ゆきしろ
−1−
譬えるならば、それは氷に閉じ込められた花のつぼみか。
今にも開かんとしていた花弁は、その瞬間の訪れを奪われて、咲き誇ることもなく、凍てついた。
固く冷たく凍りついたその花は、自身を慈しむ腕すらをも鋭利に傷つけて。
それでもなお包み込む、ぬくもりの中で。
少しずつ、少しずつ、ゆるやかにその氷の破片を落としていった。
そして雪景色の広がる冬の日に。
遅まきの春を迎えたつぼみは、その花弁を綻ばせる時を迎えた。
されど花は咲き切らず。
綻びはじめた花弁は、咲くとも咲かぬともつかぬまま、時を刻み続けていた。
部屋に灯されたいくつもの灯りがちりちりと燃える。
夜が更けると、長椅子に腰を掛けて竹簡を広げながら夫の訪れを待つのが、千尋の日課となっている。
ひゅう、と開け放していた窓から吹き込んできた風に、灯りがいくつか揺れた。
光が揺らいだことと、意識が外に向いたことによって自覚した肌寒さも手伝って、千尋は窓を閉めるために竹簡を脇に置いて立ち上がった。
ばたん、と窓が閉じられると、室内はより静寂に満たされる。
再び竹簡を読むために長椅子に戻ってきて―――薄暗い部屋と、脇机にどっさりと積まれた竹簡の量に、ふと既視感を覚えた。
口の端に小さな笑みを刻んで、ぽすんと長椅子に座る。
先刻閉じた竹簡を手にとって、夜の静寂の中、燭の灯火のもと、しゃら、と硬質な音を立てて竹簡を開く。
覚えのある光景。そう、この国に形ばかりの約束で嫁いできたころだ。
あのころは、時間を忘れるように執務や勉強に没頭していた。
机の上には毎夜山のように竹簡が積み上げられ、机の上で眠ってしまったことも幾度もある。
今では、読む量も、それに割く時間も加減をし、無理をしないように心がけている。
そんな変化を呼んだのは、千尋が夫を―――アシュヴィンを、ようやくまっすぐに受け入れられるようになってからだ。
―――アシュヴィン。
毎日顔を合わせているというのに、その名を口の中で呟いたとたん、ぼっと頬が熱をもった。
熱を孕んだ頬を冷えた指先で覆っても、熱は引かない。
一度意識してしまうと、脳裏にともった面影を振り払うのは困難だった。
結婚してから自覚した恋というのは、非常に厄介だ。
隠すのもおかしな話だし、かといって大っぴらに表すのも憚られる。
―――それに私たちは……。
思考がある一点に達すると、千尋の表情は羞恥以外の感情に取って代わられる。
彼を好きだと自覚し、想いも告げたのは冬の盛りの頃。
哀しみの色に塗りつぶされていた千尋の心に、ようやく色が戻ってから、いくらも経ってはいない。
物語を「めでたしめでたし」で締めくくるには、互いに抱えたものがまだ数多い。
いくつかの懸念が複雑に絡み合って、浮き立った心に重石を乗せる。
夫を想って思い煩うと言えば艶やかなのであろうが、そこには実情との大きな壁がある。
溜息とともに長椅子の背に体重を預けると、かすかにキシリと鳴った。
千尋は、積み上げた竹簡を脇に寄せ、机に置かれた黒塗りの箱を手に取った。
膝の上に抱え、つ、と固く結ばれた紐に指を滑らせる。
厳重に、かつ仰々しく納められたそれは、中つ国からの親書が納められている。
幾度も読み、理解もしたつもりだ。けれど返書をしたためることに、いまだ躊躇っていた。
返書をしたためるならば、自分はなんらかの形で答えを返さねばならない。
もう少し、もう少しと、先延ばしにしてきてしまったが、いつかは答えを出さなければならないことだ。
千尋はゆっくりと首を横に振って、その箱の紐を解くことなく、再び机上に戻した。
頬の熱は引いたが、思い煩うのは相変わらずだ。
再度読みかけの竹簡を手にし、そちらに意識を向けようと試みたが、綴られた文字を目で追いながらも、なかなか頭の中に入ってこない。
しばらくの間悪足掻きをしたものの、ついに読み進めるのをあきらめて、ふう、とひと際大きくため息をついたとき、ふと手元に影が落ちた。
「―――どうした、憂い顔で」
「アシュヴィン」
見上げればいつの間に来たのか、千尋の顔を長椅子の背に手を突いて、後ろから覘くアシュヴィンの姿。
お互いにさかさまのまましばらく見つめあう。
「なんでもないわ」
「なんでもないという顔ではないだろう?」
答えねば離さぬとばかりに頬を両手で包みこんですっと詰めよる夫の顔を、千尋はじっと見つめる。
アシュヴィンは、千尋自身が意外に思うほどに、千尋をよく見ている。
表に出していないと思っていたことすら、見逃さずに掬い上げてくれる。
それをこうして口に出すようになったのは最近のことだけれども、あのころから彼は幾度となく自分の様子を気遣ってくれたのだろう。
固い殻に閉じこもった自分を、優しく、慈しむように。
千尋は笑顔を浮かべてさかさまのまま近くなった夫の頬に指を伸ばした
「……さびしいから、あなたに会いたいなって」
「これはこれは、嬉しいことを言ってくれる」
頬に伸ばされた手を優しく掴んで、アシュヴィンは瞳を細めて笑みを浮かべる。
嘘ではない。先ほどまでの思いの中には、彼の訪いを待ち望む心情も確かにある。
けれど、それが今この心を占める憂いの理由ではない。
胸に凝ったものを口にすれば、彼は受け止めてくれるだろう。けれど、それは甘えだ。
先刻の千尋の言が、必ずしも真実でないことは、アシュヴィンとて察しているに違いない。
それでも、あえてごまかされてくれるのは彼の優しさだ。
これもまた、彼の優しさに甘えることになるのだろうか。けれどそれでも。
―――もう少し、あと、少しだけ。
千尋は、心の澱を微笑みの下に隠して飲み込んだ。
アシュヴィンはさらりと髪を梳くようにしてから軽く千尋の頭を撫でると、長椅子から離れた。
続き部屋になっている隣室に我が物顔で足を踏み入れると、外套や上着を脱ぎ捨て、ゆったりとした夜着に着替える。
当然のようにこの部屋に用意されているアシュヴィンの夜着。
それはこの国に来た時から―――まだ、アシュヴィンに対して心を開いていなかったときから変わらない。
「千尋」
そしてそのまま隣室―――寝室から、千尋を呼んだ。
この国に来たころと比べて一番変わったことと言えば、千尋の心の内に他ならない。
それに次ぐものを挙げるのであれば、夜の過ごし方だろう。
同じ部屋で寝ていても、同じ寝台で眠ることなど、まずなかった。
―――少なくとも、アシュヴィンは長いことそれを千尋に疑わせなかった。
魘される千尋を気遣い、夢路を守らんがために千尋を腕に抱きしめて宥めてくれていたことを千尋が知ったのは、随分と後になってからだ。
アシュヴィンは一足先に寝台に腰を下ろすと、その手を伸ばす。
おずおずとその手に千尋の白い手が重ねられると、壊れ物を包むかのように優しく握りしめられる。
そのままそっと引かれれば、アシュヴィンの隣に腰を下ろす形になった。
アシュヴィンは、千尋の前髪を優しく掻き上げると、その額に唇を落とす。
そしてせがむように千尋の瞳を見つめると、頬を染めながらも千尋も同じようにアシュヴィンの額に唇を触れさせる。
何度繰り返しても照れくさくて、恥ずかしげに視線を逸らす千尋に、それでも満足したようにアシュヴィンは笑顔を浮かべて寝台に身を横たえる。
そして彼は当然のように両腕を広げて、千尋を待つのだ。
恥ずかしさと照れくささに顔は熱を持つものの、千尋は抗うことなくその腕の中に収まる。
しなやかに引き締まったその腕は、熱くて力強く、けれどまるで硝子細工を包みこむかのように優しいのだ。
その腕の中で瞼を閉じると、泣きたいほどに幸せで。
慈しむように優しく、けれどしっかりと腕の中に千尋を引き寄せて、アシュヴィンはもう一度額にキスを落とした。
「―――おやすみ、千尋。良い夢を」
くすぐったいような優しい額へのキスは、就寝前の二人の儀式のようになっている。
アシュヴィンと共寝をするのは、毎夜のことではない。
共寝といっても、本当に寝台を共にして眠るだけだ。
結婚して数か月が経つというのに情けないとは思うが、始まりがあまりにも歪だったのを思えば、ようやく正道に戻りつつあるとも言える。
いや歪であったというのは正しくないかもしれない。
彼は最初からまっすぐに自分だけを見つめてくれていた。
それに気づかず、悲しみに心を浸したまま扉を閉ざしていたのは千尋だ。
暖かい腕に包まれたまま顔を上げれば、アシュヴィンの優しいまなざしとぶつかる。
愛おしげに見つめるその瞳に、再び千尋の頬は熱を帯び、すぐさまに俯いて視線を逸らしてしまう。
しっかりと抱きしめられているこの姿勢では、彼の胸元に顔を埋めることになってしまい、どきどきと早鐘を打つ心臓を持て余した。
アシュヴィンは千尋のそんな初心な様子すら楽しんでいるようで、ふっと微笑んだ気配を微かに感じた。
紆余曲折を経て、ようやっと自覚したばかりの恋。
それはいまだ芽吹いたばかりの若々しい新芽のようで、いまだ彼の愛情の奔流を真っ向から受け止めることができない。
アシュヴィンもそれには理解を示し、こうやってただ腕に抱いて眠る夜を重ねて、ゆっくりと待ってくれている。
気にすることはない、急くな、と笑ったアシュヴィンに、申し訳ないと思いつつも、彼の優しさに甘えてしまっている。
心の準備が未だ追いつかぬ千尋を気遣って、優しく共寝を重ねる夜。
いつか自然に彼を受け入れるときがくるのだろうが、今はまだ、覚悟の足りない臆病な心が邪魔をする。
アシュヴィンの訪れのない夜もある。
皇の政務に追われるアシュヴィンは、急な事態に夜を徹することもあれば、急使を迎えることもある。単純に雑務が立て込み結果日を跨ぐことも。
千尋は王としても妃としても日が浅く、日々の執務も、執務を執るというよりはまだまだ学ぶことのほうが多いと言ってもいい。
未だアシュヴィンの支えになれるほどの存在にはなれてはいない。
アシュヴィンの妃であることと、常世の皇妃であることは、同じようでいて大きく違う。
今更ながらにそれを思い知る。
自分は覚悟も自覚もないままに彼の言葉に甘えてこの地位についてしまったのだと。
ああ、本当に。
気がつけば、最初からずうっと、自分はアシュヴィンに甘えてばかりだ。
この国に嫁してきたころは、「名ばかりの妃」であった。
けれど今は、「名ばかりの皇妃」だ。
―――その自覚は、千尋の心をちくちくと苛む。
たくさんの幸せと、腕一杯の愛情と、そして一欠片の己への失望を抱えて、千尋は眠りの園へと向かうために瞼を閉じた。
眠る妃の顔をそっと窺いながら、アシュヴィンは千尋を抱きしめる腕の力をほんの少しだけ強める。
妃を腕に抱きしめて眠る。
夫婦としてこんな当たり前のことが、当たり前にできるようになるまでに、幾月もの歳月が必要だっただろうか。
ままごとのような就寝前の額への口付けも。
ただただ抱きしめて眠るだけの夜も。
世の恋人たちと比較しても歯がゆいほどのゆるやかな歩みが、自分たちには似合いなのだろう。
想い交わした愛しい女を腕に抱いたまま、手も出せずに夜を過ごすというのもなかなかに忍耐を求められることだが、さほどの苦痛ではない。
眠る妃が魘されるのを、何もできずにただ抱きしめていたあのころに比べれば、心に追う負担は随分と軽いものだ。
なにより、当の妃の公認のもと、堂々と抱きしめて眠ることが許されたことは、大いなる進歩と言っていいだろう。
夜闇の中で添いながらも心は離れていた虚しさとは比較にならない幸福。
短かろうが長かろうが、時が満ちれば咲くとわかっている花を待つ時というのは、切ないながらも甘美なものだ。
「…………千尋」
腕の中で眠る少女が起きない程度に、囁くようにその名を口の端に乗せる。
まるで樹々から零れる光のようにさらりと流れる金の髪は、触れてみると細くてやわらかく、本人を映したように繊細だった。
飽くことなくその髪を梳いて指に遊ばせていると、心地よいのか、千尋の寝顔に寛いだような笑顔がほんのり浮かぶ。
胸の奥から愛おしさが溢れて、そっと、その白い頬に、唇を落とした。
夜毎抱きしめて眠るとき、恥じらい以外の色を添える妃の様子には疾うに気が付いている。
幾度となく探りを入れても、はぐらかされるか飲み込むか。いずれにしろ素直に心を晒してはもらえない。
それがもどかしく、水臭いと思わないでもないが、無造作に心の内に踏み込むことには躊躇いを覚えてしまう。
千尋が何も言わないのは、自身で解決せねばならぬことと己で律しているのだと察し、強いて聞き出したい衝動を理性で堪えている。
無理に暴けば、漸う綻び始めた蕾は、また再び固く閉じてしまうだろう。
―――かつて悲しみという棘に身を包んでいたころのように。
以前はもとより今ですらも、千尋のためにしてやれることは片手の指でも余るほどに少ないのだ。
ならばせめて、数少ないそれを捧げてやるほか、何ができるだろう。
―――今自分にできることは、彼女の平穏を守り、ありのままの彼女を受け止めること。
今宵もまた、愛しい妃の夢路を守るように、懐深くに華奢な身体を抱きしめた。
様々な思いを互いの胸に秘め、夜の帳の中、二人の穏やかな息使いだけが、寝所に満ちた。
「ゆきしろ」です。雪白じゃなくて雪代。なんとなくひらがなで。「不香の花」の続きです。番外編というよりは続編。「不香の花」で中途半端に風呂敷広げて未消化だったネタを消化したいなーとか、格好いいというより懐の深いアシュヴィンが書いてみたいなー、とか、ネタ帳にこれ絡みで広げられそうなネタがあったので、せっかくなのでつなげたいなーとかとか。
そんな感じの動機がちょろっとありまして、再び連載始動。ぶっちゃけ勢いだけで書いてるので、2話目以降が現在まったく予定が立っていません。つらつらと書いていきたいと思います。相変わらず無計画。とりあえず話数が前作を上回る事態は避けたい(笑)