侯景の乱   陳覇先
 
  太清三年(549年)、6月。西江督護陳覇先が、侯景討伐軍を起こそうと欲した。
 そこで侯景は、廣州刺史元景仲を籠絡しようと、彼のもとへ使者を派遣した。元景仲はこれに乗り、密かに陳覇先を謀ろうとした。だが、陳覇先はこれを知り、成州刺史王懐明等とともに軍を南海へ結集し、元景仲討伐の檄を飛ばした。
「元景仲は賊の仲間となった。朝廷は曲陽侯勃を刺史とし、その軍は朝亭まで来ている。」
 元景仲の部下は、これを聞いて散り散りに逃げ去った。
 七月、元景仲は閤下で首をくくって死んだ。
 陳覇先は、定州刺史蕭勃を迎え入れて、廣州を鎮守させた。 

 前の高州刺史蘭裕が、諸弟と共に始興十郡を煽動し、監衡州事欧陽危を攻撃した。蕭勃は、陳覇先を援軍として派遣した。陳覇先は蘭裕等を捕まえたので、蕭勃は彼を監始興事とした。 

  

 十二月。始興太守陳覇先は、侯景を討とうと、郡中の豪傑達へ呼びかけた。すると、始興郡の住民侯安都や張偲等が、各々千余人を率いて帰順した。
 そこで陳覇先は、まず主師の杜僧明へ二千の兵を与えて嶺上へ派遣した。すると蕭勃が使者を派遣して伝えた。
「侯景は驍雄。天下無敵だ。前回は屈強の兵士十万が援軍となったが、勝てなかったではないか。区々たる君の兵力で何ができようか!それに、嶺北の王侯はわき返り、互いに戦っている有様。そこへ君の軍が進軍したならば、ない腹を探られるのが落ち。『明月の珠でも、闇夜に投げつけられたら、かえって怨みを買ってしまう。』と言うではないか。
 今は始興に留まって確固たる勢力を誇示し、太山を安泰に保つべきだ。」
 すると、陳覇先は言った。
「僕は国恩を蒙った。かつて『侯景が揚子江を渡った』と聞いた時、即座に駆けつけたかったのだが、元景仲や蘭裕に邪魔されたのだ。今、都は占領されてしまった。『主君が辱しめを受けた時、臣下は命を捨てる。』と言うではないか。何で命が惜しかろうか!
 ましてや、君は皇室の一員ではないか。藩塀の任務は重い。僕へ一軍を派遣するべきなのに、却って進軍を止めるのか!」
 そして、江陵へ使者を派遣し、湘東王の節度を受けた。
 この頃、南康の土豪蔡路養が挙兵して郡を占領していた。そこで、蕭勃は腹心の談世遠を曲江令に任命し、蔡路養と結盟して陳覇先の行く手を阻むよう命じた。 

  

 大寶元年(550年)、正月。陳覇先は始興を出発し、大ユ嶺へ到着した。すると、蔡路養は二万の兵を率いて南野へ陣取り、行く手を阻んだ。
 蔡路養の妻の姪に蕭摩訶とゆう少女がいた。彼女は十三歳だが武芸の達人。単騎で突撃して、敵をバタバタなぎ倒す。杜僧明も馬を傷つけられた。すると陳覇先がこれを救出し、乗馬を与えた。そこで杜僧明は再び戦った。陳軍の兵卒達も、これに乗じて総攻撃に移った。蔡路養は大敗し、単身で戦場を脱出した。
 陳覇先は南康まで進軍した。湘東王は、陳覇先を明威将軍、交州刺史に任命した。
 やがて彼は、崎頭の古城を修復して、ここへ移った。 

  

 二年、二月。李遷仕が、南康を襲撃した。陳覇先は、杜僧明に迎撃させた。この戦闘で勝利し、李遷仕を捕らえ、斬った。
 湘東王は、陳覇先へ江州攻略を命じ、江州刺史に任命した。
 五月、陳覇先は、兵を率いて南康を出発し、流れに沿って下った。その先には、二十四ヶ所の難所があったが、たまたま川の水かさが増えており、岩は全て水面深く沈んでいたので、何の支障もなく、乗り越えて、西昌へ到着した。
 七月、陳覇先は、湘東王麾下の王僧弁軍と合流した。 

 蛇足ながら、侯景が平定された二ヶ月後、衡州刺史王懐明が造反したが、廣州刺史蕭勃が討伐、平定した。 

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