蒙遜、西秦を伐つ。
 
 北涼・西秦、交々戦う。 

 晋の安帝の義煕十一年(415年)、三月。北涼の沮沐蒙遜が、西秦の廣武軍を攻撃し、これを抜いた。
 熾磐は、二人の将軍を前後して派遣したが、蒙遜は、二軍とも撃破。一将を斬り、一将を捕らえた。 

 五月、熾磐は三万の兵を率いて北涼の皇河を襲撃したが、守将の沮沐漢平は、司馬の隗仁を派遣して、これを撃破した。
 敗北して、熾磐が退却しようとすると、漢平の長史の焦昶と、将軍の段景が、密かに内応を申し出たので、熾磐は再び攻撃した。
 焦昶と段景は、漢平を説得して降伏させた。
 隗仁は、降伏に承諾せず、百余人の壮士と共に南門楼に立て籠もって戦った。彼等は三日間頑張ったが、遂に力つきて捕らえられた。
 熾磐が、これを殺そうとすると、散騎常侍の段暉(南燕の暉とは別人)が諫めて言った。
「隗仁は、危難に臨んで死を恐れませんでした。忠臣です。どうか彼を宥め、帰国させて下さい。彼が、その主君へ仕えられますよう。」
 熾磐は、さすがにそこまではできなかったが、それでも死一等を減じて囚人とした。
 皇河を陥れた熾磐は、左衛将軍の匹達を皇河太守とし、自身はそのまま進軍して乙佛窟乾を攻撃した。そして、三千余戸を降伏させて、帰国した。
 隗仁は、五年間、西秦に抑留させられたが、段暉が強く請願したので、熾磐は、遂に彼を釈放し、姑藏へ帰してやった。 

 十二年、正月。熾磐は、後秦へ攻め込んだ。(この頃の後秦は姚興の崩御寸前。後継者争いで一触即発の状態だった。)すると北涼の蒙遜が、その隙に西秦の石泉を攻撃したので、熾磐は中途で引き返した。
 二月、熾磐が石泉へ援軍を出すと、蒙遜も引き返した。
 此処に於いて、蒙遜は遂に熾磐と和睦を結んだ。 

  

赫々たる戦果 

 宋の武帝の永初元年(420年)、熾磐は子息の乞伏暮末を太子に立て、領撫大将軍・都督中外諸軍事とした。大赦を下し、「建弘」と改元する。 

 七月、北涼が、西涼を滅ぼした。(詳細は、「蒙遜、西涼を滅ぼす」に記載。) 

 九月、西秦の振武将軍王基等が、北涼の胡園戌を襲撃し、二千余人を捕らえて帰った。
 これに対し、北涼が二度に渡って侵略したが、どちらも撃退した。この戦役で、西秦は北涼の沮沐成都を捕らえた。(※1) 

 営陽王の景平元年(423年)、四月。熾磐が、群臣へ言った。
「今、江南に宋、関中には夏が割拠しているが、共に頼むに足りん。だが、魏の主君は、万世の英雄だ。彼は賢者を使いこなす。
 讖にもあるぞ。
『恒・代の北に、真人が現れる。』と。
 よって、我は国を挙げてその麾下へ入ろうと思う。」
 そして、尚書郎の莫者阿胡等を使者として魏へ派遣し、黄金二百斤を献上した。併せて、夏の攻略法も献策する。 

 文帝の元嘉元年(424年)から二年、西秦は、北涼、南涼、黒水きょうへ出兵し、全て凱旋した。(※2) 

 三年、正月。熾磐は再び魏へ使者を派遣し、連合して夏を攻撃するよう請うた。 

  

夏の来寇 

 八月、熾磐は、北涼討伐を敢行した。廉川まで進軍すると、乞伏暮末に三万の兵を与えて、西安を攻撃させたが、勝てなかった。そこで、番禾を攻撃した。
 北涼王蒙遜は、兵を動員して迎撃した。更に、夏のもとへ使者を派遣し、この虚に乗じて枹干を攻撃するようそそのかした。
 夏王の赫連勃勃は、征南将軍呼廬古へ二万の兵を与えて苑川を攻撃させ、車騎大将軍葦伐へは三万の兵を与えて安南を攻撃させた。
 これを聞いて、熾磐は退却した。そして、境内の老人や子供達、及び畜産を疎開させ、左丞相の曇達に枹干を守らせた。
 葦伐は、安南を抜き、西秦の秦州刺史擢爽と南安太守李亮を捕らえた。
 十月、曇達は、呼廬古と戦い、敗北した。呼廬古と葦伐は更に進んで枹干を攻撃した。熾磐は、定連まで退却した。
 しかし、呼廬古が枹干の南城へ入ろうとすると、西秦の将軍趙寿生が決死隊三百人を率いて力戦し、これを撃退した。
 そこで、呼廬古と葦伐は沙州を攻撃した。だが、沙州刺史が乞伏万年を派遣して、これを撃破した。
 夏軍は、今度は西平を攻撃した。そして、西秦の安西将軍庫洛干を捕らえ、戦死五千人を穴埋めとし、二万戸の民を略奪して帰った。
 四年、六月。熾磐は、枹干へ戻った。 

 八月、熾磐は、叔父の屋頭等を魏へ派遣して、入貢した。 

  

熾磐の死去 

 五年、五月。西秦の文昭王熾磐が卒した。太子の乞伏暮末が即位する。大赦を下し、「永弘」と改元する。
 六月、熾磐を武平陵へ葬った。廟号は太祖。
 熾磐の死去を聞いた蒙遜は、西秦の西平を攻撃した。すると、西平太守の麹承が言った。
「殿下が楽都を奪ったら、西平は殿下へ降伏するしかありません。ですが、今、大軍を見ただけで降伏したならば、そんな忘恩の賊など、殿下は嫌われるでしょう。」
 そこで、蒙遜は西平を通過して、楽都を攻撃した。
 相国の元基が、三千の兵を率いて楽都救援に駆けつけた。だが、彼等が入城する前に北涼軍が到着し、外城を陥した。そして水道を断ったので、楽都城内では大勢の人間が渇えて死んだ。
 東きょうの乞提は、元基に従って楽都救援に来ていたが、密かに蒙遜と内通し、その兵を城内へ引き入れた。百余人の兵卒が、城へ登り、軍鼓を成らして門を焼いた。しかし、元基は左右を率いて奮撃したので、北涼軍は退却した。
 話は遡るが、熾磐が重態へ陥った時、太子の暮末へ言った。
「我が死んだ後は、お前は国境を保てたら、それで善としておけ。以前捕らえた沮沐成都は、蒙遜のお気に入りだった。これを釈放してやれ。」
 ここに至って、暮末は蒙遜のもとへ使者を派遣し、沮沐成都の開放を条件として和睦を求めた。そこで、蒙遜は帰国し、改めて、弔問の使者を西秦へ派遣した。
 暮末は、手厚い贈り物と共に成都を送り返し、将軍王伐に、これを送らせた。
 蒙遜は、なおも西秦の真意を疑い、伏兵を設けて王伐を捕らえると、その部下の兵卒のみを西秦へ帰国させた。だが、しばらくして、尚書郎の王杼へ、王伐を西秦まで送り届けさせた。この時、馬千匹の他に銀や錦を西秦へ贈った。 

  

北涼の来寇  

 十二月、蒙遜が西秦を攻撃し、磐夷まで進軍した。西秦は、元基が一万五千騎を率いて、これを防いだ。
 そこで、蒙遜は西平を攻撃した。西秦では征虜将軍出連輔政等が、二千騎を率いて救援に駆けつけたが、彼等が到着する前に西平は抜かれた。蒙遜は、太守の麹承を捕らえる。 

 六年、五月。暮末は、元基に枹干を守らせると、自身は定連へ移動した。
 南安太守の擢承伯が、北涼軍に呼応したが、暮末はこれを撃破し、治城へ進んだ。西安太守の莫者幼眷も造反したので、暮末は討伐へ向かったが、敗北し、定連へ戻った。
 蒙遜は、枹干まで来ると、子息の興国へ定連攻撃を命じた。
 六月、暮末はこれを迎撃して、興国を捕らえた。そのまま蒙遜を追撃し、談郊まで進む。
 蒙遜は、暮末のもとへ使者を派遣すると、三十万斗の穀物で、太子の興国を贖いたいと申し出た。暮末は許さない。そこで、蒙遜は、興国の同母弟の菩提を太子とした。
 暮末は、興国を散騎常侍とし、妹の平昌公主を娶らせた。 

 この戦役の最中、吐谷渾王慕貴が、弟の没利延へ五千騎を与え、蒙遜と合流させて西秦を攻撃させた。暮末は、輔国大将軍段暉に迎撃させ、大勝利を収めた。 

  

軻殊羅の乱 

 暮末の弟の軻殊羅は、文昭王の左夫人の禿髪氏と密通していたが、それが暮末の耳に入り、暮末は、これを禁じた。軻殊羅は恐れ、叔父の什寅と陰謀を巡らせた。暮末を暗殺した後、沮沐興国を奉じて北涼へ逃げ込む、とゆう筋書きである。そして禿髪氏に城門の鍵を盗ませたが、彼女が盗む鍵を間違え、事が発覚してしまった。暮末はその党類を全て捕まえ、皆殺しとしたが、軻殊羅だけは赦した。 

 七年、什寅の叔父の前将軍白養や鎮衛将軍去列が、什寅の処刑へ対して恨み言を述べた。それを聞いて暮末は、二人とも殺した。 

 この年、西秦では正月から九月まで雨が降らず、大勢の民が流民となった。 

  

西秦の衰退  

 暮末は、北涼からの侵略に耐えられなくなり、魏の臣下となることを願い、迎えに出てくれるよう要請した。魏王はこれを許し、暮末を平涼・安定へ封じた。そこで、暮末は城邑を焼き払い、一万五千戸を率いて上圭へ移動した。
 高田谷まで来た時、給事黄門侍郎の郭恒が、興国を奉じて造反しようとしたが、その陰謀が発覚し、暮末はこれを殺した。
 夏王は、暮末の移動を知り、これを攻撃した。そこで、暮末は、南安に留まった。西秦の領土の大半は、吐谷渾が奪った。
 十一月。魏王は、尚書の庫結に五千騎を与えて暮末を迎えに行かせた。だが、秦の衛将軍吉比が、他人の臣下になることに異議を唱え、暮末がこれに同意した為、庫結はそのまま引き返した。 

 南安の諸きょう万余人が、西秦に造反した。彼等は、安南将軍・廣寧太守焦遺を推戴したが、焦遺はこれを却下。そこで、賊徒等は焦遺の族子の長城護軍焦亮を盟主とし、衆を率いて南安を攻撃した。
 暮末は、てい王の楊難當に救援を求めた。すると楊難當は、将軍苻献へ三千の兵を与えて救援軍として派遣、暮末はこれと合流して賊徒を討った。賊徒は敗北し、焦亮は廣寧へ逃げた。暮末はこれを追撃する。又、焦遺へ、焦亮捕縛を命じた。
 十二月、焦遺は焦亮を斬って、その首を暮末へ送った。暮末は、焦遺を鎮国将軍へ昇格した。 

 西秦の略陽太守が、夏へ降伏した。 

  

西秦滅亡 

 八年、夏王が西秦の将軍姚献を攻撃し、これを撃破。更に、一万の兵で南安を攻撃した。
 南安城は大いに飢え、人々は互いに食い合うようになった。西秦の出連輔政と乞伏延祚、乞伏跋跋が城を抜け出し、夏へ降伏した。
 西秦は進退窮まり、とうとう、暮末は、夏へ降伏した。夏王は、暮末と興国を上圭へ送った。
 秦の太子司直焦楷は、廣寧へ逃げ込み、父の焦遺へ泣いて言った。
「父上は国の寵霊を担い、藩鎮の重任に就いておられます。今、我が国は存亡の瀬戸際です。衆人を率いて大義を唱え、賊徒を殲滅しなければなりません!」
 すると、焦遺は言った。
「今、主上は賊徒の手に陥ちた。吾は、命惜しさに大義を忘れたのではない。大軍で追撃すれば、陛下の命が危ないので、動けないのだ。誰か王族の賢人を選んで主と戴き、そのうえで討伐するのが最上だ。」
 そこで、焦楷は祭壇を築き、衆人へ復国を誓った。すると、二旬のうちに、万余人が馳せ参じてきた。だが、焦遺が病死したので、焦楷一人では大事が遂行できず、北涼へ逃げた。 

 五月、夏王は、乞伏暮末及びその宗族五百余人を殺した。 

 

(※1)永初二年、七月。蒙遜は、七千の軍を派遣して、西秦を攻撃させた。
 熾磐は、五千の兵を派遣して迎撃。敵将を捕らえ、敵兵二千を殺して、凱旋した。
 三年、七月。蒙遜は、前将軍沮沐成都に一万の兵を与え、西秦を攻撃させた。西秦はこれを迎撃し、沮沐成都を捕らえた。 

(※2) 文帝の元嘉元年(424年)、七月。熾磐は、太子の乞伏暮末、征北将軍木奕干等に三万の兵を与え、北涼を襲撃させた。西秦軍は、河西の白草嶺、臨松郡を連破し、民二万余を強制連行して帰国した。
 二年、四月。熾磐は、五千の兵を派遣して臨松を襲撃させた。南涼の鎮南将軍沮沐白蹄を捕らえ、住民五千戸を枹干へ強制連行する。
 七月、熾磐は鎮南将軍の吉比に、黒水きょうの酋長丘擔を攻撃させ、大勝利を収めた。