女叔斉、礼を語る。
 
(春秋左氏伝) 

  

 魯の僖公の三十三年(BC626)。斉が、魯公の見舞いとして、国荘子を派遣した。国荘子は、出迎えの受け方から、贈り物のしかたに至るまで、すべて作法通りに正しくやってのけた。そこで、蔵文仲は僖公へ言った。
「あの国荘子が政治を執っているのですから、斉では礼が整っています。どうか我が君、斉へ帰順なさって下さい。『礼篤き人に服従するのは社稷の守りなり。』と申しますので。」 

 昭公の五年、(BC536)。昭公が晋へ行った。この時の昭公は、出迎えの受け方から、贈り物のしかたに至るまで、すべて作法通りに正しくやってのけた。晋侯が昭公の礼儀正しさを褒めると、女叔斉は言った。
「あれは単なる『儀』です。『礼』ではありません。『礼』とは、国を守り政治を行い、民心を失わぬ事です。今、魯の政権は重臣達のもとへ移っているのに取り戻すことができず、子家羅とゆう有能な人間が居るのに抜擢せず、大国との盟約を犯し、小国をいじめ、他人の難儀につけ込んで、我が身の危うさも知らない。公室の土地や民は四分割され、民は他の国へ逃げ出して主君のことなど考えもしないのに、魯公は主君となりながら、自分の国が将来どうなるのかも考えない。礼の本と末はここにハッキリとしているのに、魯公は、上辺ばかり繕って、祭礼の際の細かな立ち居振る舞いばかりセッセと練習しているのです。そんな手合いを『礼儀正しい』などとは、とんだ見当違いではありませんか。」
 これを聞いて、君子は言った。
「女叔斉は、『礼』について知っている。」 

 昭公の二十五年、趙簡子が、子大叔に挨拶や立ち居振る舞いの礼を尋ねた。すると、趙子大叔は言った。
「それは儀です。礼ではありません。」云々。 

  

  

(東莱博議) 

  

 同じ事を言っている人間がいたとしても、その背景の事件を比べなければならない。背景となる事件が同じなら、言った人間の人柄を見なければならない。
 かつて、国壮子が使者として魯へ来た時、その振る舞いが折り目正しかったので、それを見た藏文仲は、礼儀正しさを褒めそやかした。魯の昭公が晋へ行った時、その振る舞いを見て晋の平公は褒めそやかした。趙簡子が礼を問うた時にも、ただ単に上辺の行動について尋ねただけだった。
 この三人は、その背景となる事件が同じで、言っていることも同じだった。しかし、だからと言ってこの三人が同レベルだと決めつけてしまって良いものだろうか?
 晋の平公へ対する女叔斉の返答、趙簡子へ対する子大叔の返答、それらはいずれも、これを単なる「儀」と答え、「礼」とは言わなかった。と、するならば、藏文仲は「儀」を知って「礼」を知らない人間なのか?
 いや、そんな誤った答えが出るのは、人柄をはからずに事を判断した為である。
 藏文仲とは、どんな人間だろうか?彼は死んだ後も、その事績も言葉も凛然として春秋の中に残っている。それはあたかも、激流の中に砥柱が屹立しているようなものである。そして、百年の後に生まれた孔子が手本とした、先哲の一人である。女叔斉や子大叔などの輩が敢えて仰ぎ望めるような人間ではない。
 藏文仲は、彼等二人の理解できないようなことでもチャンと弁えている。この二人程度が理解している事が、どうして彼に判らないはずがあろうか。それなのに、藏文仲は、彼等二人でさえも「儀」と判るようなことを、敢えて「礼」と言った。これには、必ず理由があるはずだ。それを今から釈明してみよう。 

 そもそも、「道」とは完全なもで、精粗や本末などありはしないのだ。だから、「儀」は「礼」の外にはないし、「礼」も又「儀」の外にはない。その立ち居振る舞いを正しくすることと、神を敬う心とは、本来、分かつことのできない一体化したものなのである。掃き清めたり他人と応対したりすることと、自分の心を養うこととは、本来一体化したものであり、二つにわかつことなどできないものである。「礼」と「儀」は本来一体化したものであり、二つに分けることができないものだったのである。
 だから古代では、「礼」と「儀」は同じ意味に使われていた。たとえば、「礼」ならば、「大礼」や「有礼」と言うように、儀を備えない「礼」を指すことはなかった。同様に「儀」ならば、「多儀」や「威儀」と言うように、礼を備えない「儀」を指すことはなかった。心に従って言葉となり、その言葉だけで充分だったのだ。
 昔の人が心を正すと自ずから外見に顕れ、居住まいを正すと自ずから心も定まる。どうして一つのものを指して、「あれは礼である」とか、「あれは儀である」とか、使い分ける必要があっただろうか。
 春秋の初期には、まだ古の良き心が残っており、この理が滅んでなかった。だからこそ、蔵文仲はこの二つを渾然一体と為して、わざわざ区別を付けたりしなかったのだ。
 だが、時代が移るにつれ、人心から徳が欠落していった。そうして「礼」と「儀」が分かれてしまったのだ。拝む者を見れば、ただ単に「拝む」と言い、拱手する者を見ると、「拱手」と言い、献は「献」、酬は「酬」と言うようになった。
 ただ単に形だけを正して真心が籠もらない手合いが増えて来た。だが、それにも関わらず、彼等はその形を整えることこそが礼の極みだと考え、漫然として上辺だけを繕っていた。それは欺瞞どころか、心を込めることが「礼」であるということを知らない人間ばかりになってしまったのだ。
 このようになってしまったので、女叔斉や子大叔のように物の判った人間は、仕方なく、それらを指して、「あれは儀である、礼ではない」と言ったのである。「上辺を繕うことの他に、本当の『礼』がある」ということを教えたかったのである。
 だが、このような言い方をすると、本来分けてはならないはずの「礼」と「儀」が二つに分かれてしまう。それは、二人とも判っていた筈だ。しかし、それでもそう言わざるを得なかった。それは、風俗の衰退がそう言わせたのである。
 もしもこの二人が、蔵文仲の時代に生まれたならば、どうしてこんな事を言って、わざわざ「礼」と「儀」を二つに分ける種を播いたりしただろうか。
 つまり、女叔斉や子大叔は、蔵文仲と同じ事を言っていた。ただ、時代が軽薄になっていたので、言葉を変えざるを得なかっただけなのだ。 

 孔子は、異端の説を攻撃したりしなかった。これに対して、孟子は盛んに攻撃した。孟子ともあろうお方が、孔子と違う事を喜んで行った筈がない。時代に迫られ、仕方なくやっただけなのだ。
 だが、世俗の人間は言う。
「孟子が異端を非難したから、奴等はこう思ったのだ。
『儒学者のような立派な連中が、我々の言うことを気に掛けている。我々の学説も、棄てたものではない。』と。
 そうして彼等は儒学者からの攻撃に反駁し、つけ上がることになった。
 孔子のように超然として相手にもしなかったら良かったのだ。わざわざ非難するなど、相手をひとかどと認めたことになる。そうして儒学は自ら地に墜ちてしまった。」と。
 同様に、女叔斉や子大叔へ対しても、こう言われている。
「あの二人がおかしな事を言うから、『礼』と『儀』が二つに分かれてしまったのだ。」と。
 だが、彼等は孟子や女叔斉・子大叔の心を判ってはいない。彼等は、本当は言いたくはなかったのだ。
 君子は、孔子のように異端を非難しないことを望み、孟子のように非難することを望まない。蔵文仲が礼と儀を分けなかったような態度をとりたいと望み、女叔斉や子大叔のように二つに分けたいとは思わない。「あいつは頭が悪い」とゆう誹りなら、君子は甘んじて受けよう。「さすがに凄い」とゆう評判は、本当は避けたかったが、どうしようもなく受けざるを得なかったのだ。世間の人間の狭い了見で君子を評価してはいけない。
 魯の昭公は、儀式上での礼儀は知っていたが、乾侯の危機を知らなかった。孟献子は、そんな礼儀は知らなかったが、孔子が立派な人間だと知っていた(※1)。当時の、いわゆる「礼」というものが、アテにならないことは明白である。そんなご時世に生きている君子ならば、どうして心得違いを力説せずにいられるだろうか。
 この時に国荘子を信じた蔵文仲を気取ったりしたら、上辺ばかり取り繕う人間が出世してしまうことになってしまうではないか。実際、公孫段は傲慢にも、太鼓持ちまがいの卑屈な恭順で、恩賞を賜ったのである(※2)
 それを考えるならば、女叔斉や子大叔は、あのような言葉を言わざるを得なかったのである。彼等は決して、自らの見識をひけらかさんが為に、後世へ禍の種を播くことも顧みなかった訳ではないのだ。 

  

(訳者、曰) 

 礼について語った女叔斉の言葉は、何と的確なことか。私は、大学時代にこの台詞を読み、感動してしまった。
 ところで、二十歳前後の頃は、人格が磨かれていないにも関わらず、傲慢さだけは人一倍持っているものである。いわゆる、若造、という頃だ。私の場合も、ご多分に漏れなかった。そんな頃、このような台詞を聞いたものだから、真理の一片を掴んだものと、スッカリ有頂天になり、挙げ句、儀礼的な形式を蔑視してしまった。全く、人格が練れていないとゆうのは困ったことだ。
 この私の経験を振り返ってみると、「女叔斉の言葉が『儀』と『礼』を分けてしまった」とゆう後世の評価は、冤罪ではない。これは、事実である。更に言うなら、この言葉が残った為に、後世の狂操な人間へ言い訳を与えてしまった。
 しかし、確かに行き過ぎはあったにしても、世間的な儀礼に従い漫ろに生きて行くよりも、あの時期にこの言葉を聞けたことは、私にとって幸運だったと思っている。ただ、呂東莱のこの論をあの時期に併せ読めなかったことを惜しむのだ。なんと、女叔斉の言葉よりも、もう一段深いではないか。 

さて、この論文の主旨とは違うが、この中に、「君子は聡明だとゆう汚名を受けたくはないのだが、仕方がなかったのだ。」とゆう内容の文章がある。この思いこそ、道学者の真面目とゆうところだろう。彼等は、愚鈍の称号をこそ欲しているのだ。
 しかしながら、女叔斉がそのような断腸の想いでこの台詞を吐いたのかというと、私は大いに疑問に思っている。
 確かに、道学者ならば、その想いで仕方なく口にする言葉だろうし、この頃は、この言葉を残さなければいけない時代だった。だが、だからといって女叔斉が、その想いで口にしたとは限らない。案外、「お前らが気がつかなかった、本当の礼というものを教えてやる。俺はこんなに聡明だぞ。ヘヘヘーイ。」とゆう傲慢な思いで言ったのかもしれない。私は、そこら辺が真相だと思っている。もちろん、何の根拠もないが。 

 話を戻そう。
 時代の変遷は、言葉を深くさせていくものである。
 藏文仲の頃は、外見と心が一致していた。だから、心正しい人間は居住まいを正したし、そぞろな人間は、それが表にも現れていた。まだまだ、人間が純朴だったのだろう。
 だが、それから百年も経つと、人々は取り繕うことを覚えた。このような時代には、儀礼を正しく遂行できても、その心様までは見えなくなった。にも関わらず、世間の人間は相も変わらず上辺だけで人間を評価していた。だからこそ、女叔斉はこの言葉を残さざるを得なかったのだ。
 そして、この言葉が皆の耳になじみ始めると、半端な人間は「儀と礼は違う」の言葉を守り本尊にして、居住まいの正しさを顧みなくなった。そこで、この論が生まれたのである。
 女叔斉の時代、人々がこの言葉を聞いたら、居住まいを正すことに加えて大本を見失わないことまで気を付けるようになっただろう。そこで終わっていたならば、わざわざこのような論文を書き残す必要もなかったわけだ。
 だが、この論文の境地まで来ると、心の中の仁恕を大切にしながら、なお、上辺の折り目正しさも失わないことになる。この二つが丁度バランスを保てたならば、なんと素晴らしいではないか。
 こうして歴史が重なり、それを学ぶことで、人々の生き方も深くなって行く。どのように聡明な人間でも、一朝でこの論文は作れない。藏文仲の智恵に女叔斉の智恵が重なり、さらに呂東莱の智恵が重なって成ったのだ。
 一つの智恵によって人々が聡明になり、その為に生み出された弊害を是正する為に次の智恵が重なり、少しづつ完成されて行く。これは、長い歴史を積み重ね、それを大切にしているからこそ醸成された文化である。
 どこの国にも歴史があるが、その歴史をこれ程大切にしている民は中華の民しか居ない。そして、彼等は歴史を醸成してきた。中国人だけが四千年の歴史を自負するのは、伊達ではないのだ。 

  

(※1) 昭公の七年、昭公が楚へ行った。この時介添え役として同行した孟僖子は、不作法者で、正しい対応ができず、大恥をかいてしまった。
 だが、これで発憤した孟僖子は、帰国してから倦まずに学び、臨終の時には、自分の子息達を孔子へ弟子入りさせた。 

  

(※2) 魯の昭公の三年、鄭伯が晋へ行った。この時、鄭伯の介添え役だった公孫段は、卑下するくらいに恭順で、礼儀に欠けることがなかったので、晋侯は大いに喜び、彼へ田畑を与えた。
 これを聞いて、君子は言った。
「公孫段は、何と驕り高ぶっていることか。たった一度礼儀正しくしただけで、もう引き出物を貰いおった。」