劉裕、後秦を滅ぼす    後秦滅亡
 
  
 安帝の義煕十二年(416年)、二月。後秦王の姚興が死に、皇太子の姚泓が即位した。これと前後して、泓の弟の姚弼と姚宣が、相継いで造反し、鎮圧された。(詳細は、「後秦の内乱」に記載。)
 
 出陣準備(付、劉穆之の事)
 同月、東晋は、太尉の劉裕に、中外大都督の官職を加えた。劉裕が後秦討伐の準備に掛かると、更に司・豫二州刺史を加えるよう詔が下った。又、劉裕の世子の劉義符は、徐・コン二州刺史に任命された。
 八月、寧州から劉裕へ、琥珀の枕が献上された。琥珀は刀傷に良く利くと言われていたので、劉裕は大いに喜び、この枕を細かく砕くと、北征に従事する将士達へ分配した。
 劉裕は、劉義符を中軍将軍、監太尉として、幕府の留守を預け、劉穆之を「左僕射・領監軍・中軍二府軍司」に任命して東府へ入れ、内外のことを総括させ、徐羨之をその副官とした。
 劉穆之は、朝政を束ね、軍の兵糧補給まで行ったが、その決断は流れるようで、事務は凝滞しなかった。この時、請願や訴訟、或いは内外の諮稟で面会する者が部屋へ満ちていた。これに対して劉穆之は、目で辞訟を読みながら手では答箋を書き、耳で聞きながら口で答えるとゆう四つのことを同時に行い、一つも混乱がなかった。又、このような状況にあってさえ、来客を喜び、談笑して終日飽きなかった。性格は奢侈で豪快。食事の時は必ず十人以上と共にし、独餐することがなかった。
 かつて、彼は劉裕へ言った。
「私は貧しい生まれで、生きて行くのがカツガツでした。抜擢されてから、多少贅沢はしていますが、公へ背く想いは秋毫もございません。」
 中軍諮議参軍の張召が、劉裕へ言った。
「人間とは、脆いものですから、遠い慮りが必要です。劉穆之が死んだら、誰を代わりになさるのですか?又、閣下が不諱(死ぬこと)の時はどうなりましょうか?」
 すると、劉裕は答えた。
「その時は、劉穆之と卿へ任せるぞ。」
 
 東晋軍出動
 丁巳、劉裕は建康を出発した。淮に駐屯していた龍驤将軍王鎮悪と冠軍将軍檀道済を許・洛へ向かわせた。新野太守の朱超石と寧朔将軍胡藩は陽城へ、振武将軍沈田子と建威将軍傅弘之は武関へ向かわせた。建武将軍沈林子と彭城内史劉遵考(劉裕の一族)には水軍を与えて、石門から出陣させ、ベンから河へ入らせ、冀州刺史王仲徳を督前鋒将軍として、鉅野から河へ入らせた。
 この時、劉穆之は、王鎮悪へ言った。
「公は、卿へ伐秦の大任を委ねられたのだ。務められよ!」
 すると、王鎮悪は答えた。
「関中に勝てなければ、誓って江を再び渡らぬ。」
 劉裕が出発すると、青州刺史の檀祇が兵を率いてジョの亡命者達を掃討し始めた。これを聞いた劉穆之は、檀祇が造反するのではないかと恐れ、正規軍を派遣することを議論した。この時、檀韶が江州刺史だったので、張召は言った。
「今、檀韶は揚子江の中流に據り、檀道済は討伐軍の先陣となっています。この状況で檀祇を猜疑したら、国の基盤が揺らぎます。それよりも慰労の使者を派遣して、檀祇の勤労を労いましょう。彼は造反しません。」
 そこで、劉穆之は派兵を思いとどまった。
 
 緒戦快勝
 九月、劉裕は彭城へ到着した。
 王鎮悪と檀道済は国境を越えて秦の領内へ入り、連戦連勝だった。秦将の王苟生は漆丘ごと王鎮悪へ降伏し、徐州刺史姚掌は項城ごと檀道済へ降伏した。そうなると、諸屯守も次々と降伏してきた。ただ、新蔡太守の菫遵だけは降伏しなかったが、檀道済はこれを攻め落とし、菫遵を捕らえて、殺した。
 彼等は許昌まで進撃し、秦の穎川太守姚垣と大将楊業を捕らえた。
 枕林子が黄河へ入ると、襄邑の住民菫神虎が、千余人をかき集めて降伏してきた。劉裕は、彼を参軍とした。枕林子は、菫神虎と共に倉垣を攻撃し、勝った。秦のコン州刺史葦華が降伏した。ところが、ここで、菫神虎が勝手に襄邑まで帰って行った。枕林子は、菫神虎を殺した。
 
後秦の斉公恢
 後秦の東平公姚紹が、後秦王の姚泓へ言った。
「晋軍は既に許昌まで来ました。ところで、我が国の重鎮である安定は、孤立している上に遠く、これらを救援するのが難しゅうございます。ですから、ここの住民を京畿へ移動させましょう。そうすれば、十万の精兵が集結しますので、晋と夏が交互に侵略してきても、なお、撃退できます。そうしなければ、晋が豫州を、夏が安定を同時に攻撃してきたときどうしましょうか?もはや急が迫っていますどうか、お早くご決断を。」
 だが、左僕射の梁喜が言った。
「安定を鎮守する斉公恢は、威名高く、嶺北の民から憚られております。彼の兵団は夏と何度も戦い、勃勃への怨みは骨髄へ滲みております。ですから、彼等は絶対に死守いたします。そうゆう訳で、勃勃は安定に阻まれ、京畿へ侵入することができないのです。もしも安定がなくなれば、あの虜共は必ず眉まで侵入しましょう。今回の晋の侵略など、関中の兵を動員すれば撃退できます。なにも自ら領土を削る必要はありません。」
 泓は、梁喜へ従った。
 吏部郎の懿横が、密かに泓へ言った。
「姚弼が造反した時、恢は陛下へ忠勤を尽くしました。しかし陛下は即位なさってから、その功績に答えてはおりません。その上、彼を内政にも関与させないばかりか、夏との最前線へ追いやっているのです。安定の民は、目の前に敵がおりますので、九割方の人間が南へ逃げたがっております。ですから、もしも恢が数万の精兵を率いて軍鼓を鳴らしながら京師へ行軍しましたら、社稷の重大な危機ですぞ!ここは恢を朝廷へ呼び戻し、慰撫するべきでございます。」
 すると、姚泓は言った。
「もしも恢が不逞の心を持っているのなら、造反しやすい場所へ置いてやれ。その方が、却って禍が速やかに片づくと言うものだ。」
 
北魏の動揺
 王仲徳の水軍は、黄河へ入って、滑台へ迫った。魏のコン州刺史尉建はおびえ、民を率いると、城を棄てて河を渡り、北へ逃げた。王仲徳は滑台へ入ると宣言した。
「もともと、我が国は布帛七万匹を魏へ贈って、その領内を通過させて貰うつもりでいた。ところが、魏の守将は城を棄てて逃げていってしまったわ。」
 魏王拓跋嗣は、これを聞くと尉建を斬り殺し、その屍を河へ棄てさせた。又、叔孫建と公孫表へ兵を与えて黄河を渡らせ、王仲徳の軍へ向かって侵寇したことを詰問させた。すると、王仲徳は、司馬竺和之を派遣して言った。
「劉太尉が王将軍へ命じられましたのは、後秦の掃討。我が将軍にも、魏を攻撃する心はありませんでした。ですが、守将がサッサと逃げ出してしまったのでございます。我等は空城がありましたので、これへ入って兵を休めたのみ。これから全軍この城を出立し、西へ向かうところでございます。我等には、魏との親交を踏みにじる気持ちはありませんのに、どうして仰々しく鳴り物を鳴らして軍旗をはためかされるのですか!」
 そこで魏王は、叔孫建を劉裕のもとへ派遣した。すると、劉裕は腰を低くして答えた。
「洛陽は、晋の旧都ですのに、あのキョウ族が勝手に居座っているのです。我々にとって、洛陽奪還は、積年の望みでした。その上、我が国で乱を起こした司馬休之、国幡兄弟、魯宗之親子等は、皆、キョウ族が養い、我が国へ患をなそうとしております。これらの因縁で、我等は秦を討伐に参ったもの。魏の領内を通過させていただきましたが、決して狼藉はいたしません。」
 
洛陽陥落
 十月、秦の陽城と栄陽が降伏し、晋軍は成皋まで進んだ。洛陽を鎮守していた姚洸は、長安へ救援を求めた。これへ対して、秦王は越騎校尉閻生へ三千の騎兵を与えて救援に向かわせ、武衛将軍姚益男に一万の兵を与えて洛陽の守備を助けさせ、ヘイ州牧姚懿を陜津に屯営させて声援とした。
 寧朔将軍趙玄が、姚洸へ言った。
「今、晋軍が深く入り込み、人情は恐れおののいています。それに、『衆寡敵せず』とも申しますし、出撃して勝てなければ、大事は去ります。ここは、諸砦の兵を結集して金庸を固守し、西からの救援を待つべきです。金庸さえ落ちなければ、晋はこれ以上西へ進めません。そうすれば、戦わずして敵の疲弊を衝くことができます。」
 だが、司馬の姚禹は檀道済と内通していた。そして、主簿の閻恢、楊虔は、皆、姚禹の党類だった。彼等は共に趙玄を疎んじていたので、みんなして姚洸へ言った。
「殿下は、英武の略を見込まれて、この重鎮を任されたのです。それがオメオメと籠城しては、朝廷から責任を問われますぞ!」
 姚洸は、それに頷き、趙玄へ千余の兵を与えて柏谷塢を守らせ、廣武将軍石無諱に鞏城を守らせた。趙玄は、涙を零して姚洸へ言った。
「私は三帝の重恩を受けました。こうなっては、命を捨てて守りましょう。ただ、殿が忠臣の言葉を用いず、姦人の言葉に判断を誤りましたら、必ず後悔いたしますぞ!」
 やがて、皋も虎牢も降伏した。檀道済等は長躯して進んだ。石無諱は、石関まで行って、逃げ帰った。
 趙玄は、晋の龍驤司馬毛徳祖と柏谷で戦い、敗北した。趙玄は、十余の刀傷を負って、地に倒れた。すると、趙玄の司馬の蹇鑑が、敵の刃をかいくぐって趙玄を抱き、泣いた。
 趙玄は言った。
「俺は重態だ。お前は速やかに逃げろ!」
 蹇鑑は言った。
「将軍を置いて逃げられません!」
 こうして、二人とも戦死した。
 姚禹は、城を抜け出して、檀道済のもとへ逃げ込んだ。
 甲子、檀道済は洛陽へ迫った。そして丙寅、姚洸は降伏してきた。
 洛陽の陥落で、四千余の秦人を捕虜とした。ある者は、これを全て穴埋めにしようと言ったが、檀道済は言った。
「罪を伐ち民を弔う。その行為は、今、ここにあるのだ!」
 そして、捕虜を全て釈放した。これによって、華人も夷人も感悦し、大勢の民が帰順した。
 閻生と姚益男は、行軍の途中で洛陽陥落の報告を受け、進軍を見合わせた。
 劉裕は、毛修之を河南、河内二郡太守として、洛陽を守らせた。
 
劉裕、牙を剥く
 十一月、劉裕は、左長史の王弘を建康へ派遣し、朝廷へ風諭して、九錫を求めた。この時、劉穆之は留守の政務を取り仕切っていたが、この話を聞いた時から、自分のそれまでの行動を慚愧し、遂には発病してしまった。
 十二月、詔が降り、劉裕は相国となり、百揆を統べることとなった。又、揚州牧となり、十郡を領土として宋公に封じられた。九錫の礼を備え、諸侯王の上に位された。しかし、劉裕は、これを辞退して受けなかった。
 この頃、西秦王熾磐が劉裕のもとへ使者を派遣し、後秦攻撃を申し出た。これに対して劉裕は、熾磐を平西将軍、河南公とした。
 
姚懿造反
 後秦の姚懿の司馬に孫暢と言う男がいた。彼は、長安を襲撃して東平公紹を誅殺して秦王泓を廃立し、これに代わるよう姚懿へ進言した。姚懿は同意し、私恩を張る為に、河北県(河東郡の一県)の住民へ穀物を振る舞った。すると、左常侍の張弊と侍郎の左雅が諫めて言った。
「殿下は、陛下の叔父ですし、この方面を任されております。その安危は、国と一体であるべきです。今、晋の来寇で、国家は鳴動しております。西虜は我が国へ深く入り込んだばかりではなく、夏は上圭を破り、北涼は姑藏へ入っておるのです。まさしく、我が朝廷は累卵の危うきにあるのです。それなのに殿下は、国家の穀物を理由もなく振る舞われました。穀物は国の礎でございます。国儲を勝手に消耗させて、殿下は何を求められるおつもりなのですか!」
 姚懿は激怒し、彼等を笞打って殺した。
 これを聞いた姚泓は、姚紹を召し出して相談した。すると、姚紹は言った。
「姚懿は浅はかな男です。国庫を解放して人心を掌握する等という芸当は、孫暢の策謀に違いありません。ですから、孫暢を徴収しましょう。そして、撫軍将軍の姚譖を陜城へ、臣を潼関へ派遣し、諸軍の取りまとめとしてください。もしも孫暢が戻ってきましたら、臣は姚懿と共に晋軍を防ぎましょう。しかし、奴が帰京を拒否したら、それを理由に姚懿めを討伐するのです。」
 姚泓は言った。
「叔父上の計略は、社稷を救います。」
 そして、姚譖と司馬国幡を陜城へ、武衛将軍姚驢を潼関へ派遣した。
 ここにいたって、姚懿は挙兵して帝と称し、州郡へ檄文を飛ばした。そして、匈奴堡の兵糧を自鎮へ運び込もうとしたが、寧東将軍の姚成都がこれを拒んだ。姚懿は言葉を低くして彼を誘い、佩刀まで贈って誓ったが、姚成都は従わない。そこで、姚懿は驍騎将軍王國へ数百の兵を与えて攻撃させたが、姚成都はこれを撃破して王國を捕らえ、使者を派遣して姚懿を詰った。
「殿は至親の上、重任を任されておりますのに、国難を救うどころか、却って非望を謀られる。そんな男を、どうして先祖の御霊が佑け賜りましょうか!私は、義兵を糾合して、河上にて殿へお会いするつもりでございます。」
 そして、檄文が飛んだ諸城を、順逆の理で諭し、徴兵して姚懿討伐に動いた。
 姚懿も諸城へ兵の動員を命じたが、応じる者が居ない。ただ臨晋の数千戸だけが姚懿へ応じた。成都は兵を率いて河を渡り、臨晋の造反者達を攻撃して、破った。
 姚懿の領土の蒲阪でも、住民の郭純等が起兵して姚懿を包囲した。そこへ姚紹が入城し、姚懿を捕らえ、孫暢を誅殺した。
 
姚恢造反
 十三年、正月。姚泓は前殿にて百官と朝会し、内外の危迫を訴えて、君臣揃って泣いた。
 その頃、征北将軍の姚恢は、安定の住民三万八千を率いて廬舎を焼き払い、長安へ向かって移動していた。彼は、大都督・建義大将軍と自称し、「君側の奸を除く」のお題目を唱え、州郡へ檄を飛ばした。すると、揚威将軍姜紀が、彼の元へ駆けつけ、建節将軍彭完都は任地を棄てて長安へ戻った。
 姚恢軍が新支まで来ると、姜紀は姚恢へ言った。
「国家の名将や大軍は、全て東方へ出払っており、京師には、大した武力は残っておりません。公は、軽兵を率いてこれを急襲するのです。必ず勝てます!」
 しかし、姚恢は従わず、眉城を攻撃した。姚恢軍は、鎮西将軍姚甚を撃破したので、長安はパニックとなった。
 姚泓は、姚紹を呼び戻すと共に、姚裕と輔国将軍胡翼度を豊西へ屯営させた。扶風太守姚雋等は、皆、姚恢へ降伏した。
 姚紹は軍を率いて西へ還り、霊台にて姚恢と対峙した。又、姚譖も寧朔将軍尹雅に潼関を守らせて、兵を率いて西還した。諸軍が四集して来ると、姚恢軍の兵卒達は恐れ、その将斉黄等が降伏してきた。
 姚恢は兵を率いて姚紹へ迫ったが、その背後を姚譖軍に襲撃されて、大敗を喫した。官軍は、姚恢及びその三弟を殺した。
 姚泓は慟哭し、姚恢を公爵の礼で葬った。
 
潼関の攻防
 同月、劉裕は息子の劉義隆を彭城に留め、自身は水軍を率いて彭城を出発した。
 王鎮悪は蠅池へ進軍し、毛徳祖に蠡吾城の尹雅を攻撃させた。尹雅は守兵を殺して逃げ、王鎮悪は潼関まで進んだ。
 檀道済と沈林子は陜北から河を渡り、襄邑堡を抜いた。後秦の河北太守薛帛は、河東へ逃げた。次いで、蒲阪のヘイ州刺史尹昭を攻撃したが、勝てなかった。別将が匈奴堡を攻撃したが、姚成都に撃退された。
 辛酉、栄陽守将傅洪が虎牢ごと魏へ降伏した。
 姚泓は、姚紹を太宰、大将軍、都督中外諸軍事、假黄鉞とし、魯公に改封した。又、督武衛将軍姚鸞に五万の兵を与えて潼関へ派遣し、別将姚驢を蒲阪救援へ向かわせた。
 沈林子は檀道済へ言った。
「蒲阪は堅城で兵も多く、抜くのは困難です。これを攻めても、損傷が多く、時間も掛かります。それよりも、王鎮悪と合流して潼関を攻撃しましょう。あそこを攻略すれば、蒲阪は戦わずとも自潰します。」
 檀道済は同意した。
 三月、檀道済軍は潼関へ到着した。姚紹は兵を率いて討って出たが、檀道済と王鎮悪が奮戦して大勝利を収め、数千の敵兵を捕らえた。
 姚紹は定城まで退き、険に據って拒守し、諸将へ言った。
「檀道済等の兵力はそんなに多くはないし、敵地深く攻め込んでいる。だから、我々は守りを堅くして救援軍を待ち、敵の糧道を断てば、奴等を擒にできるぞ。」
 そして、姚鸞を大路へ屯営させて、敵の糧道を絶たせた。
 姚鸞は尹雅に晋軍を攻撃させたが、尹雅は敗北し、捕らわれてしまった。晋軍が彼を殺そうとすると、尹雅は言った。
「俺は前日死ぬべき所を、幸いにも逃げ出せた。だから、今更命は惜しまん。ただ、華と夷と国は違っても、君臣の義は一つの筈だ。晋は大義を提唱して戦争を仕掛けたのに、秦の守節の臣を殺すのか!」
 そこで、晋軍は彼を釈放した。
 丙子の夜、沈林子は精鋭を率いて姚鸞の陣を襲撃し、これを斬り、数千の士卒を殺した。 姚紹は、今度は姚讚を河上に屯営させて、晋の水道を断たせた。しかし、林沈子がこれを襲撃し、姚讚は敗北。定城まで逃げ込んだ。
 薛帛は河曲ごと降伏した。
 
北魏評定
 劉裕軍は清河へ入った。更に進もうとして、魏へ使者を派遣し、領内通過の許可を求めた。姚泓も又、救援の使者を魏へ派遣した。魏王嗣が群臣と協議すると、皆は言った。
「潼関は天険。劉裕が水路から攻撃しても、なかなか以て落とせますまい。それに対して、岸へ登って北伐するなら、造作ないこと。ですから、奴等は秦を攻撃すると言っていますが、その本心は知れたものではありませんぞ。それに、秦は我等と婚姻の国です。見捨てられません。ここは派兵して河の上流を断ち、奴等の西進を食い止めるべきです。」
 すると、崔浩が言った。
「劉裕は、長い間秦を狙っておりました。今、姚興は死に、息子の泓は懦劣な人間。しかも、国内で造反が相継いでおります。劉裕は、それに乗じて秦を攻撃しようと考えているのです。もしもその軍を阻みましたら、劉裕は怒り、必ずや北岸へ登って我等を攻撃しましょう。これでは、我々が秦に代わって敵を受けるようなものではありませんか。我が国は、今、柔然が辺境を冒し、民の食料は欠乏しております。この状況で更に劉裕と戦うのならば、北方の兵を南へ向けねばならず、そうなれば、北の国境が危険です。これは良策ではありません。
 それよりも、まず領内の通過を認め、劉裕を西へ遣ってから、兵を出して東へ帰る道を塞ぎましょう。もしも劉裕が勝ったなら、我等は領内を通過させたことを恩に着せられますし、敗北したなら、秦へ対しても援軍を出したと言い訳できます。これこそ、得策と言うものです。
 それに、南北では民俗が異なります。もしも秦が滅んだとしても、劉裕は呉・越の兵を率いて河北へ攻め込むのですから、どうして我等に敵いましょうか!それ、国計はただ、社稷に利益があるかどうかのみを考えるべきもの。なんで一女子を顧みて良いものでしょうか!」
 だが、尚も反論する者が居た。
「劉裕が西進して関へ入ったなら、我等が出兵して腹背に敵を受けることを最も恐れるはず。ところが、北上した時、秦軍は我等への援軍を絶対に送りますまい。してみると、奴等は西を攻撃すると言ってますが、本心は我等を攻撃するとしか思えませんぞ。」
 そこで、魏王は司徒の長孫嵩を督山東諸軍事とし、振威将軍娥清、冀州刺史阿薄干に十万の軍を与えて河北岸へ派遣した。
 それでも、劉裕は、軍を率いて黄河へ入った。
 
兵糧獲得
 さて、当初、劉裕は王鎮悪等へ命じていた。
「もしも洛陽を落としたら、後続が来るのを待って、共に進撃するように。」
 だが、王鎮悪等は、勝ちに乗じて軽々しく潼関まで進軍したのだ。そこで敵に進軍を阻まれ、兵糧が欠乏してきた。兵卒達は動揺し、中には輜重を棄てて劉裕の本隊まで退却しようと言い出すものまで現れた。それを聞いた沈林子は、刀を振りかざすと、怒鳴りつけた。
「相公は四海を中華の手に取り戻そうと志された。今、許・洛は平定し、関右も将に平定されようとしている。そして、この成否の鍵は、前鋒に掛かっているのだ。勝ちに乗じて一気に突き進むべきなのにその志気を阻喪させ、目前の成功をドブに棄てるのか!それに、本隊はまだ遠い。我等が退却して賊軍が勢いを盛り返したら、引き返そうと思っても出来はせんぞ!命令を受けながらそれを顧みないのなら、どう言い訳するつもりだ。お前達は、どの面下げて相公へまみえるつもりか!」
 王鎮悪は、劉裕のもとへ使者を派遣して、兵糧を求めた。すると劉裕は、使者を呼び寄せて河上の魏軍を指さし、言った。
「我が命令を聞き流し、軽々しく進んで深みにはまりおった。岸上はあの有様だ。兵糧をどうやって送れるか!」
 そこで、王鎮悪は、占領した弘農へ自ら出向き、百姓を説得した。すると、百姓は競うように義租を贈ってきたので、晋軍の糧食はどうにか整った。
 
北魏撃退
 魏軍は、数千騎を河に沿って移動させ、劉裕を監視しながら西へ行かせた。南岸は百丈の絶壁。風や水流が激しく、中には北岸へ上陸しようとする晋兵もいたが、彼等はすぐに、その魏軍から攻撃され、皆殺しとなった。劉裕が軍を上陸させると彼等は逃げ去るが、兵が船に戻ると、再び岸へ戻ってきて監視するのだ。
 四月、劉裕は丁午へ七百の兵と百乗の車を与えて北岸へ上陸させた。彼等は岸を百歩ほど離れると、そこに月陣を布いた。その陣は、両端が河を抱くようであり、一つの車事に七人の兵士が整列している。陣が整うと、彼等は白い(耳/毛)を立てた。
 魏兵は、その意図が掴めず、皆、動かない。
 実は、劉裕は、まず寧朔将軍朱超石に戒厳させていた。白(耳/毛)が立つと、それを合図に朱超石が二千人を率いて駆けつけてきた。彼等は大弩百張を備えていた。
 魏兵は、陣が立ったのを見て、これを包囲した。その上、長孫嵩が三万騎を率いて援軍として駆けつけ、四面から晋軍へ肉薄した。その大軍は、弩でも止めることができなかった。
 すると、朱超石は、柄を斬って長さを三・四尺とした{矛/肖}(矛の一種でしょうか?この字は辞典にも載っていませんでした。)を、大槌で打って次々と飛ばした。その{矛/肖}は、一本で敵兵三・四人を貫いた。この攻撃に魏軍は堪らず、たちまち潰走し、死者が山のように積み重なった。勝ちに乗った晋軍は、敵陣まで攻め込み、阿薄干を斬る。魏軍は畔城まで逃げた。
 朱超石は、寧朔将軍胡藩、寧遠将軍劉栄祖を率いて追撃し、再び撃破。千人余りを捕虜とした。
 敗報を受けた魏王は、崔浩の言葉を用いなかったことを後悔した。
 
姚紹病没
 姚紹は、長史の姚洽、寧朔将軍安鸞、護軍姚墨蠡、河東太守唐小方に二千の兵を与えて河北の九原に屯営さた。河を防御線として、檀道済の糧道を絶つ為である。しかし、沈林子がこれを攻撃して、撃破した。姚洽、安鸞、姚墨蠡を斬り、敵兵の大半を捕虜とした。 そこで、林沈子は劉裕へ伝言した。
「姚紹は関中へ蓋をするつもりですが、国外では軍が敗北し、国内では造反が相継いでおります。奴等が自滅してしまって、我等の手で滅ぼせない事にでもなれば、悔しい限りです。」
 姚洽等の戦死の悲報を受けた姚紹は、怒りの余り血を吐いて、病に伏せった。やがて、兵権を姚讚へ委ねて卒した。
 この頃、まだ秦軍には勢力があったので、姚讚は討って出たが、林沈子は迎撃して撃ち破った。
 洛陽へ入った劉裕は、城塹を見回った。それは毛修之が見事に修復していたので、その功績を嘉し、衣服や銭三千万を賜下してその功績を賞した。
 
崔浩の予見
 五月、後秦の斉郡太守の王懿が、魏へ降伏し、魏王へ書を送った。その文に言う、
「劉裕は洛陽へ入りました。軍を出動してその帰路を断てば、戦わずして勝てます。」
 魏王はこれを善とした。
 崔浩が魏王の前で侍講している時、魏王は尋ねた。
「劉裕の姚泓討伐は、成功するかな?」
 崔浩は答えた。
「勝ちます。」
「どうして?」
「昔、姚興は虚名を求め、国力を削ぎました。息子の姚泓は惰弱で病気がち。それで兄弟の争いが絶えません。劉裕はその危機に乗じていますし、その兵は精鋭、将は勇猛。勝てぬ筈がありません!」
「劉裕の才覚は、慕容垂と比べてどうか?」
「凌いでいます。慕容垂は父兄の威名の許に、旧業を修復しましたから、国人も彼に帰順したのです。例えるならば、火に集まった虫へ対してならば、杖打つだけで容易に結果が出るようなものです。それに対して劉裕は、寒微の位から成り上がりました。寸尺の土地も持たないのに、桓玄を討って晋室を復興し、北は慕容超を捕らえ(詳細は、「劉裕、南燕を滅ぼす」に記載)、南は廬循を梟首し(廬循の乱を平定した)、向かう所敵がありません。よくよくの才覚がなければ、どうしてこんな事ができましょうか!」
「その劉裕は、今、関へ入った。その進退が窮まるように、我が軍が彭城、寿春へ兵を動かしたなら、奴目はどうするかな?」
「今、我が国は西に夏を控え、北には柔然があり、両者とも我が国の隙を狙っております。陛下が六軍を率いて親征できない以上、精兵が居てもこれを指揮する良将がおりません。長孫嵩は内政にこそ長けておりますが、用兵は拙く、劉裕の敵ではございません。兵を遠くまで動かしましても、得る物はないでしょう。
 それよりも、しばらく静観することです。劉裕が後秦に勝てば、今度は簒奪を考えます。それに、関中には華人と夷人が雑居し、人情は剽悍。劉裕が荊・揚州と同じやり方で治めようとしても、とてもできますまい。兵を留めてこれを守っても、民心を掴めなければ、守り通すことはできません。いずれは、どこかの国へ奪われるに決まっています。
 どうか陛下、今は兵を休めて民力を慈しみ、変事が起こるのを待たれてください。秦の地は、いずれ我々の物となります。座して待つことです。」
 魏王は笑って言った。
「卿は全てをお見通しか。」
 崔浩は言った。
「臣はかつて、近世の将相を論じたことがございます。王猛の治国は、苻堅の管仲。慕容恪が幼主を補弼したのは、慕容偉の霍光。劉裕が乱を平定したのは、司馬徳宗の曹操でございます。」
「それで、夏の赫連勃勃はどうだ?」
「赫連勃勃は、もともと国が破れ一族は潰れて身寄りのない孤児となり、姚氏に養って貰っていた人間です。それが、恩に報いようとも義に応えようとも考えず、一時の機運に乗って小利を追いかけ、四隣から怨みを買いまくっております。このような小人は、暴虐さで羽振りが良くなってもその場限り。やがてどこからか呑食されてしまいます。」
 魏王は大いに悦び、夜半まで語り明かした後、崔浩へ極上の酒と水精塩(水精のように透明な塩)を賜下して言った。
「朕が卿の言葉を味わうに、この塩や酒のような物。卿と共にその旨味を味わいたいものだ。」
 しかし、長孫嵩と叔孫建へ、精兵を率いて劉裕の動向を伺うよう命じた。もしも劉裕が更に西へ進むようなら、河を渡って彭・沛を占領し、それ以上進まないならば、戻ってくるように、と。
 この月、魏王は雲中巡回し、河を渡って大漠で狩りをした。
 
泓親征
 七月、劉裕は陜へ進んだ。沈田子、傅弘之は武関へ入り、秦の守将は、全て城を棄てて逃げ出した。沈田子等は更に進んで青泥に屯営した。泓は、給事黄門侍郎姚和都を堯柳へ屯営させて、これを拒がせた。
 劉裕は閔郷まで進んだ。泓は劉裕を防ぐ為に親征しようと欲したが、沈田子に背後を衝かれることが不安だった。そこで、まず沈田子を殲滅し、その後全軍を挙げて東進しようと考えた。
 その頃、 沈田子等は、堯柳を攻撃しようとしていた。これに対し、泓は、数万の兵を率いて青泥へ向かった。
 さて、沈田子等は、もともと先発隊だった。その兵力も、数千に過ぎない。しかし、姚泓が直々に乗り出したと聞き、一将功に走った。傅弘之は、「衆寡敵せず」と、これを止めたが、沈田子は言った。
「戦は兵力ではない。軍略だ。それに、既に衆寡相臨んでいる。奴等が連携を密に執っていたら、我等は逃げられない。それよりも、戦始め、奴等の陣立てが整っていないうちに突撃するのだ。功績を建てるのはこの時ぞ。」
 遂に、兵を率いて前進し、傅弘之もこれに続いた。
 後秦軍は、これを幾重にも包囲している。沈田子は、部下へ言った。
「諸君が千里の道を乗り越えてはるばるここまでやって来たのも、まさに今日の戦いにて、死生を一気に決する為だ。封侯の功績を建てるのは、今だぞ!」
 士卒は勇躍鼓躁し、刀や剣を執って奮戦した。(死地に置いてこそ、兵は自ら戦う。沈田子の戦法こそそれである。)秦軍は大敗し、万余の首級を斬られた。皇帝の乗輿や被服まで奪われ、泓は覇(「水/覇」)上まで逃げた。
 ところで、劉裕は、沈田子の兵力が少ないことを考え、沈林子を援軍に差し向けていた。秦軍が大敗した後、この両軍は合流して追撃を掛けた。関中の諸郡の大半は、晋軍へ密かに食糧を送って恭順の姿勢を示した。
 
王鎮悪の奮戦
 辛丑、劉裕は潼関へ到着した。河東太守に任命した朱超石と、振武将軍徐猗之、薛帛とを河北で合流させて、蒲阪を攻撃させた。
 後秦軍は、平原公姚璞と姚和都が迎撃した。徐猗之は戦死。朱超石は潼関へ逃げ帰った。東平公姚讚が司馬国番を派遣して魏軍を引き入れ、晋軍の背後を絶った。
 ここで、王鎮悪が、水軍を率いて胃(「水/胃」)水から長安へ向かうことを請願し、劉裕はこれを許可した。すると、後秦の恢武将軍姚難が香城を棄てて逃げ出したので、王鎮悪はこれを追撃した。
 泓は、覇上から石橋まで退却して、晋軍を牽制した。又、鎮北将軍姚疆が姚難と合流して徑へ屯営し、王鎮悪を拒いだ。だが、王鎮悪は、毛徳祖にこれを攻撃させて破った。姚疆は戦死。姚難は長安へ逃げた。
 姚讚は、鄭城まで退却した。劉裕は進軍してこれへ迫る。泓は姚丕に胃橋を守らせ、胡翼度を石積へ、姚讚を覇東へ屯営させて、自身は逍遙園に屯営した。
 王鎮悪は、胃水を遡り、壬戌の明け方、胃橋へ到着した。そこで軍士に食を摂らせると、杖を持って岸を登るよう命じた。登岸に遅れる者は斬り殺す。胃水は流れが速いので、全員が登岸すると、船は忽ち流れに飲まれ、行方も知れずになってしまった。
 この時、泓のもとには、なお数万の兵力があった。王鎮悪は士卒へ言った。
「我等も家族も、皆、江南の人間。ここ長安は北の門である。故郷を万里も離れ、船楫、衣糧は全て流れに呑まれてしまった。今、進戦して勝てば、功名共に顕れるが、勝たなければ骸骨となって帰ることはできない。二つに一つ、いずれかだ!卿等、勉めよ!」
 そして、士卒の先頭に立って突撃した。集は騰踊して争うように進み、胃橋の姚丕を撃破した。姚泓が救援に駆けつけたが、逃げまどう姚丕の兵卒に蹂躙され、戦わずして潰れた。姚甚等は皆戦死し、姚泓は単騎で王宮へ逃げ帰った。
 
後秦滅亡
 王鎮悪は平朔門から長安へ入城。泓は、姚裕と共に数百騎で石橋まで逃げた。
 姚泓の敗報を受けた姚讚は、兵を率いて泓のもとへ赴いたので、その軍は潰れた。胡翼度は、劉裕のもとへ降伏してきた。
 泓が降伏しようとすると、十一才になる子息の佛念が、泓へ言った。
「晋人は貪欲で飽きることを知りません。降伏しても免れないのです。それよりも、潔く自害いたしましょう。」
 泓は憮然として応じなかった。そこで、佛念は、宮牆から飛び降りて自殺した。
 癸亥、泓は妻子、群臣を率いて王鎮悪のもとへ降伏してきた。王鎮悪は、これを役人へ引き渡した。
 長安城内には、華・夷六万戸の住民が居たが、王鎮悪は彼等を慰撫するよう宣言し、号令も厳粛だったので、百姓は安堵した。
 九月、劉裕が長安へ到着し、王鎮悪は覇上まで出迎えた。彼は王鎮悪を労って言った。
「我が覇業が達成できたのは、卿のおかげだ。」
 すると、王鎮悪は言った。
「殿の威光と諸将の力です。私に何の功績がありましょうか!」
 劉裕は笑って言った。
「卿は馮異(後漢の名将)に学んだな。」
 この、王鎮悪は貪欲な男だった。もともと、後秦の国庫には宝物が満たされていたが、鎮悪はその多くを盗取した。だが、その功績が大きかったので、劉裕はこれを黙認した。すると、ある者が讒言した。
「王鎮悪は、泓の偽輦(※1)を私蔵しております。造反の心があるとしか思えません。」
 そこで劉裕が人を使って真偽を調べると、王鎮悪は、輦を飾り付けてあった金銀を剥ぎ取り、残骸を棄てていた。その報告を受けて、劉裕は安堵した。
 劉裕は、後秦の彝器や渾儀、土圭、指南車などを押収し(これらは、帝王の地位を誇示する小道具)、建康へ送った。そして、それ以外の、金玉・綾錦・珍宝等は、全て将士へ賜下した。
 後秦の平原公姚璞、ヘイ州刺史尹昭は蒲阪ごと降伏し、東平公姚讚は宗族百余人を率いて劉裕のもとへ降伏してきた。劉裕は、これらを皆殺しにした。姚泓は、建康へ送られ、市で斬られた。
 さて、後秦を滅ぼした劉裕は、洛陽遷都を言い出した。すると、諮議参軍の王仲徳が言った。
「そのような大事は、必ず人々の心へ動揺を生みます。それに、今は遠征して久しく、兵卒達も望郷の念に駆られ始めました。遷都を行うには、まだ時期尚早かと考えます。」
 そこで、劉裕は思いとどまった。
 後秦滅亡の報告を受け、北涼王蒙遜は甚だ怒った。門下校郎の劉祥がそれを告げた時、蒙遜は言った。
「おまえは劉裕が関へ入ったと聞いたのに、そんなきらびやかな格好をしているのか!」
 そして、劉祥を斬った。(河西の民は晋室を慕っていた。蒙遜は胡人なので、劉裕が関へ入ったと聞いて、憂慮した。だから、劉祥を斬って見せしめとしたと言われている。)
 劉裕が後秦へ攻め入った時、夏王の赫連勃勃は群臣へ言った。
「姚泓は劉裕の敵ではない。その上、奴の兄弟が次々と造反している。どうして他国の侵略を防げようか!劉裕は、必ず関中を取る。だが、劉裕はいつまでも関中へ留まってはおれまい。必ず南へ帰る。子弟や諸将を留めて守らせるだろうが、その時こそ、吾は塵を拾うようにあの土地を奪って見せよう。」
 そうして、兵糧を蓄え、士卒の訓練に励み、安定へ攻め込んだ。すると、秦の嶺北の郡県は次々と降伏してきた。

  

 王船山曰  (※2)  

 ある者が尋ねた。
「宋の天下は、晋と比べてどうだろうか?」
 私は答えよう。
「晋と比べるなら、宋の方が余程ましである。何一つとして劣ってはいない。」と。

 魏も晋も、不義で天下を簒奪した。不義にして天下を得たのならば、不義な者がそれを手本にして、同様の手段で奪ってしまう。因果応報というものだ。
 だが、曹氏が国を統治した時は、天下を統一こそしなかったものの、なんとか小康状態を保っていた。曹芳と曹ボウは、名君でも愚君でもない、中くらいの主君だ。二人とも、先祖の偉業を継承し、民も安泰に暮らすことができていた。それなのに、司馬氏が野心を起こして、これに迫って奪ったのだ。
 それに比べて、晋の頃の世相はどうだったか?
 国内では桓玄が簒奪を企み、廬循は造反し、外からは鮮卑やキョウ・虜が肱を振り上げて襲いかかる。安帝はまるでまな板の肉、天下の人心は、すっかり彼から離れきっていた。魏の頃とは雲泥の違いである。
 この時、宋は赫々たる戦功で人心を掌握し、その宗社を移したのである。司馬氏が、皇室の衰弱をこれ幸いと火事場泥棒のように簒奪したのとは、訳が違う。
 それなのに、世間の人々は晋を正統に昇らせ、宋を分争に斥けている。これを、「力ばかりを尊んで、道義をないがしろにしている」と言わずして何と言えようか。

 すると、反駁する者が居た。
「晋は呉・蜀を平定し、天下を統一した。だが、宋はそれができなかったではないか。」
 それに対して、私は答えよう。
 呉も蜀も地方政権に過ぎない。強力な基盤を持つ魏を奪ったのならば、呉を滅ぼすなど朝飯前。これは晋の手柄ではない。魏が強かったのだ。蜀が滅んだことに至っては、二十余世に亘る劉氏の廟食が断絶し、古今の人々が悄然と胸を痛めることである。これが手柄など、とんでもない事だ。
 晋は、魏の元手ごとゴッソリ盗んで天下を統一したのである。その上、奴等はその統一を一代限りで終わらせてしまった。二代と保つことができず、広大な土地を細分してしまったのである。そんな連中を、何で英雄に数えることができようか!
 中華の民は、中原を失った。それは晋が失ったのである。宋が失ったのではない。それどころか、宋の武帝が興って、東は慕容超を滅ぼし、西は姚泓を滅ぼしたではないか。そしてその威勢の前に、拓跋嗣も赫連勃勃も矛を収めて蟄居したのである。
 翻って見れば、劉淵が乱を起こして以来、祖逖・ユ翼・桓温・謝安、彼等偉人達が相継いで現れ、百年に亘る奮闘を続けたが、これ程の功績を建てることができなかった。後の世を見ても、斉・梁・陳は国土を尺土も広げることができなかったばかりか、次第次第に削り取られていった。それならば、永嘉以降、中国の生人の気を展べることができたのは、僅かに劉氏のみではないか。
 晋が自ら棄ててしまった中原を引き合いにして、これを蕩平できなかったと宋を責める。そうして彼の討伐の功績を卑小に評価して斥けるなど、不公平も甚だしい。

 おおよそ、道義正しいからこそ、人々から仰ぎ見られて天下の主君となれるのだ。力が強いから主君となるのではない。もし、力が全てだと言うのならば、春秋時代の末期はどうなるか?楚・呉・越・徐といった蛮国が、力に任せて土地を割き、国王と自称した。周王室をおとしめて、彼等と同列に並べるのか?秦は六国を滅ぼして、天下を統一したぞ。その国力は、五帝三皇を遙かに凌いでいる。始皇帝は聖人よりも更に素晴らしい主君なのか?だが、その勢いだけ取って見たところで、拓跋魏など、どうして宋と肩を並べることができようか。
 今度は、唐や宋と比べてみよう。
 もともと、唐は随の臣下だった。宋は後周の臣下だった。彼等は下克上を起こしたが、それでも正統に数えられているのは、天下を統一できたからである。上辺こそ禅譲と言っているが、その実体は、簒奪である。それならば、劉裕の宋とどこが違うのか。
 司馬氏が中原を失ったが、当時の人々は中華の誇りを以てその遺児を擁立し、中華の正統を連綿として保っていた。にもかかわらず、後世の人間は、中華夷狄の区別も考えずに、中国を南北に裂いて平然としている。北部を夷狄へ委ね、野蛮人を主君にすえるばかりか、功績高い主君を押さえつけて、唐宋の同列に昇らせない。だが、漢と唐の間で、中華の主人として讃えられる王朝は、ただ劉宋だけなのだ。
 

 
(※1)皇帝の乗り物。晋は、他の国を認めていなかったので、「輦」と言わずに、「偽輦」と言った。或いは、後世の歴史家が「偽輦」と記載したのだろうか?「晋書」では、十六国について、「帝位へ即く」と記載せず、「偽位へ即く」と記載している。 

(※2)王船山  明末の思想家。系統としては陽明学に属する。江戸時代末、日本で高く評価され、殊に勤皇の志士達が愛好した。後、中国で革命を志す者が日本へ留学するに及んで、中国へ逆輸入された。代表作は、「読通鑑論」。この論文も、その一つである。