史丹青蒲

 前漢の史丹。字は君仲。魯国の人である。元帝が即位すると、侍中となった。
 この時、元帝の息子の中では、定陶共王が、才覚があった。しかも、彼の母親も寵愛されていた。それに対して皇太子は酒の上での失態が多く、皇后も寵愛が薄れていた。そのような状況の時、元帝が病に伏せったので、皇后も皇太子も心配でならなかった。
 史丹は元帝から信頼されていたので、病床に侍ることが出来た。そこで、元帝の病状がやや癒えた時、寝室へ入り、青蒲(天使の周囲は青色で塗られており、その内側を青蒲と言った。通常、皇后以外はその中へはいることが出来ない)の上に身を投げ出して涕泣した。
「皇太子は、その地位になってから十余年が経ちました。百姓は、既にこれを当然のこととして殿下へ接し、次代にはその臣となろうと考えていたのです。ところが、今、定陶王が愛幸されているのを見て、皇太子が廃嫡されるのではないかとゆう憶測が乱れ飛んでおります。しかし、もしもこのようなことが起これば、公卿達は、詔を考え直して貰おうと、命を捨ててでも諫争するに違いありません。どうか、まず臣へ死を賜り、群臣達への手本とさせて下さい。」
 元帝はもともと篤仁な人柄であり、又、史丹が涕泣する有様にも真心が籠もっていたので、大いに感悟して言った。
「皇后は謹慎な人柄だし、先帝も又、太子を愛していた。我がどうしてその想いに逆らおうか。」
 こうして、太子は次代の皇帝となることが出来た。これが成帝である。
 成帝が即位すると、史丹は順々に出世し、左将軍にまで達した。

 張湛白馬

 後漢の張湛。字は子孝。扶風平陵の人である。
 彼は厳格な人柄で礼を好み、立居振舞も礼に則って正しく行っていた。一人で部屋にいるときにも態度を崩さず、妻子へ対しても厳格に接した。又、近所づきあいをするときにも、狎れた言葉や態度はとらなかった。そこで、三輔(長安近辺の三地方。日本で言う「五畿内」のようなもの)の人々は、皆、張湛を手本とした。
 ある時、これを偽善と称する者が居た。すると、張湛は言った。
「人々は皆、悪を装っている。そして、我一人だけ善を装っている。」

 建武年間(後漢の成立直後)、光禄勲に任命された。
 光武帝が朝廷に臨んでいる時、少しでも怠けた様子を見せると、張湛は直ちに諫めた。彼は常に白馬に乗っていたので、光武帝は彼を見る毎に言った。
「白馬生が、また諫めに来たか。」
 郭后が廃后されると、張湛は病と称して辞任した。そこで、光武帝は彼を太中大夫とした。
 後、光武帝は彼を復帰させようと、強いて大司徒に任命したが、張湛は病気が重いと言い立て、遂に沙汰止みとなった。

 訳者、曰

 成帝は、即位の後、定陶王を大切に扱った。父親が愛していたので、同じように愛するのが親孝行だと思ったのだろう。このようなケースにしては、造反や粛清に結びつかなかった希有の例である。
 成帝はいろいろと問題のあった皇帝だが、この件だけは賞賛されている。(東莱博議「斉の公孫無知、襄公を殺す。」参照)