皇太子劭の弑逆。
 
劭と濬と厳道育 

 潘淑妃が、始興王濬を生んだ。その潘淑妃が、文帝からの寵愛を一身に集めたので、嫉妬深い元皇后は憤りのあまり卒してしまった。以来、潘淑妃が後宮を取り締まった。こうゆう次第だったので、皇太子の劭は、潘淑妃と濬を深く憎んだ。
 相手は皇太子である。濬は、将来どのような禍が降りかかってくるかと恐れ、一生懸命太子へ取り入り、太鼓持ちに徹した。その甲斐あって、皇太子は次第に濬へ心許し、やがて非常に仲良くなった。
 さて、厳道育という巫女がおり、彼女は鬼神を自由に操れると吹聴していた。東陽公主は、それを間に受けて婢の王鸚鵡を彼女の家へ出入りさせた。
 ある時、厳道育は公主へ言った。
「神が、公主へ瑞兆を賜られます。」
 その夜、公主が寝床に着いていると、蛍のような光が流れて来て、文箱の中へ飛び込んだ。公主がこれを開いてみると、青珠が2個入っていた。
 この事件以来、公主も劭も濬も厳道育の狂信者になってしまった。
 ところで、劭と濬は過失が多く、文帝から叱責を蒙る事もしばしばだった。そこで、厳道育の霊験を知った彼等は、自分達の失敗が文帝の耳に入らないよう祈祷するよう頼んだ。すると、厳道育は言った。
「それならば、既に上天へ請願しております。今後度のような過失を起こしても、決して陛下の耳へは入りますまい。」
 これによって、彼等はますます厳道育を敬い、「天師」と呼んだ。 

  

 巫蠱 

 劭、濬、厳道育、王鸚鵡、東陽公主の奴隷陳天与、黄門陳慶國らが共謀して、巫蠱を行った。玉を磨いて文帝の形とし、これを舎章殿前へ埋めたのである。劭は、陳天与を、兵隊頭に抜擢した。
 やがて、東陽公主が卒したが、それに伴って、彼女の婢は、全て下嫁されることとなった。劭と濬は、王鸚鵡の口から秘密が漏れることを恐れ、彼女を濬の府佐の沈懐遠の妾とした。彼は、濬の腹心である。
 この頃、陳天与が兵隊頭になった一件が文帝の耳へ入り、文帝は劭を叱責した。
「お前は、奴隷などに兵隊を預けているのか!」
 懼れた劭は、濬と手紙で相談した。(濬は元嘉十八年に京口の鎮守を命じられており、この時は任地の京口に居た。)すると、濬が返事をよこした。
「彼人が手におえなくなったなら、息の根を止めれば宜しい。してみると、これは大慶の始まりですぞ。」
 濬は、任地に居る時も、劭と書簡で連絡を取り合っていた。彼等はその文中で、文帝のことを「彼人」や「其人」と書き、江夏王義恭のことは、「佞人」と書いていた。 

  

 巫蠱発覚 

 王鸚鵡は、もともと陳天与と密通していたが、沈懐遠と結婚してしまうと、それが暴露される事を恐れるようになり、劭へ頼み込んで、陳天与を密かに殺してもらった。
 だが、陳天与が殺害されると、陳慶國は非常に懼れた。
「巫蠱の事実を知っていてるのは、陳天与と俺だけだ。今、陳天与が殺された。次は俺の番だ。」
 元嘉二十九年、七月。陳慶國は、巫蠱の事実を、文帝へつぶさに密告した。文帝は大いに驚き、即座に王鸚鵡を捕らえ、劭と濬の屋敷を封鎖した。調べてみると、その二軒の屋敷からは、呪詛巫蠱の言葉がかかれている紙が数百枚も押収された。又、密告通りに舎章殿前を掘ってみると、果たして玉で造られた人形が出てきた。そこで、役人へ事件の究明を命じたが、厳道育は亡命し、捕まえきれなかった。
 ところで、この事件の少し前に、揚州を治めていた廬陵王紹が病気で隠居した。濬は、揚州へ呼び戻されると考えていたが、文帝は南焦王義宣をこれに抜擢した。濬は不満でならず、江陵の鎮守を求め、文帝はこれを許諾し、以来、濬は江陵を鎮守していた。
 濬が入朝の為に江陵を出発して京口まで来た時、ここに暫く逗留したが、その時、巫蠱の事件が発覚した。
 文帝は嘆いて淑妃へ言った。
「皇太子が富貴を図るのは、あり得ないことではない。だが、虎頭(濬の小字)がこれに加担するなど、余りにも思慮が浅いではないか。朕がいなければ、汝等母子は明日をも知れなくなるのだぞ!」
 そして、使者を派遣して劭と濬を厳しく叱責した。二人とも、ただ陳謝するだけだった。
 文帝は憤慨したが、まだ二人を処刑するに忍びなかった。 

  

 更正せず 

 三十年、正月。濬を荊州刺史とした。文帝の怒りが解けない間は、濬は京口に留まっていたが、今回荊州刺史に任命され、ようやく入朝が許可された。
 一方、亡命した厳道育へ対して、文帝は厳しく探索させていた。厳道育は東宮へ匿われたり、京口の濬のもとへ逃げ込んだり、民間人の張午の家に転がり込んだりしていたが、今回、濬の入朝が許されたので、彼と共に都へ帰った。
 丁巳、濬は朝廷で、荊州刺史を拝命した。丁度その日、密告する者が居て、捕り手が張午の家へ踏み込んだ。そして厳道育の婢を二人捕まえたが、肝腎の厳道育は居ない。すると、婢達が白状した。
「厳道育様は、征北将軍(濬)と共に都へ行かれました。」
 彼女達の証言が文帝の耳へ入ると、文帝は驚愕した。
「劭も濬も、厳道育とはとっくに縁を切っていたはずではないか!」
 そして、婢達は都へ護送して詰問し、劭と濬の罪を再び糾治するよう命じた。
 淑妃は、濬に抱きついて泣いた。
「前回、呪詛が発覚したけれど、お前が更正することばかりを冀っていたのですよ。それなのに、いまだに厳道育なんかを匿っているのですか!陛下は怒り狂って、妾がどんなに土下座しても、今度ばかりは赦してくれません。ああ、これ以上生きていても、何の役に立ちましょうか!今、薬を送りますから、これを飲みなさい。お前が全てをなくす有様は、見たくありません。」
 だが、濬はこれを振り払った。
「天下は俺が宰領する。もう暫く見ててくれ。母君に迷惑はかけないから。」 

  

 人選進まず 

 文帝は、劭を廃嫡して濬は誅殺しようと考えた。そこで、漢・魏以来の記録から、皇太子廃嫡の故事を調べ出すよう、侍中の王僧綽に命じ、その結果を尚書僕射の徐湛之と吏部尚書の江湛へ送らせた。
 さて、武陵王駿は、もともと文帝から寵薄かった。だから、屡々前線へ出され、建康に留まることができなかったのだ。これに対して、南平王鑠と建平王宏は、文帝から寵愛されていた。
 南平王鑠の妃は、江湛の妹であり、随王誕の妃は徐湛之の娘だった。だから、江湛は南平王鑠を皇太子とするよう文帝へ勧めたし、徐湛之は随王誕が立太子されることを望んでいた。
 王僧綽が言った。
「誰を皇太子となさいますか、それは陛下の胸三寸です。ですが、たとえ誰であれ、どうか早く決められてください。『決断するべき時にできなければ、却って乱を受ける』と申します。どうか、義を重んじて恩愛の心を抑えられて下さい。もしも人情に耐えきれず、全てを無かったことに致しますと、思わぬ禍が巻き起こり、千歳先まで笑いを遺すことになってしまいます。」
 文帝は言った。
「卿は、大事を決断できる人間だな。だが、これは至って重大なことだ。想いを凝らさないわけには行かない。それに、彭城王を殺した時、(元嘉二十八年。詳細は「彭城王の専横」に記載予定。)人々は朕の事を、冷血漢のように言っただろうな。」
「それよりも私が恐れますのは、千年の後、陛下が、『弟を裁くことはできても、我が子を罰することができなかった』と笑われることでございます。」
 文帝は黙り込んだ。
 この時、江湛が同座していたが、彼は退出の後、王僧綽へ言った。
「もっと婉曲に言えなかったのか!」
 すると、王僧綽は言い返した。
「貴方が黙っていたことが恨めしい!」
 南平王鑠は寿陽から入朝したが、ちょっとした失敗で、文帝から不興を蒙った。文帝は建平王宏を立てたかったが、兄弟順があまりにも低過ぎた。結局、迷ってしまい、次の皇太子はなかなか決まらず、夜毎に徐湛之と相談した。この時は、人払いをして、徐湛之自ら蝋燭を持って辺りを確かめ、盗み聞きする者が居ないことを確認するのが常だった。
 しかし、文帝は、この事を淑妃へ語った。淑妃は濬へ語り、濬は劭の許へ駆けつけて、これを報告した。劭は、密かに隊主の陳叔児や斉師の張超之といった腹心達と造反の陰謀を巡らせた。 

  

 皇太子決起 

 ところで、この頃、皇太子は一万以上もの武装兵を動員することができた。これは、宗室(文帝の弟たち)の力が強すぎることを思い煩った文帝が、これに対抗させる為に東宮の兵力を増大させ、羽林軍と併せて皇太子の指揮下へ入れた為だ。そして、皇太子の劭は剛猛な人間だったので、文帝はこの軍を頼りにしていたのである。
 このような事態になって来てから、皇太子劭は、夜毎に将士を饗応するようになり、時には自らお酌もして遣った。この行状を、王僧綽は文帝へ密告したが、文帝は尚もぐずついた。
 厳道育の婢達が、もうすぐ都へ到着するという時になって、遂に劭は文帝の詔をでっち上げた。 
「魯秀が造反した。汝は速やかに関を守り、軍を率いて入宮せよ。」
 張超之は、その夜のうちに日頃手懐けていた兵士二千余を召集すると武装させ、賊軍討伐を宣言した。劭は涙を零して言った。
「陛下は讒言を信じ、吾を廃嫡しようとしている。だが、身に覚えのないことだ。甘受することはできない。夜明けを待って決起する。皆、死力を尽くしてくれ。」
 言い終わると、立ち上がり、兵士達へ向かって拝礼した。兵卒達は、皆、驚愕し、為す術を知らない。中庶子右軍長史の蕭斌等が言った。
「それは大逆です。どうかお考え直し下さい。」
 劭は怒って顔色を変えたので、蕭斌等は懼れ、一斉に言った。
「命を捨てて、ご命令に従います。」
 だが、左衛率の袁淑は言った。
「殿下、御正気ですか?殿下は幼い頃から風病を患われておりましたが、今回も病気故の心の迷いではありませんか?」
 劭はいよいよ怒り、袁淑を睨み付けていった。
「負けると思っているのか?」
「一心不乱に戦えば、何で勝てぬことがありましょうか!私が恐れますのは、勝った後、天地のどこにも身の置き所が無くなって、大禍が襲いかかってくることです。こんな事はおやめ下さい」
 すると、側近達が袁淑を力尽くで退出させながら言った。
「なんて事を言うのだ。さっさと退出しろ!」
 袁淑は、左衛率省へ戻って、四刻ごろ、眠った。 

  

 弑逆 

 甲子、宮門がまだ開かないうちに、彼等は決起した。劭は戎服の上から朱服をまとい、蕭斌と共に畫輪車に載るという、太子が入朝する正式の儀礼に則っていた。そして、至急で袁淑を呼び付けたが、袁淑は眠り込んでいた起きない。劭は奉化門で停車して、袁淑のもとへ催促の使者を続けざまに派遣した。袁淑はゆっくりと起きてやって来た。劭は車へ乗るよう命じたが、袁淑はこれを拒んだ。とうとう、劭は袁淑を殺させた。
 門を開かせると、彼等は萬春門から入城した。旧来、東宮隊は入城してはならない決まりだったが、劭は詔を門衛へ示して言った。
「賊軍討伐の為、勅を受けたのだ。」
 そして、後続まで入らせた。
 張超之等数十人は雲龍門や斎閣へ駆けつけ、抜刀して合殿へ登った。
 その夜、文帝は徐湛之と共に人払いして明け方まで密談しており、この時は、まだ蝋燭も消していなかった。門階戸席の衛兵達は、まだ眠り込んでいた。そこへいきなり張超之等が乱入してきた。文帝は小机を持ち上げて抵抗したが、賊軍等はその指を切り落とし、遂に文帝を弑逆した。(享年四十七)
 徐湛之は驚いて北戸へ向かって逃げ出したが、それを開くより前に、兵卒達から斬り殺された。
 劭は合殿の中閣にて、文帝の崩御を聞いたので、東堂へ赴いて座った。蕭斌は刀を持ってこれにかしずき、中書舎人の顧假を呼んだ。假は、恐ろしさの余り震え上がっていたので、やってくるのに手間取った。
「何でこんなに遅かったのか?」
 だが、假は答える暇もなく、斬り殺された。
 江湛は、上省へ登ろうとした時、喧噪の声を聞き、嘆いて言った。
「ああ、王僧綽の言う通りにしていたら、こんな羽目には陥らなかったのに!」
 そして小部屋の中へ隠れたが、兵卒達が見つけ出して殺した。
 宿衛旧将の羅訓と徐罕は、そそくさと降伏した。
 廣武将軍の卜天与は、鎧を着込む暇もなく、刀を執り弓を持ち、左右を呼んで戦いに出た。すると、罕が言った。
「殿下が来られたのだ。汝は何をするつもりか!」
「殿下が来られるのは、今に限ったことではない。何で、ことさらそんなことを言うのだ!この賊徒めが!」
 卜天与は、東堂の劭へ向かって矢を放ち、それは劭へ命中した。だが、劭の徒党がたちまち襲いかかって、卜天与の肱を斬って殺した。隊将の張泓之、朱道欽、陳満等が、卜天与と共に討ち死にした。
 劭は部下を率いて東閣へ入ると、淑妃や文帝の信任していた側近達数十人を殺し、濬を呼び寄せた。 

  

 梟か意(「<犬/意」)か 

 この時、濬は西州に居た。府舎人の朱法瑜が濬のもとへ駆けつけて来て言った。
「台内は大騒動で、宮門は全て閉じられております。巷では太子が造反したとの噂で持ちきり。これからどうなるか、さっぱり判りません。」
 濬は驚いたふりをして言った。
「どうすればよい?」
 朱法瑜は、石頭へ向かうことを勧めた。
 この時、濬は、まだ劭から何の確約も貰っていなかったし、造反の結果がどう出るか分からなかったので、動転してしまってどうすればよいか判らなかった。すると、将軍の王慶が言った。
「今、宮内で変事が起こり、陛下の安危も判りません。臣子としては、この危難へ向かって行くべきでございます。城へ籠もって身の安全を図るなど、臣節に反しますぞ。」
 濬は聞かず、南門から逃げ出し、石頭へ向かった。すると、文武の官吏千余人が、これにつき従った。石頭には、南平王鑠が千余の兵で守っていた。だが、濬の一行が石頭へ向かう途中、劭が使者として派遣した張超之が駆けつけてきて、濬を召し出した。濬は人混みに隠れたままで状況を尋ね、戎服に着替えて馬へ乗った。朱法瑜は固く諫めたが、濬は聞かない。中門を出た時、王慶も諫めた。
「太子の反逆には、天下の人々が憤慨致します。殿は、ただ石頭城にて城門を閉ざし、籠城の構えを取ってください。三日と経たないうちに、賊軍は自滅します。」
 しかし、濬は言った。
「皇太子殿下のご命令だ。四の五の言う奴は、斬る!」
 濬は入城すると、劭へ謁見した。すると、劭は言った。
「戦乱の中で、淑妃は殺されてしまった。」
「それこそ、臣の望むところでございます。」(梟は母親を食べ、破意(「犬/意」)は父を食べる。濬の心は、梟と意を兼ね備えている。) 

  

 劭、即位 

 劭は、文帝の詔をでっち上げて、大将軍義恭と尚書令何尚之を召し出し、台内に拘禁した。併せて百官も召集したが、やって来たのは、僅か数十人だった。
 劭は、即位して、詔を下した。
「徐湛之と江湛が、陛下をした。吾は兵を率いて駆け付けたが、間に合わなかったのだ。ああ、この悲憤、我が心を引き裂かんばかりである。だが、罪人は誅に伏し、元凶は殲滅された。ここに大赦を下し、太初と改元する。」
 即位が終わると、体調が悪いと言いたてて、早々に永福省(禁中にある、太子の居所)へ引き上げ、喪に服しなかった。省内では、白刃を持って自警し、夜になれば灯りを並べて警戒させた。
 蕭斌は尚書僕射・領軍将軍に、何尚之は司空になった。右衛率の檀和之に石頭を守らせ、京口の守りは征虜将軍の義基に任せた。
 翌日、兵器を全て回収して、武器庫へしまった。徐湛之と江湛及びその党類を誅殺する。決起の時に兵を指揮した殷仲素や王正見、又、張超之や陳叔児等も、それぞれ昇進した。
 輔国将軍魯秀は、この時建康に居たが、劭は魯秀へ言った。
「徐湛之と卿は仇敵だった。卿の為に奴等を殺してやったのだ。」
 そして、魯秀と龍秀之へ軍隊を預けた。
 劭は王僧綽の謀を知らなかったので、彼を吏部尚書とし、司徒左長史の何を侍中とした。だが、王僧綽はこれを固辞した。
 三月、劭は、新たな人事を発表した。大将軍義恭を太保とし、荊州刺史の南焦王義宣は太尉、始興王濬は驃騎将軍、ヨウ州刺史蔵質は丹陽尹。
 さて、劭が文帝の機密文書を開けて見たところ、王僧綽の進言がいくつも出てきた。そこで、劭は王僧綽を捕らえ、殺した。事のついでに、北第の諸王侯(穆・武の子孫)が王僧綽と共に造反をたくらんだと言いたてて、長沙王、臨川王、桂陽侯等を殺した。彼等は皆、日頃と仲の悪かった連中である。
 劭は沈慶之へ手紙を書き、武陵王駿を殺すよう命じた。 

  

 武陵王駿 

 武陵王駿は五洲に屯営していたが、沈慶之が巴水から駆け付けて、彼に軍略を授けていた。
 三月、典の元が建康から五洲へ逃げて来て、太子の弑逆を告げた。駿は、これを僚佐へ告げさせた。
 沈慶之は腹心へ言った。 やがて、劭の勅命が、沈慶之のもとへ届いた。沈慶之が駿へ面会を求めると、王は恐れ、病気と言いたてて断った。しかし、沈慶之は突入し、劭の書を王へ示した。これを見た王は、せめて母君にもう一度会いたいと泣いて頼んだ。それに対して、沈慶之は言った。
「下官は先帝の御厚恩を蒙った身の上。今日の件は、ただ死力を尽くすだけです。なんでそんなに疑われるのですか!」
 それを聞いて、王は再拝した。
「家国の安危は将軍次第だ。」
 沈慶之は、即座に兵卒の動員を命じた。
 府主簿の顔が言った。
「今、四方のどこからも義挙がありません。建康は天府、単独での決行は危険です。まず諸鎮と連絡を取り合い、盟約を結んでから決起するべきです。」
 すると、沈慶之は声を荒らげて言った。
「今、大事を掲げれば、幼子だって馳せ参じるわ。何で敗れようか!詰まらん事を言って志気を乱す奴だ。斬り捨てろ!」
 王とりなすと、沈慶之は顔竣へ言った。
「君はただ、文事だけを扱っておれば良い。」
 ここにおいて、軍事は全て沈慶之へ委ねた。すると、旬日のうちに整然たる軍隊が出来あがり、人々からは「神兵」と呼ばれた。
 顔は太常の顔延之の子息である。 

  

 義軍蜂起 

 庚寅、武陵王は兵卒を集めて決起を表明した。沈慶之を領府司馬とする。襄陽太守柳宗景と随郡太守宗を諮議参軍とし、江夏内史朱修之を行平東将軍とする。
 一方、南焦王義宣や蔵質は、劭の官職を受けず、司州刺史の魯爽と共に、駿に呼応した。蔵質と魯爽が江陵へ出向いて、義宣を説得したのである。蔵質の息子の蔵敦等は建康に住んでいたので、蔵質の挙兵を聞くと、逃亡した。
 乙未、武陵王は西陽を出発し、二日後、尋陽へ到着した。庚子、王は顔に命じて四方へ檄を飛ばさせた。すると、州郡は次々と檄に応じた。南焦王義宣は蔵質へ兵を与えて尋陽へ派遣して駿と合流させ、魯爽は江陵へ留めた。
 劭は、コン・冀州刺史の蕭思話を徐・コン州刺史に任命し、張永を青州刺史に任命した。蕭思話は歴城から兵を率いて平城へ戻り、ここで尋陽と呼応して決起した。建威将軍の垣護之は歴城からこれへ赴いた。
 南焦王義宣は、張永を冀州刺史に任命した。張永は、司馬の崔勲之へ兵を与えて義宣のもとへ派遣した。ところで、前年の北伐の敗戦の時、蕭思話は張永の責任を追及した。(詳細は、「文帝、恢復を図る」その三に記載)義宣は、張永が根に持っているかと慮り、二人の仲を取り成した。
 随王誕は、劭の官職を受けようとした。すると、参軍事の沈正が、司馬の顧深へ言った。
「これは、国家開闢以来の禍です。今、江東の驍鋭は皆、大義を唱えて決起しました。誰もがこれに駆けつけますぞ!どうして殿下を逆賊の手下にして良いものでしょうか!」
 すると、顧深は言った。
「江東の連中は、長い間平和に慣れてしまっている。順逆の理はあちらにあるが、強弱の勢いはどちらだろうか?まずは、四方の義挙の様子をうかがい、それから呼応しても遅くはあるまい。」
「父がなく君がない国など天下のどこにもないというのに、自分は讐の下でのうのうとしておいて、他の人々へは義を以って責め立てるなど、どうゆう理屈ですか!弑逆した人間と倶に天を戴くなど、義が廃りますぞ!この挙兵は保身の為のものですか!かつて、馮が言いました。『漢代の貴臣など、春秋戦国時代の楚や斉の賎士以下ではないか!』ましてや殿下は、先帝の臣下であると共にご子息なのですぞ!国の為ばかりではなく、家の為ではありませんか!」
 そこで、顧深は沈正と共に誕を説得し、誕はこれに従った。沈正は沈田子の甥である。 

  

 劭の動揺 

 さて、劭は戦争には自信が有り、常々朝士へ言っていた。
「卿等は、ただ文書で我を補佐すればよい。戦闘のことなど気にするな。もしも来寇する者がおれば、吾がこの手で打ち破ってやる。ただ、賊軍が動かない事の方が心配だわい。」
 だが、四方から兵が迫って来ると聞き、始めて懼れ、戒厳令を敷いた。将吏を集め、南の住民を全て北岸へ移住させた。又、諸王と大臣を全て城内へ入れた。江夏王義恭は尚書下舎へ移し、彼の諸子は侍中下省へ集めた。
 四月、柳元景は寧朔将軍薛安都等十二軍を率いて口へ屯営し、司空中兵参軍徐遣寶が荊州軍を率いて後続となった。武陵王も尋陽を出発し、沈慶之が中軍を率いてこれに従った。
 この頃、劭は妃の殷氏を皇后に立てた。
 武陵王の檄文が建康へ届くと、劭は太常の顔延之へこれを見せ付けて言った。
「これは誰が書いたものだ?」
「倅が書いたものです。」
「何と、ここまで悪し様に書たものではないか!」
 すると、顔延之は言った。
「倅は、この老いぼれがどうなるかなど、まるで気にしてもおらんのです。ましや陛下へは、なおさら気を使うものですか!」
 それを聞いて、劭の怒りはやや解けた。
 武陵王の子息は全て捕らえて侍中下省へ監禁し、南焦王義宣の子息は太倉空舎へ監禁した。は、三鎮(荊・ヨウ・江)の士民の家族を皆殺しにしようとしたが、江夏王義恭や何尚之が言った。
「大事を決起する者は、家族の事でも腹を括っています。それに、多くの者は、ただ迫られて従っているだけですのに、彼等の家族を殺してしまえば、彼等は怒りに燃えて、一致団結して攻撃して来ますぞ。」
 劭は納得し、彼等を不問とした。
 劭は、朝廷の旧臣達が自分に従わないのではないかと疑い、魯秀と右軍参軍の王羅漢を手厚く遇し、彼等へ軍権を委ねた。蕭斌を参謀とし、殷沖へ割り符を預けた。 

  

 作戦決定 

 蕭斌は、劭へ水軍を動員して水上で決戦することを勧め、梁山を拠点とする事には否定的だった。だが、江夏王義恭は、自軍の舟が小型で水上戦では不利だと考え、劭へ言った。
「賊軍の駿は、まだ若年。戦争のことなど何も知りませんし、遠征軍ですので兵卒は疲れ切っています。こちらは逸を以て待ち受けれるべきです。今、梁山まで出向けば、建康は空っぽになってしまいます。東軍(随王誕の軍)にその隙を衝かれれば、患いになりかねません。ですが、兵力を二手に分けるとどちらも弱くなります。ここは精鋭兵を擁して敵の隙を待つべきです。淮水の南岸を棄て、石頭の柵を断つのは先朝の旧法。このやり方で、晋の明帝は王含を防ぎ、武帝(劉裕)は廬循を防ぎました。このやり方ならば、賊軍を撃破できること間違いなしです。」
 劭はこれを善としたが、蕭斌は顔色を変えて反対した。
「駿はまだ二十代(この時、二十四である。)で、この大事を起こせるのです。器量の程が判ります!それに、三方が大義を唱えて心を一つにし、上流から攻め立ててくる。沈慶之は熟練した戦巧者。柳元景も宗愨も、屡々戦功を建てています。このような形勢で、けっして小敵ではふりません!ただ、我等の心がバラバラになる前なら、一戦もできましょう。しかし台城に閉じ籠もっては、じり貧になるのはこちらですぞ!それなのに我が君には戦意がない。ああ、これは天命か!」
 だが、劭は聞かなかった。もともと弑逆事件が起こった時、蕭斌は凶器を突きつけられて遂に一味となってしまった。しかし、巻き込まれた以上、途中では降りられない。心に恥を負いながらも、なお一戦の幸を求めた。だが、劭に戦意はない。ここに敗北を悟ったのである。天命と嘆じたのも無理はない。
 ある者が、石頭城を確保するよう劭へ勧めたが、劭は言った。
「昔の人が石頭城を固めたのは、諸侯が駆けつけてくるのを期待してのことだ。今、我がここを固めても、誰が救援に来るか!戦うのみ。でなければ、敗れる。」
 劭は、毎日軍へ出向いては、将士を慰労し、自ら軍艦を見て回った。
 壬子、淮水の南岸の室屋を焼き払い、全ての民を北岸へ追い立てた。
 この日、劭は、嫡子の偉之を皇太子に立てた。始興王濬を侍中・中書監・司徒・録尚書六条事とし、南平王鑠に開府儀同三司を加える。
 太尉司馬の龍秀之が、石頭から南へ逃げ、これによって人心は大いに動揺した。
 癸丑、武陵王は鵲頭へ陣を布いた。 

  

 地方の動向 

 さて、宣城太守の王僧達のもとへ武陵王の檄文が届いた時、彼はどちらにつくか迷っていた。すると、説客が言った。
「今回の弑逆は滔天の罪悪。古今未曾有です。ですから、大義の檄文に帰順することを表明すれば、心ある者は響きに応じるように駆けつけてきます。これこそ上策です。それができないのでしたら、腰を低くして義軍のもとへ駆け込みましょう。」
 そこで、王僧達は南へ逃げ、鵲頭にて武陵王の軍と合流できた。王は、彼を長史とした。
 武陵王が尋陽を出発した時、沈慶之がある人へ言った。
「王僧達は、必ず義のもとへやって来る。」
 相手がその理由を尋ねると、沈慶之は答えた。
「彼が先帝の前で議論するのを見たことがあるが、いつでも論旨が明確だった。理の判った人間なら、こちらへ来るに決まっている。」
 柳元景は、自軍の舟が堅固でないことを知っていたので、水上戦が不利であると考え、陸路から江寧へ出た。薛安都には鉄騎を与えて淮上へ出張らせ、朝士へ書をばらまいて順逆の理を説いた。
 呉興太守の周橋は、劭から冠軍将軍に任命されたが、随王誕からの檄文も廻ってきていた。周橋は怯懦な人間だったので、どちらにつこうかとオロオロするばかり。とうとう、府司馬の丘珍孫が周橋を殺して、郡を挙げて誕へ呼応した。
 戊午、武陵王が南洲へ到着すると、降伏する者が相継いだ。
 武陵王は、尋陽を出発してから発病し、将佐の前に出ることでできなくなった。ただ、顔竣だけが王の病室へ出入りし、起居を見守った。王は度々危篤に陥ったが、竣が、王の代わりに事を専断した。このような事が累旬続いたが、舟の中の兵卒達は王の危篤に気がつかなかった。 

  

 乾坤一擲 

 癸亥、柳元景は、密かに新亭まで進み、山を利用して陣を布いた。降伏してきた者は、皆、柳元景へ速進を勧めたが、柳元景は言った。
「そうではない。理の順がこちらにあるとはいえ、それを恃みきることはできない。逆に、悪党の一味は助け合う。防御を忘れて軽々しく進むと、思わぬ隙をつかれてしまうぞ。」
 柳元景の陣がまだ完成していない時、劭の龍驤将軍叔児がこれを知り、出撃を勧めたが、劭は許さなかった。
 甲子、劭は蕭斌へ歩兵を指揮させ、猪湛之に水軍を指揮させ、魯秀、王羅漢、劉簡之へ精鋭一万人を与えて新亭の塁を攻撃させた。劭は、自ら朱雀門へ登って督戦する。
 柳元景は命じた。
「無闇に騒ぐと疲れるだけだ。皆、枚を銜えて戦い、我が軍鼓のみに従え。」
 劭は気前よく恩賞を与えていたので、兵卒達は命がけで戦った。柳元景は水陸から攻撃を受けたが、戦意はますます旺盛。麾下の勇士達は全て戦場へ駆け出し、彼の左右には伝令兵が数人残っただけだった。
 戦争は、劭の方が優勢に進み、勝利目前だったが、魯秀の軍が誤って退却の軍鼓をたたいてしまった。これを聞いて兵卒達が進撃を止めたので、柳元景はこれに乗じて総攻撃を掛けた。劭軍は総崩れとなり、大勢の兵卒が淮水へ落ちて死んだ。
 劭は、自ら後詰めの兵を率いて攻撃を掛けたが、柳元景はこれも撃破した。士卒は争って死馬間へ逃げたので、死馬間の水が溢れてしまった。劭は、逃げる味方を斬り殺したが、そんなものでは止まらなかった。劉簡之は戦死。蕭斌は負傷し、劭は辛くも逃げ延びた。猪湛之や魯秀は南へ逃げた。
 丙寅、武陵王は江寧へ到着した。 

  

 武陵王即位 

 丁卯、江夏王義恭は単騎、南へ逃げた。劭は、義恭の十二人の子息達を皆殺しとした。
 敵は迫るが、策はない。劭と濬は進退窮まった。そこで、将(「草/将」)侯の神像を輦に載せて宮中へ運び込んで安置し、これに祈願を込めて大司馬の官職を贈り、鐘山王に封じた。又、蘇侯神を驃騎将軍とした。ついでに、濬を南徐州刺史とし、南平王鑠と共に録尚書事とした。
 戊辰、武陵王は新亭に宿営していると、大将軍義恭が、彼に即位を勧めた。又、散騎侍郎の徐援が、「義恭を追いかけに行く」と劭を騙して逃げ出し、武陵王のもとへ駆けつけて来た。
 そもそも、武陵王の軍府では、朝廷の典故に精通している人間が居なかったが、徐援はこれに詳しかったので、彼を太常丞として、即位の儀式を司らせた。
 己巳、武陵王駿が、皇帝に即位した。臣下達は、それぞれ進爵する。先帝には「文」と諡する。廟号は太祖。大将軍義恭は、太尉、録尚書事六条事、南徐州刺史とする。
 同日、劭は太子の偉之を朝臣へ拝謁させ、大赦を下した。ただし、駿、義恭、義宣、誕の四人は、大赦から外した。
 庚子、南焦王義宣が、中書監・丞相・録尚書事六条事・揚州刺史となった。沈慶之は領軍将軍、 蕭思話は尚書左僕射。
 壬申、王僧達を右僕射、柳元景を侍中・左衛将軍、宗愨を右衛将軍とした。張鴨は吏部尚書、劉延孫と顔竣は、共に侍中となった。 

  

 じり貧 

 五月、藏質が、ヨウ州の兵を率いて新亭へ到着した。豫州刺史劉遵考は、五千の兵を瓜歩山へ派遣した。
 話は遡るが、世祖(劉裕)は、寧朔将軍の顧彬之へ兵を与えて、随王誕の指揮下へ入れていた。今回、誕は参軍の劉季之と顧彬之の軍を建康へ派遣し、自身は西陵に陣取って後詰めとなった。
 これに対して、劭は殿中将軍の燕欽を派遣した。両軍は奔牛塘にて会戦し、燕欽は大敗した。そこで、劭は淮河に沿って柵を作り、守備を固めた。又、破崗と方山堤を決壊して、東軍を足止めした。この時既に男丁が不足していたので、この工事の為に女子供を徴発した。
 甲戌、魯秀等は勇士を募って大航を攻撃し、これを破った。
 王羅漢は、官軍が渡河したと聞くと武器を棄てて降伏してきた。秦淮の北岸を守備する兵卒達は我先に逃げ出し、壊れて放置された武器が道を埋め尽くす有様だった。
 この夜、劭は台城の六門を閉じて守り、門の内側には柵を立てた。城内はパニックとなり、丹陽尹の尹弘等文武の官吏が次々と城壁を乗り越えて降伏していった。
 蕭斌の部下達は、皆、武装を解除し、石頭から白旗を掲げて降伏してきた。詔によって、蕭斌は軍門にて斬られた。
 劭は、輦や御服を宮庭で焼いた。
 濬は、財宝を持って海上へ逃げるよう勧めたが、劭は断った。人々から見放されてしまったことが判っていたからだ。 

  

 建康陥落 

 乙亥、輔国将軍の朱修之が東府を陥落した。
 諸軍は台城を占領し、各門から入って殿庭へ結集した。そこで王正見を捕まえ、斬り殺す。張超之は合殿まで逃げたところを捕まり、兵卒達によってみじん切りに斬り殺された。諸将はその肉を分け合い、生のまま食らった。
 建平王を始めとする七王は、号泣しながら出てきた。
 劭は、隊副の高禽が捕まえた。殿前へ引き立てると、その姿を見て藏質が慟哭した。
 劭は言った。
「私は、この広い天地に身の置き所一つなくしてしまったというのに、丈人(老人への尊称。武敬皇后は、藏質の姪にあたる。)は私の為に哭してくださるのですか?」
 又、言った。
「私は流刑で済むでしょうか?」
 すると、藏質は言った。
「陛下は航南まで来ています。処分はやがて決まります。」
 劭は馬上に縛られて、軍門へ送られた。
 ところで、伝国璽が見あたらなかったので、劭へ尋ねた。すると、劭は言った。
「厳道育へ預けている。」
 そこで、兵を派遣して入手した。劭と四子は牙下で斬られた。
 濬は、数十人を率い、南平王鑠を擁して南へ逃げた。越城にて江夏王義恭と遭った。濬は下馬して言った。
「南中郎(駿の昔の官職)は、今どうしている?」
 義恭は答えた。
「陛下は萬国に君臨しておられる。」
「私は、来るのが遅すぎたかな?」
「遅すぎたのが恨めしい。」
「私は死なずに済むだろうか?」
「行闕を詣でて罪を請うことだ。」
「そうすれば、卑職なりとも貰えるだろうか?」
「やってみなければ判らない。」
 そして、連れだって帰ったが、その道中にて、義恭は濬と、彼の三子を斬り殺した。
 劭と濬及びその子供達は、大航にて梟首となり、その体は市にて曝し物となった。
 劭の妃の殷氏を始めとする劭や濬の妻妾達は、皆、牢獄で殺された。殷氏が殺される時、彼女は獄丞の江恪へ言った。
「汝は一族で殺し合ったくせに、無罪の妾を殺すつもりか?」
 江恪は言った。
「皇后を名乗ったじゃないか。どうして無罪であるものか。」
「これは時勢に流されただけです。」
 厳道育と王鸚鵡は都街にて、死ぬまで鞭打たれた。そして、その死体は焼かれ、灰は揚子江へばらまかれた。殷沖・尹弘・王羅漢及び淮南太守の沈璞等は、皆、誅に伏した。(璞は、濬の参佐となり、于湖を守って義軍を出迎えなかったので、誅殺された。) 

  

(訳者、注) 

 これは、あの沈璞です!元嘉二十七年、于台太守として守備を固め、僅か数千の守兵で北魏の数十万の大軍相手に籠城した護国の英雄(詳細は、「文帝、恢復を図る、その二」に記載)が、処刑者の中に名前だけお相伴程度に付記されるとは、あまんりな扱いではありませんか。
 百守千城の守将が逃げる中、一人孤城を守った勇気。「大軍が孤城を包囲したら、必ず敗北する。」と断言した知謀。そして、全ての功績を藏質へ譲った謙譲の仁。超一級の武将が、こんな造反事件で誅殺されたというのは、宋にとって大きな損失です。又、彼について、そこに至るまでの経緯や造反中の行動について、全く言及しなかったのは通鑑の大きな手落ちとしか言えません。
 あの沈璞が、大逆事件に関与したことについてどうも合点がいかず、「宋書、沈璞伝(列伝六十、自序に記載)」を調べてみましたら、こちらにはもう少し詳しく書かれていました。
 まず、文帝は濬を寵愛しており、彼が揚州刺史となった時、(元嘉十七年)その補佐として、特に沈璞を抜擢します。以来、上述の于台太守となるまで、ずっと濬の幕僚として活躍しました。
 三十年、劭が弑逆して皇帝となると、沈璞は号泣します。
「我が一門は非常の恩顧を蒙ったのに、このようなことで崩御なされた。何とゆうことだ!」
 日夜憂えて、とうとう病気になってしまいます。二凶の暴虐を聞くにつけ、悲嘆はいや増し、病体はますます重くなり、とても遠出などできない程になってしまうのですが、駿の義軍が進攻してくると、その許へ出向きました。
 ところで、かつて顔竣は璞との交遊を求めたが、璞は断ったことがありました。以来、顔竣は璞へ恨みを懐いていました。そこで、駿が都を占領した時、讒言が起こったのです。
璞は、奉迎に来るのが遅すぎた。」
 そして、とうとう誅殺されてしまったのです。享年、三十八。
 何とも惜しむべき末路です。これも天命でしょうか。資治通鑑に記載されていませんでしたが、特に捕捉しました。なお、彼の伝が、「宋書、自序」に記載されているように、彼の子孫が、宋書を編纂したのです。 

  

 乱の始末 

 庚辰、戒厳令が解かれる。
 辛巳、武帝(駿)は東府へ入った。百官は罪を請し、詔でこれを赦した。
 甲申、武帝の母の路淑媛を尊んで皇太后とする。
 乙酉、妃の王氏を皇后とする。皇后の父は、王導の玄孫である。
 戊子、柳元景をヨウ州刺史とする。
 辛卯、袁淑に太尉を追贈し、忠憲公と諡する。又、徐湛之は司空を追贈し、忠烈公と諡する。江湛には開府儀同三司を追贈し、忠簡公と諡する。王僧綽には金紫光禄大夫を追賜し、簡侯と諡する。
 壬辰、太尉の義恭を、揚・南徐二州刺史とし、太傅、領大司馬へ進位した。
 戊戌、南平王鑠を司空に、建平王宏を尚書左僕射に、蕭思話を中書令・丹陽尹にした。
 ところで、南平王鑠は、もともと自分の才覚に驕っており、武帝のことも軽く見ていた。又、今回の造反事件に際しても、降伏したのは一番遅かった。七月、武帝は、南平王鑠を密かに毒殺させた。司徒を追賜し、穆と諡する。(昔、楚の王子だった商臣が、父親を弑逆して王となったが、その商臣の諡が、穆だった。)