開元の治  その4
 
 八月癸卯、武彊令裴景仙が五千匹の汚職で有罪となる。だが、これを知って、景仙は亡命した。
 上は怒り、衆を集めてこれを斬るよう命じた。大理卿李朝隠は、”景仙の収賄は、皆、相手から持ちかけられたものを受け取っただけなので死罪にまでは該当しないし、また、その曾祖の寂が大功を建てたのに、載初年間に無実の罪で一家が潰され(胡三省注、「裴寂伝」によると、寂の孫の承先は、則天武后の時に酷吏の為に殺された。)、今ではただ景仙が残って嫡を継承しているので、死罪を宥めて流刑にするのが宜しいです”と上奏した。その文中に、次のような言葉があった。
「賢者の子孫を十代宥めてこそ、功績が遺されるのです(左伝の一節、晋のキ奚が叔向へ請うた。「社稷を固めるには、十世の宥めが必要です。」)。一門を根絶やしにするのは、情に於いても哀れなことです。」
 景仙を杖で打ち殺すよう、制が降りた。すると、朝隠は再び上奏した。
「生殺の柄は主君だけが持つものですが、その軽重の規律は臣下が守るべきです。今もし罪を得るよう乞うたならば、容易く斬刑にできます。しかし、そうしたら、後日本当に罪を犯した人間に、何を加えるのですか?国の為に法を守ろうと思ったら、律文を固守しなければなりません。法を自分の思い通りにしようと思われていないのでしたら、どうか仙の命をお救いください。」
 また言う。
「もし寂の勲功を棄てるつもりでしたら、仙へ罪を加えるのも宜しいでしょう。ですが、そうしたら叔向の賢も称賛するに足りません。若敖の御霊も祀られませんぞ!」
 上は、これを許した。景仙は杖打ち百のうえ、嶺南の悪所へ流された。 

 十月癸丑、乾元殿の呼称を明殿へ戻した。 

 上は北辺で武功を建てたがった。十月丁卯、秦州都督張守潔を諸衞将軍とした。 

 前の廣州都督裴由(「人/由」)先を獄へ下した。上と宰相が共にその罪を詮議する。
 張嘉貞は杖打ちを請うたが、張説は言った。
「『大夫のような貴人へは、刑罰を与えない。彼等は主君の側にいるのだから、廉恥心を養わせるのだ。だから、士は殺しても良いが、辱めてはいけない。』と、臣は聞きました。臣が北辺を巡っている頃、朝堂にて姜皎を杖打ちしたと聞きました。皎の官位は三品で、少しの功績もあります。その罪が死刑に相当するのなら殺し、流罪に相当するのならば流すべきですが、なんで奴隷のように、些細なことで鞭打ちの恥辱を与えられるのですか!姜皎のことは、済んだことですからどうしようもありません。しかし由先の罪状は流罪に相当します。どうして前の轍を踏んでよいでしょうか!」
 上は深く同意した。嘉貞は不機嫌になり、退出すると説へ言った。
「卿の議論は深遠すぎるぞ!」
 説は言った。
「我等もいずれ宰相に登用される。もしも国の大臣が皆鞭打ちの恥辱を与えられるのなら、我もいずれそのような目に会うではないか。我は由先の為に言ったのではない。天下の士君子の為に言ったのだ。」
 嘉貞は言い返さなかった。 

 上は晋陽へ御幸しようとして、長安へ帰った。
 張説は上へ言った。
「汾陰には漢家の后土祠がありますが、その礼が長い間廃れています。陛下は巡狩なさるのですから、立ち寄って修復し、農民のために豊作を祈られてください。」
 上はこれに従った。 

 上の娘永穆公主が下嫁しようとしたので、その嫁入り道具は太平公主に準じるよう敕が降りた。すると、僧一行が諫めて言った。
「武后にとって、太平公主は一人娘でした。ですから嫁入り道具も豪勢になり、驕慢にさせてその一生を台無しにしたのです。どうして手本にされるのですか!」
 上は、これを中止した。 

 十一年正月己巳、車駕が東都から北巡した。
 庚辰、路(「水/路」)州へ到着する。上は、かつて路州別駕だったので、五年間、税を免除する。
 辛卯、并州へ到着する。北都を設置し、并州を太原府として、刺史を尹とする。(特に重要な州を「府」と称し、その長官は刺史ではなく「尹」と呼ぶ。)
 二月戊申、晋州へ帰る。
 壬子、汾陰にて后土を祭る。
 乙卯、平遙令王同慶の一族の横暴で百姓が苦しんでいたので、これを降格して尉とする。
 三月庚午、車駕が京師へ到着した。 

 張説と張嘉貞が不仲になった。嘉貞の弟の金吾将軍嘉祐の収賄が発覚すると、説は嘉貞へ、外にて素服で罪を待つよう進めた。
 二月己酉、嘉貞を幽州刺史へ左遷する。
 癸亥、張説へ中書令を兼務させる。 

 四月甲子、吏部尚書王シュンを兵部尚書、同中書門下三品とする。彼はかつて、康待賓討伐で功績を建てた。この件は、「造反」に記載する。
 五月己丑、王シュンへ朔方節度使を兼任させ、河西、隴右、河東、河北諸軍を巡回させる。(王シュンは、十月、人事に私心を挟んだ罪で州刺史へ降格となった。) 

 神龍年間初頭、澤王上金の官爵を追復し、その子息を捜して嶺南にて庶子義cを見つけ、もとの封を与えた。
 許王素節の子息のカンは、その爵邑を欲した。そこで弟のビョウと共謀して、人を雇って”義cが上金の子息ではないのに、妄りに封爵を継承した”との告発をさせた。義cは再び嶺南へ流され、ビョウは上金の後を継いで嗣澤王となった。
 ここに至って、”義cは上金の子息なのに、カン兄弟から陥れられた。”と玉眞公主が上表した。
 十二年四月庚子、義cを再び嗣澤王に立てた。ビョウの爵位を削り、カンを鄂州別駕へ降格する。
 壬寅、”宗室の傍系で王位を継いだ者は全て宗室へ帰らせる”と敕が降りた。 

 壬子、河南、北平の地にて、日時計と極星を測定するよう、太史監南宮説等へ命じた。夏至の日中に八尺の表を立てて同時に測定するのである。
 陽城では、影の長さが一尺四寸八分弱だった。夜、北極星を見ると、地面から三十四度と十分の四の高さだった。浚儀岳台では、影の長さが一尺五寸より僅かに長かった。極高は三十四度八分。南方の朗州へ至ったら、影の長さが七寸七分。極高は二十九度半。北方の尉(「草/尉」州では、影の長さが二尺二寸九分、極高は四十度。
 南北で三千六百八十八里九十歩離れると、影の長さは一尺五寸二分、極高は十度半違った。
 又、南の交州では、影は表の南へ三寸三分出た。
 八月、海中から老人星の下を望めば、多くの星が燦然と輝いていたが、皆、昔から名が付いていない星である。南極から、おおよそ二十度以上離れた星は、皆、見えた。
 十三年の十月癸丑、作らせていた水運渾天(たぶん、天文関係のからくりです。水の力で自転する地球儀でしょうか?)が完成した。
(訳者、曰く。)私は、当時の化学レベルを知りません。唐代の人々が天動説を信じていたのか、地動説を信じていたのか。でも、このような説話から、少しは推測できそうです。
 この話は、地球が丸いとゆうことを、玄宗皇帝の命令で測定したのですね。この結果を基にして、地球の大きさも計算したかもしれません。
わざわざこんな実験を行ったのは、新しい知識を検証したとゆうことでしょう。当時、もっとも科学レベルが高かったのは中近東だったそうですから、そこから何かの知識が輸入されたものだと推測します。
 影の角度の違いから地球が丸いと気がつき、その大きさを最初に計算したのは、ギリシャ人です。その知識が伝播して、玄宗が追証するまで、千五百年ほどかかったことになります。) 

 山東が旱害となったので、上は、台閣の名臣を刺史として下向させるよう命じた。
 六月壬午、黄門侍郎王丘、中書侍郎長安の崔ミャン、禮部侍郎・知制誥韓休等五人を刺史として出向させる。丘は同皎の従父兄子、休は大敏の孫である。
 当初、張説は崔ミャンを引き立てて中書侍郎とした。従来は、宣や制は全て宰相が出しており、侍郎(次官)とゆうのは署名だけする役割だった。だが、ミャンは言った。
「官を設けて職務を分け、上下が補いあう。各々が意見を言ってこそ、過失は起らないのだ。侍郎は令の次官だ。なんで手を拱いて黙りこくっていて良いものか!」
 それで、決済事項の多くのことに異議を唱えた。説は気分を害したので、今回の出向となった。 

 初め、上が韋氏を誅した時、王皇后はその陰謀に参与していた。
 上が即位して数年すると、皇后の美貌も色あせてきた。寵愛を受けた武惠妃は、上の心を独占しようと密かに志した。后の心は穏やかではなくなり、時として上へ対して不遜な言葉を吐いた。上はいよいよ不機嫌になる。
 開元十年、上は、皇后に子供が居ないことを理由に廃立しようと、秘書監の姜皎と密かに謀った。すると、皎はその言葉を洩らしてしまった。皇后の妹の夫の嗣トウ王喬(「山/喬」)(胡三省が他の歴史書と比較研鑽したところ、嗣トウ王は、嗣濮王の間違いのようです。)が、これを上奏した。上が怒ったので、張嘉貞がおもねって皎の罪を構成した。
「上が何気なく言ったことを、皎は吹聴しました。」
 八月甲戌、皎は杖打ち六十のうえ、欽州へ流された。弟の吏部侍郎晦は春州司馬へ降格する。親族や仲間が数人、流罪や死罪となった。皎は途上で卒する。
 己亥、敕が降りた。
「宗室、外戚、フ馬は至親でなければ互いに行き来してはならない。卜相占候の人間は、皆、百官の家へ出入りしてはいけない。」
 姜皎が罪を得て以来、王皇后はますます憂畏で不安になった。しかしながら、臣下へ恩徳を施していたので、皇后を無闇と讒言する者もいなかった。それで、上は数年間決断できなかった。
 皇后には子が居なかったので、后兄の太子少保守一は、僧明悟へ后の為に南北斗を祭らせた。明悟は、霹靂の木を削り、”天地”の字と上の名前を書いたものを合わせて身につけ、祝って言った。
「この子を得て、則天武后のようになりますように。」
 これが発覚した。
 十二年七月己卯、皇后を廃立して庶民とし、別室へ移して安置する。守一は潭州別駕へ降格されるが、途上にて自殺を命じる。戸部尚書張嘉貞は、守一と交遊があったので、台州刺史へ降格となる。
 十月、廃后王氏が卒した。後宮の人々は后を思慕して止まず、上も又、廃立を悔いた。 

 七月己亥、宇文融を御史中丞とする。
 融が天下を巡回すると、諸州では事の大小に関わらずまず進農使へ報告して、その後に中書へ報告した。省司もまた、融の指示を待ってから決議した。
 この頃、上はまさに四夷を掃討しようとしていたので、軍資をかき集めるのを急務としていた。州県は融を畏れ、多くは数字を誇張したので、客戸は八十万も増え、田もまた相応に増加した。年末には、税は緡数百万も増加したが、これは全て宮殿へ納入された。これによって寵を受けた。
 議者達の多くは、民がかき乱され百姓に不利益だと述べたので、上は尚書省へ百寮を集めて議論させた。すると、公卿以下、融の恩徳と威勢を畏れて、敢えて異を唱える者は居なかった。ただ、戸部侍郎楊易(「王/易」)ひとり、抗議した。
「客戸を一括して免税すれば、逃げなかった人間が不利です。隠田を籍に乗せて税を徴収すれば、百姓が困弊します。得たものは、失ったものを補えません。」
 それからすぐに、易は華州刺史へ出向させられた。 

 七月壬寅、開府儀同三司宋mを西京留守とした。 

 十一月辛巳、司徒申王爲が卒した。惠荘太子と諡する。 

 十三年二月庚申、御史中丞宇文融が、戸部侍郎を兼任した。客戸を得て税銭を均等に徴集したのは、常平倉の基盤であると、制が降りた。
 また、進農使司と州県へ勧農社の制作を委任した。これは、貧富が助け合って時期に従い農作業をさせる為のものである。 

 同月、上自ら、諸司長官のうち声望のある者、大理卿源光裕、尚書左丞楊承令、兵部侍郎寇等十一人を選び、刺史とした。諸王及び諸司長官、台郎、御史と洛濱にて盛大な餞別式を行う。御膳(天子の日常の常膳)を賜り、太常具楽を演奏し、内坊歌妓が顔を出す。上自ら十韻詩を書き、賜下した。
 光裕は、乾曜の従孫である。
 ところで、楊承令は地方官を望んでいなかったので、任官の後、怏々としており、自ら言った。
「吾が地方官になったのは、きっと誰かの作為があるのだ。」
 上はこれを聞いて怒った。
 三月壬寅、承令を睦州別駕へ降格する。 

 三月甲午、太子嗣謙を鴻と改名する。炎(「炎/里」)王嗣眞を慶王とし、潭と改名する。陜王嗣昇を忠王とし浚と改名する。曾(「曾/里」)王嗣眞をレイ王とし、洽と改名する。鄂王嗣初を涓と改名する。 王嗣玄を栄王とし、晃(「水/晃」)と改名する。また、子の居(「王/居」)を光王に、維(「水/維」)を儀王に、雲(「水/雲」)を穎王に、澤を永王に、清を壽王に、を延王へ、朮(「水/朮」)を盛王へ、溢を済王に立てる。 

 丙申、御史大夫程行湛が上奏した。
「周朝の酷吏では、来俊臣等二十三人の情状は最も重いので、子孫は皆禁固にしてください。傅遊藝等四人はやや軽いので、子孫は近習にしないでください。」
 これに従う。 

 九月丙戌、上が宰臣へ言った。
「春秋は祥瑞を書かない。ただ、『有年』と記すだけだ。」
 そして、今後州県は祥瑞を上奏しないよう、敕した。 

 王毛仲は上に寵用されていたので、百官の多くが彼に媚びた。毛仲の娘が結婚する時、上は何が欲しいか尋ねると、毛仲は首を振って答えた。
「臣に不足する物はありませんが、ただ、婚礼の賓客がおりません。」
「張説、源輝曜の輩をどうして呼ばないのか?」
「いえ、彼等は来てくれます。」
「汝が呼べない者は一人だけ。宋mに違いあるまい。」
「そうです。」
 上は笑って言った。
「朕は明日、汝の為に賓客を呼んでやろう。」
 翌日、上は宰相へ言った。
「朕の奴隷の毛仲の娘が結婚するのだ。卿等と大臣達は全身彼の第を訪問せよ。」
 日中になると、大勢の客は宴会も始めずにmを待った。久しくしてやって来ると、mはまず酒を執って西へ向かって拝礼し(君命へ対して拝礼したので、毛仲の為に来たのではないことを示した。)、コ(祝事用の小さい杯)を飲み干しもしないで「腹痛がする」と言って帰った。
 mの剛直は、老いて益々厳しくなった。 

 上は、吏部の選試が不公平ではないかと疑っていた。人選の時期が迫って来ると、御史中丞宇文融が、吏部を十部に分けるよう密かに奏上した。
 甲戌、禮部尚書蘇延等十人に吏部の人選を分掌させた。試判が終わると、彼等を禁中へ召集して決定する。吏部尚書も侍郎も、人選に関与できなかった。
 左庶子吾克(「克/克」)が上表した。
「陛下は讒言を受け入れて臣下を信じない。これは人の上に臨む人間が誠意を推して人を動かす道ではありません。昔、陳平や丙(「丙/里」)吉は漢の宰相でしたが、それでもなお銭穀の数量や喧嘩での死人を気に掛けませんでした。ましてや大唐の萬乗の君が、どうして下級官吏の人選など気に掛けますのか!選人書判などは所定の役人へ委ね、十部など廃止してください。」
 上は即座には従わなかったが、翌年、もとへ戻した。 

 上は河南尹崔隠甫を召し出して、抜擢しようと思った。中書令張説は、彼が無学なのを軽蔑して、擬金吾大将軍とするよう上奏した。また、前殿中監崔日知はもともと説と仲が善かったので、説は彼を御史大夫に推薦した。上は従わない。
 丙辰、日知を左羽林大将軍とした。丁巳、隠甫を御史大夫とする。
 隠甫はこれ以来、説と仲違いした。
 説は才知があったが、賄賂を好んだ。また、百官の言うことが気に入らないと、面と向かって反論し、果ては叱罵に至ることもあった。御史大夫宇文融の為人を嫌い、また、彼の権限が重いのも煩わしかったので、融の建議したことの多くに反対した。
 中書舎人張九齢が説へ言った。
「宇文融は陛下から寵用され、謀略の才覚もある。備えなければならない。」
 説は言った。
「鼠ごときに、なにができるか!」
 四月壬子、隠甫、融と御史中丞李林甫が共に上奏して説を弾劾した。
「術士を呼んで星を占わせ、私生活は奢侈で、収賄も常習です。」
 源乾曜及び刑部尚書韋抗、大理少卿明と隠甫等へ御史台と共にこれを詮議するよう敕が降りた。林甫は、叔良の曾孫、抗は安石の従父兄子である。
 丁巳、戸部侍郎理元絋を中書侍郎、同平章事とした。元絋は清廉倹約な人間なので、上はこれを宰相としたのだ。
 源乾曜等が張説を詮議すると、告発文はいずれも事実だった。
 上は、高力士へ説の様子を見に行かせた。力士は、帰ってきて、上奏した。
「説は髪ボウボウで、顔は垢だらけ。藁の上に坐り、瓦の器で食事をして、判決を待っています。」
 上は、憐れになった。そこで力士が、説は国へ対して功績があったと述べると、上は同意した。
 庚申、説はただ中書令を罷免されただけで、それ以外は従来通りだった。 

 丁卯、太子太傅岐王範が卒した。惠文太子と諡する。
 上は、彼の為に数十日食膳を減らした。百官が上表して固く請願したので、ようやく通常の食事へ戻した。 

 四月、上が、武惠妃を皇后にしたがった。すると、ある者が上言した。
「武氏は不倶戴天の仇です。どうして国母にできましょうか!人々は、『説が立后の功績を建てて再び宰相になろうと図っている』と言い合っています。それに、太子は惠妃の子息ではありませんし、惠妃自身にも子息がおありです。もしも妃が后となったら、太子が危険です。」
 上は、思い止まった。しかしながら、宮中での礼秩は皇后のようだった。 

 は遡るが、洛陽の人劉宗器が水の旧ベン口を塞ぎ、ケイ澤にて河をベンへ引き入れるよう、上奏して請うた。そこで、宗器を左衞率府冑曹に抜擢した。
 十五年正月、新しい渠が埋まって塞がり、水路が不通となった。宗器を循州安懐戍主へ降格する。
 河南、懐、鄭、ベン、滑、衞から三万人を徴発して旧渠を通すよう、将作大匠范安及へ命じる。その工事は、旬日で終わった。 

 御史大夫崔隠甫と中丞宇文融は、右丞相張説が再登用されることを懼れ、しばしば上奏して彼を譏る。各々派閥を作ったので、上はこれを憎んだ。
 二月乙巳、制を降ろし、説を退職させ、隠甫は官をやめさせて母のもとへ戻し、融は魏州刺史として出向させる。 

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