侯景の乱   呉
 
 太清三年(549年)三月、癸未。建康を占領した侯景は、于子悦へ老弱兵数百を与えて、呉郡攻略を命じた。
 新城戍主の戴僧易は、五千の精鋭兵を持っていた。彼は、太守の袁君正へ言った。
「賊軍は、今、食料が欠乏しています。台城に蓄えられた兵糧では、一旬と持ちません。もしも我等が籠城すれば、奴等はすぐに餓死します。」
 だが、土豪の陸映公は、戦って負ければ財産を全て略奪されると懼れ、無条件降伏を勧めた。袁君正はもともと怯者だったので、自ら郊外へ出向き、酒や牛を準備して于子悦を迎え入れた。ところが、于子悦は袁君正を捕らえ、財産や子女を略奪したので、近隣の人々は堡を作って拒戦した。 

 五月、武帝が崩じた。
 侯景は中軍の侯子鏡を呉郡へ派遣し、廂公蘇単于を呉郡太守とした。
 宋子仙へ兵を与えて銭塘へ駐屯させたが、新城戍主の戴僧易が、これを拒んだ。
 御史中丞の沈浚は難を避けて東へ帰った。すると、呉興まで来た時、太守の張乗が彼を誘い、討侯景軍の挙兵を持ちかけた。
 東揚州刺史臨城公大連もまた、州に據って侯景の命令を拒絶した。
 結局、侯景の号令が遵守されるのは、呉郡以西、南陵以北のみとなった。
 宋子仙は戴僧易を包囲したが、勝てなかった。
 六月、丙午、呉の盗賊陸緝等が起兵して呉郡を襲撃し、蘇単于を殺した。そして、前の淮南太守文成侯寧を盟主へ推した。だが、陸緝等は暴虐な人間で、先を争って略奪へ走ったので、呉の人々は、彼等へ懐かなかった。宋子仙は、そこにつけこんで陸緝を攻撃した。陸緝は城を棄てて海塩へ逃げた。宋子仙は、再び呉郡を占領した。彼は、安陸王大春を刺史とした。 

 八月、侯景は侯子鏡へ呉興を攻撃させた。
 呉興の兵力は少なく、太守の張乗は書生上がりで、戦争のことは疎かった。そこで、ある者が、袁君正へ倣って侯子鏡を迎え入れるよう勧めた。すると、張乗は嘆いて言った。
「袁氏は、代々忠貞で鳴った一族だった。それが、図らずも袁君正一人の為に、一朝にして地に墜ちてしまったのだ。呉郡が既に陥落した今、ここの陥落も時間の問題だとゆうことくらい、我にも判る。ただ、御国の碌を食んだ以上、死んでも二心を持てないのだ!」
 九月、侯子鏡軍は呉興まで進軍してきた。張乗は、これと戦い敗北した。
 敗戦の後張乗は、府へ還って正装して自分の席に就いた。府へ乗り込んできた侯子鏡は、彼を捕らえ、建康へ送った。侯景は、その節義を嘉し、なんとか死なせまいとした。しかし、張乗は言った。
「我は、忝なくもこの城を預かった。それなのに、朝廷が傾き掛けたこの時期に、守り通すこともできなかったのだ。今は、ただ早く死にたい。」
 侯景は、なおも彼の子息だけでも助けたいと言ったが、張乗は言った。
「我が一門は、既に鬼録に居る。おまえのような野蛮人から恩を着せられようとは思わん!」
 侯景は怒り、彼等を皆殺しとし、併せて沈浚も殺した。 

 十月、宋子仙は呉郡から銭塘へ向かった。劉神茂は、呉興から富陽へ向かった。
 前の武州刺史孫国恩は、城ごと降伏した。
 十一月、宋子仙の攻撃に、塘の戴僧易は降伏した。
 宋子仙は、勝ちに乗じて浙江を渡り、会稽まで進軍した。邵陵王綸(武帝の子息)は、銭塘が敗北したと聞くや番陽へ逃げ出した。 

 東揚州刺史は、南郡王大連。この頃、会稽は肥沃な場所で、屈強の兵卒数万を擁しており、兵糧や武器は山盛りだった。しかも、東土人は、残虐な侯景を憎んでいたので、勇んで軍用に就いていた。だが、南郡王は朝夕酔いしれているだけで、軍事のことなど顧みない。司馬の留異は凶悪で狡猾で残虐で横暴な人間。兵卒達から忌み嫌われていたが、南郡王は、彼に軍事を委ねてしまった。
 十二月、宋子仙は会稽を攻撃した。すると、南郡王は城を棄てて逃げた。留異は郷里へ逃げ帰り、そこで手勢を纏めて降伏した。
 南郡王は番陽へ逃げ込もうとしたが、留異が道案内となって信安まで追撃し、とうとう南郡王を捕らえて建康へ送った。
 これによって、三呉は全て侯景の指揮下へ入った。会稽へ住んでいた侯公は、皆、南へ逃げた。侯景は、留異を東陽太守とし、彼の妻子を人質に取った。 

  

 大寶元年(550年)四月、侯景は宋子仙を京口へ呼び戻した。 

 五月、文成侯寧が呉で起兵した。従う者は数万人。彼等は呉郡へ進攻したが、行呉郡事の侯子栄が迎撃し、文成侯を殺した。侯子栄は、郡境にて、略奪の限りをつくした。
 ところで、晋が江南へ逃げてきて以来、三呉は最も豊かな土地で、租税の上がりも多く、豪商の大半は三呉出身だった。だが、侯景が乱を起こしてからは、金帛は略奪しつくされた。人々は殺されて食べられたり、北境へ売り飛ばされたりして、住民も殆どいなくなってしまった。 

  九月、南郡王の中兵参軍張彪等が、若邪山にて起兵した。彼等は浙東諸県を攻め破り、部下の数は数万になった。
 呉郡では、陸令公等が太守の南海王大臨へ、彼等へ加担するよう説いたが、南海王は言った。
「奴等が成功しても、我が助けにはならないし、失敗したら、侯景は我等をも討伐する。加担してはならない。」
 二年、正月。張彪は、麾下の将趙稜へ塘を、孫鳳へ富春を包囲させた。 これに対して侯景は、儀同三司の田遷と趙伯超を派遣した。趙稜と孫鳳は、敗走した。なお、趙稜は趙伯超の兄の子供である。 

 十月、侯景が巴丘で敗戦して帰ってきたと聞いて、劉神茂は造反を企てた。呉中の士・大夫はこれをそそのかした。遂に劉神茂は造反し、張彪も彼と共闘した。(以後の詳細は、本伝「その4」へ記載) 
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