不香の花 <十>

― 瑞花 ―




「………アシュヴィン」

千尋は、瞳を閉じたままの彼の頬を、そっと撫でた。

倒れ伏す彼の姿がかつて桜吹雪のもとで命散らせたひとを思い起こさせ、ふたたび凍りつきそうになった心が、歓喜に震えている。


―――嬉しかった。
目の前のひとが生きていてくれたことが、涙が止まらないほどに。

今度こそ、自分は間に合うことができたのだ。






フォ―――――ゥ…………



突然の黒麒麟の嘶きに、千尋ははっと顔を上げた。

振り向けば、黒麒麟は落ちつかなげに、がっがっと幾度も地面を蹄で蹴る。
鬣を振り乱しながら、空に向って首をあげ、再び嘶きをあげた。


フォ―――――ゥ…………


空気を震わせる嘶きが、高らかにあたりに響き、深い森の中に木霊して、山の空気に溶けて消えていく。
驚きに目を瞠らせる千尋をよそに、黒麒麟は幾度もそれを繰り返す。



そして幾度目かもわからぬほどに繰り返された黒麒麟の嘶きの木霊が溶けて消えたとき、がさり、と思いもよらぬ方角から、茂みを掻き分ける音が響いた。

「………お前か、ニノ姫」

聞き覚えのある声に、千尋はびくりと身体を震わせた。
まさか、と思いながら声をした方角を振り向いたとき、果たしてそこにいたのは。



燃える炎のように揺れる赤い髪。
常世の国には珍しく色素の薄い肌。
少し草臥れた、白を基調にした装束。
細身の体躯にそぐわぬ大きな長剣を腰に佩いている。
そしてなによりその顔に、千尋は大いに見覚えがあった。

「――――あなた……生きて……!」

そこには、橿原宮陥落を境に姿を消した常世の皇子、ナーサティヤの姿があった。









「ナーサティヤ、アシュヴィンを助けて……!」

理由も経緯も構わず、気づけば叫んでいた。
敵として立ちはだかったときには威圧すらも感じたその長身の体躯が、今では希望をもたらす神にすらも見える。

千尋の言葉に傍らに伏す弟の姿を認め、ナーサティヤは何事があったのかのおおよそを察した。

「―――エイカ」

ナーサティヤの言葉に応え、彼に影のように付き従う土蜘蛛の青年が姿を晒した。

「はい。すぐに変若水を」

一言応じ、再び気配が消えていく。



千尋は、安堵に身体中から力が抜けて、ぺたりとその場に座り込んだ。
その脇を通り過ぎるようにしてナーサティヤは膝をつき久しく離れていた弟の顔を覗き込んだ。

「……少し、やせたな」



アシュヴィンが、この近辺に来たであろうことは察していた。

夜も明けやらぬうちにあれだけ派手に鳴神が轟けば、いやでも気づくというものだ。
だが、馴染んだ黒麒麟の気配が、太陽が中天に昇るころにこの地に参じたことを感じて、違和感を覚えた。
呼び出されたのではなく、駆けてきた。自らの主のいるはずの地に。

常ならぬことが起きれば、何事かと訝しんで当然だ。
追い討ちをかけるように黒麒麟の嘶きが響けば、なおさらに。

自分を呼ぶように幾度も響く嘶きを頼りに森を掻き分け進めば、なかば予想通りに自分の弟と―――そして、かつて刃を交えた敵国の姫と顔を合わせることになった。




「エイカが変若水を持ってくるまで、とりあえずは止血を」

ナーサティヤの言葉に、はっとして千尋は我に返る。
そうだ、それすらもしなくてどうするのか。
先ほど力づくで破って放り投げた衣装の切れ端を拾い上げると、いくつかの帯に裂いて間に合わせの包帯を作る。
ナーサティヤの手によって茂みから降ろされ、千尋は傷口を縛り、血に汚れた肌を拭いた。
すべきことをやり終えると、改めて目の前の人物のことを考える余裕が生まれる。

思い返せばこの崖下に降りるとき、黒麒麟が戸惑うようにその身を空に留めていた。
あれがナーサティヤの気配を感じ取ったことによるものだとしたら、説明がつく。

「ナーサティヤ……」

橿原宮でまみえて剣を斬り交わし、そして別離したあのとき、確かに彼は生きていた。
止めを望む彼に、割って入ったエイカの存在と、それに感ずるところのあった忍人の言葉によって。
そしてあの一画が炎に落ちてから杳として行方の知れなかった常世の皇子。
考えてみれば気づいてもよかった。彼は火雷。炎は眷属だ。炎が彼を害することなど、あろうはずもなかったのだ。


「なぜ…戻らなかったの。シャニと、口に出しては言わないけどアシュヴィンだって、あなたの帰りを信じて待ってるのに…!」

「……常世は、すでに新しい道を歩み始めた。アシュヴィンの導く国は、新しき道を拓く国となるだろう。
―――古き国に殉じた者は、今の常世にはかえって障りとなる。
新しき皇としての治世も、まだ盤石ではない。アシュヴィンもまた、万能ではない。
目の届かぬところで燻るものは確かにある。それらが火種になる前に消す役目を担うものも必要であろう」


その言葉に、千尋はナーサティヤがこの一年近くをどう過ごしていたのかを、薄々と察した。
選んだ道こそ違ったが、彼の求める常世の姿は、アシュヴィンの求めるものと乖離するものではないはずだ。
アシュヴィンの選んだ道で常世に光が戻った今、表舞台から去り、影で人知れず彼を支えることを、今のナーサティヤは選んだのか。




「しかし、お前はひとりでここに来たのか、ニノ姫」

「え?ええ……黒麒麟に、乗せてもらって」

「……それでアシュを見つけたとて、どのようにして連れ帰る心づもりだったのだ」

問われて、千尋は虚を突かれたように目を瞬かせた。

アシュヴィンは成人男性の体躯に相応しく、それなりに大きく、重い。
黒麒麟がいても、アシュヴィンを乗せて黒麒麟を駆ることなど、ここに来るまですらしがみついてばかりだった千尋には無理だ。
言われてみて初めて気づいた大問題に、千尋はうろたえた。

「……アシュヴィンを見つけることしか考えてなかった…」

その言葉に、ナーサティヤはひとつ大きな溜息をついた。
呆れて当然だろう。千尋自身、今になって冷や汗が出る。

だが、ナーサティヤは溜息の後ほんの少しだけ口の端をあげて穏やかな笑みを刻んだ。

―――考えなしで無鉄砲な、感情的な行動。けれど、彼女が黒麒麟で降り立たなければ、自分たちがこの場に来ることもなかった。

それに、とナーサティヤは視線を上にあげる。

見上げた視線のその先には、崖の中腹にせり出すように茂っていたと思われる樹木が、無惨に枝を折られているのが見てとれた。
崖の中ほどにひとつ、さらにそのいくらか下にもうひとつ。
あれらの枝が緩衝材の役目を果たしたのだろう。

かつて荒廃を極めたこの常世。
禍日神を墜とし瑞々しい恵みをよみがえらせたのは同盟者としてのアシュヴィンを含めた中つ国の者たちだ。
そしてそれは、戦友として彼を懐に迎え入れた中つ国のニノ姫の意思あってこその成果。
―――彼女自身が、アシュの命を繋ぎとめたとも言える。

「たまたま私たちがこの地にいて、息のあるアシュを見つけるなどという、砂漠で硝子の欠片を見つけるような確率の運を引き寄せたのだ。
―――死にはせんだろう」

ナーサティヤが力強く請け負ったその言葉に、器を手にし戻ってきた土蜘蛛―――エイカが頷いた。

「まだ黒雷様のさだめは黄泉路に向かいきってはいないのでしょう。
……かつて葛城将軍を陥れたわたくしを信じろとは申しません。ただ、黒雷様の生きる意志を、御信じ下さいませ」


エイカが差し出した器を、千尋はそっと慎重に受け取った。
中に満ちている変若水は霊水。傷つき倒れたものを癒すそれでも、死する定めのものは救えないと、いつか遠夜が言っていたのを思い出す。
ゆらゆらと揺れる水面は、まるで千尋の不安を現しているよう。

―――お願い、アシュヴィン。目を覚まして…!

千尋は器に満たされた水に口をつけ、僅かに呷って口に含む。
そして未だ瞳を開かず横たわるアシュヴィンの唇に、ためらいなく自分の唇を重ねた。
ごくり、とアシュヴィンの喉が動き確かに嚥下したことに安堵の息をつき、再び変若水を口に含んでは幾度も幾度も繰り返す。
器がすっかり空になったころには、心なしか、アシュヴィンの呼吸が落ち着いたようにも見える。
願望の見せる錯覚でないことを祈って、千尋はアシュヴィンの隣に座り込む。

「……彼岸に往かれるか此岸に立ち返るか。それは黒雷様次第です。
あとは、答えが出るまでの時を待つだけしかありません。しばしお休みくださいませ」

休息を勧めるエイカの言葉に、千尋は首を横に振った。
これ以上何もできないとしても、離れる気にはなれない。

「……傍に居させて。お願い」

千尋の静かな、けれど強い意志の言葉に、エイカは説得を諦めたように一礼した。





待つだけの時間というものは、ひどくゆっくりと流れているように感じる。
千尋はアシュヴィンの寝顔をただずっと見ていた。

いつかの情景が、ふっと今の姿に重なる。
場所はこんな山の中でなく、根宮の豪奢な部屋の中だったけれど。
彼が目を覚まして、押し倒されて、心の内を無遠慮に踏み込まれそうになって。
今でも少し痛みを伴う思い出だけれども、あの時に触れたのは、彼の想いのひとかけら。

―――千尋、俺を見ろ。お前の瞳に映るのは誰だ。

今ならあの問いに、きっと答えを返すことができると思うのに、今度はなかなか目を覚ましてはくれない。



どれほどに時間が経ったのか。
宮を離れたときには中天にあった太陽も、すでに沈みかけて空を黄昏に染めはじめている。
一日越しの心労と疲労で、身体が休息を求めて眠気が襲ってくる。
重くなっていく瞼に抗えず、ふっと傾いだ身体を誰かが受け止めたような感覚を最後に、千尋は眠りの園に落ちて行った。











アシュヴィンは、暗闇の中でたゆたっていた。

水に浮かぶように、風に流されるように、炎が揺らめくように、大地が眠るように。
時にして数秒か数分か、あるいは数年もこうしているような、感覚の狂う不思議な空間に、ぽつりと己の存在だけがある。

「―――っ」

ちりちりと微かに皮膚を刺す感覚に虚ろな意識が覚醒する。
自らの身体を見下ろしてみれば、小さな光の珠のようなものがふわふわと飛んでいた。

ゆっくりと淡く暖かな光を放つものがひとつ。
静かな光を放って、淡い光の珠に添うように従うものがひとつ。
そして小さいながらも強い輝きを放つものがひとつ。

先ほどから触れては離れ、刺激を与えていたのはこの珠らしい。せわしなく空間を飛び回っている。


―――ここは、どこだ?

感覚だけが先んじてよみがえり、ぷつりと糸が切れたように奥底に眠ったままの記憶を、懸命に掘り起こす。

―――そうだ、俺は荒魂と戦って崖から―――

かろうじて甦った記憶と、覚醒した意識によってはっきりと周りを知覚すると、足元に大きな闇が口を開き、今にも自分を飲み込もうと待ち構えていたことに気づく。
そこから触手のように伸びてくる闇が再び彼を引き込もうと足にまとわりつき、ずっしりと身体を重くする。

それではまさにここは黄泉の入口ということか。
虚ろな意識のままこの闇に飲み込まれていれば、引き返せぬ黄泉路へと進むことになったのだろう。

「……お前たち、俺を守ろうとしてたのか?」

みっつの光の珠は、肯定の意を示すようにちかちかと明滅する。



小さく輝く珠は、ふわりと高く浮遊するとひときわ強く光を放ちだす。
その光に導かれるように、深い闇色の空からひとすじの水が注がれ、細い水流を作り出した。

天から落ちる恵みのような水の流れが闇の中でもきらきらと光を纏う。
誘われるように掌にそれを受け止めると、身体を包み込むように飛沫が広がった。
冷たく感じもしないし、濡れた感触もない。けれど、確かにしみわたるように水が身の内を満たす。
途端、闇に沈むように重かった身体に、まさに枯れかけた樹木が水を得たように力が戻り、ふっと軽くなる。


残る二つの光の珠が、螺旋を描くように身体の周りを舞い始め、その描く軌跡が、漆黒の闇の中に光の道を作り出した。
その道の続く先に、ぼんやりと光が灯るのが見える。

ともった光の中心に浮かび上がるのは、千尋の姿。
今にも涙を浮かべそうなほどに、傷つき、悲しんだ、最後に見た千尋の顔。


「―――っ、千尋!」

そうだ、俺は戻らなくては。
俺のしたことをたとえ彼女が許してくれなくても。詫びることすら叶わなくても。

俺の勝手で常世に留め置いた千尋を、こんな形で置いて逝ってはならない。
心を凍らせた少女に、二度同じ悲しみを与えて逝くことは、できない。


その瞬間、アシュヴィンの足はすべてを振り切って光の指し示すその先に走り出していた。
足に絡みつき深淵に引きずり込もうとしていた闇も、もはや彼を縛めることは出来ない。


光の道を迷いなくまっすぐ駆けていくその後姿を見送って、光の珠は闇の奥へと戻っていく。
淡く光る珠とそれに添う珠が眠るように闇に消える。
小さく輝く珠は、光の先に駆けて行ったアシュヴィンの姿が見えなくなるまでその場に留まり、最後に小さく光を明滅させてから、先のふたつに続いて闇の中に眠りについた。




まっすぐ、わき目も振らずにアシュヴィンは駆ける。
揺れる彼女の瞳が、涙に濡れる彼女の頬が、アシュヴィンの心を逸らせる。

闇に浮かぶ光の中で、彼女の手がアシュヴィンに向かって差し出される。
アシュヴィンが自らの腕を伸ばしその白く細い腕を掴んだとき、ぱぁっと光が満ちて、あたりの闇は完全に祓われた。



「―――っ!」

意識が、突然に浮上する。
ひどく重い瞼を開くと、朱色から藍色に染まりだした空が視界に飛び込んでくる。
朧な意識の中で途切れた記憶を掘り起こし、それが一本の糸に繋がったとき、はっと目を見開き、今度こそ意識が覚醒する。
身を起こそうと身体を動かしかけ、次の瞬間身体に走った激痛に、ぐっと呻き声をあげる。
それでもなんとか身体を起こし、周りを把握しようと首をめぐらせ―――傍に寄り添うようにして眠る少女の姿に、言葉を失った。


「……ちひろ」

思わず零れるように呟いた声に反応し、ぴくりと瞼を震わせて少女が目を覚ます。
ゆっくりと開かれる瞳から目をそらすことができずに、固まったように体は動かない。
その瞳がはっきりとアシュヴィンを捉え、互いに言葉を失ったまましばし見つめあう。

「――あ……」

千尋の瞳が、みるみる涙で潤んでいく。
アシュヴィンは狼狽するが、どうすることもできない。

「アシュヴィンの馬鹿っ!!」

突然の千尋の罵声に、アシュヴィンの目が驚愕に見開かれる。
そんなアシュヴィンの様子に構わず、千尋はぼろぼろと涙をこぼした。

「心配したんだからっ!馬鹿っ馬鹿っ!………ばかぁ……」

最後は消えるように小さくなっていく声に、アシュヴィンは困ったように微笑んだ。

「そうだな……ごめん」

泣きじゃくる千尋を撫でてやりたくて、腕を持ち上げようとすると、互いに握り合った状態の片腕に気づいた。
―――まるで、夢の中で伸ばして掴んだ手そのままのように。

「――――っ」

驚きに再び目を見張ったアシュヴィンの視線を追って、千尋も初めてその状態に気がついた。

「え……あ、夢、じゃなかった…の?」

今まさに自分が考えたことをそのまま千尋が口にして、アシュヴィンは千尋をまじまじと見返した。
問うようなその視線に、千尋は頬を染めて顔をそらした。



「夢を……見てたの」

ぽつり、と千尋は語りだした。

「まだ常世に来る前―――中つ国にいたときにも、何度も見た夢だった。
……白くて……どこまでいってもなんにもない世界。
たったひとつだけ見える人影を追いかけて、追いかけて……追いついたと思ったら、忍人さんが桜吹雪となってかき消えてしまう、そんな夢。
でも今、見てたのは………」



白い、どこまでも白い世界。
いくら走ろうとも果てが見えず、ただただ遠くに人影だけが見える、白い世界。
白い世界の中心に見えた人影にいつものように手を伸ばす。

いつもは触れ合おうとする瞬間に掻き消えるその人影は、今度ばかりははっきりと千尋の手首をつかんだ。
ぐい、と引き上げられ、千尋が身体ごと浮上する。
白い世界が、まばゆいの光の嵐となって千尋を包む。

その光の中心で、千尋の手を力強く掴んで真白き世界から引き上げた人影は、紅の瞳を優しく微笑ませて。
そうして、いつもは桜の花吹雪と化す白い世界は―――かつて二人がまみえた、一面の白い笹百合の園に変わる。

「そして目が覚めたら……あなたが、いた」

いつも悲しい結末しか迎えないあの白い夢が、こんな形で喜びを齎すなんて、考えもしなかった。
哀しみの淵に浸っていた自分を、たしかにこの手が引き上げてくれたのだ。
優しく、あたたかく、時間をかけて。

―――きっと、もうあの悲しい夢は見ない。





千尋の肩を、するりと布が滑る感触が走る。
ぱさりと落ちたそれに目をやれば、いつの間にかけられたのか、ナーサティヤの外套が掛布がわりに掛けられていた。

「……千尋、その外套は」

―――そうか、あのとき受け止めてくれたのは。

意識の途切れる瞬間のことを思い出して、千尋は得心する。
納得顔の千尋と対照的に、アシュヴィンは立て続けの事態に言葉を失っている。


「目を覚ましたか。もはや心配は要らぬな」

声に振り向けば、ナーサティヤがやや離れたところから歩いてくるのが見えた。
二人を置いてどこかに行っていたのではなく、結局眠ってしまった千尋を含めた二人を静かに休ませるためだろう。

ナーサティヤは千尋の手から外套を受け取ると、ばさりと羽織り、背を向けた。


「……どうしても行くの、ナーサティヤ」

千尋の問いにナーサティヤは無言で返す。否定をしないことが、何よりの答え。

アシュヴィンは何かを言いかけて、そして飲み込んだ。
ずいぶんと違うようでいて近しいものをもつアシュヴィンは、言葉で説かれずともナーサティヤの行動の理由を理解したのだろう。
首をひとつ振って、どうにか笑顔を浮かべる。

「―――いいさ。死なずにいてくれたことだけでも、十分すぎるほどに重畳だ」

本音と矜持の狭間で揺れる様子が透けて見えて千尋はもどかしく思う。
ただ、これが彼なりの精一杯なのだと、今ではもう知っている。
本音を声高に叫ぶほどには幼くはなれず、かといって理屈ですべてを片付けられるほど悟ってもいない。

―――そう、千尋に対してそうであったように。




「―――ナーサティヤ!」

衝動的に、千尋はナーサティヤを呼び止めていた。
振り向かずに去ってしまうかとの懸念はあったが、ナーサティヤは千尋の呼びかけに足を止め、少しだけ視線を戻した。

千尋は背筋をぴんと張って、まっすぐとナーサティヤを見つめた。

「私たちは、常世を立派に復興させてみせるわ。
国のどこを見ても平和で、ナーサティヤの役目もなくなるくらいに。
約束するから……そんな国になったら、帰ってくるわよね」


返事はなかった。
けれど、千尋の言葉にナーサティヤは微かな笑みをその口の端に浮かべ―――それで充分だった。









ナーサティヤが今度こそ森の奥へと消えていくのを見送った後、千尋は背後で自分を見つめているであろうアシュヴィンを振り向くことがなかなかできなかった。
ずいぶんと、大胆な宣言をしてしまった気がする。
自分の発した言葉を改めて吟味して―――それに込められた意味を再確認した。

「千尋、それは……」

意味を察したアシュヴィンの呆然とした声に、千尋はそれでもなんとかこくりと頷くことは出来た。
頬がひどく熱い。きっと今、自分は耳まで真っ赤になっているに違いない。
ずいぶんと沈黙を挟んでようやく振り返ることができても、信じられないような表情を浮かべるアシュヴィンのその瞳を直視できない。

「私は、あなたの隣で……あなたを支えて、あなたと同じ道を歩きたいと思ってる。……この国で」

アシュヴィンが息をのむ気配が伝わってきた。

「私は……これからも、あなたの妃でいて、いい?」




今度はアシュヴィンが沈黙を返した。
それは否定的なものでなく、ただ驚愕のためであることがわかるから、千尋も彼の応えを待った。
ややあって、アシュヴィンが確かめるように訊いてきた。

「……お前、あいつのことが好きなんだろう?」

「―――ええ、好き。今でも。きっと、死ぬまで私はあの人のことが好きでいる」

「だったら―――」

「それでも」

アシュヴィンの言葉を、千尋の声が遮る。


「私は、あなたと生きたい。この先を添うのは、あなたの傍がいい」

千尋はアシュヴィンの胸元を縋るようにぎゅっと握った。
そして身体中の勇気を総動員して顔をあげ、アシュヴィンの瞳を見つめた。

自分の心の中には、忍人の存在が強く刻まれていて、それは生涯消えることはないだろう。
忘れることはできないし、忘れてはいけないと思う。
―――けれど、それでもこの想いは、確かに胸の中に息づいている。

「アシュヴィン、わたしは……」

好意を向けられていると知っていても、言葉にするのはこれほどに勇気がいる。
けれど、今度は自分が一歩を踏み出す番だ。

見上げてくる千尋の真摯な視線に、アシュヴィンの視線も捕らわれる。
まるで初心な少年のように、早鐘を打つ心臓を持て余す。

「…あなたが、すき」


その言葉が紡がれた次の瞬間、彼女の身体は突然抱きしめられる。
千尋の肢体をきつく抱きしめる逞しい腕が、かすかに震えているのがわかる。


「千尋、千尋、千尋―――!」

それ以外の言葉を忘れたように千尋の名を呼び続けるアシュヴィンに、千尋はそっと自らの手も彼の背に回した。

―――あたたかい、どこか安心するぬくもり。





思い出したことが、ある。

常世でかりそめの夫婦として同じ部屋で夜を過ごしていたあのころ。
まだ払暁には遠く、静寂と闇が満ちる時刻。
ふっと意識が眠りの国からつかの間呼び戻されたことがあった。
瞼を開けることもできず、虚ろな意識の中で何を考えることもできずに、すぐさま再び眠りの国へと落ちたけれど。

―――あの時、私の身体を包んでくれていた、暖かさ。あれは、今感じているぬくもりと同じ。

もう一度目が覚めたとき、彼はいつものように長椅子に身体を横たえていたから、夢か錯覚かと、今の今まで意識の底に放り込んで、忘れていたこと。
思えば、常世に来てからは一度としてあの白い夢を見ずにいたことが、あの記憶が夢でないことの証左だった。

―――この腕が、私の夢路を守ってくれていた。

泣きたいほどの愛おしさが、胸の中に満ちる。







アシュヴィンは、怪我を押しながらも黒麒麟の手綱をとった。
怪我も治ってはいないのに、と渋る千尋を鍛え方が違うさと嘯いて、半ば強引に騎乗の人となる。
気心の知れた漆黒の聖獣は危なげなく二人を乗せて空を駆ける。背に乗せた主らを気遣ってか、往路に反してゆっくりと。

前のめるのは危ないから身を預けろというアシュヴィンの言に従い、千尋はその背をアシュヴィンの胸に委ねている。
背中越しに伝わってくるぬくもりと、とくとく、確かに打つ鼓動の音が、千尋を安心させる。

「……ごめんね、アシュヴィン」

安らぎに浸っているこの時間は、かえって罪悪感が首をもたげてきて、千尋はぽつりと謝罪の言葉を口にした。

「お前が何を謝る?……むしろ謝るのは俺のほうだ。お前に無理強いをして傷つけた」


「私だって……アシュヴィンを傷つけたわ」

「―――馬鹿だな」

ふ、とアシュヴィンは千尋の言葉を笑い飛ばした。

「お前が自分を責める理由がないことは、よほどお前自身が理解していることだと思うがな。
―――そうだろう?愛しく想う者が、生きて傍にある。……それに代えられる幸福なぞ、あるはずもなかろう」



「―――アシュヴィン」

「好いた男がいるなどと、そんなことは百も承知でお前を娶ったんだ。
お前の心に、動かしようのない場所に他の男が住んでいるとわかっていてもなお、お前がほしかった」


ゆっくりと、何かを思い出すように、アシュヴィンは瞳を閉じる。

―――そう、俺が望んだのは、ただひとつだ。

「お前が……俺の傍に、在ってほしかった」


千尋が忍人を喪ったように、自身も父を、師を、あの戦で喪った。兄すらも、生死が知れなかった。
貴く大切なものが、硝子細工のようにもろく儚く、たやすく喪われうることを、知っていたからこそ。

「一時でも、一瞬でも長く、お前を俺の傍に置きたかった。
確かにお前は生きているのだと、俺の傍に在るのだと実感したかった。
―――愛しく想うものを、俺自身の手で守りたかった。
それが叶うなら、お前が俺を愛さぬことなどたやすく耐えられることだと」

だから、とアシュヴィンはやや決まり悪げに続けた。

「あの時言った、常世の国益や平和のためとか、お前が意に沿わぬ相手と婚姻を結ぶのを防いでやりたいとか……そんなのは建前だ。
俺はただ、お前が俺以外のものになることが我慢ならなかっただけだ」


手綱を握る手を片方外し、アシュヴィンは千尋の腰を片腕で抱き寄せた。

「どのみち望まぬ男のものになるならば、俺の腕の中に。
………それがどれほどに傲慢なことかは承知の上で、望まずにはいられなかった」

背中を預けていた姿勢からさらに腰を抱き寄せられて千尋はぴったりとアシュヴィンに身を寄せる形になる。
本音を吐露するようなアシュヴィンの熱っぽい言葉に、千尋の心臓は早鐘を打つ。
抱き寄せられて自然近しくなった耳に、アシュヴィンのさらなる言葉が落とされる。



「俺はお前を………愛してもいいのか」

いっそ傲慢なほどに言い放った先刻とは別人のように弱気な声で問われた言の葉が、千尋の耳元にそっと齎された。

「………うん……」

「この腕に閉じ込めて、俺しか見ることができないようにしてしまうかも知れんぞ。
お前のすべてを食らい尽くして、何もかもを奪ってしまうかも知れんぞ」

「あなたこそ……ほんとうに、いいの?」

「それを訊くのは今更だろう?千度尋ねられても万度確かめられても、俺の答えは変わらん。
決意なんぞお前に妻問いしたときからとうに固めている」

アシュヴィンは、千尋を抱く腕にさらに力をこめて抱き寄せる。

「この先何十年かのお前の一生―――心にあるあいつの存在ごと、この腕に受け止めてみせる」










「あ……雪」

夜色に染まりだした空に、白いものがちらつきだした。
千尋は空に舞うその白い結晶を、手を延ばして掌に受ける。
てのひらで受け止めたその雪は、瞬く間にとけて水になる。


―――ひとたび雪が降れば真白に染まる常世の冬も、春がくればいずれ温かい日差しに溶けて大地を見せる。



アシュヴィンは黒麒麟を駆りながら、思い出したようにぽつりと呟いた。

「そういえば……雪は、瑞花とも言うのだったな」

「瑞花?」

「ああ。雪の降る翌年は、豊作を約束されるのだそうだ。
だから、吉事を運んでくるめでたい花……瑞花というのだと」

「そう……きれいな名前ね」

そう言って微笑む千尋の笑顔こそ、眩いほどに美しく、アシュヴィンの心は虜にされる。
空を見上げる千尋のその金の髪に頬を寄せた。

「あながち、間違ってもいないだろうな。
雪とともにやってきたお前は、俺をこのうえなく幸福にしてくれたのだから」

黒麒麟の背の上で逃げ場がないのをいいことに耳元でそう囁けば、腕の中の少女は頬を薄紅に染めて俯いた。

「………ばか」

ささやかに返った罵倒の声は甘く、またひとつ胸に幸せの花が咲く。


「……しあわせをくれたのは、アシュヴィンよ」

俯いたままそう呟いた千尋が愛おしくて、その華奢な身体ごと包み込むようにもう一度抱き締めた。





冬の雪は、不香の花と呼ぶという。
花のように美しい、けれど香りを持たぬ、春知らぬ凍てつく花と。

されど、あの秋の終りに雪のようと例えた千尋は、今この腕の中で花開かんとしている。
訪れる春の喜びにうち震えるのは、花つぼみだけでなく。


雪を纏う風が、かすかな匂いを運ぶ。
顔をのぞかせた土のにおい、空に舞う雪の気配、春を待ち眠る木々の香り。


―――ああ、これは冬の匂いだ。



不香の花は香らぬのではなく、その香を封じているだけなのかも知れぬ。
さればその結晶が溶け水へと還ったときその身の内に眠る芳香は呼び覚まされて、馥郁と香る。





「千尋」

その名を呼べば、腕の中で少女が微笑みを返してくれる至上の幸福。
春の花が咲き綻ぶようなその笑顔に、胸に満ちるのは熱い情熱。


「千尋……愛している。愛してる」

雪解け水のように心からあふれる想いが止まらない。
千尋の白い頬を愛しむように優しく片手の掌で包み、胸からほとばしる想いを注ぐように、唇を重ねた。


誰もいない空の上、互いに感じるのは互いだけ。
世界の中にふたりしかいないような錯覚に、しばしアシュヴィンは酔いしれた。



雪がふたりを祝福するかのように優しく風に舞う。







黒麒麟は駆ける足をさらにゆるめて、主の甘い時間を少しだけ長く留めた。







fin.

  


ながらくのお付き合いありがとうございました。「不香の花」、これにて完結です。
忍人EDベースでしかも心変わり前提という全力で自己満足連載でしたので、お叱りを受けるかなとびくびくしながら書き始めたのですが、思いのほか多くの方にご声援を頂きました。受け入れられるかも危ういと思っていたので、ものすごく嬉しかったです。こうやって書き終えることができたのも、温かいご声援のおかげと言っても過言ではないです。

しかしなんだこの10話目の長さ!いやー、うっかり伏線張りすぎて、回収するだけで話が伸びるわ延びるわ。ぶっちゃけ伏線張ったけどまるまる捨てた設定とか、ほんのちょこっとだけ残して斬り落としたのとかいろいろあります。ナーサティヤ登場シーンは切り落とし候補の筆頭だったのですが、忍人EDベースなので、エイカを出したかった、という理由でかろうじて残りました(笑)
アシュヴィンが闇の中で出会った光の珠は、えーと……まあ、たぶんばればれですので書かんでもいいか。このあたりも削りかけてちょこっとだけ残った部分です。この話ベースで書いてみたい番外編ネタもあるので、そのときに書けたら触れたいな。あ、闇の中で降ってきた水は、変若水です。