開元の治  その1
 
 先天元年(壬子、712年)七月、彗星が出た。これを口実に、睿宗は譲位を決意した。詳細は、「太平公主の乱」へ記載する。
 八月庚子、玄宗が即位した。睿宗を尊んで太上皇とする。
 上皇は「朕」と自称し、命令は「誥」といい、五日に一度太極殿にて朝を受ける。皇帝は「予」と自称し、命令を「制」「敕」と言い、毎日武徳殿にて朝を受ける。三品以上の除授及び大刑政決は上皇が決め、それ以外は全て皇帝が決める。
 壬寅、大聖天后へ「聖帝天后」の尊号を奉る。
 甲辰、天下へ恩赦を下し、改元する。
 丙午、妃の王氏を皇后へ立てる。妃父の仁皎を太僕卿とする。仁皎は下圭(「圭/里」)の人である。
 戊申、皇子許昌王嗣直を炎(「炎/里」)王、真定王嗣謙を郢王に立てる。
 乙巳、莫(「莫/里」)州の北に渤海軍、恒、定州の境に恒陽軍、為(「女/為」)、慰(「草/慰」)の境に懐柔軍を設置し、五万の兵を駐屯させる。
 劉幽求を右僕射、同中書門下三品、魏知古を侍中、崔是を検校中書令とする。
 辛卯、皇子嗣昇を陜王に立てた。嗣昇の母は楊氏。士達の曾孫である。王后には子がなかったので、母として養った。 

 十月庚子。上は太廟へ謁し、天下へ恩赦を下した。
 辛酉、沙陀の金山が使者を派遣して入貢した。沙陀は處月の別種で、その姓は朱邪氏。金山は、二年の十二月にも入朝した。
 十一月、上皇が、皇帝を巡辺へ派遣すると誥を下した。西は河、隴から東は燕、薊へ及ぶ。将と練兵を選んだ。しかし、翌一月、皇帝の巡辺は日を改めることとし、募兵を各々の地方へ散遺した。約八ヶ月後に再び募兵したが、ついに実行されなかった。 

  十二月、刑部尚書李日知が老齢退職を請うた。
 日知は在任中、部下を鞭打ったことがなかった。ある時、刑部の役人が、敕を受けたのを忘れて、三日間実行しなかったことがあった。日知は怒り、杖を探すと、群吏を集めてこれを打とうとしたが、皆が集まると、言った。
「我は汝を打ちたい。しかし、それをやると天下の人々は絶対、汝が李日知でさえ怒らせたと言うだろう。そして李日知の杖を受けるなら、それは他の誰よりも劣るとゆうことだ。妻子も又、汝を棄てるかもしれない。」
 遂に、これを赦した。吏は皆感服し、敢えて彼の指示を犯す者はいなくなった。過失や手落ちが有れば、皆がこれを指摘するようになった。
(訳者、曰く)過失を上役に知られないように皆で庇いあう、とゆうのは、大きな組織にありがちなことです。減点主義の組織だと、皆が事なかれ主義になるので、ますますはびこります。そうゆう訳で、官僚達の中では、失点を庇いあって上役に知らせないのが当然の行為です。中国では特に酷かったようです。ですから、同僚のミスを隠しあわないとゆうのは、わざわざ歴史書に遺す価値があるほどのエピソーなのでしょう。李日知の人柄なればこその逸話だと、読む人は感心したのでしょうね。 

開元元年(713)二月庚子夜、門を開いて灯籠を点した。去年禅譲が行われたのに天下へふるまいをしなかったので、今回その分の大ホ(宴会)を開く。大いに伎楽を為す。上皇と上は門楼へ御幸し、臨観する。これが夜を以て昼へ継ぎ、およそ一ヶ月余りも続いた。
 左捨遣の華陰の厳挺之が上疏して諫めた。
「ホは人々の為に、共に楽しみを為そうとして行うものです。今、万人の力を損じ、百戯の資財を浪費するのは、聖徳を輝かせ風化を美しくする行いではありません。」
 そこで、やめた。
 庚申、敕を以て厳挺之の忠直を百官へ宣示し、これを厚く賞す。
 三月辛巳、皇后が自ら蚕を飼った。(多分、皇帝が耕すのと同じ、年間行事だと思います。) 

 晋陵尉楊相如が上疏して時政を論じた。その大意は、
「隋の煬帝は自らその強大を恃んで時政を憂えなかった。制や敕は交々発布されたが、その言葉と実情は食い違っていた。堯や舜のようなことを言いながら、やっていることは桀や紂。天下の大を挙げて、一挙に棄ててしまった。」
 又、言う、
「隋氏は欲望を恣にして亡び、太宗は欲望を抑えて栄えた。どうか陛下、これをよくお考えください!」
「忠正を好まず、佞邪を憎まない主君はいない。それなのに、忠正の者はいつも疎外され、佞邪はいつも親しまれている。挙げ句、国が覆り我が身が危うくなっても悟らない。何故でしょうか?まことに、忠正の者は意向に逆らうことが多く、佞邪の多くは旨に従順です。逆らうことが積もれば憎しみが生まれ、従順が積もれば愛が生まれます。これが、親疎の分かれる原因です。ですが、明主はそうではありません。その逆らうことを愛して忠賢を収め、その従順を憎んで佞邪を去ります。そうすれば、太宗のような行跡も、なんで遠いでしょうか!」
「それ、法は簡略を貴べば禁じることができ、罰は軽いことを貴べば必ず行えます。陛下は国を中興し、大いに新政を布かれるのですが、どうか従来のやり方を一切破棄して小過を見逃すようにしてください。小過を見逃せば煩雑ではなくなりますし、大罪を漏らさなければ姦慝は止まります。簡便にして犯し難く、寛大にして制御できる。素晴らしいではありませんか。」
 上はこれを御覧になって善とした。 

 これ以前、大明宮の修繕をしたが、まだ終わっていなかった。五月庚寅、農業に精勤させる為に、この労役を中止して、農閑期まで待つと敕が降りた。
 六月丙辰、兵部尚書郭元振を同中書門下三品とする。 

 七月、太平公主へ死を賜る。
 この一件では、高力士が大いに活躍し、上の信任が厚くなる。以来、宦官の勢力が強まった。
 これらの詳細は、「太平公主の乱」に記載する。 

 壬申、益州長史畢構等六人を派遣して、十道を宣撫した。 

 乙亥、左丞張説を中書令とする。
 庚辰、中書侍郎、同平章事陸象先を罷免して、益州長史、剣南按察使とする。
 八月癸巳、封州の流人劉幽求を左僕射、平章軍国大事とする。九月庚午、同中書門下三品とする。更に十一月乙丑、侍中を兼務させる。 

 中宗が崩御した時、中書門下三品李喬は、相王の諸子を地方へ出すよう密かに韋后へ上表していた。上が即位すると、禁中にてその表を得、侍臣へ示した。この時、喬は既に特進として退職していたが、ある者はこれを誅するよう請うた。すると、張説は言った。
「喬は順逆を知らなかったとは言え、当時の謀略としては忠義でした。」
 上はこれに同意した。
 九月壬戌、喬の子息の率更令陽を虔州刺史とし、喬は陽へ随従させる。 

 己亥、上が新豊へ御幸した。
 癸卯、驪山の下で武を講じる。徴発した兵卒は二十万。旌旗は五十余里連なる。軍容が雑然としていたので、兵部尚書郭元振を有罪とし、軍旗の下で斬ろうとしたが、劉幽求、張説が馬前で跪いて諫めた。
「元振は社稷に大功があります。殺してはなりません。」
 そこで新州へ流した。
 給事中、知禮儀事唐紹を斬る。軍礼が粛然としていなかった為だ。上は、初めは脅すだけで殺そうとまでは考えていなかった。だが、金吾衞将軍李貌(しんにゅうが必要)が速やかに敕を宣じてこれを斬った。上は、貌を罷免し終身廃棄とした。
 二大臣が罪を得たので、諸軍の多くは震え上がった。ただ左軍節度薛訥と朔方道大総管解宛の二軍だけは動揺しなかった。上は軽騎を遣ってこれを召したが、誰も陣の中へ入れない。上は深く嘆美し、これを慰勉した。
 甲辰、渭川で狩猟する。
 上は同州刺史姚元之を宰相にしたがったが、張説がこれを疾み、御史大夫趙彦昭へ彼を弾劾させた。上は納めない。そこで、今度は殿中監姜皎へ上言させた。
「陛下はいつも河東総管を求めながらも、なかなか適任の人材を得られませんでした。臣は今、見つけましたぞ。」
 上が誰か問うと、皎は言った。
「姚元之は文武の才があります。真にその人材であります。」
 上は言った。
「それは張説の意向だ。汝は面と向かって朕を欺くのか。その罪は死罪にあたるぞ!」
 皎は叩頭して服した。
 上は中使を派遣して、元之を行在へ呼び寄せた。元之が到着すると、上は猟の途中だったが謁見し、兵部尚書、同中書門下三品に任命した。
 元之は吏事に明敏で、三度宰相となった。全て、兵部尚書兼任である。辺境の砦や要塞、士馬や武器の貯蔵量などは全て頭へ叩き込んでいた。上は即位したばかりで、政事に精を出していた。上が元之へ尋ねる度に、元之は響きに応じるように返答し、同僚はただ頷くだけだったので、上は彼ばかりへ委任するようになった。
 元之は、権倖の専横を抑え、爵賞の授与は慎重にし、諫争は納れ、貢献物は減らし、群臣とはむやみと狎れないように請うた。上は、これを受諾する。
 乙巳、車駕が京師へ帰る。
 ある時、姚元之が上奏して郎吏の抜擢を請うた。だが、上は外を見遣るだけだった。元之は再三言ったけれども、遂に返事がない。元之は懼れて、小走りに退出した。
 朝廷から退出すると、高力士が諫めた。
「陛下は政務を執られたばかり。宰臣が決裁を仰いだ時は可否を答えなければなりません。もう少しお察しください!」
 上は言った。
「朕は、元之へ政務を任せている。大事だけ奏聞して共に討議すればよいのだ。郎吏などの卑職など、一々朕を煩わすことか!」
 やがて力士が宣事の為に省中へ行った時、元之へ上の言葉を伝えた。元之は喜んだ。これを聞いた者は、皆、上が君臣の礼を知っていると感服した。(胡三省、注。唐代、皇帝の用向きは、宦官が宰相へ宣旨していた。)
 左捨遣の曲江の張九齢は元之へ、人望があり上からも信任されているので、諂躁を遠ざけ純厚を進めるようにと、奏記して勧めた。その大意は、
「人は才覚によって抜擢するのが政事の大綱。そして、その彼等と共に協議する。それ以外のやり方はありません。しかし、今までの人事は、人を知る能力がなかったわけではないのに、適切ではありませんでした。それは情実で推挙していた為です。」
 又、言う。
「君侯や宰相は国の重鎮で、人事権を持っています。ですから浅中弱植の連中は、首を伸ばし相継いで彼等の元へやって来て、親戚へ諂って誉れを求め、賓客へ媚びて取り入ろうとします。彼等が皆才能を持たないわけではありませんが、このような人間を推挙してはなりません。彼等は恥を知らないのですから。」
 元之は、その言葉を嘉納した。
 新興王晋が誅殺された時、その僚吏は皆、逃げ散ってしまった。ただ、司功の李為(「手/為」)だけが徒歩で随従し、在官としての礼儀をなくさず、その屍の前で哭した。
 姚元之は、これを聞いて言った。
「欒布の同類だな。」(欒布は、彭越が死んだ時に哭した)
 元之が宰相になると、李為を尚書郎へ抜擢した。 

 十一月辛巳、群臣が上表して、上へ開元神武皇帝の尊号を加えるよう請うた。これに従う。
 戊子、冊を受ける。 

 中書侍郎王居は、群臣の誰よりも厚く上から親しまれていた。謁見のたびに側にいて談笑し、夜遅くなって退出する有様。あるいは、休暇の日にも往々にして中使が派遣されて召し出されたりした。
 ある者が、上へ言った。
「王居は人の裏を掻いたり、外交戦略などの能力に長けています。彼と共に戦乱を平定することはできますが、彼と共に平和を守ることは難しいです。」
 上は、これ以来王居を疎遠にし始めた。
 この月、居へ御史大夫、按行北辺諸軍の兼務を命じた。 

 十二月庚寅、天下へ恩赦を下し、改元する。
 尚書左、右僕射を左、右丞相と改称する。同様に、中書省は紫微省、門下省は黄門省、侍中は監とした。又、ヨウ州を京兆府、洛州を河南府、長史を尹、司馬を少尹とした。 

 壬寅、姚元之へ紫微令を兼任させる。元之は開元の尊号を避けて、旧名の祟へ戻した。
 姚崇が宰相になると、紫微令の張説は懼れ、ひそかに岐王のもとへ出向いてよしみを通じた。
 後日、祟が便殿にて、足を引きずるように歩いたので、上が問うた。
「足の病でもあるのか?」
 対して言った。
「臣にあるのは腹心の病です。足疾ではありません。」
 上がその理由を問うと、答えた。
「岐王は陛下の愛弟、張説は陛下の輔臣です。それなのに、説は密かに王の家へ入りました。なにか誤りを起こすのではないかと心配なのです。」
 癸丑、説は相州刺史へ左遷された。
 右僕射、同中書門下三品劉幽求もまた、やめて太子少保となった。
 甲寅、黄門侍郎盧懐慎が同紫微黄門平章事となる。 

 開元二年(714)正月己卯、盧懐慎を検校黄門監とした。 

 従来の制度では、雅俗の音楽は、全て太常の管轄下にあった。上は、音律へ精通していたので、太常の礼楽の司では素晴らしい芸術を生み出せないと考え、左右教坊を設置して俗楽を教えさせることにした。これは、右驍衞将軍范及を長官とする。又、楽工数百人を選んで、梨園にて自ら法曲を教えた。彼等を「皇帝梨園弟子」と言った。宮中にもこれを教え習わせる。又、伎女を選んで宜春院へ置き、彼女達へ家を与える。
 禮部侍郎張延珪、酸棗尉袁楚客が共に上疏して言った。
「上は働き盛りですから、経術を尊び清廉の士を近づけても、なお汲々とするべきであります。淫らな鄭の音楽を悦び狩猟を好むとゆうのは、深く戒めとするべきです。」
 上は採用できなかったけれどもこれを嘉び賞した。 

 薛王業の舅の王仙童は百姓へ対して無法だったので、御史が弾劾した。業が彼の為にとりなしたので、紫微や黄門へこれを再審させた。すると、姚崇、盧懐慎等が上奏した。
「仙童の罪状は明白です。御史の言うことに冤罪はありません。捨て置いてはいけません。」
 上は、これに従った。
 これ以来、貴親達の横暴が無くなった。 

 上は、徐有功は法律を公平に適用すると思い、乙亥、その子息の大理司直リンを恭陵令とした。
 竇孝甚(「言/甚」)の子息の光禄卿タク公希咸(「王/咸」)等は自分の官爵をリンへ譲って、過去の恩義へ報いたいと請願した。これによって、リンは累遷して申王府司馬となった。 

 丙子、申王成義が、その府録事閻楚珪を府参軍にしたいと請うた。上がこれを許すと、姚崇や盧懐慎が上言した。
「以前の旨では、『王公、フ馬から奏請されることがあっても、墨敕でなければ行ってはならない。』とありました。人材を量って官職を授けるのは、専任の役人がいます。もしも親故の情義へ対して官爵の恵みを与えるのなら、中宗時代の濫官の弊害へ行き着き、綱紀が乱れてしまいます。」
 遂に、沙汰止みとなった。これによって、請謁が行われなくなった。 

 太子少保劉幽求と太子・事鐘紹京が怨望の言葉を吐いたと、密告した者が居た。この件は紫微省に下げ渡されて尋問されたが、幽求等は服さなかった。
 姚崇、盧懐慎、薛訥が上へ言った。
「幽求等は皆、功臣です。閑職へ追いやられて少し気分を害することがあったとしても、それは人情として当然です。功業は大きく栄寵も深かった人間が、一朝にして牢獄へぶち込まれたら、地方の人々を驚かせるのではないかと心配です。」
 戊子、幽求を睦州刺史、紹京を果州刺史へ降格した。
 紫微侍郎王居は、辺軍へ行ってまだ帰らない内に、幽求の党類の罪に当たり、澤州刺史へ降格となった。
 劉幽求は、更に抗州刺史へ、次いで林(「林/里」)州刺史へ転任となった。幽求は憤り、三年十一月甲申、途上で卒した。 

 敕が降りた。
「バイ州刺史周利貞等十三人は、皆、天后の頃の酷吏である。周興等と比べて情状の軽重があるので、官職を剥奪して終身不雇用で済ませる。」 

 御史中丞姜晦は、宗楚客らが中宗の遺詔を改めた時、当時宰相だった青州刺史韋安石、太子賓客韋嗣立、刑部尚書趙彦昭、特進致仕李喬(「山/喬」)等が矯正できなかったと考え、監察御史郭震へ弾劾させた。また、彦昭へ対しては、巫女の趙氏を姑と拝し、婦人の服を着て妻と共に車に乗ってその家に詣でたと、付け加えた。
 甲辰、安石をミャン州別駕、嗣立を岳州別駕、彦昭を袁州別駕、喬を除(「水/除」)州別駕へ降格する。
 安石がミャン州へ到着すると、晦は再び上奏した。
「安石がかつて検校定陵(定陵は中宗の陵)だった時、官物を盗んで私物化しました。」
 安石は嘆いて言った。
「我へ死ねと言うのだな。」
 怒りと憤りで卒した。
 晦は皎の弟である。 

 三月、天枢(武后の延載元年参照)を焼き捨てた。匠を徴発して、その鉄銭を溶かしたが、一ヶ月以上もかかった。
 話は遡るが、韋后もまた、天街へ石台を造っていた。その高さは数丈で、頌を刻んで韋氏の功徳を称えていた。ここに至って、これも併せて壊した。 

 黄門監魏知古はもともと小役人だったが、姚崇の推薦で抜擢され、宰相として肩を並べるまでになった。だから、祟は心中彼を軽く見ており、知古を摂吏部尚書、知東都選事とするよう請い、吏部尚書宋mを門下過官へ派遣した。知古は、これを根に持った。
 祟の二人の子息は、東都の役人だったが、自分達の父親が知古へ恩義を掛けてやったことを恃み、屡々縁故採用を頼んだ。知古は帰郷すると、それを全て上聞した。
 ある日、上はくつろいだ折りに祟へ尋ねた。
「卿の子息達の才覚や人格はどんなかな?今はどんな職に就いている?」
 祟は上意を察知して、答えた。
「臣には三人の子息がいますが、今は東都へ住んでおります。愚息共の為人は貪欲で慎みがない。きっと、魏知古から何か言われたのでしょう。言われなくても判ります。」
 上は、祟は必ず子息を庇うと思っていたのに、このような返事を聞いたので、喜んで言った。
「卿はどうして知ったのだ?」
「知古が微賎の頃、臣は親鳥が卵を抱きかかえるようにはぐくみました。それを、臣の子息達は愚かにも、知古は臣へ恩義を感じているから、どのような悪徳も絶対見逃すはずだと思いこみ、不義な要請を重ねたのでしょう。」
 上は、この一件で祟は無私の人間だと思い、又、知古は薄情にも祟の恩義を踏みにじったと考え、彼を排斥したくなった。すると、祟は固く請うた。
「臣の子息達は悪辣で、陛下の法を汚しました。陛下がその罪を赦していただけるなら、それだけで幸いです。それが、この件で知古が左遷されましたら、天下の人々は陛下が臣へ贔屓したとみなし、聖政に傷が付きましょう。」
 上はこれを許した。
 辛亥、知古は罷免されて工部尚書となった。 

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