甘露の毒(前編)



月が、皓々と輝いていた。
時刻は既に夜半を過ぎ、闇と魔の領分。

開いた窓にぞんざいに腰掛け、月光を浴びながら、
我は月よりも、灯りの消えたその部屋に意識を傾けていた。


部屋の片隅に据え付けられた寝台には、
緑為す黒髪を散らし、一人の女が横たわっている。

ゆるやかに上下する胸が、確かにその者が生きている証だが、
風もないこの宵闇の中、動くものといえばそれだけだった。

飽きもせずにそれを見つめ続けて、幾刻経ったであろうか。



「………ん……」

微かに声を零し、寝台の上で、女は軽く身じろぎをしながら瞼を開けた。


「……目を覚ましたか」

声をかけると床に横たわった女――葵が、力弱くこちらを見た。

「……紅丸……」

「身体はどうじゃ」

「……うむ、今日は幾分楽なようじゃの」

そう答える葵には、だがかつての生気は失われている。


「――そうか。ならば、血をいただく」

我は反論を待たず葵に覆い被さるような姿勢で両脇に手をつき、
その白い首筋に、唇を這わした。
葵の白い肌を介し、傷を付けることなくすぅっと我に流れ込む。
雫にすればほんの僅かであろうが、過去数百年、幾度もこうして血を摂った。
我が生きるため、我が我であるために。

――かつては、摂らずに十数年生きたこともあったが。


首筋から唇を離すと、葵は困ったように笑う。

「……もう、おぬしに私の血は毒であろうに」

――葵の血は、微かに苦みを帯びるようになっていた。



それは、葵が病を患った時期と一致する。

八方手を尽したが、はかばかしい治療法を見つけるには至らず、
結局のところ、せいぜい養生するしかないという、苦々しい状態だ。
葵は弱る一方。我の目にも、じわじわと黄泉に近付いているのが感じられた。


――そうと知ったとき、我はひとつのことを決めた。



それからというもの、葵の体調のよいときを見計らい、こうして血をもらう。
身体が弱って伏せっている葵から一度に大量には摂れぬので、
頻度としては以前より増したかも知れぬ。

「今は、日野平に連なるものがもう一人おるであろう。
片意地を張らず、あれに頼んで血をもらわぬか」

「断る。あれに頼るつもりはない」

葵は答えが分かっていたように苦笑を浮かべる。

「……病人に血をもらうは良くて、娘に頼るは嫌か。
ほんに、仕方のない父御じゃ」



故郷を遠く離れたこの地にて、葵の他に日野平の血に連なる者。
それは葵の産んだ娘に他ならない。


葵の子。

そして……我の、子。



「我が血を貰うはぬしが最後とそう決めた。今更それを翻すつもりはない。
……あれにはあれの人生があろう。父とはいえ、妖を抱えることはあるまい」


我と葵との間にもうけた一人娘は、すでに一人前と呼べるほどに成長し、
伴侶にならんとする者も見つけていた。

――もう、親が亡くとも立派に生きてゆける。



「……この、意固地者が」

説得を諦めたようにどこか力弱く微笑んで、葵は頬に掛かった髪を避けた。
さらり、と指で避けられた髪が流れる。
それは昔と変わらず黒く艶やかで、病を得てもなお、葵は美しい。


葵の血に病の毒素が混じれば、それを糧にしている我の身も蝕まれる。
分かっていても、この行為をやめるつもりはさらさらなかった。


葵の血が我が身に毒となるなら、それも構わぬ。


「かつて我はこの身が朽ちるまでともに在れと、ぬしに言った。
約定は違えるな。ぬしが逝くなら……我も共に逝かせろ」


「それは……確かに言うたが。
……最後まで我が儘じゃのう、おぬしは。
傍におれと駄々を捏ねられたのが、昨日のようじゃ」


「ふん、あれを駄々というか。
…それでもよい。最後にぬしを手放さずに済んだのなら、
駄々の捏ね甲斐があったというものであろうよ」

「……そこで認めるな。妙なところで素直になりおって」

葵はくすくすと笑う。


それがおさまると、葵は瞳を細め手を伸ばし、
いまだ覆い被さる姿勢の我の髪をその白い指で梳いた。


「この国で、異邦人たる我らの魂が生まれ変われるのかどうかは知らぬが、
おぬしが共にあるなら、死してのちに彷徨えるも、悪くはない。
……黄泉の旅路も共にするか、紅丸」



灯火は月光のみの、暗い部屋の中、
再び瞳を閉じた葵の手を、我はそっと握った。




100のお題�bU4「毒」。
今回は前後編。前編と後編を合わせてもいつもの話と同じ位の長さしかないのですが、
なにしろ後編のあまりのご都合主義が、前編のなけなしのしっとり感台無しにしますんで(笑)
前編の切なさ(あるのか)に感動してくれた人(いるのか)は、後編読まずに居た方がいいかも(笑)
別に後半ギャグじゃないんです。ギャグじゃないんですけど……(笑)
それでもいい、というお心の広い方のみ、Nextからどうぞ。