯景を射ようとしたが、弦が切れて果たせなかった。侯景はこれを悟り、永安侯を殺した。 

 侯景は、趙威方を豫章太守に任命した。だが、彼が任地へ赴くと、江州刺史尋陽王大心が軍を出してこれを拒み、趙威方を捕らえて牢獄へ放り込んだ。趙威方は、脱獄して建康へ逃げ帰った。 

 同月、西江督護陳覇先が、侯景討伐軍を起こした。(※3) 

  

  

番陽王 

 建康陥落を聞いた番陽王範は、戒厳令を布いて、建康へ進軍しようとした。すると、幕僚達が言った。
「今、魏軍がすでに寿陽を占領しています。大王が移動すれば、虜騎は必ず合肥を窺います。前方の賊を平定しないうちに後方の城が陥落したら、どうなさるのですか!ここは四方から味方が結集するのを待って、良将と精鋭兵を選んで駆けつけるべきです。そうすれば、勤皇の名声も保てますし、本拠地も固められます。」
 番陽王は、出陣を中止した。
 やがて、東魏の高澄は西コン州刺史李伯穆を合肥へ進攻させた。そしてその傍ら、使者を派遣して書を与えた。
 番陽王は、侯景討伐の為に東魏の力を借りようと思っていたので、戦士二万を率いて東関を出発して合肥を李伯穆へ明け渡し、子息の勤と廣を東魏へ人質として差し出して、援軍を乞うた。
 進軍を開始した番陽王軍は、濡須にて上游の軍を待った。世子の嗣へは千余の兵を与えて安楽柵を守らせた。
 しかし、上游の諸軍は、一つも駆けつけてこない。番陽王の兵糧は乏しくなり、兵卒達は稗や菱を採って自給した。そのうちに勤と廣は業へ到着したが、東魏は、遂に援軍を出さなかった。
 進軍するには兵力が不足しており、退却しようにも既に合肥は明け渡している。進退窮まった番陽王は、流れを遡って樅陽へ陣を移動した。
 侯景が姑孰から出陣すると、番陽王麾下の将軍裴之悌が、手勢を率いて降伏した。
 八月、番陽王は、江州刺史尋陽王大心へ助けを求めた。尋陽王が許諾したので、番陽王は兵を率いて江州へ移動した。尋陽王は、彼等へ城を与えた。 

 十一月、東魏の金門公潘楽等が五万の兵を率いて司州を襲撃した。司州刺史の夏侯強は、降伏する。これによって、淮南地方は全て東魏に占領された。 

  

  

祖皓決起 

 廣陵の住人来嶷が、前の廣陵太守の祖皓へ言った。
「菫紹先は、軽薄で謀略もない人間。人々は、彼に心服していません。奴を襲撃して殺すことこそ、壮士の仕事です。今、義勇の士へ呼びかけて、君を推戴しようと思います。もしも事が成ったなら、斉の桓公や晋の文公のような勲功。天下を取れなくても、梁室の忠臣にはなれましょう。」
 祖皓は言った。
「それこそ、僕の願うところだ。」
 そして、義勇の士へ呼びかけたところ、百余人が集まった。
 癸酉、彼等は廣陵を襲撃し、南コン州刺史菫紹先を斬った。そして城を占領すると、遠近へ檄を飛ばし、前の太子舎人蕭面を推戴して刺史とし、東魏へ使者を放って後援を求めた。
 侯景は、郭元建へ兵を与えて、廣陵へ向かわせた。祖皓は、籠城して対抗した。
 大寶元年(550年)、二月。侯景は侯子鏡へ八千の水軍を与えて廣陵へ派遣し、自らは一万の兵を率いて後続となった。
 侯子鏡は、三日間の攻撃で廣陵を落とした。祖皓を捕らえると、縛り上げて矢を射た。祖皓の体中に矢が突き刺さる。その後、これを車裂とした。又、城内の住人は、幼長の区別なく、流鏑馬の的にしたり生き埋めにしたりして、皆殺しとした。
 侯景は、侯子鏡を南コン州刺史として廣陵を鎮守させると、建康へ戻った。 

  

尋陽王降伏 

 二月、侯景は任約と于慶へ二万の兵を与えて、諸藩を攻撃させた。
 三月、臨川内史の始興王毅等が、荘鉄を攻撃した。番陽王の世子嗣は荘鉄と仲が善かったので、番陽王範は、麾下の将侯真(「王/真」)を荘鉄のもとへ派遣した。始興王は、敗死した。
 番陽世子は、三章にて任約と戦った。任約は敗北して逃げ出す。そこで番陽世子は、三章を占領し、守備を固めた。これを安楽柵と名付ける。
 四月、番陽王は晋煕郡を晋州として、番陽世子を刺史に任命した。その他、江州の郡太守や県令を、勝手に改易した。結果、尋陽王の号令に従う場所は、尋陽郡ただ一郡になってしまった。
 尋陽王は、荘鉄を攻撃した。すると、番陽王は、再び侯真を荘鉄のもとへ派遣した。
 これによって、尋陽王と番陽王は互いに猜忌するようになり、賊軍へなど、目を向けなくなった。
 尋陽王は、稽亭へ砦を築いて番陽王へ備えた。そこは交通の要所だったので、番陽王への流通を阻止することができた。こうして番陽王のもとへは穀物が入らなくなり、彼の部下数万人から、餓死する者が多出した。
 五月、番陽王は、怒りの余り憤死した。彼の部下は、その死を隠し、弟の安南侯恬を数千人の兵卒が推戴した。尋陽王は夜襲を掛けたが、撃退された。
 番陽王が死ぬと、侯真は荘鉄のもとへ逃げ込んだ。だが、荘鉄は彼を忌んだので、侯真は不安になり、遂に荘鉄を殺して豫章にて自立した。
 ところで、東魏は、儀同の牒雲洛を派遣して、番陽世子を迎え入れようとしていたが、彼等が到着する前に、任約の軍が来襲してきた。番陽世子は、これと戦って、戦死した。
 任約は、そのまま尋陽王を攻撃した。
 尋陽王は司馬の韋質を派遣して防戦したが、敗北。尋陽王の麾下には、まだ千余の戦士がおり、ある者は建州を拠点として防戦するよう勧めたが、尋陽王は、これを拒否し、任約へ降伏した。
 侯真は、于慶に攻撃されて支えきれず、降伏した。于慶は、侯真を建康へ送った。侯景は、侯真が自分と同姓なので、彼を厚遇した。
 任約軍は、更に邵陵王綸へ向かって進軍する。邵陵王は、司馬の将思安へ五千の兵を与えて、任約軍を襲撃させた。任約軍は、敗北して散り散りとなった。将思安は、これに増長して、ろくに防備もしなかった。それを知った任約は、敗残兵をかき集めてこれを襲撃、将思安軍は敗北した。 

  

侯景の治政 

 四月、侯景は、簡文帝へ西州への御幸を請願した。簡文帝は素輦に乗り四百余人の護衛がついたが、侯景は数千人の武装兵に守られて進んだ。
 この頃、江南は旱害と蝗害が相継いでおり、江・揚がもっとも酷かった。百姓は流亡して山谷や江湖へ入り、草根や木葉、菱などを採って食べたが、やがてそれも採り尽くし、餓死者が野に満ちた。富豪でさえも食べる物がなくなり、綺羅を着て珠玉を懐に入れたままベットに寝そべって死を待っている有様。千里に亘って炊煙は絶え、人の姿も絶えて見えない。ただ、白骨が丘のように積み重なっているだけだった。
 侯景は、残酷な性格。常に、諸将を戒めていた。
「柵を破り城を平らげ、天下へ我が名を知らしめるのだ。」
 諸将は戦って勝つたびに略奪へ走り、まるで草でも刈るように人を殺して楽しんでいた。だから百姓は、たとえ殺されても彼に従わなかった。
 また、人々の偶話(一般に「噂話」とされている。しかし、宮崎先生の説に依れば、政治的な寸劇の事。こちらの方が、現実味があるような気がします。)を禁じ、犯した者は一族まで皆殺しとした。
 侯景の部下の将帥は、全員行台と称し、降伏してきた将は全て開府となった。親任した者は左右廂公、武勇のある者は庫直都督といった具合に、侯景は官位を乱発した。 

 同月、侯景は宋子仙を京口へ呼び戻した。 

  

湘東王の妬心  

 この頃、経済的に豊かだったのは、ただ、荊・益地方だけだった。
 五月、益州刺史の武陵王紀は征や鎮へ号令を掛け、世子の円照へ三万の兵を与えて、湘東王の麾下へ入らせた。
 円照は、巴水へ進軍する。湘東王は、彼を信州刺史へ任命し、白帝城へ屯営するよう命じ、勝手に東進することを禁じた。
 十一月、武陵王は諸軍を率いて成都を出発したが、湘東王は使者を派遣して、止めた。
 その書に言う。
「蜀の人間は勇悍で、妄動しやすい。実に治安の難しい為人だ。弟よ、そこをしっかりと固めてくれ。賊徒は我が滅ぼそう。」 

 邵陵王が、軍備を修めて、侯景討伐へ乗り出そうとしたが、湘東王は、これを憎んだ。
 八月、王僧弁と鮑泉へ一万の兵を与えて、邵陵王を討伐させた。邵陵王は逃げ出した。 

 九月、裴之高が子弟千余人を率いて夏首まで進軍した。湘東王は、彼を新興、永寧二郡太守に任命した。
 又、南平王恪を武州刺史として、武州を鎮守させた。 

  

南康王の陰謀 

 九月、侯景が相国となった。
 乙未、侯景は自ら宇宙大将軍、都督六合諸軍事の称号を加えて、帝へ奏上した。帝は、「宇宙」の称号に驚愕した。 

 同月、任約が、西陽・武昌へ進攻した。
 話は遡るが、寧州刺史徐文盛が、侯景を討伐しようと、募兵して数万人を得た。湘東王は、彼を秦州刺史に任命した。
 今回、湘東王は廬陵王応を江州刺史とし、徐文盛を長史行府州事とし、諸将を督して防戦させた。
 任約は、邵陵王の軍を蹴散らして、西陽・武昌を占領した。
 徐文盛は、貝磯へ陣を布いた。任約は水軍を率いて迎撃したが、大敗した。徐文盛は、叱羅子通、趙威方を斬り、大挙口まで進軍した。
 侯景は、宋子仙へ二万の兵を与えて援軍とした。
 これによって、建康の守備が手薄になったので、南康王会理は、太子左衛将軍柳敬礼、西郷侯勧、東郷侯面等と共に、起兵して王偉を誅殺しようと謀った。安楽侯乂理は、長蘆へ出奔し、千余の兵を集めた。
 建安侯賁と中宿世子子邑は彼等の陰謀を知り、王偉へ告発した。王偉は、南康王、柳敬礼、西郷侯、東郷侯及び南康侯の弟の通理を殺した。安楽公も、左右から殺された。
 簡文帝が即位以来、侯景は帝の周りを厳重に警戒し、誰にも謁見させなかった。ただ、武林侯諮や僕射王克、舎人殷不害など、文弱な人間だけが出入りを許され、帝は彼等と講論するだけだった。
 南康王が殺されると、王克や殷不害は、殺されることを懼れて、簡文帝へ近づくことを自重するようになった。しかし、武林侯のみは簡文帝の側を離れず、朝廷を開催するよう、勧めてやめなかった。侯景はこれを疎ましがり、刺客を放って殺した。
 簡文帝が即位した時、侯景は帝と共に重雲殿へ登り、仏へ誓った。
「今から、君臣は猜疑いたしません。臣下は主君へ背きませんし、主君も又、臣下へ背きません。」
 南康王の陰謀を察知した時、侯景は、簡文帝がそれを認可していたと疑った。だから、武林侯を殺したのである。
 今回の告発によって、建安侯賁は意陵王へ、中宿世子子邑は随王へ、それぞれ出世し、侯氏の姓を賜った。 

  

一進一退 

 大寶二年(551年)、湘東王は、護軍将軍尹悦、安東将軍杜幼安、巴州刺史王旬等へ二万の兵を与えて武昌へ派遣し、徐文盛の麾下へ就かせた。
 二月、徐文盛等は武昌にて勝利し、蘆州へ進軍した。
 任約が急を告げたので、侯景自ら兵を率いて西進した。皇太子の大器を従軍させたが、これは人質である。留守は王偉へ任せた。出発したのは、閏月。その船団は、石頭から新林まで、延々と続いていた。
 任約は、一隊に斉安を攻撃させた。ここを守るのは、定州刺史田龍租。任約軍は、これを撃破した。
 壬寅、侯景軍は西陽へ到着し、江を挟んで、徐文盛と対峙した。
 翌日、徐文盛はこれを撃破。侯景軍は、右丞の庫狄式和が戦死。侯景は、軍営まで逃げ帰った。 

 郢州刺史蕭方緒は、十五才だったが、行事の鮑泉が柔弱だったので、いつも彼を馬鹿にしており、ベットの上で馬乗りになって遊んだりしていた。
 この郢州は徐文盛の軍のそばにあったので、蕭方緒は彼等の軍事力を恃んで、何の軍備もせず、毎日酒宴で遊んでいた。侯景は、これを知ると宋子仙と任約へ四百騎の精鋭を与えて、郢州を攻撃させた。
 丙午、大雨が降り、あたりは夜のように暗かった。見張りの兵が敵に気がつき、鮑泉へ告げたが、鮑泉は言った。
「徐文盛の大軍がいるのに、敵がどうしてやってこようか!それはきっと、王旬の兵が戻ってきたのだ。」
 だが、同様の報告が相継いだので、始めて城門を閉めるよう命じたが、その時既に宋子仙等は入城していた。
 蕭方緒が、鮑泉のお腹に跨って、彼の髭へ五色のリボンを結んでいた時、賊軍が突入していた。蕭方緒は鮑泉をベットの下へ隠し、宋子仙を出迎えた。だが、宋子仙は、ベットのすそから、リボンが見えていたので、鮑泉に気がつき、彼も捕らえて侯景の元へ送った。
 侯景は、大風を奇貨として帆を挙げ、徐文盛軍を追い越して江夏へ入った。すると、徐文盛の兵卒達は動揺して、軍が潰れた。彼等は、長沙王韶(かつての上甲侯韶)等と共に、江陵へ逃げ帰った。
 王旬と杜幼安は、実家が江夏にあったので、侯景へ降伏した。 

 ところで、湘東王はかつて、河東王・岳陽王と戦っていた。この時既に河東王は滅ぼしていたが、岳陽王はまだ健在だった。
 郢州が侯景に陥されたと聞くや、岳陽王は湘東王を攻撃しようと、蔡大宝へ一万の兵を与えて、武寧まで進攻させた。そして、江陵へ使者を派遣し、救援へ赴いたと詐称した。
 江陵で会議が開かれると、皆は、「『侯景はもう撃破した』と言い訳して、退却させよう」と言ったが、湘東王は言った。
「帰れと言えば、きっと進攻して来るぞ。」
 そして、蔡大宝へ使者を出した。
「岳陽王とは何度も講和し、互いに相手の領土を侵さないよう約束していたのに、卿はなんで、勝手に武寧を占領したのか?今、天門太守胡僧裕へ二万の精鋭兵を与えて、進軍させているぞ。」
 それを聞いて、蔡大宝は退却した。 

  

  

巴陵城攻防 

 湘東王は、王僧弁を大都督として、巴州刺史淳于量、定州刺史杜龕、宜州刺史王琳、林州刺史裴之横を、彼の麾下に入れ、侯景攻撃を命じた。徐文盛等も、全て彼の指揮下へ入れた。
 戊申、王僧弁等は巴陵まで進軍した。ここで、郢州の陥落を知ったので、しばらくそこへ逗留した。湘東王は、王僧弁へ書を遺した。
「敵は勝ちに乗じて、必ず西進して来る。だから、これ以上遠征の労は要らぬ。ただ、巴丘の守りを固め、逸を以て労を待つのだ。必ず勝てる。」
 又、将佐へ言った。
「賊軍が、水陸共に進軍して江陵を直接目指したなら、それは上策だ。夏首に據って兵糧を備蓄したら、中策だ。総力を挙げて巴陵を攻撃するのは下策だ。巴陵は、小城だが、堅固。それに、王僧弁なら守りきる。侯景が城攻めをして抜けなければ、野には略奪するものもなく、この暑さで疫病も広がる。兵糧が尽きて兵卒が疲れ切った時こそ、撃破できるぞ。」
 そして、武陵へ駐屯していた羅州刺史徐嗣徽と武州刺史杜崩へ、王僧弁と合流するよう命じた。
 侯景は、丁和へ五千の兵を与えて夏首を守らせ、宋子仙へ一万の兵を与えて先鋒とし、巴陵へ向かわせた。任約へは一隊を与えて江陵へ進ませ、侯景は水陸軍を率いて後詰めとなった。ここにおいて、揚子江沿岸の諸砦は、次々と賊軍へ降伏した。侯景は、近辺を巡邏して威勢を張り、隠磯へ屯営した。
 王僧弁は、城を固く守ったが、旗は降ろして、まるで無人の城のように見せかけた。
 壬戌、侯景は揚子江を渡った。軽騎を巴陵城下へ派遣し、尋ねた。
「城を守るのは、誰だ?」
「王領軍だ。」
「降伏しないでグズついているのは、何故か?」
「大軍が荊州へ向かうのなら、この城は素通りするだろうからさ。」
 軽騎は、去って行った。
 次いで、賊軍は王旬を城下へ引き出し、彼の弟の王琳を説得させた。だが、王琳は言った。
「兄上は、討賊の命令を受けながら、死ぬこともできなかった。その上恥まで忘れて、そんな事までするのか!」
 そして、弓で射た。王旬は恥じ入って退いた。
 侯景は、百道から肉薄して、攻撃した。城中は軍鼓を鳴らし、矢や石を雨のように降らせた。侯景軍は、大勢の死者を出して退却した。すると、王僧弁は、軽兵を出して戦った。彼等はおよそ十余回取って返したが、全て勝利を収めた。
 侯景は、兜を被って城下で指揮を執った。王僧弁は、輿に乗って城を巡邏し、士卒の心を鼓舞させた。それを望み見て、侯景は彼の胆勇に感じ入った。 

  

任約敗北 

 侯景は、昼夜巴陵を攻撃しているが、なかなか陥ちない。軍中の兵糧は尽き、疫病で大勢の士卒が倒れた。
 湘東王は、晋州刺史蕭恵正を巴陵の援軍として派遣しようとしたが、蕭恵正は手に余るとして辞退し、代わりに胡僧裕を推挙した。この時、胡僧裕は、湘東王を諫めたかどにより投獄されていた。そこで湘東王は、胡僧裕を釈放し、武猛将軍に任命して派遣した。
 出陣の時、湘東王は言った。
「賊軍がもしも水戦を挑んだなら、ただ大艦を並べるだけで、必ず勝てる。しかし、歩兵で挑んできたら、まず巴丘を占領し、戦刃を交えてはならない。」
 胡僧裕が湘蒲へ来た時、侯景は任約へ五千の兵を与えて行く手で待ちかまえさせていた。そこで胡僧裕は、道を変えて西進した。任約は、敵が自分を恐れていると言い、これを追撃した。芋口にて、任約は胡僧裕へ呼びかけた。
「小僧っ子。逃げてないで、サッサと降伏しろ。」
 胡僧裕は答えず、密かに兵を赤沙亭へ入れた。そして、信州刺史陸法和の兵がやってくると、これと合流した。
 陸法和は、変わった術を持っていた。その衣食は苦行僧のようで、予言をすれば結構的中した。かつて、侯景が台城を包囲した時、ある人が尋ねた。
「これからどうしたら良いのでしょうか?」
 すると、陸法和は言った。
「果実を取るときには、熟するのを待つことです。そうすれば、自然に落ちてきます。」
 任約が江陵へ向かうに及んで、彼は迎撃を申し出、湘東王は認可した。
 壬寅、任約が赤沙亭へ到着した。
 六月、胡僧裕と陸法和がこれを襲撃し、任約は大敗した。大勢の兵が戦死し、任約は捕まって江陵へ送られた。湘東王は、彼を赦した。 

 訳者、曰く
 湘東王の指示は的確。彼の軍事的な才覚は称賛すべきものがある。(河東王と戦っていた頃の彼と比べると、別人のようだ。多分、戦争の中で身につけてきたのだろう。)だが、その為人は野望と猜疑心の塊で、有力な味方を次々と滅ぼしていった。彼にとって、「有力な味方」とは、「帝位争いの競争者」なのだ。
 最終的に侯景を滅ぼしたのは、湘東王である。しかし、彼がいなければ、梁皇室が一致団結して、もっと早くに侯景を滅ぼせたに違いない。 

  

掃討戦 

 任約の敗北を聞くや、侯景は陣を焼き払って逃げた。丁和を郢州刺史とし、宋子仙等二万の軍を留めて、守らせる。別将支化仁へ魯山を鎮守させ、范希栄を行江州事とし、儀同三司任延和と晋州刺史夏侯威生へ晋州を守らせた。
 侯景は、麾下数千を率いて、流れに乗って東下した。
 丁和は、鮑泉と廬預を殺した。
 徐文盛は、城北面都督となったが、賄賂を貪ったので、湘東王は怒り、その罪状を数え上げて官爵を剥奪した。徐文盛は、この処置に怨望したが、それが湘東王の耳に届き、怨望の咎で投獄され、獄死した。
 湘東王は、王僧弁を征東将軍・尚書令とし、胡僧裕等もそれぞれ進位させ、そのまま東下させた。ただ、陸法和は帰ることを望み、江陵へ戻ると湘東王へ言った。
「侯景は、放って置いても平定できます。その後は、蜀の賊が攻めてくるでしょう。今のうちに険を守って待ち受けましょう。」
 そして、兵を率いて峽口へ屯営した。
胡三省、曰く。蜀の賊とは、武陵王紀の事である。陸法和は、いずれ武陵王が攻めてくることを予見していたのだ。)
 庚申、王僧弁は漢口へ到着し、まず、魯山を攻撃した。支化仁を捕らえて、江陵へ送る。
 辛酉、郢州を攻めて、その羅城を陥す。敵の首級千を挙げた。宋子仙は、金城まで退却する。すると王僧弁は、四面に築山を築いて、これを攻撃した。
 豫州刺史荀朗は、濡須から出撃して侯景を攻撃し、その後軍を討った。侯景は逃げ帰り、多くの舟を失った。
 太子の舟は、樅陽浦へ入った。同乗した腹心達は、皆、このまま逃げ出すよう勧めたが、太子は言った。
「国家が喪失したら、どうして一人だけ生のびられようか。主上が疎開するならば、どうして側を離れられようか!我が今逃げ出すことは、賊から逃げることではない。父へ対する叛逆ではないか!」
 そして嗚咽しながら、前進を命じた。
 甲子、宋子仙等は困窮し、郢州を明け渡す代わりに侯景の元へ逃げ帰らせて欲しい、と申し込んだ。王僧弁は、偽ってこれを許し、百艘の舟を準備して、彼等を油断させた。
 宋子仙等は、これを信じ込んで舟に乗って出発したが、王僧弁は、これに水軍で追い打ちをかけた。宋子仙等は戦いつつ逃げたが、大敗する。
 周鉄虎が、宋子仙と丁和を生け捕りにした。彼等は、江陵へ送って処刑した。 

 七月、侯景は、建康へ戻った。 

  

官軍合流 

王僧弁が勝ちに乗じて揚子江を下っていると、兵力三万の陳覇先軍と遭遇した。彼等は合流し、巴丘に屯営する。
 この時、王僧弁軍は兵糧が残り少なくなっていたが、陳覇先軍には五十万石の兵糧があったので、これを王僧弁へ分けてやった。
 八月、王僧弁は、侯景麾下の于慶軍を襲撃した。于慶は、郭黙城を捨てて逃げた。范希栄もまた、尋陽城を捨てて逃げた。
 晋煕王僧振等が決起し、郡城を包囲した。それを聞いた王僧弁は、沙州刺史丁道貴を、晋煕王のもとへ援軍として派遣した。城主の任延和は、城を棄てて逃げた。
 湘東王は、王僧弁へ命じた。
「しばらく尋陽城へ逗留し、諸軍が結集するのを待て。」 

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