士会、晋軍を破る。
 
(春秋左氏伝) 

 哀公の八年、呉が魯を攻撃しようとした。この時、魯の大夫の叔孫輙と公山不狃が呉へ亡命していたので、呉王は、まず叔孫輙へ呉の実情を尋ねた。すると、叔孫輙は言った。
「魯は伝統だけの国で、国力はありません。攻撃すれば、必ず勝てます。」
 叔孫輙は退出すると、この件を公山不狃へ語った。すると、公山不狃は言った。
「それは礼に背く行いだ。君子は、亡命する時にも、故国の仇敵の国へは逃げ込まないものだ。不幸にして逃げ込んだ国が故国を攻撃するのならば、故国へ駆けつけて戦死した方がましです。貴方は小さな怨みで故国を滅ぼそうとしているが、それがどうして人として正しいことでしょうか。」
 呉王は、公山不狃にも尋ねた。すると、公山不狃は答えた。
「魯は、晋や斉の唇のような物。『唇滅べば歯寒し』と申します。王が魯を攻撃したら、晋や斉がどうして黙っているでしょうか。」
 三月、呉は魯を攻撃した。この時、公山不狃は呉の一軍を与えられたので、彼はわざと険阻な地形へ導いた。 

  

(東莱博議) 

 一つの事件を見て一つの理を会得する者は、物を観る事が上手だとは言えない。一つの言葉を聞いて一つの意を得る者は、物を聴く事が上手だとは言えない。
 理とは、もともと全てを覆っているものなのだ。だから、一事に通じれば万事に通じる。意とは、もともと窮まりないものだ。だから、一意が解ければ千語全て解けるのである。 

 張良が老人から授かった兵法書は、一巻だけだった。尺簡寸牌に、どれ程の事が書けるだろうか。その中に、中国全ての地形と、その各々へ対する最上の布陣が洩らさず書いてあったり、秦項韓彭の行動全てを予言してそれに対する適宜な処置法まで全て記載されていたりする筈がない。
 しかしながら、張良がこれを得れば、羊を聞いて馬を知ることができるように、影を見て本体を知る事ができるように、一巻の兵法書から群策が蜂起し、状況に応じて衆機が叢生した。これが、有限の書を用いて無限の変化に対応できた理由である。
 もし、張良が一事を見て一事に滞り、一語を聞いて一語に滞っていたならば、九州の地形全てをその胸の中に畳み込んでいたとしても、必ずや対応しきれないことが起こった筈である。
 書いてあることは使い尽くしたのに変化は尽きず、書いてあることは古びていくのに変化は益々新たになる。過去を知って将来を予測できる者でなければ、共に語ることはできないのだ。
 よし、ここで左氏の載せた事件をもとにして、これを論じてみよう。 

 士会が、晋から秦へ亡命し、秦の為に晋を謀った。これを解説する者は、ただ単に「士会の過ちである。」と評するに過ぎない。
 公山不狃が魯から呉へ亡命した時、呉の為に魯を謀らなかった。これを解説する者は、ただ単に「公山不狃の美点だった。」と評するに過ぎない。
 しかし、士会に過ちがあったとて、それは士会個人の問題であり、我が恥じることはない。公山不狃に美点があったところで、我が得意になれる訳でもない。これを我が身に反求したとしても、それで予防できるのは、ただ「祖国に背いた」とゆう一過だけであり、身に付くのは、「祖国を全うした」とゆう一善だけである。天下の善や過が、どうしてこの一事のみだろうか。
 しかしながら、一を挙げて十を知れば、二子得失の跡を見て、我が身に不窮の用を為すことができる。
 士会には、祖国を謀ったとゆう過失があるが、それでも彼は晋の良大夫である。これを見て私は、どんな人間にも過ちがあることを知るのである。公山不狃には、魯を保全したとゆう功績があるが、その一生を大局的に見て、やはり単なる叛者である。これを見て私は、小節が恃むに足らないことを知るのである。
 士会のような賢人にして、祖国を謀るような過ちがあった。だから私は、悪念を防ぐのが難しいことを知るまである。公山不狃のような不肖者でさえ、魯を保全した善があった。これを以て私は、善念を発現させるのが容易であると知るのである。
 もしも士会が、祖国を売るようなことばかりをしていたならば、士会は公山不狃のような詰まらない人間になっていただろう。公山不狃が、祖国を大切にするような気持ちで常に生きていたならば、公山不狃は士会のように立派な人間になっただろう。これを以て私は、修養する者は常に善を伸ばして過ちを断つよう心がけねばならないことを知るのである。
 その一生を以て論じれば、士会は君子であり、公山不狃は小人である。しかし、この一事だけで論じれば、士会は小人であり、公山不狃は君子である。これを以て私は、人を論じるときは一つの事件に固執せずに、一生を包括して論じなければならないことを知るのである。
 善悪両極端の人間を対比してみると、慕うべき物や懲らすべき物、遵守するべき物や戒めるべき物、全てがその中に集まっている。そして、あれこれと応用を利かせると、心に感じる物は極まりないのである。 

 しかし、もっと重大なことがある。
 士会は、晋の良臣である。彼が国の為に発言する時には思いの丈を尽くしきり、鬼神へ述べる言葉には、愧辞がなかったとまで評されている。だから、祖国を売ってでも自分の立身出世を手にしようと考えるような人間ではない筈だ。
 彼は、多分こう思ったのだろう。
「百人の主君にでも、一心で仕えるべきである。一人の主君に百の心で仕えてはならない。だから、晋に居るときには晋へ忠誠を尽くすべきであり、秦へ亡命したのなら、秦へ忠誠を尽くすべきである。秦伯からの下問へ対し、本当のことを伝えなければ、明には秦拍へ対して隠し事をすることになるし、幽には鬼神へ対して愧じるべきことだ。」と。
 だが、彼は知らないのだ。子は父親の為に隠し、臣下は主君の為に隠す(※)。他人のことならば実直を直とするが、こと君父に関しては悪いことを隠すのが直なのだ。
 今、彼は君父のことを他人のように見て、祖国の実情をあられもなく暴露して寇讐の資けとした。これは羊を盗む人間と同じではないか(※)
 惜しいかな、士会は太公望よりもずいぶん後に生まれたので反葬の義(「礼は、その本を忘れず(礼記)」の台詞がある)を聞いたことがなかった。そして、彼の時代にはまだ孔子は生まれていなかったので、遅行の風(孔子が魯を去る時は、後ろ髪を引かれるように遅々としていた。)を見なかった。だから、彼は父母の国を何の感傷も持たずに見、ただ実直であることばかりを考えて、遂に不直へ陥ってしまった。
 我はこれを見て、善悪の基準が難しく、つまびらかにし難いものだと知るのである。
 これに対して、公山不狃は祖国に眷々として忠厚だった。それは何故かと言うに、闕里洙泗の教えを盗み聞くことができたからだ。
 それにしても、士会と比べるからこそ、公山不狃は祖国への想いに篤いと言えようが、聖人の法で糺すならば、まだまだ善を尽くしたとは言えない。
 公山不狃が叔孫へ言った言葉は正しい。だが、呉の軍団を率いて出撃するに及んでは、これを不利な状況へ追いやろうと、わざと険阻な地形へ導いた。ああ、始めは正しかったのに、最後は詐へ陥った。なんとも惜しむべき事だ。
 それは、魯の国の実情は隠すべきである。しかし、呉の国も騙してはいけない。公山不狃が祖国の恩を忘れていなければ、呉王へ対して辞退し、魯を討つの戦役に参加しなければ良かったのだ。そうすれば、旧主に背かないだけではなく、新主へも背かずに済んだ物を。そうすれば、彼の義人としての名声は呉と魯の間に広まったのだ。
 今、彼は呉の将軍となった。それでいて本心では魯の為に戦ったのだ。二心を懐いて人に仕える。これは聖門の罪人ではないか。
 これを以て、私は益々実感した。善悪の判断は難しい。いよいよ選びていよいよ違う。善はつまびらかにし難い。つまびらかにすればする程、益々誤ってしまう。君子は半端な思いで学問へ臨んではいけない。
 士会と不狃の事績を読む者は、これを両極端と軽く見ている。だが、類して通じ区して分かち、直にして推し曲にして述べれば、見聞はますます広まって、様々な理が現れ出る。これこそ、陳亢が一を聞いて三を知り、顔回が一を聞いて十を知る所以である。舜が一の善き言葉を聞き一の善き行いを見れば、黄河が決壊した時のように彼の善行を止めることができなくなった理由である。 

  

(※)  

 論語の一節。
 ある者が自慢げに言った。
「わが村に正直者がおります。彼は、父親が羊を盗んだ時、これを正直に証言しました。」
 すると、孔子は答えた。
「私の村の正直は、それとは違います。子供は父親の為にその欠点を隠し、臣下は主君の欠点を隠す。それでこそ正直と褒められます。」

元へ戻る