赤狄、晋を伐って懐を囲む。
 
(春秋左氏伝) 

 宣公の六年、赤狄が晋を攻撃した。彼等は懐を包囲し、刑丘まで進軍した。晋侯はこれを攻撃しようとしたが、荀林父はこれを止めて言った。
 「戦争を繰り返せば、使役される民は堪りません。ですから、赤狄に戦争を続けさせ、その民の不満を爆発させましょう。敵は必ず自滅します。」 

 赤狄の路子の夫人は、晋の景公の姉である。
 宣公十五年。赤狄の宰相となった豊舒は、夫人を殺し、路子の目を傷つけた。
 晋の景公が、これを討伐しようとすると、晋の大夫達は言った。
「豊舒は物凄い三つの術を身につけていると聞きます。奴が死んで次の宰相が出るまで待ちましょう。」
 すると、伯宗が言った。
「決行なさいませ。狄には五つの大罪があります。どんな術を使っても、そのマイナスを埋めることはできません。自分の能力を誇って徳を修めなければ、堕落する一方。今こそ攻撃の時です。もしも、この後あの国に立派な宰相が立ち、徳を修めて神と君へ仕え、正しい政治で民を教え導くようになれば、討伐できなくなります。他の宰相が立ったなら、困難になるばかりです。
 罪があるのに責めず、後回しにしようと言い、後になってからいい加減な口実を作って攻め込む事こそ、けしからぬ事です。」
 晋侯は、これに従った。 

  

(東莱博議) 

 行動が間違っているのに心様が正しいとゆうことは、あり得ない。
 共兜(共工と驩兜、共に堯時代の悪人。)を褒める者は、絶対に信義を持たない。盗跖を朋とする者は、絶対に廉潔ではない。許氏(漢の宣帝時代に専断を振るった外戚)のもとへ出入りする者は、絶対に正ではない。袁紹や劉備を屠る者は、絶対に忠義者ではない。
 その事績を見れば、彼等の性根は明白に判るものである。行動が間違っているのに心様が正しいとゆうことは、道理としてあり得ないのだ。
 それでは、行動が正しいのに心様が間違っているゆうことがあるだろうか?
 それはあり得る。 

 赤狄が晋を伐って懐を囲んだ時、その勢力は強大だった。この時、晋侯は、その強敵に正面から衝突しようとし、荀林父は敵の勢力が衰えるのを待とうとした。荀林父の策は正しい。
 赤狄の豊舒が伯姫を殺した時、その悪行は既に暴虐にまで至っていた。晋の大夫達は、その暴虐を看過しようとしたが、伯宗だけは、彼の罪を討伐するべきだと言った。伯宗の策は正しい。
 前の話を聞いた時、人々は晋侯を非として荀林父を是とする。後の話を聞いたら、大夫達を非として伯宗を是とする。だが、誰が知ろうか。この二人の策は正しかったが、その心様は過ちだったのだ。
 懐の包囲戦で、荀林父は堅忍して敵の勢力が衰えるのを待った。彼は決して怠けたわけではない。怖じ気づいたわけでもない。これは、道理として正しいことなのだ。
 例えば、周の亶父の故事を引いてみよう。
 昔、周の亶父が狄の来襲を受けた時、民を傷つけまいと、国を狄へ与えて単身逃げ出した。すると、国民は亶父の仁慈を慕って、年寄りの手を引き赤子を背負って後を追いかけた。こうして周は岐山の下に新たに建国したのである。
 亶父ような聖賢でさえも、耐え忍ぶことがあるのだ。荀林父がどうして恥じることがあろうか。
 だが、行動に恥じる所がなかっただけだ。謀略のコンセプトとして、彼は言った。
「戦争を繰り返せば、使役される民は堪りません。ですから、赤狄に戦争を続けさせ、その民の不満を爆発させましょう。敵は必ず自滅します。」
 ああ、これは一体どうゆう心だ!
 豊舒の時、伯宗は奮励してその罪を討とうとした。それは狂騒ではない。軽薄でもない。これも、理として正しい。
 殷の湯王は、夏討伐に先立って、葛を征伐し、サウを征伐した。聖賢でさえも誅罰を行うことがあるのだ。伯宗が、何を恥じることがあろうか。
 だが、行動に恥じる所がなかっただけだ。謀略のコンセプトとして、彼は言った。
「もしも、この後あの国に立派な宰相が立ち、徳を修めて神と君へ仕え、正しい政治で民を教え導くようになれば、討伐できなくなります。」
 ああ、これは一体どうゆう心だ!
 君子は、他人が美を為すことを助けると聞くが、他人の悪行の手助けをするとは聞いたことがない。君子は、他の国のが乱れるのを恐れると聞くが、他の国のが治まるのを恐れるとは聞いたことがない。
 今、荀林父は他人の悪行を養い、それが満ち溢れないことを恐れた。伯宗は、他国の乱れを幸いとし、治まることを恐れた。心様のあり方や思慮を働かせる基盤が酷薄だと言える。
 これこそ、私の言う「行動が正しいのに心様が間違っている」とゆうことである。学者諸君は、事績だけを見て、その心様の観察を省略してはいけない。
 そもそも、人の心様が悪ければ、曲は勿論曲だが、直も又曲になってしまう。邪は勿論邪だけれども、正もまた邪になってしまう。 

 菫仲舒と公孫弘は、二人とも漢の武帝に仕えた。そして二人とも春秋を教えたが、世間の人々は菫仲舒を内に置き、公孫弘を外に置いているのはどうしてだろうか?
 劉向と谷永は、共に成帝に仕えた。そして二人とも諫疏を奏上したが、世間の人々は、皆、劉向を右に置き、谷永を左に置く。これは何故だろうか?
 人々は、公孫弘の春秋を手本にする事を恥じる。それは、公孫弘が私利に走って春秋を記したからである。公孫弘は私欲で春秋を穢したのである。人々は、谷永の諫疏のあら探しを大喜びでやっている。それは、谷永が私憤に走って諫疏を記したからである。谷永は、私欲で自分の言葉を穢したのである。
 隋が陳を滅ぼした時、陳の皇帝は井戸の中へ逃げ込んだ。以来、その井戸は「辱井」と呼ばれた。交廣には貪泉とゆう泉がある(※)。井戸や泉は不名誉な名前が付けられたが、それらを穢したのは、井戸だろうか、泉だろうか、それとも人だろうか。 

(※) 交廣には貪泉とゆう泉がある。この水を飲む者は、貪欲な人間になると言い伝えられていた。やがて、呉隠之が刺史となって赴任してきた。彼はその言い伝えを聞いて貪泉の水を飲んだが、在任中清廉潔白だった。 

(訳者、曰く) 

 他人へ悪業を行わせて、これを自滅させる。それが覇道の真髄だ。その生き様は、鄭の荘公から始まり(「鄭の荘公と共叔段」参照)、春秋時代に大流行した。そして、朱子学ではこれを大いに非難している。これについては、東莱博議にも数多くの論文があるので、ここではクダクダとは述べない。 

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