晋の里克、師を帥いて狄を敗る。
 
(春秋左氏伝) 

 驪姫の讒言によって、晋の公子重耳(後の文公)は、狄へ亡命した。(BC677)
 僖公七年(BC653)、晋は里克を大将、梁由靡を軍師、カク射を車右として、狄を采桑にて撃破した。
 この時、梁由靡は言った。
「狄は、逃げることを恥としないので、まだ負けたとは思っていません。追撃を掛けてこそ、本当の勝利です。」
 だが、里克は言った。
「脅すだけでよい。全ての狄から報復されたらかなわん。」
 カク射は言った。
「我等は侮られた。一年のうちに、狄は必ず来襲する。」
 翌年、夏、果たして狄は再び晋へ来襲した。 

  

  

(東莱博議) 

 狄を治めるのは、姦民を治めるようなものだ。姦民が官府へ狎れたら訴訟が多いように、戎狄が辺鄙に狎れたら、侵略が増える。
 姦民が一旦懲りてしまって、二度と官府の門をくぐらなくなったとしたら、それこそが善政だ。同様に、狄へ一戦の威力を見せつけて、辺境百年の安寧を得ることができたら、それこそが善謀である。
 懲らしめられたら服従し、緩やかに慰撫されたらつけ上がる。それが戎狄の性である。 連中が勇み立って挙兵すれば、我等が辺境を侵略し、我等が兵糧を焼き払い、我等が牛馬を奪い去り、彼等が稲穂を蹂躙する。これへ対して、我等は羽檄雷動、車馳載撃してこれへ応じる。謀臣は朝廷で策を巡らし、戦士は野で戦う。そんな苦労の上、天の霊や宗廟の御加護で、幸いにも敵を撃退できたとしよう。だが、そんな時に猛り狂う味方を抑えつけて追撃もしないで狄を本国へ帰してやったら、奴等がどうして懲りるだろうか?こんな時、奴等は必ずこう思う。
”戦って勝てば、利益はでかい。それに敗北しても引き返したら済むことだ。それなら、略奪をしないなんて、馬鹿げた話ではないか。”と。
 こうして、奴等は略奪の旨味に味をしめ、我等の辺境の守りを空城のように侮ってしまう。我等の民は日々苦しみ、兵士は月に傷つき年に死んで行く。号泣の声は止むことなく、戦鼓やドラの音は絶え間もない。なんと戎狄を手厚く持てなすことか。そして、我が民へ対して、何と薄情なことか! 

  

 しかしながら、これは狄を手厚く持てなしているのではない。我等の恕は奴等の侮を生み、奴等の侮は我等の怒を生む。恕と怒は正反対の感情だが、恕が怒を生み出すのだ。
 始め、我等は戎狄を恕して、「奴等は治める価値もない」と言い、彼等の略奪を詰問せず、彼等との戦争では追撃を掛けなかった。すると、犬や羊のような畜生の心を持つ戎狄は、増長して傲慢になり、まこと勝手気儘。我等が報復しないことを幸い、凌辱乱暴のやり放題。それは、とてもとても人間の耐えられるものではない。
 ここまできたら、こちらも我慢の限界を超えた。領内の兵卒を総動員し、天誅と称して、戎狄の徹底的殲滅を謀る。敵の本拠地を掃討し、大本から潰すために女子供まで皆殺し。これは全て、怒りに任せての行動である。
 こうして考えるならば、今日の我等の怒りを生んだのは、前日の恕ではないか?
 慢書の恕は、絶幕の怒を招いたのだ。渭橋の恕は定襄の怒を招いたのだ。(※1)だから、言える。恕は、戎狄を手厚く持てなしているのではない。
 奴等から侮られる前に少し痛い目に会わせてやれば、我等の怨みは浅くて戎狄の傷も少い。しかし、凌辱が重なった後に大きく復讐すれば、我等の怨みは深くて戎狄傷は大きい。これを比べてみて、どちらが手厚く、どちらが酷薄だろうか?どちらが寛大でどちらが猛々しいか。自ずから答えは明白だ。
 だから、私は判じる。戎狄への里克の策は仁ではないし、梁由靡の策は残虐ではない、と。 

  

 里克の策を是とする者は、宣王の詩を引き合いに出した厳尤の論(※2)を持ち出して、言う。
「王者が戎狄を治める時は、まさしくこのようにするべきだ。」と。
 しかし彼等は、理が似ているのに、根本的に違うことがあるのを知らない。言葉は似ているが、実は大きく違うことがあるのを知らない。
「追い払うだけでした。」これが、厳尤の台詞だ。「脅すだけでよい。」これが里克の台詞だ。
 この両者は、ほとんど一寸も違わないように思える。しかし、「追い払う」と言えば、脅すだけでは留まらない。そして、「脅す」と言ったら、追い払うまでには至らないのだ。
 その言葉は実に近いけれども、その理はほど遠い。
 宣王の詩に言う。
「ケンインを討伐して、太原まで進軍する。」と。
 太原というのは、周の国境である。宣王が戎狄を討伐する時には、国境から追い出すまでやめなかった。
 これに対して采桑の戦役では、狄は屈の北、平陽の西南に居た。ここはまだ、晋の領内である。狄がまだ自国内にいるのに、里克はわずかな勝利を得ただけで、軍旗を巻いて進軍を止めてしまった。なんで宣王の軍に倣ったと言えようか?
 宣王は狄を国外へ追い払った。里克は、狄がまだ国内にいるのに追撃しなかった。これを同列に配するなど、完全な過ちだ! 

  

 私はかつて論じたことがある。戎狄を放縦にさせるのには、二つの考え方がある。
 一つは、敵を増長させて我々を侮らせ、その足下をすくう為だ。これは、詐者の論法である。落とし穴を作って、獣を追い込むやり方だ。
 もう一つは、寛大に接するのみ。すると、敵は我等を侮り、ますます貪欲に侵略を繰り返す。これは、惰弱な人間のやり方だ。門を開いて、盗賊を招き入れるようなものだ。
 古来から、夷狄へ寛大に接する者は大勢居たが、その誰もが、この二つのうち何れかだった。前の一説は、聖人なら為すに忍びない。後の一説なら、聖人は絶対に肯べらない。 

  

(※1) 

「慢書」の「慢」は、正しくは、女偏。漢の高祖が崩御した後、匈奴の単于が呂后へ、姦通を迫る冗談を書状にして送った。呂后は激怒したが、国力が整っていなかったので、我慢した。文帝の頃には、漢軍は匈奴と戦い渭橋まで攻め込んだが、そこから先は、逃げる匈奴を追撃しなかった。
 武帝の時、衛青は定襄まで攻め込み、霍去病は、砂漠を越えて(幕は、漠へ通じる)匈奴を攻撃した。 

  

(※2) 

 王莽が三十万の大軍で匈奴を討伐しようとした時、厳尤は言った。
「(前略)周の宣王の頃、ケンインが国内に侵入してケイヨウまで進軍しましたので、将軍を派遣して撃退しましたが、国境から追い出しただけで深追いはしませんでした。つまり、野蛮人共の侵略へ対しては、たとえば虻や蚊へ対するように、これを追い払うだけだったのです。それ故、天下はそのやり方を讃えましたが、それは中策であります。(後略)」 

驪姫・恵公の乱