ゆきしろ <二>
常世の王宮は広い。
それ一つが国土に広がる邑をいくつも呑み込めるほどに、広大だ。
その主となった己すらあきれるほど無駄に広いその敷地のひとつに、それはある。
四季折々の樹々に彩られ、喧騒からも切り取られた、碧の斎庭。
其処は名に恥じぬ、見渡すかぎりの緑に満ちている。
踏みしめる大地には小さな、けれど瑞々しい草が絨毯のように広がっている。
吹き抜ける風は、訪れ間近の春の先鋒を引き連れて、ほんの微かな薫りをまとっていた。
耳を楽しませるのは人の手で作りだした楽の音ではなく、風の奏でる葉擦れの旋律と、空から舞い降りてひととき羽を休める鳥の囀り。
「―――美しいな」
武骨な自分でも、素直にそんな言葉が口をついて出た。
かつては此処すらも荒野のように枯れ果てた。
見渡す限りにあったはずの緑は、乾いた風の吹き抜ける赤茶けた荒土となり。
ひび割れた大地はなんの恵みももたらさず。
そのように荒れ果ててもなおこの斎庭に足を運び続けた先皇。
今は亡き父は、心を闇に囚われてのちもひとり籠り、誰にも伺い知れぬ時を求めていた。
それは禍日神によるものだったのか、それとも辛うじて残っていたかも知れぬ、父の意思か。
外界から切り取られた此処で父が何を思っていたのか。その真意を推し量ることは今となっては困難だ。
けれど今この地は、命の喜びを歌うかのように、自然の美しさに満ち満ちて。
―――もしも、父がかつて失われたこの風景の名残を求めてこの地に訪れていたのであれば、今こそ心安んじてほしいと願う。
その日、取り立てた用もなく碧の斎庭に足を踏み入れる気になったのは、なにゆえだったのか。
執務に追われる息抜きか、それとも取り戻した恵みを改めて確かめたかったのか。
他者を納得させる理由など幾らでもつけられようが、そのどれもが己が心の正解とは言い難かった。
あえて言うならば「気が向いた」としか言いようがない。
それほどにただの気まぐれで訪れた碧の斎庭。
だから、それを見かけたのは、本当に偶然でしかなかった。
吹きゆく薫風、踏みしめる大地に満ちる草の感触、視界に広がる緑の鮮やかさに、穏やかな心地よさを感じていたそのとき。
不意に足を止め、見やった先に、見慣れた後姿を認めた。
「―――……千尋?」
国土はいまだ復興のさなか、急を要する案件も数多く、また戦乱にて多くの人命も失われた。
そんな中では、王族の無聊を慰めるための場所に割ける人手も時間もない。
ゆえに、手を入れる者もなく茂るに任せ、樹も草ものびやかに枝葉を伸ばすだけの碧の斎庭。
―――その一画にひとり佇み、枝を広げる樹を見上げる、妃の姿。
千尋の視線の先にあるのは、冬を越したばかりで葉すら纏わぬ寂しい風情の樹々。
今はまだ新芽もつけないそれは華やかさには欠けるが、春になると薄紅の小さな花を無数につけて、美しい花吹雪が風に舞う。
……そう、それは桜という名の。
千尋は、その愁眉を憂いに翳らせて、まだ葉もつけないそれを、ただ見上げている。
白い細面を彩るその色は、少女をひどく大人びさせて。
目の前の樹を見上げているようでいながら、ひどく遠くを見ている。
―――もういない、誰かの面影を、見ている。
気づいていないわけではなかった。
雪に地が覆われる長い冬が終わり、春の気配が顔を覗かせるころになると、それは顔をのぞかせ、時がたつほどに色を濃くしはじめた。
けれどここまではっきりと表に出している様子を見かけるのは初めてで、夫の目のある場所では彼女なりに抑えていたのだろうと察せられた。
碧の斎庭の片隅、大ぶりな枝に小さなつぼみすらいまだつけぬ桜の樹を見るその眼差しは、声をかけることすら躊躇わせる。
―――桜。
思い起こして、アシュヴィンはかぶりを振った。
その樹にまつわる記憶に新しい出来事は、あの男との接点が浅かった自身にとってすら思い出すことが快いものではない。
すべてを覆い隠すように、降りつもる薄紅の花弁。
凄惨なあの場所と、対照的なまでに幻想的に降りしきる桜吹雪の情景。
―――あまりに無慈悲に訪れた、喪失の記憶。
だがそれだけの理由であればむしろ忌避をしそうなものであるのに、切なく、懐かしいものを見るような眼差しで、千尋は桜を見つめる。
おそらくは、葛城にまつわる何らかの思い出が、桜にはあるのだろう。
ちくり、とアシュヴィンの胸に微かな痛みが走る。
それを自覚して、アシュヴィンは口の端に苦笑を浮かべた。
今はもう、無力感に苛まれ、ただ彼女を見守ることしかできなかったあのころとは違う。
だというのに、紆余曲折を経て、愛し愛された今となっても、いまだにこの恋の病は、篤くなるばかりだ。
千尋の視界に入らぬよう、死角になる木陰に身を潜ませる。
首をあげて空を見上げれば、冬を越しても変わらず葉を湛える常緑樹が、陽射しを遮り木陰を作り出していた。
ちらちらと、ゆれる葉の隙間から零れる白い日は、まだ冬の寒さを吹き飛ばすには至らぬ、かよわい光。
木漏れ日の目映さに目を眇めながら、その樹の幹に身を預けた。
千尋の胸には、いつまでも消えぬ影がある。
そんなことは疾うに承知だ。
すべてを承知の上で、その心の片隅の存在すらをもひっくるめて、受け止めると誓った。
だが気にならぬわけではなく―――むしろ、だからこそ、無関心ではいられない。
愛しい女の心の一番深い場所に男の影が刻まれていることを、そうと知りながら心に留めずにいられるほどには、まだ達観しきってはいないのだ。
とはいえ、それは踏み荒らしてはならない領域だ。それもまた、わかっている。
仮に――考えたくもないが――千尋を喪うようなことになったならば。
そうなれば自身もかつての千尋のように心が凍ることなど、容易く答えが出る。
そこに無遠慮に踏み込む者があれば、俺はそれを許さないだろう。
だから―――踏み込んではならない。踏み荒らしてはならない。
アシュヴィンはじっと己の腕を見る。
千尋を、言いくるめたも同然にこの国に連れてきたあの頃。
この腕は彼女にとって無力だった。
国を率いることはできても、愛しい女ひとり、守ることのできない腕だった。
けれど、今は違う。
今は千尋にとって意味のあるものになり。
夜の安寧や、寂しさ愛しさに揺れる心、細く折れそうなほどに華奢な彼女自身など、この2本の腕で守ってやれるものもずっと増えた。
自身の手で愛した女を守ることができる。それは何にも代えがたい喜びだ。
抱きしめて眠る夜を重ねるうちに覚える、時折触れる身体の柔らかさや、春の陽だまりのようなあたたかさ、肌や髪の感触。
そしてなにより、他でもない自分の腕の中で、安寧を与えてやれること。
それが、どれほどの僥倖か。
この幸いと引き換えにこの胸の痛みを耐えよというのであれば、それは破格の代償ではないだろうか。
拳をぐっと握り締めて、瞳を閉じる。
瞼の裏には、かつて氷の彫像のように心を凍らせた千尋の姿が浮かぶ。
―――あのような哀しい顔をさせずに済むのであれば。この胸の痛みなど何ほどか。
気配を悟られぬように注意を払いながら、そっとその場を後にした。
見上げる空はどこまでも蒼く。抜けるように高く。
その果てのない空へと千尋が飛んでゆきそうな、そんな埒もない物思いに囚われた。
千尋は、桜の枝を見上げる。
―――桜には、ひどく心囚われる。
いまだ新芽もつけぬそれは、春になれば故国のそれのように、薄紅の花を満開に咲かせるのだろう。
桜。それは遠き異国の地において、数少ない彼の人を偲ぶよすが。
瞳を閉じれば、今でも満開の桜が瞼の裏に浮かぶ。
果たすことのできなかった、ささやかでいてとても大事だった約束。
舞い散る花吹雪の中に眠るあの人の姿は、いまだ心に痕を残している。
大切な優しい思い出と。
残酷な悲しい思い出と。
二重の意味で、桜はあの人を思い起こさせる。
短い人生のすべてを、国のために尽くしてくれたひと。
守りたかった。報いたかった。幸せになってほしかった。……けれど、叶うことはなく。
私は、あの人にふさわしい姫で―――王であれただろうか。
―――私は、中つ国の王だ。
真の意味で望んで就いた地位ではなかったかもしれない。
けれど、自分で選んで、決めた結果だ。
周囲のみなが、少しずつ自分を認め、慕ってくれるのが嬉しかった。
何もできない非力な姫だと自らを責めていた幼少のころに比べれば、この身には格段の意味があった。
それがたとえ「千尋」でなく、「ニノ姫」に対してのものであったとしても。
そしていつしか、ともに肩を並べて戦場を駆けたあの人に恋をして。
誰に褒められるより、あの人に認められるのが嬉しかった。
頑なであったあの仏頂面に、少しずつ感情が覗き始めるのを知るのが嬉しかった。
かつては己の非力さに釣り合わぬと嘆いたこの身に流れる血すらもが、彼の希望となり得ることが誇らしかった。
国のために、民のために。
文字通り命を削って尽力してくれたあの人に、ようやく報いることができると思ったその矢先に。
まだ若いその命を、舞い散る花弁のように散らされてしまった。
残された私は、抱えたものがあまりに大きすぎて、後を追うことも、何もかも捨て去ることも、悲しみに泣き暮らすことすら許されず。
誰よりも、中つ国のために生きたひと。
中つ国の再興はあのひとの悲願でもあったがゆえに、国を捨てる道を選ぶことは裏切りでもあった。
あの人を喪った私には、国のために生きることが、たったひとつ残されたあの人と繋がる術であったのだ。
だから、私は中つ国の王であり続けた。
常世に嫁いだ、今となっても。
いまだ冬の名残を残す風が、ひゅうと吹きすぎて体温を奪っていく。
ぶるりと震えた自分の身体を、ぎゅ、と抱きしめた。
この身は今、常世の皇妃だ。そして……アシュヴィンの、妃だ。
あの頃の私の心は、今にも切れそうなほどに張り詰めていた糸のよう。
自分を守るためだけでしかない勝手な私の選択を、アシュヴィンは温もりでくるむように優しく柔らかく受け止めてくれた。
いつしか、私の心の糸には彼の心の糸が添い。
縒り合わせた糸が切れぬかのように、彼という糸に支えられ、私の心は息を吹き返していた。
掌を胸元にあてて、そっと目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶ面影は、白く、静かで。
たくさん、たくさん泣いた。悲しみに捕らわれていたころから、ずっと。
いっぱい泣いて―――もう、あの人のことで泣かないと決めた。ううん、あのひとを――己の不幸の理由にしないと。
あの人が守り通してくれたこの命を、幸せに生きることができたのだと、遠い将来に胸を張って言えるように。
ざあっ、と周りの木々が葉擦れの音を奏でた。
耳を打ったその音に促されるように閉じた瞳を開けば、碧の斎庭に敷き詰められた草で作られた緑のじゅうたんを、風が波を描きながら吹き過ぎて行った。
美しい、斎庭の情景。
それは恵みを取り戻した常世の縮図だ。
アシュヴィンが、守りたい取り戻したいと切望していた、彼の故国の姿。
それを思うと、胸にあたたかいものが生まれる。
―――アシュヴィンが、好きだ。
王としても、夫としても、千尋の手をとり導いてくれる、大きな存在。
忍人との恋が炎が燃えるようと譬えるならば、アシュヴィンとのそれは、小さな苗木をゆっくりと育てるよう。
そばにいて、見て、触れて、感じて。
彼の数多ある一面に触れるたび、ひとつ、またひとつ心に小さく想いが芽吹く。
忍人への恋心は、変わらず胸の奥に眠っているけれど、アシュヴィンへの想いもまた、この心にしっかりと根を張っている。
―――だからこそ、思い悩んでしまうのだけれど。
それは、今が幸せであればあるほどに。
愛し、慈しんでくれる彼の想いに、応え、報いたいと思うたびに。
心に波紋が生まれて、私を揺らがせる。
ずっと幸せに酔うことだけが許されるわけもないと、わかってはいる。
答えを先延ばしにできる限界が、来ているのだと。
―――もう、決断しなくちゃ。
すう、と息を吸い込んで背筋を伸ばした。
さく、と地面を踏みしめる音を立てて桜の樹に背を向ける。
さくさくさく、と歩を進める音が斎庭に響く。
桜の樹が他の樹々の影に隠れて見えなくなろうかというころ、足音は途切れた。
ラストの「足音が途切れた」ってのは、決断しなくちゃ、と桜に背をむけたのに、また振り向いてしまった、というニュアンスをこめてます。わかりにくいよ。
このへん文章で表わすとすっごい難しいですね。言葉にするとなんかいろいろと台無しっていうか。サイレントにするとわりと雰囲気が出るシーンだと思います。描けないけど。こーゆーとき、絵心が切実にほしくなりますね。
お互いに相手を大切にしたいんだけど、それと同じくらいお互いに遠慮しすぎてちょい空回り。
しかし見方を変えると、徹頭徹尾ノロケだったりするんだな。
あの人→忍人。 彼→アシュヴィン。一応書き分けたつもりなんですが念のため。
きりのいいところでぶっちぎったら、1話目と2話目で殆ど話が進展していないという不思議。あれー?