開元の治  その2
 
 宋王成器、申王成義は上の兄である。岐王範、薛王業は上の弟である。タク王守礼は上の従兄である。上はもともと友愛な性分だが、近世の帝王は、兄弟親戚を傷つけてばかりいた。そこで上は即位した当初、長い枕と大きな布団を作り、兄弟と共に寝た。諸王は毎朝側門にて挨拶した。朝廷を退けば一緒に宴会を開き、闘鶏、蹴鞠をし、或いは近郊で狩猟をし、別荘で遊ぶなど、ご機嫌うかがいの為の皇帝の使者が道路に溢れ返る有様だった。
 上は、朝廷の政務が終わると、諸王と共に遊ぶことが多かった。禁中でも、拝跪などは家人の礼儀に従っていた。飲食も起居も彼等と共にする。殿中に五幄を設け、諸王と共にその中で過ごす。或いは論を講じ詩を賦し、合間には酒を飲み、博打を打ち、狩猟をする。或いは、自ら楽器を執ることもあった。成器は笛が巧く、範は琵琶が巧い。上と合奏することもあった。
 諸王が病気になったりすると、上は終日食事も執らず、一晩寝ない。かつて業が病気になった時、上は朝廷に出たが、僅かの間に使者を十人も出した。上が自ら薬を煮たら、突風で炎が顔に吹きかかり、誤って髭を焼いてしまった。近習達が驚いて救うと、上は言った。
「王へこの薬を飲ませれば、快癒する。髭がどうして惜しかろうか?」
 成器等が興慶坊の宅を献上して離宮としたいと請うたので、六月甲寅、制が降りて、これを許す。最初に興慶宮を作り、その宮を取り巻くように邸宅を作って成器等へ賜った。又、宮の西南に楼を作った。その西側には、「花蕚相輝之楼」と書き、南には、「勤政務本之楼」と書く。上が楼へ登って王の演奏を聴けば、楼の上へ召して共に酒を楽しみ、或いはその邸宅まで出かけて行き歓を尽くし充分な恩賞を与えた。
 成器は尤も恭慎で、人と交わるときに一度も政事の話をしたことはなかった。上はますますこれを信じ重んじたので、どんな讒言も彼等の間に入り込むことができなかった。
 ただ、彼等との交遊は、専ら音楽や狩猟などの遊び事に限られており、職務を任せることはなかった。
 群臣は成器等の地位が帝位に近すぎるので、故事を楯にとって地方へ出すよう請うた。
 六月丁巳、宋王成器へ岐州刺史を兼務させ、申王成義へタク州刺史を兼務させ、タク王守礼へカク州刺史を兼務させた。ただ、彼等へは大きな儀礼を執らせるだけで、それ以外の実務については皆、上佐(長史や司馬など)へ委ねさせる。この後、諸王で都護、都督、刺史となる者は、皆、これに準じさせた。
 七月乙卯、岐王範へ絳州刺史を、薛王業へ同州刺史を兼務させる。また、宋王以下へ敕を下し、季節毎に二人が入朝し、入朝が一巡りしたらまた最初の者が入朝するよう命じた。
 四年正月丁亥、宋王成器を憲と、申王成義を為(「手/為」)と変名した。 

 果州刺史鐘紹京は心中怨みが堪り、屡々事実無根の中傷を上疏した。二年年六月乙巳、秦(「水/秦」)州刺史へ降格となる。 

 六月丁未、房州刺史襄王重茂が卒した。朝廷を三日取りやめる。殤皇帝と諡する。
 十一月辛卯、殤皇帝を葬る。 

 上が、女性を選んで後宮を満たそうとしているとの噂が民間に流れた。上はこれを聞いたので、八月乙丑、祟明門へ車牛を揃え、後宮のうち無用の者を選び、その車へ乗せて実家へ返すよう、役人へ命じた。敕して、言う。
「燕寝の内でも、なお女性を減らしたのだ。皆も実情が判るであろう。」 

 乙酉、太子賓客薛謙光が、武后の作った豫州鼎銘を献上した。その末には、次のように書いてあった。
「上玄降鑒、方建隆基」
 これを、上が天命を受けた符丁だとなした。
 姚崇は表賀し、史官へ宣示して中外へ頒告するよう請うた。
 ちなみに、この年の二月庚未朔、日食が起こるはずなのに起こらなかったと、太史が奏した。この時姚崇は、これを祝賀して青史に遺すよう請い、玄宗はそれに従った。 

 司馬光、曰く。日食が起こらなかったのは、太史の過失である。それなのに、君臣で相賀した。これは天を誣たのだ。偶然の文を取って符命としたのは、小臣の諂いである。それなのに、宰相がこれに乗じて真実とするのは、これは主君を侮るのである。上は天を誣い、下はその君を侮る。明皇の明と姚崇の賢を以てなお、これを免れなかった。なんと惜しいではないか! 

 乙丑、皇子嗣眞を曾(「曾/里」)に、嗣初を鄂王に、嗣主をジャン王に立てる。
 辛巳、郢王嗣謙を皇太子に立てる。
 嗣眞は上の長男で、母は劉華妃。嗣謙は次男である。その母は趙麗妃。麗妃はもともと倡だったが、上から寵愛されていた。だから、嗣謙が皇太子に立てられたのだ。 

 三年正月癸卯。盧懐慎を検校吏部尚書兼黄門監とする。懐慎は清謹倹素で私利を営まず、卿相とゆう貴い身分になりながらも俸禄は親戚や旧知の者へ分け与えたので、妻子は飢寒を免れなかったし、住居は雨風が漏れていた。
 かつて、姚崇が子息を喪い十日余り休暇を貰った。すると政事問題が山積みとなったが、懐慎は決裁できなかった。懐慎は恐惶して上へ謝罪した。上は言った。
「朕は、天下のことを姚崇へ委ねている。卿はただ坐って雅俗を鎮めればよい。」
 祟が出仕すると、アッとゆう間に決裁が終わった。彼は得意顔で紫微舎人斉澣を顧みて言った。
「余は宰相としては、誰に比肩できるかな?」
 澣が答えないでいると、祟は言った。
「管、晏はどうかな?」
「彼等の作った法は、彼等が死んだ後は顧みられなくなりましたが、それでも二人とも一生やり遂げました。公の法は、ただ一時しのぎに繕っているだけです。似ていても及びません。」
「それなら、余はどの程度の人間かな?」
「公は、”救時の相”と言う程度です。」
 祟は喜び、筆を投げて言った。
「救時の相が、どうして簡単になれるだろうか!」
 懐慎は、祟と同時に宰相となったが、自ら才覚で及ばないと知り、事毎に祟を推した。時の人々は、懐慎のことを「相食宰相」と呼んだ。 

司馬光曰く。
 昔、鮑叔は管仲へ対して、子皮は子産へ対して、共に位は上だったけれども彼等が賢人だと知り、謙って彼等へ国政を授けた。孔子はこれを美とした。曹参は自ら蕭何に及ばないと言い、その法を遵守するばかりで一つも変更しなかった。漢の功業は、これで完成した。
 だいたい、不肖な者が政務を執った場合、その同僚が我が身や俸禄を愛してこれに従い、国家の安危を顧みないとしたら、これは誠に罪人である。賢人知恵者が政務を執り、その同僚が愚考でその政治を乱したり、固執して政権を分担したり、嫉妬してその功業を潰したり、腹黒くもその名声を盗むような真似をしたら、これもまた罪人である。
 祟は、唐の賢相である。懐慎は彼と心を一つにして力を尽くし、明皇の太平の政事を助けた。これに何の罪が有ろうか!
 書経の秦誓に言う、「ここに一人の臣下がいたとしよう。一本気で他に取り柄はないが、寛容な性格で人を受け入れる器量がある。他人に長所があると、まるで自分にそれがあるかのように喜び、他人が立派だと、心からこれを喜ぶ。それも、ただ口先で褒めるだけではなく、よく彼等を受け入れて、それによって我が子孫・人民を安んじる。そんな人間は高い地位につけよう。」
 これは懐慎のような人間のことである。 

 朝堂で罪人を杖で打つ時、その打ち方が軽かったので、長官である御史大夫宋mは有罪となり、睦州刺史へ飛ばされた。 

 九月戊寅、懐素を左散騎常侍として、右散騎常侍のチョ無量と日替わりで侍らせることになった。閣門へ到着する度に、肩輿に乗って進ませる。あるいは、上が別館にいて距離が遠い時は、宮中で馬に乗ることを許す。上自ら送迎し、師傅への礼で接する。無量は年老いていたので、特に彼の為に腰輿を造り、内殿にては内侍にこれを担がせた。 

 京兆尹崔日知は貪欲横暴で法を踏みにじっていた。御史大夫李傑がこれを糾弾しようとすると、日知は先手を打って傑を告発した。
 十二月、侍御史楊場(ほんとうは、王偏)が朝廷にて奏した。
「もしも糾弾の役人を姦人が恐喝できるなら、御史台など有名無実になります。」
 上は傑を従来通り遇し、日知を歙県丞へ降格するよう、即座に命じた。 

 尚書左丞韋分(「王/分」)が上奏した。
「郎官の中には、職務のない者が大勢居ます。どうか彼等を裁断して、別の職を授けてください。」
 やがて、分は刺史として下向することになった。宰相は冀州を考えていたが、敕によって、小州へ改められた。すると、姚崇が上奏した。
「分は、台郎のうち職務に叶わない者を裁断せよと請いました。これは公へのご奉仕です。ですが、台郎の官が改められると、分はすぐに地方官へ飛ばされました。これでは、皆は郎官の誹謗中傷によるものだと言い合うでしょう。今後、左右丞がこの件を戒めとすることを、臣は恐れます。そうなれば、省事がどうして遂行できましょうか!どうか聖慈にてこれを詳察し、官僚達が疑惑を持って懼れることのないようにされてください。」
 それで、冀州刺史となった。 

 皇后の妹の夫の尚衣奉御長孫マは、些細なことで御史大夫李傑と仲違いをした。四年正月。マとその妹婿楊仙玉が町中で傑をつけねらって殴りつけた。傑は上表して自ら訴えた。
「髪や皮膚が傷ついたのは、我が一身の痛みに過ぎませんが、冠や礼帽が壊されたのは、国の辱でございます。」
 上は激怒して、マ等を朝堂にて殴り殺すよう命じ、百僚へ謝った。そして、敕書で傑を慰める。
「マ等は朕の親戚だが、訓導することができず、衣冠を凌犯させた。極刑に処したくらいではまだ謝罪に足りないが、卿も剛腹を抑えて、凶人のことを忘れてくれ。」 

 上はかつて、鵁青(「青/鳥」)やケイチョク等の鳥を苑中へ置きたくて、宦官を江南へ派遣してかき集めさせた。この使者が通過する途中、その饗応に多くの費用がかかった。彼等がベン州を行き過ぎた時、若水が上言した。
「今、農桑に勤しまなければいけない季節ですのに、園池で弄ぶ鳥を捕らえて江・嶺から輸送する為に多くの労力を掛けています。これを道端で観るものは、陛下が人よりも鳥を貴んでいるとしか思えませんぞ!陛下は、鳳凰を凡鳥とし、麒麟を凡獣としなければなりません。ましてや鵁青ケイチョクなど、何で貴ぶに足りましょうか!」
 上は自ら敕を書いて若水へ謝り帛四十段を賜下して、鳥達を解き放した。 

 ある者が上言した。
「今年の人選は濫発しすぎで、つまらない人間が県令となっています。」
 雇用された人間が入朝して謝礼した時、上は県令達を宣政殿庭へ悉く呼び集め、政策の試験を行った。結果、ただ一人、エン城令の韋済の答案を第一として、醴泉令へ抜擢した。それ以外の二百余人は第へ入ることを許されず、四十五人は学問へ追い返された。吏部尚書盧従愿は豫州刺史へ、李朝隠は滑州刺史へ左遷された。
 従愿は人事職に六年携わり、朝隠と共に優秀だとの評判だった。以前、高宗時代の馬載、裴行倹が吏部としては著名だったが、この頃の人々は、「吏部では、昔は馬・裴がいたが、今は盧・李がいる。」と称賛していたくらいだった。なお、済は嗣立の子息である。 

 ある胡人が、「南海には真珠や翡翠などの奇宝が多い。貿易すれば儲かる。また、師子国へ行けば霊薬や名医の媼がいるので、宮殿へ持ってくればよい」と上言した。上は監察御史楊範臣へ、胡人と共に南海へ行って求めてくるよう命じた。範臣はくつろいだ時に上奏した。
「陛下は前年、珠玉や綾錦を焼き捨てて、二度と使わないことを示されました。今回求めるものは、前回焼き捨てたものとどこが違うのですか!それに、船を造って商人達と利益を争うのは、王者のすることではありません。胡薬の多くは中国人には効き目が違ってきます。ましてや胡媼を宮廷へ置けましょうか!それ、御史は天子の耳目の官です。軍国の大事ならば、臣は火炎地獄や疫病の土地でも死を懼れずに参ります。ですが今回は、胡人が上を眩惑して媚を求めているだけで聖徳にはなんの役にも立ちませんので、陛下の本意と違っているかと愚考します。どうか、もう一度熟慮してください。」
 上は自分の非を認め、慰諭して中止した。 

 六月癸亥、上皇が百福殿にて崩御した。己巳、上の娘の萬安公主を女官として、追福した。
 十月庚午、大聖皇帝を橋陵へ葬った。廟号は睿宗。
 御史大夫李傑が橋陵の工事を検分した。判官王旭が収賄していたので、傑はこれを詮議したが、却って反論された結果、傑は州刺史へ左遷させられた。 

 十一月己卯、黄門監盧懐慎の病気が重くなった。彼は、上表して、宋m、李傑、李朝隠、盧従愿を推薦した。彼等は皆、大臣の器であり、些細な罪をあげつらって彼等を左遷したのは大きな損失なので、もう一度登用するよう請願した。上は、これを深く納れる。
 乙未、卒する。その時、家には余分な蓄えは何もなかった。ただ、一人の年老いた奴隷が、自分の費用で葬式をあげさせて欲しいと請願した。 

 丙申、尚書左丞源乾曜を黄門侍郎、同平章事とした。
 姚崇は第に住まず、罔極寺に居候し、瘧を病んでいると告げて来た。上は一日に数十人も使者を派遣して、飲食や病状を尋ねた。
 この間、源乾曜の上奏が御意に適うと、上は言った。
「これは姚崇のアイディアだな。」
 逆に、御意に適わないと、言った。
「どうして姚崇と協議しないのだ!」
 乾曜は実直気に拝謝するのが常だった。
 大事件が起こる度に、上は乾曜を寺へ派遣して、祟へ意見を問うた。
 癸卯、乾曜は、祟を四方館へ移し、家族が看病のために同居することを許すよう、請うた。上はこれを許す。だが祟は、四方館は機密書類がある重要な建物で、病人などを住ませる場所ではない、と固辞した。すると、上は言った。
「四方館は、官吏の為に設けたのだ。卿に住まわせる事こそ、社稷の為だ。卿を禁中へ住まわせられないことが恨めしいのに、たかがこの程度が辞退する程の事か!」
 祟の子息の光禄卿彝、宗正少卿巳(「巳/廾」)は人付き合いが良く、賄賂などすぐに受け取ったので、人々から譏られていた。  
 主書の趙晦は祟から親しくされていたが、胡人から賄賂を受け取ったことが発覚した。上が自ら尋問して、牢獄へ下した。死刑に相当したが、祟が彼を救い出した。上は、この事件で不機嫌になった。京城にて偽って特赦を下すとゆう事件が起こった時、敕がくだって晦を名指しで非難して杖打ち百の上嶺南へ流した。
 祟は、この事件で憂懼し、しばしば宰相の辞任を請い、廣州都督宋mを後任に推薦した。
 十二月、上は東都へ御幸するにあたり、mを刑部尚書・西京留守にしようと、闕へ呼び寄せ、その為に内侍・将軍楊思助(「日/助」)を迎えに出した。mは風采が堂々としており、近づきがたい人間で、途中、遂に思助と一言も私的な言葉を交わさなかった。思助はもともと身分が高く上からも親しまれていたので、帰京すると上へ訴えた。上は暫く嗟嘆し、ますますmを重んじた。
 閏月己亥、姚崇が辞任して開府儀同三司となり、源乾曜が辞任して京兆尹・西京留守となった。刑部尚書宋mを守吏部尚書兼黄門監、紫微侍郎蘇延(「延/頁」)を同平章事とした。
 mは宰相となると、人選を第一とした。各々の能力に見合った任務を授けたので、百官は皆、職務を褒められた。刑罰褒賞には私心が無く、上への直諫も敢えて避けなかった。上は彼を敬憚したので、御意に適わないことがあっても無理に従った。
 突厥の黙啜は則天武后の頃から中国の患いとなり、朝廷が朝廷が終日努力して天下の力を傾けても、勝てなかった。赤霊全はその首を得たので、自ら不世の功績と吹聴していた。mは、天子が武功を好んでいるので、更にその心を助長されることを恐れ、霊全への褒賞を痛抑し、年を越してから、始めて郎将を授けた。霊全は慟哭して死んだ。(胡三省、曰く。赤霊全は他人から功績を貰っただけだ。授かったのが郎将でも抑えられたとは言えない。)
 mと蘇延とは厚く通じ合っており、延は事毎にmへ譲り、mは事を論じる度に延を助けた。mは、かつて人へ言った。
「吾は蘇氏の父とも子とも相府に同居した。僕射は寛大温厚で、まさしく国器だ。だが、可否の判断や吏事を精緻にこなす点では、黄門が父親に勝っている。」
 姚・宋は相継いで宰相となった。祟は臨機応変で巧くやり、mは法を守って正を持した。二人の心様は同じではなかったが、心を合わせて補佐し、賦役は軽く公平に課し、刑罰で役人を戒めたので、百姓は豊かになった。唐代の賢相としては、前には房・杜が、後には姚・宋が称賛され、他は比べ物にならなかった。
 二人が謁見すると、上は彼等の為に立ち上がり、彼等が去る時には軒まで送った。後に李林甫が宰相となると、彼等以上に寵任されたが、礼遇は却って卑薄になった。
 紫微舎人高仲舒は典籍に博通しており、斉澣は時務に練習していた。姚・宋は疑問点を二人へ質問し、返事を聞くと決まって嘆息した。
「昔のことを知りたければ高君へ問い、今のことを知りたければ斉君へ問えば、政事のことは何でも判るな。」 

 五年、正月癸卯。太廟の四室が壊れた。上は素服で正殿へ避難する。
 この時、上はまさに東都へ御幸しようとしていたので、宋m・蘇延へ尋ねた。すると、二人は言った。
「陛下の三年の喪はまだ終わっていませんのに、はやばやと御幸なさいます。これに天が怒って、災異を下して戒めたのです。どうか中止してください。」
 上は、今度は姚崇へ尋ねた。すると、彼は言った。
「太廟の屋材は、皆、苻堅の頃の物です。古びて朽腐したから壊れたのが、たまたま御幸の時期に当たっていただけです。何の不思議もありません。それに、王者は四海を以て家とします。陛下は関中が不作で食糧が不足したことを念頭に置いて東都へ御幸なさるのです。百官も既に随従の準備を終えています。信をなくしてはいけません。ただ神主をすぐに太極殿へ移し、太廟を補修すれば十分です。当初の予定通り実行しましょう。」
 上は大いに喜んでこれに従った。祟へ絹二百匹を賜う。
 己酉、上は太極殿で享礼を行った。姚崇へ五日に一度朝廷へ出て内殿の朝参では供奉班の中へ立つよう命じ、恩礼はいよいよ厚くなり、大政へも再び参与させるようになった。
 右散騎常侍チョ無量が上言した。
「隋の文帝は天下を全て手に入れました。遷都の時に何で苻氏の古びた材料を持ってきて太廟を立てたりしたでしょうか!これは諛臣の言葉です。どうか陛下、天の戒めを謹み、忠諫を納れ、諂諛を遠ざけてください。」
 上は聞かなかった。
 辛亥、東都へ御幸する。肴(「山/肴」)谷を過ぎると道が狭く、補修されていなかった。上は河南尹と知頓使官を罷免しようと欲したが、宋mが諫めた。
「陛下は巡回を始められたばかりなのに、今、この二臣を罰せられます。これでは、将来民は巡回の度に道の修復などの労役でこき使われる等の弊害を受けることになるのではないかと恐れるのです。」
 上は、即座に彼等を釈放するよう命じた。すると、mは言った。
「陛下は罰せさらましたのに、臣の言葉で放免されるのならば、これは臣が陛下の代わりに感謝されることになります。どうか朝堂にて罪を待たせてから、その後に赦されて下さい。」
 上はこれに従った。
 二月甲戌、東都へ到着し、天下へ恩赦を下した。 

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