開元の治  その5
 
 上は、女性の苦労を教えようと、妃嬪以下宮中の女性に蚕を育てさせていた。
 五月丁酉、夏至なので、貴族や近習達へ糸を一人一綟賜った。 

 七月己卯、禮部尚書許文憲公蘇延が卒した。 

 十六年正月甲寅、魏州刺史宇文融を戸部侍郎兼魏州刺史として、河北道宣撫使に任命した。
 丙寅、宇文融を検校ベン州刺史として、河南北溝渠堤堰決九河使に任命した。
 融は、禹貢の九河の旧道を用いて稲田を開き、併せて陸運銭を運河の通行量に帰させて官で利益を得るよう請うた。だが、公共工事が止まずに続き、事件が多かったので実践できなかった。 

 二月壬申、尚書右丞相致仕張説へ集賢殿学士を兼任させた。
 説は政界から引退したとはいえ、文史の仕事を専門とし、朝廷で大事が起こる度に、上はいつも中使を派遣して意見を聞いていた。 

 十七年三月丙辰、国子祭酒楊易(「王/易」)が上言した。
「省司が上奏する天下の明経、進士の及第者は、毎年百人を越えません。ですが、流外の出身者は毎年二千余人もおります。明経、進士出身者は、その一割にも足りません。これは、仕官するなら道業の士より胥吏の方が良いとゆうことです。臣は、このままでは儒風が次第に失墜し廉恥心が日々衰えて行くのではないかと恐れます。もしも官吏が多すぎるのでしたら、諸色の採用を抑えるべきで、明経、進士の採用のみを抑えるべきではありません。」
 また上奏した。
「諸司が明経の試験をする時、政策の大綱の著述はお座なりにして、経典の中の字句や年月日などの設問を重視しています。これからは、同様に採点するようにしてください。」
 上は非常に深く同意した。 

 これまで、張説、張嘉貞、李元絋、杜進が相継いで宰相となった。源乾曜は清謹な態度でいるだけで、いつも事を説等へ譲り、ただ署名するだけだった。
 元絋と進は意見が分かれることが多く、遂に仲が悪くなり、互いに譏り合った。上は機嫌を損ねた。
 六月甲戌、黄門侍郎、同平章事杜進を荊州長史へ、中書侍郎、同平章事李元絋を曹州刺史へ降格した。乾曜は兼務の侍中をやめさせて左丞相のみとする。戸部侍郎宇文融を黄門侍郎、兵部侍郎裴光庭を中書侍郎とし、ともに同平章事とする。蕭祟は中書令を兼務させ、遙領河西とする。 

 開府王毛仲と龍武将軍葛福順が姻戚となった。
 毛仲は上から信任されており、彼が言って聞かれない事はない。だから、北門の諸将の大半は彼へ随身し、ただ彼の指図のままに進退していた。
 吏部侍郎斉澣が、くつろいだ折、上へ言った。
「福順は禁兵を指揮しています。毛仲と姻戚になるのは宜しくありません。毛仲は小人です。寵用が過ぎると姦悪を産みます。早く手を打ちませんと後々大きな患いとなりかねません。」
 上は悦んで言った。
「卿の忠誠を知ったぞ。朕は最善策をゆっくりと考えてみよう。」
「主君の口が軽いと臣下を失います。どうか陛下、ご内密に。」
 やがて、大理丞麻察が事件に関連して興州別駕へ左遷された。澣は察と仲が良かったので、城外まで見送り、道々禁中で諫めたことなどを話した。察はもともと軽薄陰険な人間だったので、すぐにこれを上奏した。上は怒り、澣を召し出して、責め立てた。
「卿は朕が漏洩することを疑ったが、自ら察へ話したではないか。これで内密にできるのか?それに、察はもともと素行が悪い。卿はそれも知らなかったのか?」
 澣は頓首して謝った。
 秋、七月丁巳、制を下す。
「澣と察は将相を讒言し君臣を離間した。澣は高州良徳丞、察は尋(「水/尋」)州皇化尉とする。」 

 八月癸亥、上は、誕生日なので花萼楼下にて百官と宴会を開いた。左丞相乾曜と右丞相説が百官を率いて上表し、毎年八月五日を千秋節としてお祭りをするよう天下へ公布することを請うた。ついで、社を千秋節へ移すよう請うた。(聖節錫宴は、これから始まった。後に、千秋節は天長節と改められる。ちなみに、社は、古来は戌の日に行われていた。) 

 庚辰、工部尚書張嘉貞が卒した。
 嘉貞は利殖をしなかった。田畑や屋敷を買うよう勧める者が居ると、嘉貞は言った。
「吾は将相のように貴い身分になった。なんで飢寒を憂えようか!もしも罪を得たならば、田宅があっても使い道がないぞ!それに、朝士が良田を独占しているのを見ても、彼等が死んだ後、それは子弟を酒色へ堕落させる助けとなっているだけではないか。吾はやらない。」
 聞く者は、正論と評した。 

 宇文融は、機転が効いて弁が立った。税務の能力で上から気に入られたので、諸使を広く設置して、競走で税金をかき集めさせた。これによって、百官は仕事を次第に失って行き、上には奢侈の心が生まれ、百姓は皆苛税に苦しんで怨んだ。
 また、彼は口数が多く、自慢話が好きだった。宰相の時は、人に吹聴していた。
「吾が数ヶ月間この地位にいたら、海内から事件をなくしてみせる。」
 信安王韋は、軍功で上から寵愛されており、融はこれが邪魔だった。そこで融は、韋が親しい人間へ機密を漏洩していると、御史の李寅に弾劾させようとした。韋はこれを聞き、先手を打って上へ告げた。翌日、果たして寅が入宮したので、上は怒った。
 九月壬子、融は有罪となり汝州刺史に降格された。宰相となって、凡そ百日で失脚する。
 この後、財利を口にして出世しようとする者は、皆、融のやり方に倣った。
 宇文融が失脚すると、国庫が不足し始めた。上は彼の功績を思い、裴光庭へ言った。
「卿等は皆、融のことを悪く言うので、朕は既に退けた。そしたら今、国庫の不足をどうするのか!卿等はどうやって朕を補佐するのかね?」
 光庭等は懼れて返答できなかった。
 だが、飛状が融の収賄を告発したので、勇は再び降格されて平楽尉となった。
 嶺外にて一年余り経つと、融がベン州にて巨万の官銭を着服した、と、司農少卿蒋岑が上奏した。この事を糾明するよう制が降り、結果、融は有罪となって巖州へ流された。その途上にて卒する。 

 十八年正月辛卯、裴光庭を侍中とする。 

 二月癸酉、春月の旬休にて宴会をするのに相応しい場所を百官へ選ばせた。宰相から員外郎まで、およそ十の酒席を設け、各々へ銭五千緡を賜下する。上は、あるいは萼楼へ出向いて彼等が大酒を飲むのを囃し立て、自ら舞を舞ったりして、歓を尽くして去った。 

 四月丁卯、西京へ外廓を築く。九旬で完成する。 

 乙丑、裴光庭へ吏部尚書を兼任させる。
 従来は、司や官の人選は、ただ人間の能力のみを見たので、ある者はまるで出世しなかったり、あるいは老年になっても下位のままだったり、出仕して二十余年になるのにいまだに禄を貰えない者などが居た。また、州県には等級がなかったので、ある者は大から小へ行かされたり、都近辺から僻地へ行かされたりなど、定まった制度がなかった。
 光庭が始めて資格を遵守するよう上奏した。各々任期が終わった後、経歴の多少で序列を決め、吏部に集める。官位が高い者は次の任務にあまり選ばれず、低いものを中心に選任する。能力のあるなしに関わらず、任期を終了したらそれを記録し、年期が来たら昇給する。官位の序列は越えることが無く、譴責された者でなければ皆、昇級して降格はない。
 この上奏に、能力が無くて出世できない者は皆喜び、これを「聖書」と呼んだ。しかし、俊才達は怨嘆しない者はいなかった。宋mはこれを不可として争ったけれども、裁可された。
 光庭は、また、流外にも任務を代行させ、これも中書省の審議を通過した。
(訳者、曰く)これは、唐が年功序列制を採用したとゆうことでしょう。役人が減点評価をされるようになると、過失なく務めようとするので、俗に言う「お役所仕事」が幅を利かせます。かなり重要な一節ではないかと思います。 

 九月丁巳、忠王浚へ河東道元帥を兼務させたが、結局出征しなかった。 

 開府儀同三司、内外閑厩監牧都使の霍国公王毛仲は寵愛を恃んで驕慢が日々増長したが、上はこれを事毎に許容した。
 毛仲と左領軍大将軍葛福順、左監門将軍唐地文、左武衞将軍李守徳、右威衞将軍王景耀、高廣済等は仲が善く、福順等は彼を後ろ盾にして不法なふるまいが多かった。毛仲は、兵部尚書を求めて得られなかったので怏々とした想いが態度に現れた。これによって、上は不機嫌になった。
 この時、上は宦官を非常に寵任しており、往々にして三品将軍となり、門には赤い油を縫った戟が掛けられていた。天子の使者となって諸州を行き過ぎれば、官吏は恐々としてご奉仕した。この時に贈られる賄賂は、少ないときでさえ千緡をくだらない。これによって京城近郊の田園は、ほぼ半分が宦官のものとなった。宦官では、楊思助と高力士が特に貴くなった。思助はしばしば兵を率いて討伐に行き、力士は常に中侍衞に居た。
 しかしながら毛仲は、宦官など眼中になく、身分の卑しい相手などは少しでも気にくわなければ奴僕のように罵った。力士等は、みな、腹に据えかねていたが、まだ口には出さなかった。
 毛仲の妻が出産して三日後、力士は上の命令で、酒や金帛を多量に賜下し、その児には五品官を授けた。力士が帰ってくると、上は問うた。
「毛仲は喜んだか?」
 対して言った。
「毛仲はお襁褓にくるまった子供を臣へ見せて言いました。『この児には三品の価値がないとゆうのか!』」
 上は大いに怒って言った。
「昔、韋氏を誅した時、この賊は二股を掛けたのを朕は不問に処した。それなのに、今日、赤子のことで吾を怨むか!」
 そこで、力士は言った。
「北門の奴隷は官に強い勢力を持ち、一心同体です。早く除かなければ、必ず大きな禍を産みます。」
 上は、彼等の一党が驚愕して変事を起こすことを恐れた。
 十九年正月壬戌、制を下した。それでは、ただ毛仲が不忠にも怨望したとだけ述べ、襄(「水/襄」)州別駕へ降格した。福順、地文、守徳、景耀、廣済は皆遠州の別駕へ、毛仲の四子は皆遠州の参軍へ降格した。数十人が連座した。
 毛仲は、永州へ到着した時、死を賜った。
 これによって、宦官の勢力が増大した。
 高力士は上からもっとも寵信された。上は、かつて言った。
「力士が側にいると、吾は安心して眠れるのだ。」
 だから力士はいつも禁中に留められ、外第へは滅多に出なかった。
 四方からの表奏は、皆、まず力士が目を通し、その後に上奏された。些細なことは力士が裁断したので、彼の権勢は内外を傾けた。
 金吾大将軍程伯獻、少府監馮紹正と力士は義兄弟となった。力士の母の麦氏が卒すると、伯献等は髪を被って弔いを受けた。胸をかきむしって地団駄を踏んで慟哭する有様は、実の親が死んだ時以上だった。
 力士は、瀛州の呂玄晤の娘を娶った。 玄晤は少卿へ抜擢され、子弟は皆、王傳(諸王の過ちを正す役目。従三品。)となった。呂氏が卒した時、朝野は争って祭りへやって来たので、第から墓へ至るまで、車馬の列が途切れなかった。
 しかしながら力士は、小心で恭しさを無くさなかったので、上は死ぬまで彼を親任した。 

 丙子、上が自ら興慶宮の側にて耕した。三百歩を尽くす。 

 苑中の洛水の川ざらいを行った。六旬にてやめる。 

 二十年、上は右驍衞将軍安金藏の忠烈を思い、三月、代国公を賜下し、東、西嶽に碑を立てて功績を刻んだ。金藏は、ついに寿命を全うした。 

 四月乙亥、上陽東洲にて百官と宴会を開いた。酔った者へは衾褥を賜る。肩輿で帰る者が、道に連なった。 

 九月壬子、河西節度使牛仙客へ六階を加える。
 以前、蕭嵩が河西に居た頃、軍政は仙客に委ねていた。仙客は清廉勤勉で、その職務で業績を上げた。それで嵩は屡々彼を推薦していた。ついに、嵩に代わって節度使となった。 

 二十一年三月乙巳、侍中裴光庭が卒した。太常博士孫宛(「王/宛」)が議した。
「光庭は、年功序列を持ち込み、人材を適用する道を失いました。どうか諡を克(新唐書では「克平」となっている。)としてください。」
 その子の槇(ほんとうは、ノ木偏)がこれを訴えたので、上は忠献の諡を賜下した。
 上は、光庭の後任を嵩へ問うた。嵩は右散騎常侍王丘と仲が善かったので彼を推薦しようとしたが、王丘は右丞韓休へ固く譲った。そこで、嵩は休を上へ勧めた。甲寅、休を黄門侍郎、同平章事とする。
 休の為人は、厳格で融通が利かず、栄利を眼中に置かなかった。相となるや、人々は大きく期待した。当初、嵩は休が温和だったので制しやすいと考えて推薦した。だが、共に政事を執るようになると、休は正を守って阿らなかったので、次第に嵩は休を憎むようになっていった。
 宋mは嘆じて言った。
「休がこんな人間とは思わなかった!」
 上が、宮中で宴楽したり後苑で遊猟したりする時、少しでも度を超すと、すぐに左右へ言った。
「休は知ったかな?」
 その言葉を言い終わらないうちに、諫疏がやってくる有様だった。
 ある時、上は鏡を見て黙り込み、不機嫌になった。すると、左右が言った。
「韓休が宰相となってから、陛下はとてもお痩せになりました。どうして追い出さないのですか!」
 上は嘆じて言った。
「我は痩せたが、天下は肥ったはずだ。粛嵩の上奏は、いつも吾が心に適っていたが、退出した後、吾は不安で眠れなかった。韓休はいつも力争するが、退出した後、安心して眠れるのだ。吾が韓休を登用したのは社稷の為だ。我が身の為ではない。」
 黄扁(「扁/瓜」)という名の供奉侏儒がいた。性格は機転が利いてずる賢い。上はいつも随行させており、「肉几(小机)」と呼んで、非常に寵遇していた。ある日、入宮時間が遅かったので、上が怪しむと、言った。
「臣が入宮しようとすると、道にて盗賊を追いかけている役人と出会い、臣と先を争いました。臣はこれを馬から叩き落としましたので、こんなに遅れたのです。」
 そして、階段を下りて叩頭した。上は言った。
「朝廷で章奏がなかったら、おまえも憂えずに済むな。」
 だが、京兆はこの事件を上奏した。上は黄扁を叱って叩き出し、役人へ命じて杖で叩き殺させた。
(役者、曰く)「新唐書」の裴光庭伝によると、「彼が死んだ後、蕭嵩が年功序列制度をやめるよう上奏した」とあります。ここら辺の経緯はもう少し詳しく知りたかった。
 なお、孫苑は蕭嵩に阿って上奏したことになっており、その時請願した諡は「克平」でした。年功序列制は、功績や才覚を無視しますので、「平等ではない」と批判されるでしょう。「克平」は、「平等を壊す」とゆう意味ですね。本文の「克」よりも意味が通りやすいと思います。 

 九月壬午、皇子ガクを信王、を義王、崔(「水/崔」)を陳王、澄を豊王、惠(「水/惠」)を恒王、従(「水/従」)を梁王、滔をベン王に立てた。 

 十月戊子、左丞相宋mが高齢で退職し、東都へ帰った。 

 韓休は、屡々上の面前で蕭嵩と論争し、その短所を言い立てた。上は不愉快だった。これが原因で、蕭嵩は退職を願った。
 上は言った。
「朕はまだ卿を厭うていないのに、なんでサッサと去って行くのか?」
 対して言った。
「臣は御厚恩のおかげを持ちまして、宰相の座を汚し富貴を極めました。陛下がまだ臣を厭うていないうちに穏やかに退職させてください。もしも臣を厭うてしまったら、臣は身を保つことができません。どうして終わりを全うできましょうか!」
 そして、泣き出した。
 上はこれを見て哀れに思い、言った。
「卿は一旦下がりなさい。朕はゆっくり考えてみよう。」
 丁巳、嵩はやめて左丞相となり、休はやめて工部尚書となった。京兆尹裴耀卿を黄門侍郎、前の中書侍郎張九齢はこの時母親の喪に服していたが、再び起用して中書侍郎として、共に同平章事とする。 

 太府卿楊祟禮は、政道の子息である。太府に在任して二十余年だが、前後して太府になった人間で彼に及ぶ者はいなかった。この頃、平和が続き、財貨は山積みされたが、楊卿の手を経たものは手違いがなかった。毎年の歳出は無駄を省き、数百万緡を余らせていた。
 この年、戸部尚書の官職で老齢退職した。御年九十余齢。上は宰相へ問うた。
「祟禮の諸子で父親のあとを継げる者はいるかな?」
 対して言った。
「祟禮の三人の子息は慎餘、慎矜、慎名。皆、清廉勤勉で有能ですが、慎矜が一番優れています。」
 上は慎矜を汝陽令から監察御史・知太府出納へ抜擢し、慎名を摂監察御史、知含嘉倉出給とした。どちらも職務が称賛され、上はとても喜んだ。
 慎矜は、諸州の上納した布帛で汚れたり穴が空いたり破れたりしたものは皆、元の州へ下げ渡して売り払わせて銭で納めるよう上奏した。これによって徴調が多くなった。 

 二十二年、正月己巳、上が西京を出発した。己丑、東都へ到着する。
 張九齢は韶州にて入見した。喪を終えることを求めたが、許されなかった。 

 方士の張果は、自ら神仙の術があると言い、「堯の時には侍中だった。今年で数千歳だ。」と、民を誑かした。普段は恒山の中を往来しており、則天武后以来屡々朝廷から招かれたが、やって来たことはなかった。
 恒州刺史韋済が、これを推薦した。上は中書舎人徐喬(「山/喬」)を派遣し、璽書を遣ってこれを迎えた。
 二月庚寅、東都へやって来た。肩輿に乗って入宮する。非常に厚遇された。
 同年十一月に、張果は恒山へ帰ることを固く請うた。制によって銀青光禄大夫とし、通玄先生と号する。厚く下賜して遣る。
 後、張果が卒すると、怪異を好む者は、「尸解仙になった」と上奏した。上は、これによって神仙を深く信じるようになった。 

 張九齢が、銭の鋳造を禁止しないよう請うた。三月庚辰、これを協議するよう百官へ敕が降りた。
 裴耀卿等は、皆、言った。
「それを許可すると、小人が農業を棄てて鋳銭の利益を追いかけ、悪銭がますます出回るのではないかと恐れます。」
 秘書監の崔 は言った。
「もしも銅の税を労役にしたら、官で鋳造することができます。庸を推量するに、私鋳では割が合いますまい。それに、銭とゆうものは、流通するに充分なだけあればよいのでして、多ければよいとゆうものではありません。どうして私鋳させなければ充足しないとゆうことがありましょうか!」
 右監門録参軍劉秩が言った。
「人は富裕になれば褒賞で勧めることができませんし、貧しければ刑罰で禁じることができません。もしも私鋳を許しても、貧民は鋳造などできません。臣は貧しい者が益々貧しくなって富豪の奴隷となり、富める者が益々富んでもっと貪欲になってしまうことを恐れます。漢の文帝の頃、呉王鼻(「水/鼻」)が富を恃んで天子を軽んじました。鋳銭の招いたことです。」
 上は、鋳造禁止を継続した。
 秩は、子玄の子息である。(劉子玄は、劉知幾である。帝の名を避けて、字で名が知られた。) 

 四月壬辰、朔方節度使信安王韋が関内道采訪處置使を兼任し、、原等十二州が増領された。 

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