丙蜀・閻職、斉の懿公を殺す。
 
(東莱博議) 

 常識的な感情では考えられない行動に出る人間は、とてつもない天才か、そうでなければ底抜けの阿呆である。
 怨讐を肘腋にし、仇敵を腹心にする。そんな人間は、なんとも器量のでかい太っ腹。常情の上に高く突出している。これがどうして凡人の及ぶところだろうか。
 しかし、凡人程度の知力しかないくせに、非常の事を行おうとする。こんな人間は、絶対愚か者だ。喩えてみるなら、袋を開いて盗賊へ見せたり、堤防を壊して溺れ死ぬのを待ったり、毒蛇の巣を裸足で歩いたり、虎の前で裸で横たわるようなもの。そんな人間は、闇者に決まっている。
 ところで、凶暴狡猾な姦雄は、「俺が他人を裏切るのは構わないが、他人が俺を裏切るのは許ぬ」と、うそぶき、ガンを付けられた程度の些細な怨みにも、必ず相手の一族を根絶やしにするまで復讐し尽くして、ようやく溜飲を下げる。度量の広いのが盛徳であるとゆうことを、彼等がどうして知らないだろうか。ただ、上を見てはトテモそこまでできないと思い、下を見ては学ぶに足らないと思うだけだ。 

 さて、斉の懿公は、閻職の妻を奪い、丙蜀の父親の足を切り落としたのに、この二人を身近に使った。彼等を狎昵し、遂には彼等に殺されてしまったのである。
 彼は物の道理を全く知らない愚か者だろうか?
 いや、彼は主君を弑逆して国を盗んだ。その手並みの鮮やかさ。彼の機略は人並み外れているではないか。
 その彼が、こんな明々白々なチョンボを犯してしまった。一体どうしてだろうか?世俗の人間には、その理由が判らない。
 宜しい、私が説明しよう。 

 そもそも懿公の行動は、他人が見るからこそ余りにも人情からかけ離れているように思えるのだが、懿公自身は、単に自分の自然な感情に従っただけで、これを異常だとは、ちっとも思っていなかった。
 懿公というのはどうゆう人間だろうか?彼は公族の一員でありながら、自分の主君を弑逆するような男だ。親子親族へ対してでさえも、薄情な人間である。ましてや宗族へ対してなら、残忍暴虐、腹の底まで冷酷非情な人間に決まっている。その、自分の感情を基盤にして推し量り、他の人間も、皆、その様であると考えた。これこそ、閻職や丙蜀へ狎れれ親しんで、彼等が復讐するなどとは夢にも思わなかった理由である。
 人々は、懿公の行動が、あまりにも人情からかけ離れていることを怪しんでいるから、彼の禍が、自分の想いで他人の感情を推し量ったことによって起こったことに気がつかないのだ。
 ここで、太子劭(※)の故事を引いて、これを立証してみよう。
 劭は、異母弟の濬と共に大逆を謀った。劭が殺そうと思っていた潘妃は、濬の母親である。劭は、その母親を殺そうとして、彼女の息子と親しんでいたのだ。人々は、この話を読んだ時、皆、奇異な思いに駆られてしまう。余りにも人情からかけ離れている為だ。
 だが、劭と濬は、悖逆とゆう性で同調していた。元嘉の変では、潘妃が殺された後に、濬は、ますます深く劭と結託したのである。兄は梟、弟はキョウ(「犬/意」)(梟は自分の父親を殺すと伝えられている。キョウは、生まれてすぐに母親を殺すと言われている伝説上の動物。)なんとまあ、体こそ別れているものの、似た者同志のあきれ果てた兄弟である。
 懿公が閻職や丙蜀と狎れ親しんだのは、劭が濬と狎れ親しんだのと同じである。懿公は、一族を殺しても何ら心に恥じない人間だった。そして、全ての人間がそうだと思い、閻職や丙蜀と狎れ親しんだ。彼等が、父親の足を斬られたとか、妻を奪われたとか、その程度のことで自分を怨んでいるとは思ってもいなかっただけなのだ。
 つまり、懿公の禍は、自分の感覚でしか物事を見れなかった事に起因したのだ。 

 ところで、左氏伝は次のように記述している。
”二子は、懿公を殺した後、祝杯を挙げて去って行った。”と。
 つまり、彼らには、何憚るものもなかったのである。
 これを読んで、ひそかに感じた事がある。
 懿公が造反を謀った時、私的に恩恵を施した。粟を庶民へ振る舞った時、彼の名声栄誉(それはいずれも偽声、虚誉なのだが)は、国中に満ち溢れ、営丘の民は小躍りして彼の徳望を讃えただろう。だからこそ、傍系にも拘わらず、国を盗むことができたのだ。
 だが、彼が即位してまだ数年しか経っていないのに、己の凶虐で我が身を滅ぼしてしまった。その時、かつて姑息な恩恵受けた民衆はどうしたのだろうか?故主の仇討ちの為に武器を執って下手人を追い回した者は、遂に、ただの一人も現れなかった。だからこそ、殺人者達は悠々と亡命できたのである。
 それを思えば、区々たる小恵が恃むに足りないことが判る。
 斉の懿公は、その罪悪を責める価値さえない人間だ。しかし、特にこの論を立て、好んで小恵を施す者への戒めとする。 

(※)南北朝時代、宋の人間。異母弟の濬と共に、父親の文帝を殺して即位しようとした。詳しくは、皇太子劭の弑逆参照。  

(訳者、曰く) 

 良いことをしたら人から慕われる。そうすると、大勢の人間が後押ししてくれるから、強くなれる。貧しい人間へ施しをすることはよいことだ。こうして、懿公は遂に国を奪うことができたのである。
 ところが、国を奪った後、彼は暴虐を重ねた。他国へ礼を尽くさず、名分のない戦争を行い、他人の妻を奪い取る。
 そのような所行が重なるにつれ、彼の名声は薄れて行き、遂には殺された時、皆から見放されてしまった。
 もしも、彼が国主となった後も、たとえ見せかけでも施しを続けたならば、彼の名は名君として青史へ輝いただろう。
 ・・・・と、このように論じてみて、思った。これこそ、「逆を以て奪い、順を以て守る」の論である。(「斉、我が西鄙を侵す」参照)
 やはり、私は順逆の論が好きなようだ。少なくとも、立身出世して栄耀栄華を極める為だけならば、これは十分に役に立つ、とゆうよりも、世間は順逆に従って動く。
 ただ、呂東莱が非難したのは、道義的な面に過ぎない。
 道義心とゆうものは、個人個人が自分自身の心の中に持つものであり、他人へ押しつけるものではないと、私は考えている。だから、私が先の論文に感じて己の人生を律するのは良いし、そのような人間が大勢出てくれると嬉しい。しかし、懿公のような人間も、世の中にはいるのだ。
 もしも、自分が一生左うちわで過ごすことだけしか考えない人間ならば、順逆の論に従って生きればよい。ただ、もしもそのように生きるとしたら、その時には、この論文をよく覚えておいて、他人は自分ほど冷酷ではないことを心に銘記し、足下をすくわれないように気をつけて欲しい。

元へ戻る