天元誕生
 
宣帝即位 

 北周の宣帝は、即位当初から遊びまくることしか考えていなかった。武帝の死体がまだ殯にある時でさえ、殊勝な態度はまるでなく、杖で死体を叩いて、罵った。
「お前は死ぬのが遅すぎたよ!」
 武帝の後宮の女性には姦淫を迫った。
 吏部下大夫の鄭譯を開府儀同大将軍、内史大夫へ大抜擢して、朝政を委ねた。 

 己未、武帝を孝陵へ葬る。廟号は高祖。 

  

重鎮排斥 

 斉王憲は人望厚かったので、宣帝はこれを忌んだ。そこで、彼は宇文孝伯へ言った。
「斉王を陥れてくれれば、それ相応の官位を授けよう。」
 宇文孝伯は、叩頭して言った。
「先帝は『骨肉を妄りに誅するな』と遺詔なさいました。斉王は、陛下の叔父で、功績は高く、人徳は厚い社稷の重鎮でございます。陛下がもしも、彼を理由もなく殺害すれば、私は不忠の臣下となりますし、陛下は不孝の子息となってしまいます。」
 以来、宣帝は宇文孝伯を疎んじるようになった。その一方で、開府儀同大将軍の于智や鄭譯と共に、陰謀を巡らせた。
 甲子、大勢の壮士を別室に隠したまま斉王憲を呼び寄せ、捕らえた。そして、于智が出鱈目な供述をした。斉王は、于智を睨み付けて言い返す。すると、別の男が言った。
「今の王の状況なら、殺されるに決まっている。無駄な多弁を労するな。」
 すると、斉王は言った。
「同じ殺されるにしても、謀反人として殺されたのでは、我が老母まで誅殺されてしまうではないか!」
 そして、笏を床へ投げつけた。壮士達は、斉王を絞め殺した。
 宣帝は、斉王の幕僚を呼び付けて、斉王の謀反を証言させようとしたが、参軍の李綱が命を懸けて無罪を主張したので、罪状をでっち上げることができなかった。
 又、上大将軍王興、上開府儀同大将軍独孤熊、開府儀同大将軍豆廬紹など、斉王と仲の良かった将軍達を次々と殺した。既に斉王へ対しては、罪状を造ることができなかった。そこで『王興達と共に謀反を企んでいた』と言い繕ったのだ。
 世間の人々は、この事件について言い合った。
『王興達は、お相伴で殺されたのだ。』
 于智は、柱国となり、斉公に封じられた。 

 閏月、妃の楊氏を皇后に立てた。彼女は楊堅の娘である。
 趙王招を太師、陳王純を太傅とする。 

  

化けの皮 

 宣帝が即位すると、高祖の制定した刑書要制が厳しすぎるとして、これを廃止した。又、大赦も屡々行った。
 京兆郡丞の楽運が上疏した。
「虞書には、『禍が起こったら、大赦を行う』とあります。これは、災害時には、過ちから罪を犯すことが多いので、刑法の適用を緩めるとゆうのです。また、呂刑に云います。『五刑の疑わしき時に、赦がある。』と。これは、刑かどうか判らない時は罰を与え、罰かどうか判らない時には無罪とするとゆうように、疑わしければ罪一等を減じます。しかしながら、謹んで経典を探ってみましたが、罪の軽重に関わらず、全てを赦免するとゆう文言は、どこにも出典がありません。大尊は屡々非常の恵みを下されますが、これは悪人達を増長させるだけですぞ!」
 しかし、宣帝は聞き入れなかった。結果、民は刑法を軽んじるようになった。
 また、宣帝は贅沢淫乱のうえ過失が多かった。それでいて他人から諫められることを嫌ったので、力づくで群下を屈服させようとした。結果、刑書要制どころか、法律を益々原峻に適用するようになった。側近達には、常に群臣の動向を監視させ、ほんのちょっとした過失でも、たやすく誅罰を加えるようになった。 

(訳者、曰く。) 

 法律を厳格に適用して、ほんのちょっとした事でも臣下を誅殺する、とゆうのが、私の暴君へ対するイメージです。そしてこれには、大半の人々が同意してくれると思います。
 ですから、北周の宣帝が、即位当時法律を緩やかにして大赦を屡々下したとゆうのは、奇異な感じがしました。ところが、それへ対してでさえも、諫める人間がいました。何と、人間の欲には限りがないことか。
 大体、即位した途端に国家の元勲を殺してしまったような皇帝ですから、どんな人格かは推して知ることができます。そのような人間が、上辺だけでも法律を軽くしようとしたのですから、これは皆で賛同して、名君だ賢君だと褒めちぎってのせまくらなければならなかったのではないでしょうか。
 案の定、結局は臣下達を次々と殺しまくるような暴君になってしまいました。
 善悪の区別を根元的に追求することは良いことです。しかし、それを現実へ対して厳格に適応しようとしたら、元も子もなくしてしまいます。北周の臣下達が適当なところで妥協して、最悪のパターンを避けようと努力したならば、まだ、何とかなったのかも知れません。何せ相手は、即位当初に刑法を緩やかにしたような人間なのですから。
 ところで、中国史で屡々出てくる”大赦”とゆうのは、儒教思想では否定されていたのですね。これは、世間一般の人々も誤解していると思いましたので、改めて念を押しておきます。 

 また、年を越すと、早々と喪を開けた。食膳には魚や龍のような珍味が百品も並び、音楽を奏でる宴会は夜を継いで続き、いつ果てるとも知れない。大勢の美女をかき集めて後宮を満たし、彼女達の位号は詳細に記録することもできない程増え続けた。宴会に耽って数日朝廷へ顔を出さないことも屡々なので、群臣の上申書は全て宦官の手を経て上奏された。
 ここにおいて楽運は皇帝の八つの失徳を陳述した。
 その一、「大尊は、独断が多くなり、宰輔へ相談さえしておりません。どうか、皆と共に決裁なさってください。」
 その二、「大勢の美女を後宮にかき集め、儀同以上の人間の娘はなかなか結婚を許しません。貴賤共に怨んでおります。」
 その三、「大尊が一度後宮へ入りますと、数日出てこられません。ですから、群臣の聞奏も、宦官に任せている有様です。」
 その四、「刑罰を寛大にすると詔されましたのに、半年も経たないうちに却って前制以上に厳しくなってしまいました。」
 その五、「高祖は質朴でしたのに、崩御されて一年も経たないうちに、奢麗を窮めておられます。」
 その六、「道化師達の為に、民を苦役しておられます。」
 その七、「上書に誤字があったくらいで罰されましたら、上奏する者がいなくなってしまいます。」
 その八、「誠意がないと、善い答を選べません。どうか徳を磨かれてください。」
「もしも、この八つが変わらなければ、臣はこの国が滅ぶ有様を見せつけられることになるでしょう。」
 宣帝は怒り、楽運を殺そうとした。臣下達は震え上がって、これを助命する人間は居なかった。すると、内史大夫元巖が嘆いて言った。
「漢の献帝の頃、陳容は藏元と一緒に死にたいと願った。ましてや、比干が相手なら尚更だ!もしも楽運が殺されるのなら、我も又、彼と共に誅殺されよう。」
 そこで闕を詣でて謁見し、言った。
「楽運は、命を捨ててまで、名声を求めているのです。陛下は、彼をねぎらって、聖なる度量の広さを示された方が、ズッとお得です。」
 宣帝は感悟した。
 翌日、成帝は楽運を呼び出して言った。
「朕は、昨夜卿の奏上をよく考えてみたが、卿は実に忠臣である。」
 そして、食を賜下して引き取らせた。 

   徐州総管王軌は、鄭譯が登庸されたと聞いた時から、殺されることを予測し、親しい者へ言った。
「我は、先帝へ仕えて、社稷のためにのみ行動した。今日のことは、とっくに判りきっていた。この州は、江南と隣り合っている。だから、我が身を守る事など、掌を返すように簡単だ。しかし、忠義の節を汚す真似はできない。ましてや、先帝から御厚恩を賜ったのだ。跡継ぎから罪に落とされたとしても、どうしてそれを忘れられようか!
 だから、我はただ、座して死を待つしかないのだ。ただ冀うのは、千年後の人々に、誰か我がこの心を知ってもらうことのみだ!」
 さて、宣帝は、ある時くつろいだ有様で鄭譯へ言った。
「我が脚の傷跡は、誰のせいかな?」
 その傷は、宣帝が皇太子として北伐を行った後、その時の行動を暴露されて武帝から打たれた傷跡だった。だから、鄭譯は言った。
「烏丸軌(王軌は烏丸の姓を賜下されたことがある。)と宇文孝伯のせいです。」
 宣帝は、内史杜慶信へ、徐州へ行って王軌を殺すよう命じた。しかし、その詔へ、元巖が署名しなかった。
 御正中大夫顔之儀が切に諫めたが、宣帝は聞かない。すると、元巖が後を継いで諫めた。宣帝は言った。
「汝は烏丸軌の一味か?」
「臣は王軌の一味ではありません。ただただ、誅殺を乱発されることで、天下の人々から失望されることを恐れるのみでございます。」
 宣帝は怒って、元巖の面を打たせた。
 王軌は遂に誅殺され、元巖もお家断絶となった。この件については、王軌と縁の近い者も縁遠い者も、彼を知る者も知らない者も、全てが彼の為に涙を零した。なお、顔之儀は、顔之推の弟である。 

 宣帝がまだ皇太子だった頃、上柱国尉遅運は太子宮正だった。彼は皇太子をしばしば諫めたが、全て聞き入れられなかった。また、尉遅運と王軌、宇文孝伯、宇文神挙は武帝から親任された臣下達で、宣帝は、皇太子時代に自分のことを武帝へ中傷していたのではないかと疑っていた。
 王軌が死ぬと、尉遅運は不安になって、宇文孝伯へ言った。
「我等は必ず粛清される。どうすれば良いだろうか!」
「今、我が老母は堂上(※)におり、宣帝は地下に瞑目している。子息として、臣下として、何をすればよいかは明確だ。それに、家族を人質にして臣下となった以上、名義を求めるのみ。諫めて聞き入れられなければ、死ぬしかない!ただ、足下がもしも死にたくないのなら、どこか遠い地方の長官を願い出るのだな。」
 そこで、尉遅運は秦州総管となった。
 後、宣帝は斉王憲の事に託して宇文孝伯へ言った。
「卿は、斉王の造反を知っていたのに、どうして告発しなかったのだ?」
「臣は、斉王が社稷へ忠実な臣下であることも、群小が彼を讒言したことも知っておりました。そんな言葉が用いられるはずがないと信じておりましたので、何も申さなかったのです。
 ところで、先帝は臣へ陛下の輔導を頼まれました。しかしながら、諫めても聞かれません。臣は先帝の顧託に背いたのでございます。この罪があります以上、どんな罰でも甘んじてお受けいたします。」
 宣帝は大いに恥じ入って首を項垂れ、一言も言い返せなかった。退出を命じた後、家にて自殺を命じた。
 この時、宇文神挙はヘイ州刺史だったが、宣帝は使者を派遣して、毒殺した。尉遅運も、秦州へ着いた後、心労で卒した。 

(※)原文「堂上有老母」その後、「委質事人」とある。北周では、官吏から人質を取っていたのだろうか?それとも、この頃はそれが普通だったのだろうか?  

  

天元誕生 

 二月、宣帝は、皇太子の単(「門/単」)へ譲位した。これが静帝である。大赦を下し、大象と改元する。宣帝は天元皇帝と称し、自分の居る場所を「天台」と称する。皇太后は天元太后と称した。また、静帝のことは「正陽宮」と称する。
 天元は、譲位した後、奢侈がいよいよ激しくなった。尊大になることにばかり務め、憚ることがない。国の儀典も次々と変更されていった。遂には、自らを上帝に模し、群臣と少しでも似たところがあると嫌がった。だから、自身は常に綬を帯び天冠をかぶり金を加え蝉を附し、金蝉をつけた侍臣や綬を帯びた王公がいれば、全てそれを取り外させた。他人に「天」「高」「上」「大」の称号を許さず、これらの字を使った官名が有れば、全て改称させた。「高」の姓は「姜」へ変えさせる。
 天下の車の車輪は、全て渾木に変えさせた。天下の婦人へ対して白粉や黛の使用を禁じた。以来、宮人以外はみな、黄色で眉を描くようになった。
 侍臣との議論は、これらの変革に関することばかりで、政事について話したことなどなかった。遊びについては費用を問わず、徹夜の遊興もしょっちゅうだった。
 公卿以下へ対して、天元は自ら杖で打った。百二十回を一単位として、これを「天杖」と呼び、時には二百四十回打つこともあった。寵愛している后や妃、嬪でさえも、背中を杖で打たれた。ので、皆はビクビクと暮らしていた。 

  

 四月、妃の朱氏を天元皇后とした。彼女は静帝の生母だが、寒微の出身で、天元より十歳以上も年上。いつも疎外され寵愛などされていなかったが、静帝のおかげで、特に后となった。
 七月、司馬消難の娘を、静帝の皇后とした。
 天元皇后の朱氏を天后と改称する。妃の元氏を天右皇后、陳氏を天左皇后とする。元氏は、開府儀同大将軍元晟の娘で、陳氏は大将軍陳山提の娘である。
 八月、元晟と陳山提が上柱国となった。 

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