東莱博議    斉の公孫無知、襄公を殺す。

 

(春秋差氏伝)

 魯の荘公の七年、斉の襄公が、連称と管至父に葵丘の警備を命じた。
 彼等を派遣する時、襄公は言った。
「一年交代だ。今、瓜が稔っている。来年、瓜が稔る頃に呼び戻そう。」
 やがて約束の時期が来たので、二人は交代を申し出たが、却下された。そこで彼等は腹を立て、造反を考えた。
 さて、公孫無知は僖公の甥だったが、僖公から気に入られ、用度品から待遇、扶持に至るまで、太子と同等だった。やがて僖公が死んで襄公が襲爵すると、襄公は公孫無知の待遇を引き下ろした。
 そこで、連称と管至父は公孫無知と結託したのである。
 この連称の従姉妹が襄公の後宮へ入っていたが、寵愛されていなかった。公孫無知は成功した暁には妃にすると約束し、彼女を間諜とした。
 八年の十二月。斉侯が狩りをすると、大きな猪が顕れた。すると、従者が言った。
「彭生殿だ。(彭生は斉の一族で、襄公から殺された。)」
 襄公は怒って言った。
「迷って出たか!」
 これを射ると、猪は人間のように立ち上がって鳴いた。襄公は驚いて車から転がり落ち、足を挫いた。
 その日、彼等は決起し、襄公を殺し、公孫無知を斉侯とした。

 

(博議)

 済んだことを非難して論説を立てるのは容易い。しかし、将に倒れようとする国を扶ける者は、功績を建て難い。そして、病気を論じるのを楽しみ、病気を治すのを憚るのが、全ての人間に言える通弊である。
 斉の公孫無知が襄公を殺した。論じる者は皆、これを僖公の罪としている。
 彼等は言う。
「国主に二つの血統はなく、国に二人の嫡子は居ない。だから、ここのけじめはきちんとしなければいけないのに、公孫無知の衣服や待遇は嫡子と変わらなかった。それによって、彼の心に忌憚が無くなり、遂には簒奪にまで至ってしまった。斉のこの禍は、実に僖公が醸したのである。」と。
 ああ、これは病を論じたのである。病を治療しているのではない。
 僖公の治世中にこの論説を献じて諫争するのなら、それは宜しい。しかし人々は、襄公が襲爵した後にこの論説を述べたてたのだ。何と遅すぎることか!
 ただいたずらに、かつての過失を指摘するだけで、今日の禍を祓うことが出来ない言葉など、君子は貴ばない。もし、不幸にして襄公の朝廷に仕えてしまったとしよう。この時、過去の過失を咎めるだけで、何らの施策も講じずに拱手して禍を待つなど、君子ではない。
 天下に為す術のない時などなく、除くことができない禍もない。その禍が未だ起こっていないのならば、吾には禍を防ぐ手段がある。そして、既に起こってしまったのならば、吾には禍を救う術がある。その時々によって、使う手段が決まるのだ。
 襄公の治世にあっては、既に禍が起こってしまった。だから、禍を防ぐ手段を述べたところで意味がない。そんな時の為に、私は禍から救う手段を述べてみよう。

 恩と怨、そして親と讐は、並び立たないものだと、人々は考えている。だが、彼等は知らないのだ。怨こそ、恩に変わりやすいのだし、讐こそ親に変わりやすいのだ。
 公孫無知は、確かに公室の一員だったけれども、僖公は彼に過分の寵愛を与え、その寵遇は、殆ど嫡子にも等しかった。襄公が東宮(皇太子の宮殿)に住んでいた時、どうして忌み恨まずにおられようか。
 公孫無知とて、襄公から恨まれていたことくらい知り尽くしていただろう。だから、僖公が死んだ後、彼は必ず恐れた筈だ。
”襄公は今までの怨みを晴らす為、必ずや私の身分を剥奪し、悪くすれば国外追放くらいやってのけるに違いない。”と。
 この時、もしも襄公が、彼へ厚遇を加えれば、公孫無知は思うだろう。
”私は恨まれるのが当たり前。それなのに、却ってこのように恩愛を受けている。襄公は私を讐と見るはずなのに、こんなに親しくしてくれている。私はどうやってその恩に報いれば良いのだろう。”と。
 それまで、公孫無知は襄公のことを虎のように見ていたが、そうなってしまうと、父親のように見てしまう。始めは狼と思っていた相手が、やがて兄のように思えてくる。既に望外の施しを受けたのだ。必ずや望外の報いを思うに違いない。
 そうなれば、昔日の怨こそ、今日の恩を生んだのである。昔日讐と思っていたからこそ、今日親しむことが出来たのである。襄公がこのように接したならば、公孫無知の悖逆の心は忠義の心へ変わったのだ。ただ患を除くだけではない。却って福を招く結果とできたのである。

 実例を挙げよう。漢の成帝である。
 昔、漢の定陶王は、幼い頃から寵愛され、多才な人間に成長した。父親の元帝はこれを奇とし、又、彼の母親の昭儀も寵愛されていた。その挙句、皇后や皇太子を廃立して、昭儀を皇后へ、定陶王を皇太子へ即けようとまで考えた。
 しかし、侍中の史丹が皇太子を守り、又、先帝(宣帝)が皇太子を誰よりも可愛がっていたことも元帝には忘れられず、遂にこれは沙汰止みとなった。こうして、元帝が崩御した後、皇太子が即位した。これが成帝である。成帝は、先帝が可愛がっていたこととて、定陶王のことを、他の兄弟達とは段違いに厚遇した。
 この時、元帝は禍の端緒を開いた。しかし、成帝は見事に縫い合わせたのだ。
 成帝が、定陶王のことを、自分の兄弟としては見ていたなら、こうはいかなかっただろう。だが、定陶王を、自分の父親が愛した相手だと思って見たならば、まるで父親を見るように思えるではないか。
 父の元帝は既に没し、孝行を尽くそうにも手だてがない。そこで、父親が可愛がった相手を可愛がる。そうすれば、冥土の父は喜ぶに違いない。それこそ亡き父を愛する手だてである。
 成帝は親孝行な息子だった。親を思う想いが篤すぎて他の想いなど入り込む余地もない。親の他、他念ないのだ。自分一身の怨隙など、顧みる余裕があろうか。
 これに対して、定陶王へ対する昔日の憤りを思い出すことは、父への思いを緩めることになってしまう。親の愛を忘れ、自分の憤りを思うなど、自分を先に据え、親を後回しにすることに他ならない。ただそれだけでも親不孝なことではないか。ましてや復讐するなど、とんでもない!
 如意へ対する呂氏、曹植へ対する曹丕、或いは司馬悠(正しくは、心がない)。史書をひもとくと、殺された人間が相継いでいる。私はそれらを読む度に、漢の恵帝や魏の文帝や晋の武帝が孝に悖ったことが口惜しくてならない。彼等はどうして漢の成帝を手本として我が身を戒めなかったのだろうか。

 さて、先帝の愛した者を、同じように愛するのは、孝の顕れである。だが、そうやって相手が増長し、公叔段(「鄭の荘公と公叔段」参照)や州吁(「衛の州吁」参照)のように造反まで起こしてしまったらどうすればよいのか?
 答は明確である。
 本当に相手を愛していれば、その一生を全うさせたくなってしまうものだ。それに対して、彼等へ権限を与えてその悪心を増長されるとゆうのは、彼等を死地へ追いやっているのだ。そんな接し方をしているのなら、相手を愛しているとは言えない。

 

(訳者、曰く)

「ただ天下の至誠、よくその性を尽くすことを為す。その次は曲をいたす。曲よく誠あり。」
 とは中庸の一節である。現代語に訳すと、次のようになる。
「天下に賞賛される程至誠の聖人は、天賦の性を尽くすことが出来る。
 そこまで至っていない人間は、一つの想いを推し広める。一つの想いの中にも誠が内包されているのだ。」
 例えば、子供を愛する父親が、「子供の手本にならなければならない」と考えれば、常日頃から自分の行いに気を付けることとなる。そうして、いつでも子供を念頭に置き、彼に恥じない親となろうと思えば、我を張らず、恭謙に人と接するようになり、遂には多くの人々から慕われることとなるだろう。これは、子供を愛する一つの想い(曲)の中に含まれている誠を、推し広める(致す)ことで、君子となったのである。

漢の成帝は、父親を愛する余り、定陶王を可愛がった。これこそ、「曲を致す」とゆうものだ。
 もしも、成帝がいつでも父親を忘れなかったらどうなっただろうか?
 苦しむ民を見た時に、「ここで仁慈溢れる皇帝になれば、子供をそのような人間に育てた元帝も又、立派な皇帝だった」と褒められることを想い、救援に精を出すだろう。
 官吏の横暴を見たときに、「父の名を辱めまい」と思えば、きっと手綱を厳しく引き締めるだろう。
 ああ、「曲を致す」の効能は何と大きいことか。
 不覚にも、成帝は、定陶王へ対してだけ父を想い、その他の時には父への想いへ致らなかった。それは、「穎考叔が羮にのみ母を見た」ことに似ている。
 しかしながら、「曲を致す」の端緒は実践できたのだ。

 さて、夫婦喧嘩をした人間へ対し、「もしも子供を愛しているのなら、愛する子供が愛している父親(あるいは母親)だとゆう想いで配偶者のことを見られないのか。」と言ったとしたら、普通は大いに馬鹿にされてしまうに違いない。(「犬も食わない」と言うこれは、端から見ていると、どちらかがほんの少し譲歩すれば丸く収まる場合が大半なのに。)
 してみると、自分の弟の事を「父親の息子」とゆう目で見ることのできた成帝の孝心は、やはり類い希なものだと言えよう。趙姉妹に夢中になって後宮の乱れを誘ったことで、「成帝は親への孝行を全く知らなかった」と誹り、味方と武器を奪い合ったことで「穎考叔は母親を愛していなかった」と謗るのは、やはり苛酷に過ぎると思える。
 嗚呼、人を愛する想いは誰にでもある。特定の人間へ対する愛情なら、全く持たない人間の方が異常だ。だが、その愛情を推し広げて完全な道徳者になることが、誰に出来るだろうか。それこそ、千里の道を一歩ずつ進むように、一つずつ気を付けて行く以外に方法はない。
「中庸の徳」が、「夫婦の愚にも在るが、その至れるに及んでは聖人と雖も為し難い」とゆうのも、もっともな話である。

 なお、元帝が成帝を廃嫡しなかった経緯については、「蒙求」  史丹青蒲 /  張湛白馬に記載した。