楚子、鼎を問う
 
(春秋左氏伝) 

 魯の宣公の三年、楚子が戎を討伐し、そのまま洛水まで足を伸ばして、周の国境付近で閲兵を行った。そこで、周の定王は王孫満を使者として派遣して楚子を労わせた。すると楚子は周の宝である鼎の大きさや重さを尋ねたので、王孫満は答えた。
「周が健在なのは、その徳にあるのであり、鼎にはありません。(中略)周徳は衰えておりますが、未だに天命は変わっていないのです。鼎の軽重を問うてはなりません!」 

  

(東莱博議) 

 一夫で強敵に対抗し、一言で大難を排斥する。これは衆人の喜ぶことで、識者の憂うることである。
 楚は極悪非道で、近隣諸国を削取併呑し、大軍を周の近郊へ派遣して、鼎の軽重を問う。この時の周は岌々(危ない有様)として、あたかも浪に呑まれる木の葉のようだった。
 その時、王孫満一人、毅然として言い返し、天を引き神を援き、敵の狂僭を挫いた。さしも野蛮な楚人も、幟を降ろし戈を包み、逡巡して自ら退いていったのである。こうして、周は危難を脱却し、城郭は改まらずに済んだ。まさしく、周室再造の功績。これについては、識者とて、衆人同様大喜びである。
 それでは、何を憂うのか?
 識者がこれを憂うるのは、一時の功績を憂えているのではない。喜びは今日にあるが、憂いは他日にあるのだ。 

 天下の禍には狎れてはいけないし、僥倖は恃んではいけない。
 鼎を問われたとゆうのは、大変事である。国は滅亡寸前、祭祀は途絶える寸前だったのではないか。これに対して、王孫満は、口先だけでこれを防いだ。楚王が退却したのは、運が良かっただけに過ぎない。それなのに、周の人間はこう思った。
”あの、暴虐野蛮な楚でさえも、あの有様。我々の文告を懼れて進軍しなかったではないか。後々、このような暴徒が再び跳梁したとしても、その時一人の文士を煩わせたら済むことだ。”と。
 これこそ寇難に狎れて常となし、三寸の舌を以て恃みとなすものだ。 

 東遷以来、周王室は、その日その日を適当に過ごすばかりで、志を立てる事がまるでなかった。幽王の時に王室が滅亡したり、暴虐なレイ王が臣下から放逐されたりといった事件もなかったが、「板」や「蕩」といった、身を戒めるような詩が口ずさまれることもなくなった。ただ、宴会や遊びに現を抜かし、次第次第に堕落していった。
 この時、国の存亡が危ぶまれるような大危難が降りかかったら、吃驚仰天して今までの杜撰な態度を改めようとしただろう。
 そんな折り、蛮夷が跋扈して、三代伝わった大宝鎮器たる鼎を睥睨蕩揺し、周王室を凌駕しようとの意を露わにした。これ以上の禍変があろうか。
 この大禍変に臨んで、王公卿士が恐れおののき、滅亡の危惧を思ったならば、かつての周の栄光を再び取り戻すことさえも、まだ望みが持てた。しかし、たまたま王孫満が舌先だけでケリを付けてしまい、君臣共に枕を高くしてしまった。 

「吾には、この舌がある。寇が来襲しても、何の懼れることが在ろうか。」
 こうして、周の君臣は、禍に狎れ、僥倖を恃むようになってしまった。この風潮を開いた者は、他ならぬ王孫満なのだ。
 この後、風潮は相継いで風俗となってしまった。
 国を治める方針を問えば、文華が第一、善い政治をすることは二の次である。敵を防ぐ方針は、弁論第一、強兵は二の次。外交方針は、舌先第一、信義は二の次。その国の実体を見れば日々薄く、日に崩れ行くのに、上辺を飾る口先だけは、日々新たに日に巧みに。これを真に受ければ、あたかも周の盛りの頃の成王や康王が未だに健在のように思えるが、その実体は更に衰退し、夏や殷の末期の様だった。
 やがて、世間は戦国の動乱を迎えたが、それでもこの風潮は変わらない。九九八十一万の数を虚張して斉をいつわり(※)、右に欺き左に欺く。そして、計略通りだと自ら誇っていたのだ。
 そして、秦が攻めて来た。この虎狼の国は、弁舌では屈しない。説得にも応じない。饒舌つぐみて施策なく、首を垂れて降伏し、甘んじて捕虜となるしかなかった。
 ここに至って、彼等は漸く気がついただろう。浮語虚辞も、恃みとならない時がある、と。だが、遅すぎたのだ。 

 病気に掛かった人間が、偶々良い治療を受けて癒えることができた。すると彼は、再び治療して貰うことを頼みとし、大酒を呑んで遊び回り、ちっとも養生をしなくなった。こうして自ら死地へと歩いて行ったのである。最初の治療が巧く行きすぎたからこそ、結局は殺してしまう羽目に陥ったのだ。
 だから、私は思う。かつて楚を撃退した王孫満の功績は、その後周の君臣を怠惰にさせた罪状を補うことはできないのだ、と。 

  

(訳者、曰) 

 喉元過ぎれば熱さ忘れる。
 ところで、この論旨は「莫傲屈瑕」と同じですね。わざわざ翻訳する必要もなかったかな。 

  

(※)出典は「戦国策」の「周策」だそうです。斉の使者へ対して、「一鼎は九万の兵卒に匹敵する。周には九つの鼎があるので、その兵力は八十一万の大軍である。」と言ったようです。手元に資料がない為、詳細は判りません。 

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