楚、キを滅ぼす。
 
(春秋左氏伝) 

 キは、もともと楚の分家筋に当たる。キ子が、楚の先祖の祝融とイク熊を祭らないので、楚がこれを責めたところ、キ子は答えた。
「我等の先祖の熊摯が病気になった時に鬼神を祀ったのに何の霊験もなく、遂にキへ隠居しました。こうして、我等は楚を継ぐことができなかったのです。そんな鬼神を、何で祀らなければならないのですか?」
 その返答を聞いて、楚はキを攻め滅ぼした。魯の僖公二十六年(BC634年)のことである。 

  

(東莱博議) 

 君子の言葉を小人が口にしたら、天下の人々は、その邪を見て正を見ない。逆に、小人の言葉を君子が口にしたら、天下の人々は、その正を見て邪を見ない。
 だから、「大誥」の一節でも、王莽の筆にかかれば姦説となり、陽虎の言葉でも、孟子の書に編纂されれば格言となる。これは、その言葉が変わったのではない。それを発した人間の気が変わったので、それに伴って言葉の意味が変わったのである。
 これを喩えてみよう。
 ここに一本の木がある。枝も幹も変わりはしないのに、春の気が入れば枯れたようになっていたのが栄え、衰えていたのが盛んとなり、古き者は新しくなり、乾いていたものが潤う。秋の気が入れば、栄えていたものが枯れ、盛んなものが衰え、新しいものは古くなり、潤っていたものが乾ききる。気は、幹や枝の中に潜んでおり、枝や幹の外へ浮かび上がってくるのだ。
 これと同じ事が、言葉にもあるのだ。
 悍暴粗戻な言葉も、温厚な気が加われば温厚な言葉に変わってしまう。温醇和易な言葉も、忿戻の気が加われば忿戻な言葉に変わってしまう。
 一つの文章も、一つの言葉も変えないのに、善悪が、天と地ほどにもかけ離れてしまう。これは何がそうさせているのか?それこそ、気の仕業である。
 気は言葉を奪うことができるが、言葉は気を奪うことができない。だから、君子が学ぶ時は、言葉を学ぶより先にも、まず気を体得するよう勉めるのである。 

 キ子が、楚の詰問へ対した返答は、正しい。それなのに、楚の怒りに油を注いでしまった。これは、憤怒の気が言葉の正しさを奪ったからだ。
 キ子が、祝融とイク熊を祀らないのは、礼に適っている。
 例えば、衛では建国の祖の康叔を祀っているだけで、康叔の先祖の后稷を祀ったりはしない。魯も、周公を祀るけれども、公劉は祀らない。
 だから、キ子が祝融とイク熊を祀らなくても、罰される謂われはない。これについては、先儒も既に論じている。
 キ子の言葉の根拠は正しかった。しかし、その言い方は正しくない。言葉を治めるだけで気を治めない。正礼大義はあるけれど、憤怒の想いが先に立ち、相手の混迷を解くどころか、却って禍を呼び寄せてしまった。何と惜しむべきではないか。
 キ子が、祝融やイク熊を祀る立場にないことは、楚も知っていた。知っていながらワザワザこれを詰問したのは、ただ、言いがかりを付けて戦争を仕掛けたかったからに他ならない。そんなことをされては、普通の人間ならば、腹を立てずにはいられない。憤怒の心が一たび起これば、言葉も、それに従って荒くなる。だから、楚の使者へ対した時に、言ったのだ。
「我等の先祖の熊摯が病気になった時に鬼神を祀ったのに何の霊験もなく、遂にキへ隠居しました。こうして、我等は楚を継ぐことができなかったのです。そんな鬼神を、何で祀らなければならないのですか?」
 彼の憤戻の気が、まるで矛や戟のように相手の心をグサグサ刺しまくっている。今でさえも、読者はこの言葉に思わず顔つきを変えてしまう。ましてや仇敵ならば尚更ではないか。
 もしもキに君子がたならば、キが彼等を祀る立場にないことを釈明するにしても、その言葉は全然違ったものになった筈だ。しかし、キの国中探しても君子が居なかった。だから、私の憤怒に目が眩んだ。その結果、祀る立場にない事だけは判っていたが、その理由までは頭が回らず、楚を継承できなかっただの、ご先祖様は何の霊験もなかっただのと、過去のことを追咎してしまった。それ、何と悖れる事か!
 ああ!祖先を憎むことは、天を憎むことだ。キ子の言葉が正しいのならば、石厚の子供は石昔の祀りを廃止するのか?(「衛の州吁」参照 )日単(「石/単」)の孫は、侯の廟へ入らないのか?(※)
 キ子が祝融やイク熊を祀らなかったのは、そんな理由ではなかった筈だ。 

 自惚れて、自分の悪行を自慢する人間はいる。それは、人間の常かもしれない。しかし、自ら誣て自分の美点を短所とけなしたとしたら、それは人情からかけ離れている。だが、この例ではどうだ?キが祝融やイク熊を祀らなかったのは、もとは礼から出ていたのに、今は怒りに任せて自ら悖逆に甘んじる。そうして、礼を守るとゆう初心をスッカリ忘れ果ててしまったのだ。憤怒の想いが、人の心を変えること、何と畏るべきものではないか。
 楚子へ対して腹を立てたのに、その憤怒の心を自分の祖先へ及ぼしてしまった。何と怒りを遷したことか。
 それでは、怒りを楚子へ対してだけに留めて、他の者へ遷さなければ、それで良かったのだろうか?
 いいや、それではまだまだだ。
 いわゆる”怒りが遷る”とゆう事は、たとえば部屋での怒りを市場で八つ当たりしたり、甲へ対する怒りの想いで乙へ接したりする事を言うのではない。彼が怒っていただけなのに、荒らいだ態度で接されて、自分もムカついた。それを、「怒りが遷った」と言うのだ。つまり、人の怒りを受け止めて自分が怒ってしまった時点で、既に”怒りが遷った”と言うのである。
 本来、怒りは彼にあったのに、我へ遷ってしまった。これは、喩えるならば人が飲んでいる毒薬を奪って自分が飲むようなものだ。それでいて腹が裂けたり腸がただれたりすることを望まなくても、そんな都合のいいことがあり得ようか?
 昔、”顔回は怒りを遷さない”と賛嘆されたが、これは常人とどう違うのか?それは、毒薬を奪い取らない智慧があるとゆう事なのだ。 

  

(※)金日単は、もと匈奴の太子だった。漢の武帝の頃、匈奴にお家騒動が起こり、これに漢が介入した結果、金日単は漢の奴隷となった。そして官馬の飼育をしていたが、人格と能力を認められて次第に出世し、遂には武帝の側近となった。
 金日単の子供は武帝に慈しまれ、いつもその傍らにいた。ある時、金日単の長男が、武帝の子を後ろから抱きかかえた。それを見た金日単が目で叱ったところ、長男は泣き出したので、武帝は金日単を叱りつけた。
「どうして、わしの子を叱るのか!」
 金日単の長男は、長じても身を慎まず、宮殿で下女と戯れるようになった。たまたま、金日単はその現場を見つけ、彼の淫乱を憎んで、これを殺した。
 それを聞いて、武帝はひどく怒った。すると金日単は頓首して詫び、そうしなければならなかった理由を切々と述べた。武帝は甚だ哀れんで児の為に泣いたが、同時に金日単を心密かに尊敬した。 

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