開元の治  その3
 
 四月己丑、皇子嗣一が卒した。夏王に追立し、悼と諡する。嗣一の母は武恵妃。攸止の娘である。 

 まだ上が微賤だった頃、太常卿姜皎と仲が善かった。竇懐貞等を誅殺する時に皎は功績があり、以来、彼の寵遇は群臣も及ばなくなる。いつも共に出入りして内にて同室に寝、后妃と共に宴遊して、数え切れないほどの賞を賜る。弟の晦は皎の縁故で累遷して吏部侍郎となった。
 宋mは、皎兄弟の権寵が大きすぎるのは、彼等にとっても危険であると上言し、上も又同意した。
 七月庚子、晦を宗正卿として、制を下した。
「西漢の諸将は権貴を全うすることができず、南陽の故人(後漢の功将達)は悠々自適で身を終えた。皎は田園へ帰すのが宜しい。彼の散官、勲、封は皆、従来通りである。」 

 十月、上は、宗mと蘇延へ諸皇子の制名と国邑の号を決めるよう命じた。また、別に一佳名と佳号を決めて提案するよう命じた。景等は上言した。
「七子を均等に養うのは、国風に於いて著名です。今、臣等は名号各々三十余を提案し、これを混ぜ合わせて献上いたします。陛下が公平で偏愛なさらないことを示す為です。」
 上はこれを非常に善しとした。 

 秘書監馬懐素が上奏した。
「省中の文書が散乱して欠落が出ております。学術の士二十人を厳選して、これらを整理校補させましょう。」
 これに従う。
 ここにおいて、逸書を探し回り、吏を選んで修繕写本した。国子博士尹知章、桑泉尉韋述等二十人へ校正させ、左散騎常侍チョ無量をこれの使者とし、乾元殿にて群書を編校した。
 八年正月丙辰にチョ無量が卒すると、右散騎常侍元行沖へ群書の整理配列を命じる。
 九年十一月丙辰、国子祭酒元行沖が群書四録を献上した。およそ四万八千百六十九巻である。 

 六年正月、廣州の吏民が宋mの為に遺愛碑を立てた。mは上言した。
「臣は州にいる時に、大きな業績を立てたわけではありません。今、臣が寵用されているので、彼等は諂諛しているのです。臣は、この風潮を改革したいのです。まず、臣から始めましょう。どうか敕を下して禁じてください。」
 上はこれに従った。ここに於いて、他の州でも敢えて立てようとはしなくなった。
 三月、山人の范知睿(「王/睿」)を文学者として推薦する者がおり、あわせて彼の文を献上した。宋mはそれを判じて言った。
「その『良宰論』を読むに、今の宰相を褒めちぎる阿諛追従の文章です。山人は正論を述べ立てるべきです。どうして他人に迎合して地位を得て良いでしょうか!もしも文章が格調高いなら、選挙に応じて試験を受ければよいのです。別奏での登用などなりません。」 

 正月辛酉、敕にて悪銭を禁止した。二銖四分以上の物だけ流通を許可する。人々が持っている悪銭はかき集めて溶かし、鋳造し直した。
 ここにおいて京城は大騒動となり、売買が殆ど途絶えてしまった。宋mと蘇延は、太府から銭二万緡を出して南北の市へ置き、百姓が売らずにいる物の中で官用に充てられる物は平常の価格で買い入れたり、両京の百官を前払いさせたりして、良銭を民間へ流布させるよう請願した。これに従う。
(訳者、曰く。)不景気の時に公共事業を前倒しするような物かな。)
 なお、七年二月には、太府及び府県へ粟十万石を供出させて、世間に流通している悪銭を回収させ、少府へ送って破棄させた。 

 三月乙巳、嵩山の處士盧鴻を徴発して入見させ、諫議大夫を授ける。鴻は固辞した。 

 天兵軍使張嘉貞が入朝した。軍中が分を越えて奢侈になっており、賄賂も横行していると告発する者が居たが、調べてみたら事実無根だった。上は、告発した者を罰しようとしたが、嘉貞は言った。
「今、もしも罰したら、人々の口を塞ぐことになります。天下のことを全て上達させる為にも、特にこれを赦してください。」
 その人は、遂に死罪を減じられた。上はこれによって嘉貞を忠義者と判じ、大いに用いようと欲した。 

 四月戊子。河南参軍鄭、朱陽丞郭仙舟が投箱で詩を献上した。敕に言う。
「その文理を見るに、道法を崇えており、現実的ではない。各々、自分にあった生き方を選べ。」
 そして、共に罷免して道士とした。 

 宋mが上奏した。
「括州員外司馬李邑、儀州司馬鄭勉は共に才略文詞がありますが、珍奇なことを好み改革を起こしたがります。もしも引き立てたら必ず失敗するでしょうが、捨て去ってしまうには惜しい才覚です。どうか、渝、z二州の刺史としてください。」
 また、上奏した。
「大理卿元行沖は、もともと有能と評判で、始めて登用した時から僉議を許されました。しかし、実務を執ってみると功績はありません。左散騎常侍へ戻し、李朝隠と交代させましょう。陸象先は政治には疎いのですが、寛大です。河南尹としてください。」
 これに従う。 

 七年三月乙卯、左武衞大将軍、検校内外閑厩使、苑内営田使王毛仲を太僕卿とした。
 毛仲は厳察で実行力があり、萬騎の功臣や閑厩の官吏は皆、彼を憚っており、苑内の収支はいつも黒字だった。上は有能だと認め、寵遇した。外第ではあったけれどもいつも閑厩側の内宅に居た。上は、彼の姿が見えないと、大切な物をなくしてしまったかのように悄然としていた。
 宦官の楊思助も高力士も、これを畏避していた。 

 四月壬午、開府儀同三司の祁公王仁皎が卒した。
 その子のフ馬都尉守一は竇孝甚(「言/甚」)の例に倣って高さ五丈二尺の墳を築くよう請うた。上はこれを赦す。
 宋m、蘇延は固く争った。その大意は、
「令に準拠すれば、一品の墳は高さ一丈九尺で、その陪陵は三丈高いだけです。竇太尉の墳は、高すぎるとの誹りが多かったのですが、その過失を極言する者が居なかったのです。どうして今日同じ過ちを繰り返して良いものでしょうか!昔、太宗が娘を嫁がせた時、資送は長公主以上でした。魏徴が諫めますと太宗はこれに従い、文徳皇后も称賛しました。韋庶人がその父の墳を崇えて豊(「豊/里」)陵と名付け、自らその禍を速めたようなことを、どうして真似て良いものでしょうか!后父の尊を以て墳墓を高くしようと欲したら、何も難しいことではありません。しかし、臣等が再三進言するのは、中宮の美を完備させたいからです。いわんや今日の言動は無窮に伝えられ、長く手本となるのです。慎まなければなりません!」
 上は悦んで言った。
「朕は、いつも我が身を正して家臣へ接しようと思っていた。ましてや妻子の事で、なんで私心に流されようか!しかし、これはなかなか言いにくいことだ。卿は典礼を固く守り通せる。それは朕の美徳を成就させ、将来の手本を作れるのだ。まこと、朕の望むものである。」
 mと延へ帛四百匹を賜下した。 

 五月、己丑朔、日食が起こった。
 上は質素な服で終わるのを待ち、音楽を撤廃し食膳を減らした。中書と門下へは、牢獄の囚人を洗い直し、飢えた者や貧乏な者を救済し、農功を勧めるよう命じる。
 辛卯、宋m等が上奏した。
「陛下が、人の見えない所まで憐れみ勧めますのは、まことに人民の幸せでございます。しかし、『日食には徳を修め、月食には罪を修める』と、臣は聞きます。君子に親しみ小人を遠ざけ女人の請願を絶ち讒言を除くことが、いわゆる『徳を修める』とゆうことです。君子は実践より口が勝つことを恥じます。いやしくも至誠を推して行えば、必ずしも制書を下す必要はありません。」 

 九月甲寅、宋王憲を寧王へ移した。
 上はかつて複道(二階造りの廊下。上の階は、皇帝の専用道)を歩いていると、食事している衛兵が見えた。その兵は、食べ終わると、余った食べ残しを穴へ棄てた。上は怒って、杖で殴り殺そうとしたが、左右の者は敢えて何も言わなかった。だが、憲は落ち着いた顔で諫めた。
「陛下が複道で人の過失を窺って殺すのでは、人々が不安に怯えるのではないかと恐れます。それに、陛下が食糧を棄てた者を憎むのは、食糧が人を養うからではありませんか。今、食べ残しの食料のことで人を殺すのでは、その大本を失ってしまいますぞ!」
 上は大いに悟り、驚いて立ち上がり、言った。
「微兄、もう少しで刑罰を濫発するところでした。」
 即座に衛兵を赦した。
 この日、上は宴会で楽しみを極め、自ら紅玉帯を解き、乗馬とともに憲へ賜下した。 

 岐山令の王仁深(本当は、王偏)は、上が即位する前から藩邸で仕えていた。そこで上は、十一月壬申、墨敕で五品官を与えた。すると、宋mが上奏した。
「古い縁故や私恩での抜擢については大礼があります。官位を与えるのが公の道ではないとは言いません。ですが仁深は縁故によって既に抜擢されています。今、再びこのような高い官位を与えるのは、諸人に類がありません。また、彼は皇后の一族です。人々は何と言うでしょうか。どうか吏部へ下してよく査察させ、間違いのないように相応の地位に留め、能力より少し上くらいに留めて置いてください。」
 これに従った。
 選人の宋元超が吏部にて、良い官位を得ようと、自ら「侍中mの叔父である。」と言った。mはこれを聞くと吏部へ手紙を書いて言った。
「元超は、mの大叔父の子息だ。普段は洛城に住んでいて滅多に会わない。一族の目上の者だとゆう事を敢えて隠すつもりはないが、私事で公を害するつもりもない。もしも彼が何も言わなければ、大例通りに処理できたが、既に自ら言い立てたのだから、これは正さなければならない。どうか採用しないでくれ。」
 寧王憲が「選人の薛嗣先から、微官で良いから授けてくれと頼まれた。」と上奏した。このことを中書と門下へ詮議させると、mが上奏した。
「嗣先は齋郎に二回選ばれました。登用されるのが当然とまでは言いませんが、王と親しい間柄でしたら微官くらいは授けても宜しいのです。ですが、考えてください。景龍年間には墨敕での処分が横行しており、これは『斜封』と呼ばれていました。名君が即位してからは、このような事はなくなり、一賞を行うにも一官を命じるにも、全て功績や才覚に基づいて中書や門下を経由するようになったのです。至公の道は、ただ聖君だけが行えるのです。嗣先は姻戚にあるのを良いことに、法に屈して臣等の協議に委ねようとせず、吏部へ働きかけました。正しくはありません。」
 これに従う。
 従来、朝集使は往々にして京師へ金を持ち込み、春になって任地へ帰る直前に、大概官職が変わっていた。宋mは、この弊害を改めるため、強制的にもとの任地へ戻すよう上奏した。
 宋mは、罪を犯したくせに妄りに訴えてやまない者を憎み、彼等を全て御史台へ送って詮議させた。彼は、中丞李謹度へ言った。
「判決に服して、それ以上異議を申し立てない者は釈放しろ。異議を申し立てて止まない者は獄中へぶち込んだままにしておけ。」
 これによって、大勢の人間から怨まれた。
 旱魃が起こった時、芸人が日照りの神を作って上の前で寸劇をやった。
 彼が、日照り神へ問う。
「どうして出てきたのだ?」
「相公の処分を命じられたのだ。」
「どうして?」
「冤罪を負った者は三百余人、相公は彼等を悉く牢獄へ繋いで抑え込んだ。これでは日照り神が出てこずにはいられないではないか。」
 上は、心底同意した。
 その頃、mと蘇廷が悪銭の厳禁を建議した。江、淮地方では悪銭がもっとも氾濫していたので、mは監察御史蕭隠之へ悪銭の一掃を命じた。隠之は早急に厳しく行ったので、怨嗟の声が路に満ちた。上は、これによって隠之を降格した。
 辛巳、mを罷免して開府儀同三司とし、廷を禮部尚書とした。源乾曜を黄門侍郎、并州長史張嘉貞を中書侍郎として、ともに同平章事とした。ここにおいて、悪銭の禁令が緩和され、悪銭は再び流布した。 

 二月戊戌。皇子敏が卒した。追立して懐王とし、哀と諡する。 

 五月丁卯、源乾曜を侍中、張嘉貞を中書令とする。
 乾曜は上言した。
「権豪の一族の多くは京官に任命され、俊乂の士を地方へ追いやっています。臣の三子は皆京に居ますが、うちの二人を地方へ出してください。」
 上はこれに従う。また、制を下して乾曜の公を賞し、これへ倣うよう文武官へ命じる。ここに於いて、百余人が地方へ出た。
 張嘉貞は吏事に強敏で、剛直な性格だった。中書舎人苗延嗣、呂太一、考功員外郎員嘉静、殿中侍御史崔訓は、皆、嘉貞から引き立てられ、いつも共に政事を議していた。人々は、言った。
「令公の四俊は、苗、呂、崔、員だ。」 

 十月、上は、諸王へ対し、群臣との交遊を禁止した。
 光禄少卿フ馬都尉の裴虚己は岐王範と遊宴し、私的に讖緯を語った。戊子、虚己を新州へ流し、公主とは離婚させる。萬年尉劉庭gと太祝張は、しばしば範と酒を飲んで詩を賦していた。庭gは雅州司馬へ降格。は山荘丞となった。しかし、範へはお咎めはなく、左右へ言った。
「我が兄弟は、仲違いなどしない。だが、諂い人があれこれ吹き込むのだ。吾は、こんな事で兄弟を責めないぞ。」
 上がかつて重病になった。薛王業の妃の弟の内直郎韋賓と殿中監皇甫旬(「心/旬」)は私的に吉凶を語り合った。これが発覚して、賓は杖で打たれて死に、旬は錦州刺史へ降格となった。業と妃は、恐惶して罪が降るのを待った。すると上は、業の手を執って言った。
「吾にもしも兄弟を猜疑する心が有れば、天地は我を殺すが良い。」
 そして、共に宴飲し、妃を慰めて元の位へ復した。 

 天下の戸口に、逃げ出している者や戸籍などの巧みな虚偽が非常に多いので、実情を調べ直すよう、監察御史宇文融が上言した。
 源乾曜はもともと彼の才覚を愛していたので、これに賛同した。
 九年二月乙酉、逃亡した民の招集と、戸籍の虚偽への対処法について議論して上聞するよう司へ敕が降りた。
 丁亥、制が降りた。
「州県の逃亡した戸は、百日以内に自首したならば、今の在所でも本来の戸籍でも、望むところへ戸籍を作ろう。だが、期間を過ぎて自首しなければ、詮議して辺州へ移すぞ。公でも私でも、彼等を庇う者は罪に当てる。」
 宇文融へ逃亡者や戸籍外の田を担当させたところ、多くの民や田を登録できた。この功績で兵部員外郎兼侍御史となる。
 融は、進農判官十人を設置し、殺摂御史と並んで天下へ分行し、新しく登録された民は六年間賦調を免除するよう上奏した。
 だが、使者達は競い合って苛酷に税を取り立て、州県もその風潮に追従したので、民はこれに苦しんだ。陽テキ尉の皇甫景(「心/景」)は、その有様を上疏した。すると上は、融を陽テキ尉とし、景は盈川尉へ降格とした。州県は上の御心に叶うよう、税の収奪に務め、その数量を誇張し、あるいは旧来の民を新規の民と為し、およそ八十万戸を得た。田もまた、帳簿上は膨大に増えた。 

 蒲州刺史陸象先の政事は寛大簡易で、吏民に罪を犯す者が居ても大概はよく説諭して放免してやった。州録事が象先へ言った。
「殿は打刑を使いません。どうやって威厳を示すのですか!」
 象先は言った。
「人情は変わらない。彼等にも我の言葉が判るぞ!どうしても打刑で威厳を示しそうと言うのなら、手始めにお前からやってみるか!」
 録事は恥じ入って退出した。
 象先は、かつて人へ言った。
「天下は、元々太平なのだ。ただ、庸人がこれをかき回しているだけだ。その源を清くすれば、なんで治まらないことを憂えようか!」 

 九月丁未、梁文献公姚祟が卒した。遺言で命じる。
「仏は、清浄慈悲を本分とする。それなのに愚か者は写経や仏像を造ることで、福をこいねがう。昔、周と斉が天下を争った時、周は仏像を殺して武器を整備した。斉は塔廟を崇め刑罰や政治は弛緩した。そして一朝合戦の時、斉は滅亡して周は勃興したのだ。最近では諸武、諸韋は数え切れぬほどの寺を造り出家させた。それでも、一族誅滅を救えなかったではないか。児女が殺されてもまだ悟らず冥福を祈っているような真似を、お前達は絶対にするな!道士は僧侶が利益を得ているのを見てそのやり方を見習っているが、お前達はこれを我が家へ持ち込んではいけない。これを、永く我が家法とせよ!」 

 十二月、蒲津橋を作り直す。鉄を溶かして牛を造り、これを繋ぎ合わせる。この時、八頭の牛を鋳造した。牛の下には山があり、全て鉄でできていた。 

 同月、安州別駕劉子玄が卒した。子玄とは、知幾のことである。上の名を避けて、字で呼ばれた。
 著作郎呉兢が則天実録の選者となった。彼は、宋mが張説を叱咤して魏元忠の無実を証言させたことを、そのまま記載した。説は編纂された史書を見て、兢のやったことだと判ったが、わざと言った。
「劉五から恨まれる覚えはないぞ!」
 すると、兢は立ち上がって言った。
「これは兢がやったことだ。草稿もここに在る。殿を恨んで殺してはならぬぞ!」
 同僚は皆、顔色を失った。
 その後、説は兢が訂正してくれることを密かに祈ったが、兢は遂に許さず、言った。
「もしも公の請願に応じたら、歴史の筆を曲げることになる。どうやって後世の信頼を勝ち取るのか!」 

 同月、麟徳暦が古くなって、日食が屡々誤ってきた、と、太史が上言した。上は、僧一行に新しい暦を造るよう命じた。府兵曹梁令サンへ黄道遊儀を造らせて、候七政を測量させる。
 十六年八月乙巳、特進張説が開元大衍暦を上納した。これを施行する。 

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